大人にはわからない日本文学史 高橋源一郎

 

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)

 

樋口一葉 

 わたしは長いあいだ一葉のことを、周りで新しい散文が生まれつつあったなかで、それをまったく知らないかのように、古めかしい美文に立て籠もり、失われていく時代と共に生きようとした、あるいはそういう時代に殉じようとした、後ろ向きの精神の持ち主ではないかと考えてきました。

 しかし、最近になってわたしは、実は、まったく逆ではないかと考えるようになったのです。

 一葉は、周囲で興隆しつつあった言文一致体によるリアリズムの文章に基づく小説というものを、「リアル」ではない、と感じたのではないでしょうか。あるいは一葉を高く評価した森鴎外斎藤緑雨たちも、自然主義的リアリズムに基づく散文、新しい日本の小説と称する文芸の、その表情というものに潜むきわめて人工的ななにかに、根深い不信を抱いていたのではないでしょうか。要するに、彼らにとって、新しい文学は、「リアル」ではなかったのです。

 ところで、「リアリズム」というものは、そこに「イズム」ということばが含まれているように、一つの主張であり、思想です。しかし、「リアル」というものはそもそも主張なのでしょうか。「イズム」は観念の中に存在しますが、「リアル」は肉体の中に存在するのです。

 明治二十八年の「リアル」

 『にごりえ』の結末近く、無理心中の後のところを読んでみましょう。第八章です。(略)

[引用があって]

(略)

 最後に人魂が飛ぶのですから、この小説は現実をそのまま描写したものとはいえないでしょう。自然主義的リアリズムに基づく小説を書こうとしたなら、嫉妬に狂った男性の内面を描写し、その嫉妬深い男に殺された女の生活をこと細かに書く、そういう手段を取ったに違いありません。しかし、ここではそういった、いわゆる「近代文学」がやりそうな仕事は何ひとつされていません。講談か浪曲か、古い物語のような文体に留まったまま、はかなく小説は終わります。原文ではご覧の通り、句点もありません。それは、全体で一つの唄のようにも見えます。「近代文学」がこういう形式を採用しなかったのは、そこに登場する人物たちには、確固とした内面があり、その中に意思や感情があり、それらが交錯した結果として事件が起こり、なんらかの結果が生まれると考えたからです。しかし、一葉は近代文学が考えるような「内面」に興味を持ちませんでした。彼らの生活をこと細かに書くという必要も感じませんでした。おそらく、一葉は、明治二十八年という時間、その世界でマイナーな位置にいる、一人の女性の生きているあり方を、その「リアル」を、ことばにしてみようと思っただけだったのです。

 最初にいったように、わたしたちは明治二十八年の読者の気持ちを知ることはできません。けれども、わたしは、明治二十八年の読者たちは、とりわけ女性の読者たちは、「この小説の中に私がいる」と感じたのではないかと思うのです。そして、不思議なことに、こんなにも古めかしく、こんなにも情緒的であるのに、すっかり言葉づかいが新しくなった、現代の小説に登場してくる人びとの感想や感覚と、「にごりえ」のそれは、ほとんど変わらないような気がするのです。

 あるいは、一葉は、どんなに時代が変わっても、ほとんど変わらぬなにかに敏感だったのかもしれません。

 藤村や花袋や独歩達、二葉亭四迷の文体を借りて、新しい時代の作家たちが作り出していった「リアリズム文学」の「リアル」は、もしかしたら、その時代の一部の知識人の頭の中にしか存在しなかったのではないでしょうか。それはそれでかまわないのです。彼らにはなんでも言う権利があったし、なにを想像しても良かったのですから。

 しかし、彼らから与えられた「自然主義的リアリズム」という武器を手に、たくさんの作家たちがそれに基づいて、実は「リアル」を描く手段の一つにすぎない、狭い「リアリズム」に基づいて、作品を書き、そしてもっと恐ろしい事に、それらの作品を読んだ無数の読者も、いつしかそこに自分たちのリアルが描かれていると感じるようになっていったのではないでしょうか。

 たとえば明治四十年、あるいは大正の初めに一葉を読んだ読者はどう思ったでしょう。わたしの考えでは、彼らは複雑な思いにかられたはずです。これは不思議な作品で、現実離れしているが、同時にリアルであるような気もする、と。あるいは、昔こんなことを知っていたような気もする、と。でも、もうここから離れなくてはいけない、と感じたのではないでしょうか。

円朝

 円朝の作品は、口演です。つまり、当時の口語体によって、できています。そして、百年たっているのに注を付けたり現代語に翻訳したりする必要がほとんどないのです。

 

 近代文学と称するものが誕生して百数十年、無数の作品が生まれました。いま読み返すと、そのほとんどが、「古びている」と感じられます。それは不思議なことではありません。なぜなら、新しい作品だって出てきたそばから古びていくのですから。不思議なのは、そうした作品たちの前に位置する円朝の作品が、まったく古びた様子も見せないことです。なぜ後から来るものの方が古びやすいのか。わたしには、それは大きな謎のように思えるのです。

 それは円朝が天才だからといった理由ではないように思います。つまり円朝の作品の中には、古びないなにかがあるのに対して、わたしたちが通常、「文学」として受け止めているそれ以降の作品の実質をなしているものは、古びやすい性質を持っているからではないでしょうか。

 いったい、わたしたちは、なぜ、あるものを見たり、読んだりして、「古い」と感じるのでしょう。それは、その作品が実際に書かれた時代とは、ほとんど関係がないような気が、わたしにはするのです。

 円朝の作品は、古い時代の作品であるのに、古びているという感じがほとんどしません。同様に一葉の小説も、きわめて古めかしい外見を持っているのに、「古い」という印象がないのです。(略)口語というものが当時と本質的にほとんど変わっていない故に、わたしたちは、彼の作品に古さを感じないのかもしれません。

 では、一葉の場合はどうでしょうか。文語文を使用し、当時にあってさえ古いといわれたにもかかわらず、いま読んで、古びているという感想がやってこないのはなぜなのでしょうか。

 小説と詩の違い

 ところで、みなさんは、小説と詩の違いはどこにあると思われるでしょうか。わたしは、きわめて単純に考えています。つまり、小説は目的地に向かってまっすぐ進むものであるのに対して、詩は、時には目的地を忘れても、目前のことばというものの、比喩的にいうなら、その角を曲がっていくものではないかと。

 詩の本質と考えられるものの一つに、「改行」があります。「改行」というものは、なぜ存在するのでしょうか。詩人に聞いてもはっきりとは答えてくれません。わたしの考えでは、詩人が改行するのは、その行のところでことばの角を曲がるからです。一つの行を書く、ある場所に到達する。その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。それに対して、詩人は角に来たら曲がりたくなる性質を持っています。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです。角を曲がるとまた角がある。小説家なら角ではなくメインストリートをまっすぐ歩いていきたいと思うでしょう。しかし詩人はその角の向こうにある、隠されているなにかが気になってしょうがない存在なのかもしれません。

 近代文学という名の下に分類される通常の小説では、目的地に向かってまっすぐ進む小説が優れているものだと考えられてきました。「私は寂しい」……そう思うならそう書く。そして寂しい「私」は、どう行動するのか、どのようにそれを解決するのか。そのことを小説に書こうとしてきたのです。

「小説のOS」

 わたしが「小説のOS」というようなことをいうと、作家たちの反感をかうのは、彼らは、自分たちは、小説というものを「自発的」に書いているのであり、別に「OS」などに頼ってはいないと考えているからです。それに対して、わたしは、逆に、いつも、自分が書いている小説は、どんな「OS」に基づいているのだろう、と考えたりしているのです。そして、そのように考えることだけが、「小説のOS」から逃れる道である、とわたしには思えるのです。

 だいたい、「小説のOS」という考え方自体が、「近代文学」的な、いってみれば、OSでは否定されるはずです。なぜなら、この「小説のOS」という考えを突き詰めてゆくと、そもそも、小説を書く「主体」などというものだって、取り換え可能だということになってしまうからです。

 わたしたちは、少し前に、穂村弘の指摘にしたがって、短歌の歴史を眺めてみました。

 要するに、近代短歌の歴史の中では、まず「私」の確立があり、それから塚本邦雄のような、言語表現の極北を目指す「言葉のモノ化」としての短歌があり、そして口語短歌が、闘争の武器ではなく、玩具としての短歌があった――そんな変化があったのです。

 そんな短歌の移りゆきと、近代文学、小説の移りゆきは、パラレルであるように見えます。しかし、なぜ、短歌と小説は、同じような変化をしたのでしょうか。わたしの考えでは、それは、短歌も小説も、同じOSに依存していたからです。そして、OSが変化した時、彼らは、というか、それらは、当然のことながら、変化しなければならなかったのです。

(略)

 たとえば阿部和重中原昌也の小説と、彼らに先行する小説とは、おおいに異なっています。

(略)

あるいは、わたしの小説は、近代文学的な「私」を疑い、あるいはこの世界を疑っています。しかし、ことばによって小説が書かれていること、表現によって世界と戦うこと、この世界と拮抗するために、ことばという武器――もしくは玩具――を使うこと、闘争すること、それらについては、疑っていないような気がするのです。

 では、もっと若い世代の作家たちはどうでしょう。彼らもまた、おそらく、なにかと戦っています。しかし、彼らの戦っているものは、あるいは、戦い方は、わたしたちのそれとは、いささか異なっているような気がするのです。

 たとえば、およそ十年前、前世紀の末にデビューした平野啓一郎の小説を読んでいると、わたしが、もしくは読者が、いちばん感じるのは、そこには「私」がいないということです。もちろん、平野啓一郎は、「私」が登場する一人称の作品も書いています。けれど、一作ごとに文体もジャンルも変える彼の作品の中に、読者が感知することのできる「私」の匂いは極度に希薄です。それでは、彼らに先行する八〇年代の作家たちに「私」は存在するのでしょうか。

 当然のことながら八〇年代の作家たちは、私小説といわれる、作者と主人公の「私」が同一人物であると設定されている小説のあり方を強く否定しています。しかし、その作家たちの書くものは、どれも――村上春樹でも島田雅彦でも田中康夫でも――あるいはわたしや山田詠美でも、そこに作者、「私」である作者の影が拭いきれず表出されています。(略)

要するに、彼らも――あるいは、わたしたちも――先行する近代文学を統括してきたOSを使っているのです。それは、いわば、「私」という「OS」です。

 たとえば、わたしたちは、田中康夫の小説を読みながら、それがフィクションであることを知ってもなお、そこに、田中康夫の「私」を感じることができます。それを可能にしているのは、そこに、わたしたちが知っているOSが使われているからです。

(略)

 もし、わたしたちの小説が、OSによって動いている、あるいは動かされているのなら、いったんアンインストールし、新しいOSを移植することだって可能なはずです。だいたい、日本の近代文学は一八八〇年代に突然発生したように見えます。ご存じのように、新しいなにかを探していた作家たちが、ヨーロッパやアメリカで流行っている小説を読み、これは素晴らしい、このようなものが書きたいと願って、一気に作り上げたのです。それが可能だったのは、輸入したものが、文化ではなく、既成のOSだったからではないでしょうか。そして、わたしたちは、輸入したOSを、いわばバージョンアップを重ねながら、百年近く使いつづけてきました。しかし、このOSでは、あるいはこのOSの上を走るソフトでは、変貌する現実を、とらえることができなくなったのです。

 では、いま、わたしたちの周りに流通しつつあるように思える、新しいOSの特徴はなんでしょうか。まず、作られ方そのものが、独特であるように、わたしには思えるのです。極端なことをいうなら、近代日本文学を成立させたOSは、数人の、たとえば二葉亭四迷のような作家の苦闘の結果作り上げられたものです。しかし、この新しいOSは、いつの間にか、いわば集団的・匿名的に作り上げられてきました。そして、その特徴は、「私」が極めて虚弱であるということです。

 近代文学は、その、どの時期においても、世界と戦う「私」を中心に置いてきました。ことばは、そのための武器であることも変わりはありませんでした。しかし、もっとも新しい小説群に出てくる「私」は、以前よりも、ずっと、弱く、繊細になったような気がします。いや、もっと大切なのは、新しい「私」は、なにより、そんな自分の状態に目を凝らし、耳を澄ましているのです。

 彼らは、というか、「私」は、なにかと戦おうとするより先に、まず自分がどんな世界に生きているのかを知りたいと思っています。あるいは、「私」というものがなになのかを、触知したいと願っているのです。そして、「私」というものが、あまりに、儚く、とらえがたいものであるが故に、それは、世界と戦って守るべきものでも、一回きりのかけがえのないものでもなく、交換可能で、どんなキャラクターにでも変身出来るものだとさえ思うことがあるのです。

 わたしは、さきほど、平野啓一郎の小説について話しました。彼の小説には、私小説的な一人称、作者に近い「私」らしい人物は登場しません。いえ、たとえ登場しても、その「私」は、明らかに、作者とは違った存在であり、わたしたちは、その作品を読みながら、「いったい、この小説で、『私』はどこにいるのだろう」と思ったりするのです。

 わたしたちは、小説というものは、概ね、どんなものであっても、つまり、「私小説」のように、作者と「私」が同一と思われるものはもちろん、そうではなく、極端なことをいうなら、荒唐無稽な物語であっても、作者である「私」が作品の中に存在していて、その存在を感知することが、その小説を読むことだ、と思ってきました。その小説の、その作品の、どこかに作者が、どこかに「私」がいるはずだと。その「私」を読むこと、その「私」がなにを考えているのかを知ること、これが近代文学を読むということだったのです。そして、同時に、それは、わたしたちが習ってきた国語教育の本質でもあったのです。

(略)

 だが、ほんとうに、探し出されるべき「私」など、そんざいするのでしょうか。

ケータイ小説

[ケータイ小説を引用してから]
 ……もういいでしょう。これ以上、読んでいても、同じような文章が延々と続くだけです。ここには、なにもありません。いや、レイプや妊娠や流産やドラッグや暴力は存在します。それから、「愛」と呼ばれるものも。

 わたしの考えでは、この文章、この小説で、もっとも重要なのは、「作者」が存在しない、ということです。「作者」を、他の存在から区別して見出すことができない、ということです。

 そういうと、あなたたちは、「いや、確かに作者はいる。へたくそな文章を書く作者が」といいたくなるかもしれません。事実は、あなたたちのいう通りでしょう。しかし、わたしは、もう少し、違ったことをいいたいのです。

 ここで、わたしが「作者」が存在しない、というのは、「作者と読者のレベル」が同じという意味です。「作者」は「読者」の位置にまで降りてきたのです。 いや、「作者」は、最初から「降りる」という意識などなく、「読者」の前にいるのです。

 そして、「読者」には、なにもすることがありません。なぜなら、なにかを考える前に、たてつづけに事件が起きてしまうからです。そして、気がついた時には、小説は終わり、同時に、その世界もたちまち消えてしまうのです。それは、ゲームと同じです。そして、誰も、ゲームをなんのためにやっているのかとは訊ねないはずです。

(略)

[夏目漱石『道草』、田山花袋『蒲団』の引用があって]

 わたしの考えでは、ここ[『蒲団』]では、『恋空』とほぼ同じことが書かれています。わたしには、『蒲団』と『道草』よりも、『恋空』と『蒲団』の方が遥かに近い作品に思えるのです。それは、『恋空』と『蒲団』の間にあるのは、ただ、OSの違いだけであって、そこで使われているソフトが――「身も蓋もない恋愛」とでも呼ぶものなのかもしれませんが――まったく同じだからです。
(略)

このふたつの作品を読んでいると、どちらも、うまく、OSを使いこなせていない、というか、それ故に、OSに「書かされている」ような気がしてくるのです。わたしたちが、『恋空』を、あるいは『蒲団』を読んで感じるのは、ひとつの熱狂です。これらの作品の作者たちは、なにかの「始まり」に遭遇して興奮しています。そして、そのことに彼らは気づいていないのです。

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