言文一致体の誕生 /橋本治

愚管抄

 面倒臭い話をするとなれば、意味の凝縮された漢語を使うしかない。「それだけだと分からない」と思っても、まだ「明確に論旨を通すための日本語」というのは、存在しない。(略)漢文脈と和文脈をくっつけて一つにしてしまったら、「難解と曖昧のドッキング」ということになってしまう。(略)
 「和漢混淆文だから分かりやすい」などというのは幻想で、慈円の『愚管抄』は、「普段に流通するような日本語で面倒臭い話をする」という、当時的にはまだ存在しなかった前衛的な試みを結果的にやってしまっているものだから、「はて、この文章はなにを言っているのだ?」と、たんびたんびに頭を抱え込まなければならなかったりもする。

「きっと慈円は“漢文は難しいから、もっと分かりやすい和漢混淆文で書こう”と思ったのだろう」と考えるのが「一番素直な理解」のようにも思えるが、そうではない。慈円は、そのような単純な前提に立ってはいないし、そのように単純な理解もしていない。もっと違う前提に立っている。
 『愚管抄』の内容は「漢文で書かれてしかるべきもの」で、慈円はもちろん、その本来に従って、漢文で『愚管抄』を書ける人である。にもかかわらずこの人は、それを和文脈の和漢混淆文で書いた。
[「漢文の翻訳体の創造」でもあり、「あとがき」には「翻訳の苦労」が書いてある]

[「鎌倉時代の東大学長」慈円による]『愚管抄』は、「歴史に無関心になってしまった学生達の目を、ちゃんとした歴史理解に向けるための入門書」なのである。
 だから、「あんた達の興味を惹くようにおもしろく書いた。しかし、いっぱし知識人の己惚れを持っているあんた達は、“おもしろい=下らない”と考えるだろう――内心では“おもしろい”と思いながら。これはこれで下らなく書いたが、言っていることは確かなのだ。そこのところを心して読め。それで“ちゃんと知りたい”と思ったら原典を読め。読んで現実に立ち向かえ」と言うのが、『愚管抄』なのである。
(略)
 慈円は「現実に立ち向かえ」と言っているのだが、それはいかなる「現実」か?
(略)
慈円が『愚管抄』を書く時期は、鎌倉幕府と京都の朝廷の間に承久の乱が起ころうとする「危機の時」なのである。

 慈円には、「自分のやるべきこと」がはっきりと分かっている――「人の関心を歴史に向かわせること」である。そのために慈円が具体的になすべきことは、「歴史ではないが、人の関心を歴史に向かわせるもの」を書くことである。慈円は、それを実現するためになにが必要なのかも、具体的に分かっている――文体の創造である。だから、「かなで書く」ということを、慈円は選択する。 驚いたことに、慈円が「かな文字を使った和文脈で『愚管抄』を書く」という決断をしたのは、「歴史を分かりやすく書くため」ではなかったのである。「今までの“歴史”とは違うものを書こう(そして“歴史”に目を向けさせよう)」と思って、「今までの文体とは違う文体」を選んだのである。

『平凡』ニ葉亭四迷

[ニ葉亭四迷が翻訳した]『あひびき』の文章に衝撃を受けた田山花袋は、「こういう文章もあるんだ!」と思った、「言文一致体という固定された文体がある」派の人間である。だから「既に出来上がっている」と思われる仮想の模範の中に、自分の思考――あるいは「思いの丈」を押し込もうとしている。それがあるから、途中で文章が息苦しくなる。「不器用」とは、そうしたことである。
 一方、『浮雲』の初篇から二十年がたった『平凡』のニ葉亭四迷は、見事にこなれている

『平凡』の語り手である《私》が書き始める半生記は、当たり前の文学者が書くような「力んだもの」ではないはずなのである(略)
もう「文学の外」に出てしまった人間を通して、文学者流の「力んだ人生」とは違った、普通の、そして当たり前にリアルな人間像を造形しようとしたのである――そのことによって、当時流行する《自然主義》なるものに、一撃を加えようとしたのである。それが自身をも痛撃することになるのだということを、重々知りながら。

 《……が、待てよ。何ぼ自然主義だと云って、斯う如何もダラダラと書いていた日には、三十九年の半生を語るに、三十九年掛るかも知れない。も少し省略ろう。
 で、唐突ながら、祖母は病死した。》(『平凡』七)
 なんという素敵な展開なんだと、私なんかは感嘆してしまう。(略)
 《……が、待てよ。》以下は、普通ならいらない。ただ「×年後、祖母は死んだ。病死である。」ですむことだ。しかしそれをすると、妙に取り澄ました感じになる。それまで続いて来た文章のトーンを生かすために存在するのが《……が、待てよ。》で、この文章を書く「《私》の現在」の挿入は必要になるのだろう。そして、《で、唐突ながら、祖母は病死した。》というピリオドを打って、そこから話があらぬ方へ行くのかというと、そうではない。「祖母が死んだ日の話」へと続く。(略)
 『平凡』という小説は、今の我々が思うより、ずっと新しい。もしかしたら、それが書かれた百年前の明治四十年の段階よりも、この今に於いてより切実な「現代小説」であるかもしれない。

[『平凡』の最後に置かれた「文学への絶望」は]あくまでも、作中人物である《私》の絶望で、独白体で書かれてはいても、『平凡』は二葉亭四迷私小説ではないのだ。ここに書かれていることは、二葉亭四迷長谷川辰之助の事実に沿ったものではない。これは、私小説に見せかけたフィクションなのだ。

彼にとって、「遊びがある」ということは真実で、それこそが彼の《実感》なのだ。ところが、「遊び」の分からない連中は、「実感から遊離した“自称の真実”ばかりを書いている。「真実への実感」によって「遊び」を存在させる二葉亭四迷からすれば、その真実を排除して「実感」さえも仮構する文学などは、「浅ましい」の極みだろう。だから、最後の一文へ至る――《況んやだらしのない人間が、だらしのない物を書いているのが古今の文壇の》とは、「私は分かっているが、お前達は分かっていないだろう」という挑発なのである。

通り相場として、『浮雲』は「日本初の言文一致体小説」ということになっているが、そうだろうか? そんなことよりもまず、『浮雲』は明治二十年当時の現実に対して片っ端から皮肉やからかいをぶつける「日本初の現代小説」で、それは実質に於いて「悪態小説」と言うべきものだと考えた方がいいと思う。(略)
 ところが、その話が進むに従って、主人公の文三は追い込まれ、作者の筆もこれをからかう余裕をなくしてしまう。
[失敗を自覚した四迷は二十年間沈黙する]

『平凡』は、「作者の経験したこととは違うことを、技巧をもって、自然主義とは別種のだらだらした文体で書いた小説」になっている。その文体こそが、戯作の饒舌を止揚させた「彼の言文一致体」と言うべきもので、これを書くことによって二葉亭四迷は、単調なる自然主義へ挑戦する。だからこそ、その最後に至って「文学への絶望」や「拒絶」を歴然とさせてしまうのだが、一体彼は、なにに怒っているのだろう?

浮雲』に始まり『平凡』で終わる彼の小説家としてのあり方を一直線に結んでしまえば、「こんな現実は嘘っぱちだ!」と喝破出来るような小説を書きたかったようにも思える。しかし、彼が最後に書いた小説は、自然主義私小説のパロディであり、と同時に「完璧なる架空の私小説」という高い完成度を持つ小説である。だから私は「これで二葉亭四迷はなにを訴えたかったのだろう?」と考える。この完成度の高い小説は、不思議な形で「なにか」を明らかに訴えているのだ。