法的人間 ホモ・ジュリディクス 法の人類学的機能

 

タイトルから内容がわかりにくいので、巻末の訳者あとがきを先に引用。

本書の議論はシュピオが労働法学者であるからこその知見に満ちている。(略)
 ヨーロッパで一九世紀末に誕生した労働法(略)なぜこの時期に労働法という新たな法が必要とされたのだろうか。(略)それは産業の機械化に伴う労働条件の変化と関係している。(略)
機械化の進展に伴う「身体」の出現は、フランス革命によって成立した平等の原則に対する脅威であった。人権宣言において「生まれながらにして平等」と謳われた法主体は、たとえば所有権を与えられることによって、封建的な関係から解放される。(略)法主体とは擬制であり、それは身体を持たない。このような虚構的な主体と、実際に生まれてくる身体との間には、当初からズレが存在したのだが、このズレはひとまず無視することができた。ところが機械の発達によりこのズレは見過ごすことのできないほど大きくなる。たとえば工場の大型機械が事故を起こせば、操作する人間が責任を負いきれないほどの大きな暴力をふるうこともある。労働法は「事物の所為による責任」という概念を導入し、労働者の身体を客体化することで、その人格を保護したのである。
(略)
 機械化が明らかにしたのは、ただ生まれてくるだけでは、平等は担保されないという事実である。法は雇用者と労働者の間に立ち、両者の平等という建前を見守らなければならない。それこそが本書で「ドグマ的機能」と呼ばれる、法の役割である。ドグマとは正当性を保証するもののことである。西洋では、かつて神により担われていたドグマの役割は、国家により引き継がれた。
(略)
導き出された解決法は、残念ながら福祉国家の創設だけではなかった。むしろ逆に、ドグマ的なものを解体しようとする動きも生み出されたのである。それはつまり、生まれながらの身体を、制度的な場面においても基盤とみなし、生物学的な法則に、法律を従わせようとする立場である。こうした立場の嚆矢である優生学が、労働法の発明とちょうど同じ頃に出現したのは決して偶然ではない。このような立場はやがてナチス的な発想に結びつくことになる。(略)
本書でシュピオがナチスの批判を執拗に繰り広げるのは、ナチス的な発想が今日でも形を変えて、その勢力をますます強めているからである。各個人を素粒子状の存在とみなし、そうした個人の自由な取引により市場が形成されていると考える、新自由主義的な立場がそれである。こうした立場がナチスと共通するのは、生物学であれ経済学であれ、いずれも「科学」の法則を基盤とみなし、国家のようなドグマ的な機能の介入を最小限にとどめようとするからである。一部の経済学に由来するこうした発想の影響が、法学にまで及んでいる現状に、シュピオは強い懸念を抱く。
(略)
国家が果たしてきたドグマ的機能は、「非科学的」なものとして退けられる。(略)
西洋においては法が担ってきた「禁止」の機能も、典型的なドグマである。こうしたドグマ性を科学主義が否定しても、代わりに自らがドグマの位置につくという結果を導くだけである。その帰結によりもたらされる「破壊的効果」の被害は甚大である。
 シュピオが本書で「契約主義」と呼ぶ、あらゆる対人関係を契約に還元するような態度がその一例である。(略)
世界全体を均質な市場とみなし、そこにおいて各個人が自由に契約を結び合うことができると考える。(略)結果として群雄割拠することになるのは、かつての封建制を思わせるような、主従関係の数々である。(略)
マネージメントやガバナンスと呼ばれる新たな管理のシステムにおいて、人々が従うのは上司の命令ではなく、到達目標や効率や評価などの「合理的」な基準である。(略)こうした基準によって部下を評価する上司もまた、別の基準によって縛られている。(略)
このような「契約主義」に共通する特徴は、「形式的には平等原則を侵害することなく」、人々を「他人の権力の行使領域に導き入れること」である。こうして「新たな圧制」への道が開かれる。
(略)
もちろんシュピオは「人権」が人類に普遍的な価値であるとして、あらゆる文化がそれを受け入れることを求めているわけではない。そのような態度は「契約主義」と大差がないだろう。(略)
それでもなお、「ドグマを否定するドグマ」による圧制が差し迫るなか、人類にとっての「共通のドグマ的源泉」となりうるものとして、私たちは人権しか持ち合わせていないのである。このような人権を原理主義的に振りかざすのではなく、他の文化にも「解釈の扉」を開いて、来るべき「破壊的効果」の備えとするのが、シュピオの目指す道である。
(略)
労働法を発明し、福祉国家を創設し、二度の大戦の反省の上に立つ国家とは、今日の私たちにとっての到達点である。これに対し、国家のドグマ的機能を否定する市場中心主義がもたらすのは、封建的な主従関係であることは、すでに見たとおりだ。

プロローグ

 全体主義の経験からハンナ・アーレントが引き出した教訓の一つは、「全体的支配への道の決定的な第一歩は、人間の法人格を殺すことだ」だった。生物学的、政治的あるいは経済的な現実主義なるものの名のもとに、〈法権利〉の人類学的な機能を否定するのは、すべての全体主義的な企みに共通する点である。今日ではこの教訓は、法人格とは純粋な人工物であって、具体的な人間存在とは関係がないと考える法学者たちからは忘れ去られてしまっているようだ。法人格が人工物であることは疑いようのないことだ。だが人間に固有の象徴的世界においては、すべてが人工物なのである。
(略)
ナチスの恐怖を経た後には、あらゆる人間に、あらゆる場所で、法人格を保証する必要が痛感されることになったのだ。実際のところ今日において法主体を失効させようと目論んでいる者たちにより狙われているのはこの禁止であり、彼らは人間存在を単なる会計の単位とみなして、家畜のように、あるいは同じことだが、純粋な抽象のように取り扱おうとしているのである。

人の法的な基盤

 生まれながらにして自由であり、理性を備え、他のすべての人間に対して平等であるという、抽象的で普遍的な〈人間〉なる西洋の概念が確固たるものとなるためには、ローマ法に始まり諸々の近代的な権利宣言に至る、長い歴史的な道のりが必要であった。主体と客体、精神と物質の関係が、世界の了解可能性や領有の一般的な原則となったのは、近代に入ってからのことでしかない。このような新たな世界の理解の仕方は、スコラ学者や注釈者の人文主義的批判を経て、一六世紀から一七世紀にかけて、デカルト的コギトに基づいた科学の理念と、「帝国の大義に依拠するのではなく、理性の支配に依拠する」普通法の理念に助けられて、確立したものである。続いて啓蒙とともに幕を開けた現代という時代は、制度的な場面から神が姿を消したことによって特徴づけられ、このために宗教の撤退や「世界の脱魔術化」として解釈されてきた。しかしそこには〈科学〉(世界規模の〈真〉の審級として〈宗教〉のお株を奪った)、〈国家〉(諸々の法の生きた源泉・最高の源泉たる〈全能の主体〉の地位にのし上がった)、そして〈人間〉という三者の魔術化を見て取ることもできるだろう。あらゆる神的な参照項から独立した人間は、自分ただ一人で自らの目的となるに至ったのである((略)科学的実証主義と結びついた〈人類教〉の創設。この〈人類教〉には『世界人権宣言』という自らの十戒も備わっている)。
(略)
この歴史はキリスト教西洋の歴史の一部をなしている。私たちの継承するこの着想とは、「神の似姿」の着想、すなわち人間は神のイメージとして思い描かれ、そのような者として自然の主となることを命じられたという着想である。(略)
[だが]人間は神ではない。人間に固有の尊厳とは人間自身に由来するのではなく、創造主に由来するのであり、その尊厳は他のすべての人間たちとともに分かち合われている。個体性、主体性および人格という、人類の三つの属性の両義性はここに由来する。(略)
このような人類学的な組立は、西洋の諸制度の世俗化を生き延び、この人類の三属性は、人権宣言の〈人間〉のうちに、両義的なままとどめおかれている。人権からは、神への準拠は姿を消したが、人間の同一性を保証し、人間を物として扱うことの禁止を象徴化する審級にすべての人間を依拠させることの論理的な必然性は、消えることはないのである。

唯一にして同一の個人

 私たちの個人主義が独特であることを理解するには、異邦の眼差しによるのが一番である。
(略)
[アイデンティティとは?と問われたアフリカの叡智は次のような逸話で応じた。私の母はいつもこう言った]
「息子のアマドゥに話があるのだが、今そこにいるのは、息子に宿る数々のアマドゥのうちのどのアマドゥなのかを、あらかじめ知っておきたいのです。
(略)
私たちにとっての人間のアイデンティティの刻印である不可分性が、そこで不意打ちを食らわされているからだ。私たちの法的な文化によれば、人格とは生まれてから死ぬまで一にして不可分である。
(略)
メラネシア人にとって、人間存在とは空っぽの場所として定義されうるもので、他の諸々の場所(父、叔父、夫、氏族など)との結びつきの総体によって区画づけられると知ったときにも、私たちは同様の違和感を味わわされる。
(略)
他の文明の大半では、人間とは、自らを包み込み、自らを超え出るような〈全体〉、自らに先立ち、自らの後にも続く〈全体〉の一部とみなされているのに対して、私たちの法的な文化は逆に、人間を社会全体の素粒子として、質的かつ量的という二つの意味における個としてみなすように、私たちを促している。

アイデンティティを保証する〈第三項〉

 フランス共和国のように、根本的に世俗化した法秩序においては、国家がこの〈準拠〉の位置を占めている。国家は教会の後を継いだが、それは諸個人の表象の上にのみ拠って立つ、「形を変えた教会」である。私たちの制度的な建造物の要である国家とは、否定性を取り除かれた人間存在の諸属性の、不死身の表象である。すなわち唯一である国家は、人間たちとは同等ではない。また至高である国家は、自ら以外の誰にも従属していない。そして公共精神たる国家は決して死ぬことがない、なぜならその物理的な身体とは、絶えず生まれてくる国民だからだ。超越的な人格にして、並外れた普通法の特権の持ち主である国家は、自らを準拠とする現実もしくは擬制的な存在の法的パーソナリティの、究極的な保証人である。このような要がなければ、私たちの人類学的なモンタージュは崩れ落ちる。国家にのみ限定された、諸人格が同一性を得るためのこの準拠は、規則であるというよりもむしろ例外である。西洋を含めた多くの国において、民籍の問題は、全面的もしくは部分的に宗教の領域に属し続けている。たとえば英国では夫婦となる者たちは、民事婚もしくはいくつかの宗教婚の(限定的な)リストのどちらかを選ぶ。これはヨーロッパ諸国の多くにおいても同様であり、そこにおいて国家は、諸人格の同一性の究極的な保証人としての役割を、付随的に担っているにすぎないのだ。というのも人間の同一性とはつまるところ、信の問題であることに変わりがないからだ。

全面的解放の先にあるもの――解体した人間

ナチズムは共同体の諸価値への病的な回帰を意味したどころか、社会ダーウィニズムの一つの過激なヴァージョンを構成していたのであり、絶えず闘争中の生物学的な諸個人以外の人間的な現実は、そこでは認められない。その闘争においては、ヒトラー曰く、「もっとも強く、もっとも巧みな者が、もっとも弱く、より不器用な者に対して勝利する」。人間についての唯一の真理が生物学的なものである以上、社会を定礎するために残されていると考えられるのは、身体的な類似性や人種の同一性だけであり、国家とは、理想的なまでに同一な人間たちからなる社会を維持・発展させるための装置でしかなくなる。「われわれ人民の生やわれわれの法制度は、遺伝学の定めるところにしたがって形作られる」と述べていたナチスは、今日では常套句となった以下の確信を説明していたのである。すなわち、人間についての知識は〈科学〉の問題であり、〈法〉はそれに従わなければならない。
 ナチズムを軍事的に制圧したことに過信した西洋は、普遍的に認められる諸価値の周囲に秩序づけられた世界を戦後になって取り戻したと考え、半世紀後の共産主義の崩壊によって、いっそうその確信を強めた。一九四八年には世界人権宣言が採択され(略)地上のすべての人民を連盟させうる人類教の創設が目論まれたのである。(略)
[だがナチズムが]西洋的な人間存在の概念の極限への接近であることを認めるのを拒むことによって、全体主義の経験と共通の特徴であるはずの、科学主義的な「現実主義」に対するあらゆる批判的な回顧は禁じられてしまったのだ。デュモンの洞察が以下のように述べているとおりである。「ヒトラーは今日きわめて広く共有された表象から引き出せる結果をとことんまで引き出しただけだともいえる。その表象とは思考欠如の常套句ともいうべき「万人の万人に対する戦い」であり、そのより洗練された表現ともいえる、政治概念を権力の観念に還元させる見方である。こうした前提がひとたび認められてしまうと、ヒトラーよろしく、手段を持った者が誰でも思うままに抹殺を行うのを妨げることさえ妨げられなくなるのである。
(略)

自らの中にある、全体主義の萌芽となりうるものを見ることを拒んだ民主主義は、経済こそが社会関係を最終審級において決定しており、また生物学こそが最終審級における人間についての知の場所であると信じ続けたのだ。こうして〈科学〉は、かつては教会の座していた〈真〉の審級の構造的な場所を占めるようになる。人口遺伝学はここ五〇年以来、分子生物学的遺伝学の前に影を潜めたが、人種による説明が遺伝子による説明に取って代わられただけで、言説のドグマ的構造に変化はない。
(略)
 アイデンティティを保証する〈第三項〉への信を失い、西洋の人類学的モンタージュは、私たちの眼の前で解体しつつあり、その残骸の上に錯乱的な言説が繁茂している。(略)
平等の原則や個人の自由の原則は、あらゆる差異やあらゆる限界の廃絶の正当化に役立ってしまうこともあるのだ。
(略)
たとえば性差の放棄の要求や、子供を「女性の最悪の敵」とみなした上での、母性の「脱制度化」の要求、(迫害されたマイノリティとみなされた)子供の「特別な地位」の解体の要求、親子関係を契約に置き換えることの要求、さらには(略)狂うことの権利の要求などである。
(略)
「異性の夫婦による繁殖の独占を終わらせ、子供を中心とする可動的な諸人格のシステムに場を譲り

(略)
このような文脈からすれば、生殖的クローニングが魅惑的なものとして受け止められるのも理解できる。この技術が人間に応用されれば、性差や世代の差異から一挙に解放され
(略)
規制緩和したこの社会的地位の市場において主人として自立できない者はすべて、自らの不幸には自らのみに責任があると判断され、限界なしの自由の恩恵に浴するには適さない、一種の人間以下の世界に送られてしまうからだ。
(略)
 二〇世紀の全体主義の特徴だった、法的なものと科学的なものの革命的な反転は、このように継続しているのである。法と国家はいつでも修正できる協定に、意味を欠いた単なる道具にすぎなくなり、科学の真理や技術の不可逆的な進歩に従属するだろう。
(略)
〈科学〉以外のすべての法から解放される「輝かしい未来」への信は、ここ二世紀にわたって、〈人間〉の否認の温床であり続けてきた。

法の人間的な統御

第三帝国の言語とは、「人的資源」という概念のような、人間の世界を事物の世界に重ね合わせる概念のるつぼである。〈科学〉の名のもとになされる、法主体の排除こそが錯乱地点であり、全体主義的思想はそこに根を張っているのだ。


 同一性の保証人としての法や、人格の諸権利を否定することが、全体主義のわかりやすい特徴だとすれば、それは全体主義がさらに高みにある法の手先たらんとしているからである。その法とは科学的で超人間的な法であり、この法は国家と実定法をお役御免にする。ナチズムも共産主義も、国家を党に仕える単なる操り人形としてしか捉えておらず、表向きの政府は、権力の行使が実際になされている場所を隠すためのものである。ヒトラーによれば、「国家はまさしく内容ではなく、形式である」。(略)「われわれ人民の生やわれわれの法制度は、遺伝学の定めるところにしたがって形作られる」。ヒトラーユーゲントのマニュアルはこう断言している。ヒトラーが繰り返し述べていたのは、「国家がわれわれに命令するのではなく、われわれが国家に命令するのだ」ということ、そして「国家とは目的のための手段でしかない。その目的とは種の保存だ」ということである。
(略)
実定法が果たす役割とは、ハンナ・アーレントが以下に記すように、「柵を立てて人間たちのコミュニケーションの通路を整備することである。人間たちの共同体は、そこで生まれる新たな人間によって絶えず脅かされている。新たな誕生ごとに、世界には新たな始まりが訪れ、新たな世界が潜在的に存在を始める。法の安定性は、人間の事柄すべてを苛む絶え間なき運動に応えるものである。(略)法は新たな始まりすべてを柵で囲むとともに、運動の自由を保証し、予想もできなかったまったく新しい何かが到来する可能性を約束する。政治的な人間存在にとっての実定法の柵とは、歴史的な人間存在にとっての記憶のようなものである。つまりそれは共通の世界があらかじめ存在することを保証してくれるのだ。こうして保証される、ある程度の連続性のリアリティは、各世代の個的な生の持続を超越し、新たな始まりのすべてを吸収して、そこから養分を得るのである」。

従属の新形態

規律に従う者たちが同意している処罰

「ガバナンス」という新技術の法的側面がもっとも明白に姿を現しているのは、その新たな「人材」利用法においてである。(略)
封建的な色合いを取立戻した契約は、新たな種類の忠誠関係を結ぶために用いられ、命令を下すことなく行動を指図することを可能にする「客観的」な評価基準に人々を従わせるのである。(略)
 「われわれは客体化されている!」。労働者たちは、自分たちが従属させられている新たな「人材」指導の方法を、このように言い表している。客体化した労働者とは、達成目標という匿名の権力に従属させられて、上司との人間的関係という最後の主観的な要素すら失った存在である。テーラーシステムによって成し遂げられた労働者の動作の標準化が、法的従属という概念を予兆していた。(略)
[その]後を継ぐのが、人間の標準化である。
(略)
重要なのはもはや賃金労働者が自分の時間の一定の部分を差し出して機械的に命令に従い、その代償として賃金を得ることではなく、「自分の中の一番」を差し出して見返りを最大化することなのである。言い換えれば、重要なのは「あたかも」独立しているかのように振る舞うことである。賃金労働者による自腹の擬制の成立である。
(略)
[目標の不達成は解雇の正当な理由にはならないが、現実的である、労働者の職業能力に見合っている、本人のミス、という3つの要件を満たしている場合は例外となる]
このような判例が目標による誘導の諸原則にぴったりと適合しているのは、それらの目標が権力自体を、あらゆる恣意性の取り除かれた客観的な何かに変えようとしているからである。(略)
賃金労働者の明白な同意が経営者の決定の正当性の条件になるということが、別の形で表れているのは、賃金労働者の合意がなければ労働契約の修正を伴う懲戒処分は適用できないとした判例である。
(略)
規律は一方的な権力の表明であることをやめて、規律に従う者たちが同意している処罰という形を取るようになるのだ。言い換えれば、契約化はここで、刑法の最近の展開でも見ることのできたような、規律の内面化に寄与しているのである。
 この現象が労働契約を超えた広がりを持ち、フリーランスの労働者にも関わるのは、したがって驚くべきことではない。製品の完成までのすべての側面を包括した中央集権的で階層的な企業という産業モデルでは、従属的な労働とフリーランス労働とを明確に区別することが可能だった。今日において支配的な経済活動の網状モデルでは、こうした対比は判別しづらくなっている。
(略)
この組織の中では労働者たちが自分にふさわしい目標をどのように実現するのかは自由であり、これらの目標が数多くの非人称的な規範となって、労働者自身の前にも上司の前にも同じように立ちはだかる。民法や商法においては逆に、法的な独立性が実質を失って、事業主たちは製造や販売のネットワーク全体の集団的な規律に従属させられている。農業や商業の分野はこのような従属的な事業主で溢れており、彼らは企業を自由に経営することはできないのに、企業責任は負っているのだ。以上の二つの場合において姿を見せているのは、従属の新形態である。確固たる階層を持つ安定的な集団組織に組み込まれることをやめた労働は、輪郭の定まらないネットワーク内の調整手続に呼応することがますます多くなっている。

(略)

ガバナンス・イデオロギーの最大の懸案の一つは、諸々の社会の歩みの中に紛争や人々の集団的行為のための余地がまったく残されていない点である。こうして逆説的にもこのイデオロギーが関係を結び直すことになるのは、社会的紛争を一掃した社会という全体主義的なユートピアである。

人権の正しい使用法
人権のドグマ性

グローバル化の制度的基盤をもたらしうるような、普遍的に認められた価値、さもなくば普遍的に見出される価値は存在するのだろうか。
(略)
 こうした問いが何よりもまず人権の問題であるのは言うまでもない。そこでは人権の普遍性を信じる者と、それを信じない者とが対立することになる。一方にとっては人権とは、グローバル化した世界が必要とする普遍的な律法の石板をもたらしてくれるものであるのに対し、他方にとっては人権とは、西洋が残りの世界を支配することを正当化する「白人の権利」でしかない。人権の拒絶の例は、西洋では全体主義や独裁、植民地化の経験によって多数が示されているが、西洋の支配を被らざるをえない国々の住人たちの多くも、人権の拒絶に心が傾き始めている。シモーヌ・ヴェイユが一九四三年にロンドンのフランス亡命政府に向けて書き送った、植民地主義についてのノートの中で述べているように、「(略)懐疑の毒がかつては無事だった土地に猛威をふるっている。(略)私たちは、私たちとの接触によって、何ものをも信じない人種を作り出している。もしこうした事態が続くなら、私たちは、[一九四三年の]日本によって与えられているのはその前兆にすぎぬような野蛮さを伴った反動を被ることになるだろう」。
 実際のところ人権問題が提起されるのは信仰の領域においてなのである。この主題に関するあらゆる考察は、人権のドグマ的な性質を確認することと、西方キリスト教の諸価値に由来する信条の諸項目こそが人権であるのを認めることから出発しなければならない。(略)
ドグマとはすなわち源泉であり、おそらく人生にとってもっとも不可欠な源泉であるのは、人生には裏付けられる意味など何もないのに、人間はそれに意味を付与しなければやっていけないというのが、人生の特徴だからである。それができなければ人間は、ナンセンスと個人的もしくは集合的な狂気に陥るばかりである。私たちの行動に意味を与えてくれる、確約された準拠なしには、私たちは自由に行動することができないのであり、だからこそトクヴィルは次のように記しているのである。「同じ信仰を持つことなしに社会は繁栄しえず、というより、そうでなければ社会は存続しない」。
(略)
人権は一方で科学技術的な事業を正当化する。他方で人権はそうした事業を方向づけ、それが脱人間化の事業になることを防ぐ。二〇世紀にふるわれた未曾有の暴虐の長大な一覧表は、後者の役割がいかに欠かせないものであるのか、そして人権のドグマ性から解放された科学技術はどこに向かってしまうのかを物語っている。だが人権がこうしたドグマ的役割を引き受け続けるためには、科学と技術の歴史的な進展と地理的な拡大にあわせて、人権の解釈も進化しなければならない。このためには非西洋の人々が人権を自らのものとし、その意味と射程を豊かなものにすることが必要である。そのときにのみ人権は、人類に押しつけられた信条であることをやめ、誰しもが解釈しうる共通のドグマ的源泉となるであろう。

批判にさらされる人権の正当性

背後に控えるドグマ的なものが法的なものだけになった人権は、西洋においてすら壊れやすく後ろ盾が乏しくなっているように見える。人権の前には、科学を引き合いに出して人権の正当性に疑念を呈したり、実施に横槍を入れたりする様々な信仰が立ちはだかっているからである。
 いわゆる第二世代の人権の正当性が、経済学の名のもとに三〇年ほど前から激しい批判にさらされているのはこのためである。(略)
フリードリッヒ・ハイエクのような影響力の強い経済学者たちは、一九四八年の世界人権宣言が経済的・社会的権利を承認したのは全体主義的な思想(略)であると断じ、「これらの権利を、強制力をもつ法律の中に書き加えれば、伝統的市民権が目標とする自由秩序を必ず破壊することになる」と主張した。このように諸々の社会的権利を悪者扱いするダーウィニズム的な社会観が、国際通貨基金世界銀行のような機関でドグマとしての価値を得ていることは周知のとおりである。しかしその影響が経済的・社会的権利の実現を担っているILO〔国際労働機関〕のような国際機関にまで及んでいることはあまり知られていない。だがハイエクはILOに対しても組合活動家に対するのと同じような侮蔑を向けている。一九四八年の世界人権宣言について彼が言うには、「文書全体が組織的メンタリティに特有の隠語で書かれており、労働組合の代表や国際労働機関の宣言にも見出せそうな隠語である……〈大きな社会〉の秩序の拠り所になるような原則と、このような隠語が共鳴するところは何一つない」。こうして諸々の社会的権利を法的領域から締め出すための言い分が、二つ用意される。社会的権利は富の分配を目的とするが、法の領域はその性質上「正しい振る舞いについての規則」に限定される、というのが一つ目である。社会的権利は個人への保証ではなく集団に対する債権という構造を持つ、というのが二つ目である。
(略)
自由や所有権の擁護に気を使いたければ、まずは最低限の身体的・経済的な安全が確保され、暴力や空腹、寒さや病気から守られている必要がある。ナチズムの台頭時に、「食べることを蔑む者は、すでに食べた者である」と記したのはブレヒトである。同様に「リスク恐怖症」をあざ笑う今日の人々は、リスクから守られているのである。困窮と大量失業が独裁者たちにつけ入るすきを与えること、身体的・経済的な不安定のもとでは自由はありえないということが、一九三〇年代の教訓の一つであり、だからこそ戦後に社会的権利の宣言がなされたのである。
(略)

 〈科学〉の教えに合わせて人権を解釈しようとするときに、科学主義的な観点が馬脚を現すのは、拷問であれ、子供の民籍をめぐる実験であれ同じことである。(略)
〈法権利〉は単に〈科学〉が明らかにした規範性の到来を後押ししさえすればよいのである。〈法権利〉という道具の正当な使い方は、「押しつけられた役割から脱した各人がクリエイティブなやり方でで自分を創造するよう促す、個別的な民主化の深い流れ」を妨げ続ける集団的信仰を打ち破ることなのだという。〈科学〉が私たちに新しい人間の道を指し示してくれているのだから、〈法権利〉にはもはや語るべき言葉がないのは、歴史的経験からも明らかだというのだ。ここで明白になっているのはむしろ、人権が、たとえ全会一致でもっとも根本的と認められているにしても、西洋においてすら、さらに根本的であるとみなされた規則に従属するように促されているということである。

連帯原則を再訪する

 アフリカの頼母子講のような伝統的な再分配メカニズムと異なり、福祉国家という枠組みの中で制度化されることになったこの連帯は、債権者と債務者の間の個人的なつながりが徹底して排除されている。だからこそこの連帯は、国の社会保障制度(略)や、公共サービス(略)のように、一国全体に拡大することができる。このような連帯は匿名であるが、それはこの連帯の長所であるとともに短所でもある。長所であるのは、諸個人が個人的な忠誠関係から開放され、多額の資金の動員と、リスクの最大限の分散が可能になるからだ。短所であるのは、匿名性により個人主義が増長し、連帯する者同士の直接的な結びつきは消え失せ、非人称の組織との個人的な直面だけが残るからだ。受給者視点に立つか拠出者視点に立つかに応じて、天の恵みのように見えたり(真の債務者のいない債権)、ゆすりのように見えたり(真の債権者のいない負債)するだろう。弱点であるのはまた、これらの連帯システムが国家の枠組みでしか発展しえないものだったからであり、国家はこのシステムの管理者であるか、さもなくば保証人であるのだ。
 福祉国家の枠組みの中で発達してきた連帯システムが、今日において深刻な危機の真っ只中にあるのは、まさにこのためである。信頼できるのは個人的な連帯関係だけであるような多くの南側諸国では、このシステムの輸出は失敗に終わった。そして北側諸国においては、このシステムは市場原理主義者たちの批判と、悪化する財政難に直面しており、国境開放によって資本と企業が税金と分担金から逃れられるようになって、財政難はいっそう悪化している。こうした困難に対する答えは、あらゆる連帯関係から解放された自給可能な諸個人からなるグローバル社会という神話の中には見出せない。国の連帯システムは社会の脊柱だから、社会と歩みをともにすべきだとして、システムの殼を閉じることも、やはり解答ではない。第二世代の権利の宣言に内在する連帯義務に、国際的な射程を与えることでしか、このシステムの不安定化には対峙できないのである。
(略)
他方で待ち望まれるのは、連帯原則から新たな効力を引き出し、経済的・社会的権利の解釈を、世界における交換の新たな法体制に配慮した方向で進化させることである。国際的な社会分裂と、今日の南北の労働者間での利害の衝突の改善を望むのなら、南側諸国が理解し、実施している連帯の方法へと、解釈を開かなければならない。