暴君――シェイクスピアの政治学・その2

前回の続き。 

リチャード三世の人物像 

 シェイクスピアが利用したリチャード三世の人物像は、トマス・モアによって書かれた、テューダー王朝にかなり都合のよい偏向的な書物に拠っており、この本はテューダー王朝の年代記作家たちが大いに利用していた。しかし、その精神病理学はどこからくるのだろうとシェイクスピアは考えた。どのように形成されたのか?シェイクスピアがイメージした暴君は、己の醜さを意識して内的に苦しむ男だ。生まれた瞬間から人々が恐怖や嫌悪におののいたほどの奇形のせいだ

(略)

不吉な出生の話はもっぱら母親から出たようだ。ヨーク公爵夫人は、難産や息子の体にあった嫌な印の話をして、息子たちを楽しませたらしい。

 暴君の支援者たち

 リチャードの悪事に気づかない人など、まずいない。その皮肉な態度や残酷さや裏切り体質は秘密でも何でもない。人間として救われる要素など持ちあわせていないし、国を効果的に統治できると信じられる理由も一切ない。つまり、この劇が探求しているのは、そんな人間がそもそもどうしてイングランドの王位に就けるのかという問いだ。

(略)

 リチャードの主張や誓いを信じてしまい、その感情の発露を額面どおりに受け取って、純粋にリチャードに騙される人物も何人かはいる。(略)

政治で重要な働きをするには無力すぎであり、利用される犠牲者でしかない人たちだ。

 暴力で脅されたり、いじめられたりして、怯えて何もできない連中もいる。(略)

リチャードは何でもやりたいようにやってきた裕福で特権階級の人間であるために、人の道に悖る行為もできてしまうのだ。

 そしてまた、リチャードが外見ほど悪い人ではないかもしれないと思ってしまう連中がいる。とんでもない嘘つきであることはわかっているし、あれやこれやの悪事を働いたことは承知しているが、それがどんなにひどいかを覚えていられないかのように、不思議な忘れ癖がある人たちだ。彼らは尋常でないことを尋常なこととして受け容れてしまう。

 ほかにも、リチャードの悪党ぶりを忘れられないにもかかわらず、何もかも平穏に続いていくと信じてしまう人々もいる。言ってみれば、分別のある大人たちがまわりにたくさんいるのだから、約束は守られ、同盟は大切にされ、重要な制度は尊重されるだろうと思ってしまう人たちだ。リチャードは最高の権力の座には明らかにふさわしくないので、リチャードのことなど気にかけず、ほかの誰かがリーダーになるだろうとずっと考えているうちに、やがて手遅れの事態となる。ありえないと思っていたことが実際に起こっていると気づいたときには遅いのだ。頼りにしていた基盤が意外にも脆かったと知ることになる。

 リチャードが権力の座に就く際に、甘い汁を吸ってやろうと企む悪い連中もいる。リチャードがどれほど破滅的かは他の人同様重々承知しているのだが、悪より一歩先を行って、何かしらの利益を得てやれると妙な自信を持っている連中だ。

(略)

こうした手合い(略)は、リチャードをどんどん押し上げる手助けをし、その汚い仕事に手を貸し、次々と犠牲が出るのを冷ややかに眺める。

(略)

『リチャード三世』は、耐えがたい抑圧を受けて必死に考える人々が、理性的なコントールの利かない感情的な流れの中で、とんでもない決断をしてしまう様子を見事に描いている。

トリクルダウン 

収穫が悪くても、貴族らが手放す気にさえなれば、餓えを防ぐに十分な穀物が貯蔵されていると、人々は叫ぶ。ところが、金持ちは、市場の価格を落とすくらいなら、蔵の中で穀物を腐らせたほうがいいのだ。しかも、根本的な問題は、貯蔵者の強欲以上に、国家全体の経済システムが貧富の収入の差を狭めるのでなく悪化させるようにできていることだ。

 税法を定め、経済上の取り決めをした貴族には、このシステムを作った責任があるわけだが、もちろんそんな意図など認めない。シェイクスピアは、メニーニアス・アグリッパという温厚な政府の代表を、会話上手の有能政治家として上手に描き、金持ち側でありながら、巧みに庶民の味方として振る舞わせている。庶民の窮状に親身になって同情しつつ、「善良な友、わが正直な隣人」と呼ぶ暴徒らに、飢饉を起こした悪天候は貴族のせいではないと言うのだ。暴力では何も解決しないから、辛抱して祈りなさいと忠告し、貴族が自分たちより恵まれない人たちに対して施す「慈善」を当てにするように言う。

(略)

メニーニアスは主張する。元老院議員たちがいればこそ、人々の生活が恵まれたものになっているのだ、と。

 

君たちが受けている公的な恩恵は、

彼らから君たちへ届いているのであった、

君たち自身からは出ていない。

 

 そう考えれば、何もかもまずは富裕層の財布に入るのは正しいのだ。きちんと消化されたのち、適正な量となってほかの皆に流れていくのだから。

 腹をすかせた暴動者たちが、このエリート階級の消費についての御伽噺めいた弁明で納得したかどうかは、不明である。

(略)

[そこに登場した]コリオレイナスはその政策を温和な寓話に包み込んだりするどころか、民衆を皆殺しにしてやりたいという、右翼ならではの声を発する。

コリオレイナス 

 コリオレイナスはその傲慢さや過激主義、そして激しい気性ゆえに引きずりおろせると正しく見積もった護民官たちは、きちんとした手続きを守るように頑強に主張する。すなわち、候補者は、人々に投票を求める義務を免除されてはならないと言うのだ。自分たちのチャンピオンを執政官にしたがっている貴族たちは、コリオレイナスにそのプライドを抑えて、真似事でいいから人々に話しかけてくれと頼む。「連中に君のことをよく思ってもらうよう/願わなければならない」と、メニーニアスは告げる。「俺のことをよく思うだと?」コリオレイナスは憤慨する。「あんなやつら、くたばっちまえ!」

(略)

 コリオレイナスが嫌な人間であることに変わりはないが、劇は、少なくとも他の貴族たちと比べて、コリオレイナスに対して奇妙にも同情的だ。貴族たちはコリオレイナスに、選挙されるためには、その強固な信念はこの際、脇へ置くようにと促す。つまり嘘をついて迎合し、デマゴーグを演じろというわけだ。一旦執政官の地位に就いてしまえば、本来の立場を取り戻し、貧民に対して行った譲歩を巻き戻す時間はたっぷりあると言う。(略)

選挙に勝ったとたんに手のひらを返すという、あれである。頭を撫でつけた政治家たちが建築現場での集会でヘルメットをかぶるのと同様に、ローマ人たちはこれを因習的な儀式としていたわけである。

(略)

 コリオレイナスは、この見せかけのジェスチャーが嫌でたまらなかった。仲間が求めるとおりにしようと努力はするが、不快で吐き気がしてしまう。

(略)

最初、人々は、疑わしきは罰せずとして、彼に投票しようと約束するのだが、なんだか馬鹿にされたような不安な気持ちで市場での集会をあとにする。ブルータスとシシニアスが、コリオレイナスは「諸君の自由に/反対していた」と群衆に思い出させ、その不安を後悔に変えて、意見を変えさせ、支持を取り消させるのは容易なことだった。

(略)

一瞬、貴族階級の元老院議員たちが勝ったかに見えた。忠告されたとおりにコリオレイナスは市場に立って、必要数の「声」を獲得するのに成功したのだから。(略)

背水の陣を敷いたブルータスとシシニアスは、この形式的手続きを利用して、選挙そのものを頓挫させてしまう。

 護民官たちは、敵であるエリート階級と同じぐらいずるく、相手の裏をかこうとする。

(略)

「我々のせいにするがいい」と、二人は悪賢く提案する――つまり、護民官たちに圧力をかけられて、ついコリオレイナスを支持してしまったけれど、あの人の執念深い敵意と嘲笑を思い出して、支持を取り消すことにしたと言えというのである。

 人々がそのとおりにすると、コリオレイナスは激怒し、選挙が終わるまでは隠しておいてくれと貴族たちが必死でお願いしていた民衆への憎悪を爆発させる。あんな有象無象どもの機嫌を取ろうとするなんて、「叛乱、尊大さ、扇動」を呼ぶだけだと、彼は息巻く。貧民など「麻疹」であり、権力に少しでも近づけたら、病気が移ると言う。友人たちはコリオレイナスを黙らせようとする。友人たちも同じように思ってはいるのだが、公にはしたくないのだ。だが、コリオレイナスは黙らない。国家に権力は二つあってはならないと、彼は断言する。貴族階級が平民を支配するのが当然であるが、そうでないなら、社会秩序そのものがひっくり返る。「連中が元老院議員となるなら、/あなたがた貴族は平民だ」。最低限の社会保障――飢餓を防ぐための無料の食糧供給――など、そんなものは「不従順を育み、/国家の荒廃を招いてきた」にすぎないと言う。

(略)

 ついにコリオレイナスが何もかもぶちまけてしまったので、すべては明るみに出る。より穏健な元老院議員たちは、人民の健康の重大な危機を回避し、大掛かりな社会抗議運動が起こらないようにする程度にわずかに譲歩する気はあった。

(略)

ところが、偽善や迎合が我慢ならないコリオレイナスにとって、その「わずか」が許せない。貧民は餓え死にすればいいというのが、彼の穏やかな提案だ。飢饉でのらくら者の数が減り、生き残った連中も施し物をそれほど求めはしないだろう。そうした施しをするから、下層階級は自立しないのであり、福祉政策それ自体、ある種の麻薬のようなものだと彼は考える。

 必要なのは、平民が欲しがっているものの実は平民自身をそして国家をも傷つけているに過ぎないものを、貴族が勇気をもって、平民から取り上げることなのだと、コリオレイナスは公に断言する。つまり、食糧無償配布を廃止するのみならず、貧民に政治的な声を与える護民官制度自体をやめるということだ。平民の代表制を制限する(略)だけでは十分ではない。コリオレイナスは、より抜本的方策を提案する。「大衆の舌を引っこ抜け。/甘い汁を舐めさせるな。/やつらには毒だ」。根本的に、ローマの共和政を壊そうというわけだ。

 護民官らは直ちにコリオレイナスを謀叛の罪で訴える。(略)

 今や内乱が起ころうとし、コリオレイナスや貴族たちの軍事力にもかかわらず、圧倒的数によって怒りの民衆が優位に立つ。(略)

もう一度暴徒を説得する役回りとなったメニーニアスは(略)

今度は、コリオレイナスを市場に連れ戻し、法律に従わせ、その嫌疑に答えさせる役回りをも引き受ける。

シェイクスピア

 これは、ずっと昔、言論の自由を守る憲法もなければ、民主主義社会の基本的形もまだなかった、かなり異なった政治体制の社会の話である。シェイクスピアが子供のころ、ジョン・フェルトンという裕福なカトリック教徒が、ローマ教皇の正式な宣言の写しを柱に貼りつけて、「女王はイングランドの真の女王であったことはない」と断言したために、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑にあった。数年後、ジョン・スタッブズというピューリタンが、女王とカトリックのフランス人との縁談を非難する小冊子を書いたために、公的処刑人により右手を切り落とされた。その小冊子を配布した者も同様の刑を受けた。政府から有罪と判断された発言・執筆をした者には比較的厳しい罰則が、エリザベス女王とジェイムズ王の治世のあいだ続いたのである。

 シェイクスピアは、そのようなおぞましい処刑に立ち会ったことがあるに違いない。そうした処刑を見ながら、ぎりぎり受け入れられる表現の限界を思い知っただろうし、耐えがたい痛と苦悩の瞬間に人間はどうなるものかということも学んだだろう。さらには、大衆が抱く恐怖と欲望についてもいろいろわかっただろうが、それこそまさに劇作家の十八番とすべき感情だった。

(略)

シェイクスピアは、劇場の実入りや、不動産投資や、商品売買や、時折のちょっとした金貸しによって、裕福になろうとしている途中だったのだ。混乱などに、興味はなかった。

(略)

 だが、その作品を見ると、政府お墨つきの「従順さの説教」のような決まり文句(略)を毛嫌いする様子も見える。

(略)

 シェイクスピアは、言うべきことを言う手段を見出していた。舞台上で誰かを立たせて、二千人の聴衆に「犬だって権力をもてば、人を従わせられる」と語らせたのだ――中には政府の回し者もいたはずなのに。金持ちは、貧乏人なら厳しく罰せられるようなことをしても、罰を逃れることができる。「罪を金でメッキすりゃ」

(略)

こんなことを居酒屋で言おうものなら、両耳を切り落とされかねない。だが、この言葉は毎日堂々と話されても、警察は呼ばれない。なぜか?なぜなら、こう言っているのは、狂気のリアだからだ。