- はじめに
- バーセルミの影響はあったか
- 文体を持たずに小説は書けるだろうか?
- 文学は「本当のこと」を言うとは限らない
- 小説家は種明かしをしてはいけない
- 村上春樹は日本語の中に英語を「入れた」
- コードのこわさ、意味ありげに見えるこわさ
以前にやってるけど再読。なんてザルなんだオレの記憶。
- 作者: 柴田元幸,高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/03/13
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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はじめに
「読む」時の小説と、「書く」時の小説は、同じなのだろうか。どちらも「小説」と呼んでいるけど、それは、同じ「もの」なのだろうか。
どうも違う気がするのである。
読んでいる時の小説は、固く引き締まって、触ってみても、そこに「存在している」感じがする。(略)
それに対して、書いている時の小説は、ふわふわして、不安定で、どこを歩いていいのか、足取りがおぼつかない。
(略)
じゃあ「翻訳する」時の小説はどうなんだろう。それは、ひとつの堅いなにかの表面を緩やかに流れてゆく感じがする。
(略)
「固体」としての小説があり、「気体」としての小説があり、「液体」としての小説がある。(略)
もしかしたら、それらは、「ひとつのより大きい」なにかの破片なのかもしれない。
バーセルミの影響はあったか
[デビュー時、春樹がヴォネガットなら、源一郎はバーセルミという印象だったと言われ]
高橋 バーセルミはとても好きな作家ですが(略)
言葉に対する僕の感覚は、たぶん日本の現代詩にいちばん影響を受けている。方法というよりは、言葉の扱い方が。
日本の現代詩の中には、大ざっぱに分けてモダニズムと、いわゆるハイモダニズムと言われるれるものがありました。小説にはそういうものが、とりわけハイモダンなものがほとんどないように思います。僕は自分で小説を書き始めた時に、現代詩がやっていたようなモダニズムとハイモダニズム、さらにその先にあるものを小説でもできるのではと思っていたように思います。その後しばらくしてからバーセルミを読んだんですが、そこで「あっ、同じようなことを考えてやっている人がいたんだ」と思いました。それから後の作品では、影響を受けているとは思います。(略)
これはジョン・バースの定義ということになるのかもしれませんが、小説の技法的革新や実験を信じることがモダニズム。それが極限にまで至ったものがハイモダニズムです。つまり、ジョイスやベケットの作品がモダニスムに当たります。彼ら以降に出現した、実験は意味があるかどうかわからないけれどもそれをやっている作家のことを、彼は「ハイモダン」と呼んでいると思います。そして、ジョイスやベケット以降の作家がやったことの中には、大きい考え方の革新はない、とバースは考えました。僕も、その点に関しては同感です。実験的なことに本当に意味があるのかなと疑問を持ちながらも、ふつうの小説に戻れなくなってしまった人のことを「ハイモダンな人」というふうに呼んでるんだと思います。
日本の詩もやっぱり戦後詩のモダニズムから、これはもう実験をやっているなという感じの詩人がたくさん出てきたんです。ハイモダニズムというのは、一種の悪口なんですね。つまり「やりすぎだよ」という意味です。ただ、その中にはどうしても必然的なこともあった。僕は、バーセルミという人は、そういう意味で、必然性があった作家だと思います。(略)
バーセルミの作品は、明らかに実験的であるという点ではハイモダニズムであり、進歩を信じないという点ではポストモダニズムと言えるかもしれません。
(略)
[70年前後の現代詩は]バースの分類に従うなら、モダンであり、ハイモダンであり、同時にポストモダンでもあるようなものです。[小説を書こうとした時]僕は、そういうものを目指そうとしていたと思います。
(略)
『さようなら、ギャングたち』を書き始めた頃には、もうすでに断片の集積で書こうとしていました。断片を集めて長大な作品を作るのは現代詩に特徴的なやり方だったので、それならできるだろう、と思っていたのです。だから、ブローティガンやバーセルミを読んで、「あっ、やっぱりやってる作家がいるじゃないか」という思いは強かったのです。
柴田 (略)たとえば「太宰治」という言葉から太宰治という人間にすんなり思いが行かずに、「太宰治」が太宰治を意味するというのはどういうことなのか気になってしまう、要するにすべての言葉が括弧つきのものに見えてしまうという点では、高橋さんとバーセルミはすごくつながる気がするんです。
高橋 それは要するに、僕もバーセルミも、一種の「病気」だからだと思うんですね。
僕がバーセルミを好きなのは、彼はものすごく正直な作家だからです。(略)いわゆる「ふつう」の小説を書いていないわけです。(略)この社会のマジョリティのコード、約束事に則って書かれている小説(略)を読んでいると、ある人たちにとっては、まず、なによりコードそのものが目に入ってくるわけですね。(略)
「全部舞台の袖にいる演出家が演出したものじゃないか」という感じです。芝居の中身よりもそういうことが気になってしまう。この世界はコードでできているわけだから、そういう人間にとってそのことを抜きにして何かを書くというのは無理なんですね。その場合、選択肢は三つあります。(1)わかっているけれども面倒臭いからコード通りに書く。
(2)コードのあるものは書けないので書かない。
(3)「コードがあるよ」と書く。
この三つしかないんです。そして、その選択は、どれが正しくて、どれが間違っているかわからないのです。僕は「コードがあるよ」と書くのが高度なテクニックだとは思いません。ただ、「これはコードじゃないか」と指摘する作品が、もしほかにほとんどないとしたら、誰かがそれをやらないと気持ち悪いだろう、とは思うんですね。
この間、評論で中原昌也君のことを書いたんですけれども、おそらく彼が日本では、いまいちばんバーセルミに近い作家だと思うんですね。
柴田 中原昌也は、そのことをもっと本能的にやっている気がしますね。
高橋 (略)バーセルミは現代美術批評の理論をもって、そこにたどり着いて、そのことを作品で実現した。中原君は本能でそこにたどり着いて、そのまま書いている印象があります。野性のバーセルミですね(笑)。つまり、彼ははっきり言っちゃうわけですね、「そんなもの、皆コードじゃないか」と。(略)
[バーセルミとの違いは]
僕はまだどちらかというと読めるということ、可読性に足場を置いているので、表面上は読みやすい。ところがバーセルミは、表面上も読みにくいんですよね。
(略)
彼はご存じのようにニューヨークのアートシーンの中、つまり「芸術」のわかる人たちの中にいました。彼と好みが共通する、ハイブラウな読者がいたんです。それは羨ましいと思う反面、いいことだったのだろうかとも思います。最初から支えてくれる共同体なりファンがあるところで書いてしまうということがです。(略)
僕は、バーセルミを羨ましいと思う反面、そのことが作品を痩せさせはしなかっただろうかとも思います。
文体を持たずに小説は書けるだろうか?
柴田 (略)デビュー当時は毎月文体が変わったとおっしゃいましたけれども、いまだに高橋源一郎の文体というのがあるのかというと……。
高橋 ないですね(笑)。
柴田 高橋源一郎の声がどこにもないことが、高橋源一郎の核心かと。高橋 死ぬまで自分の文体を持たないようにしたいというのが、僕のひそかな願いではあるのです(略)
近代文学一二〇年の歴史で、結局何がいちばん尊ばれたかというと文体です。さらに言うと、「これはこの人の文体だ」という私有された文体なんですね。テーマでもなく、内容でもない。ただ、僕は、文体は私有されてはいけないのではないかと思っているんです。文体の私有化とは、要するに「ルック・アット・ミー」、「私を見て」ということです。だから「私小説」と言うんだけれども、それでは何を見て欲しいのかというと、文体を見ろ、なんてすね。そこに「私」がいると言っているのだけれども、「私」としか書いていないのだから、どこにいるかというと、文体の中にいるということになる。実際には、いないんですけどね(笑)。
そこが、いま僕がずっと考えている「ニッポンの小説」のいちばん大きい問題点ではないかと思っています。(略)
僕の願望ははっきりしていて、ここ何年か、いかに下手な、ダメとしか思えない形の文章で小説が書けないかと、ずっと考えています。(略)
ものすごく極端なことを言うと「下手な」「ダメな」というものには形がない、というか、それは要するにコードに則っていないものなんですね。美しいものは、だいたいコードに従っていると思うんです。(略)
柴田さんの、チャールズ・ブコウスキーの『パルプ』の翻訳は、日本翻訳史上の最高傑作と思います。あの作品の、柴田訳のブコウスキーは僕の文章の理想像です。(略)あの文章は[大衆文学のコードに]従っているふりをしているだけで、いかなるコードにも従っていないようににえます。(略)
ブコウスキーは、どうすれば知らないように見えるか、本能的に知っていると思うんです。それは、要するにきわめてインテレクチュアルな作者だということです。知らないようなふりをするなんて、まだダメです。それがあの人はできてしまう。(略)美文ではない。だが、ある意味すごく美しい。物語の進行が全部偶然というか、最初からすべてでたらめなんですけれども、あまりに完璧にでたらめなので、「美しい」と言うしかない。その美しさは文体から出てくる「私」が持っているわけではないんです。
文学は「本当のこと」を言うとは限らない
高橋 「21世紀ニッポン文学史」という新聞連載で、いまの若い作家を明治の作家で喩えると誰なのかというのをやってるんですが、一回目では綿矢りさは樋ロ一葉(略)第二回目で中原昌也は二葉亭四迷であるということを書いたんです。どこが似ているのか。二人とも、正直過ぎるところがです。
(略)
彼の『平凡』という小説は、「私」はいま、この小説を書いていますよというところから始めて、つまらないとか、書くことがないとか書いていった。いわゆるメタ小説とも言えるものです。でも、四迷は、そういうことをやっている自分が恥ずかしくなってしまった。メタには徹しきれない(略)書くことがないのに小説を書いているなんて本当におれは恥ずかしい、と。その正直さ加減が中原昌也と一緒ですね(笑)。
小説家は種明かしをしてはいけない
小説の素晴らしいところは、そこに書かれていることが嘘かもしれないということですからね。あるいは本当なのかもしれない。つまり、一種の手品なんです。だから、小説家は種明かしをしてはいけない。コードというのは「こういう展開ですけれども、本当のテーマはこれですよ」という種明かしをするための種なんですね。そして、いま、小説は、種明かしとセットで売られていると思います。(略)
つまり、「これは表面上はエンターテインメントだけれども、実は現代人の心理を描いていますよ」というふうな「本当のテーマはこれですよ」という種明かしとのセット販売です。そもそも小説は読むまでは本当は何だかわからない、「とりあえず読むしかない」ものじゃないですか。でも、正解があることになっている。
村上春樹は日本語の中に英語を「入れた」
[吉本隆明が『詩学叙説』で伊東静雄の『わがひとに与ふる哀歌』の]すごいところはドイツ語をそのまま日本語にしているところだ、と言うんですね。つまり、この詩で使われている比喩は日本語ではあり得ない、と言うんです。別に翻訳じゃないんですよ。ドイツ語の比喩をそのまま日本語にしているわけです。これが日本の詩が変化していった意味だ、と吉本さんは言うんです。
つまり、詩人というのは言語を洗練していくのではなくて、その国の言語に何かを付け加える存在なんですね。だからその部分は、よく読んでみると変なんです。でもすごく印象に残る。それがというか、それも「翻訳」なんですね。そういったもので詩というものがいわばレベルを上げていって、いまの現代詩に至るんです。小説の方で言うと、村上春樹さんは日本語の中に英語を「入れた」わけです。これは真似たとかそういうことではなくて、日本語を無理やり方向転換させたというか、日本語の枠を広げたというか、ともかく日本語じゃないものを混入した。それは二葉亭四迷がやったこととも通じるんですが、言葉が要するに変なんです。つまり、中にある物語とか、キャラクターがどうということじゃなくて、言語が脱臼しているというか、日本語ではない違うものに遭遇している感じがするんですね。
最初に戻りますけれども、僕は(略)読んだ瞬間に「この言葉はおかしい」、これは日本語ではない、という小説でなければだめだと思っていました。だから、僕が『風の歌を聴け』を初めて読んだ時驚いたのは、方向は違うんだけれども、この人も同じことをやっているなと思ったからです。(略)
村上さんの作品は、やはり根本的におかしいんですね。そこがいちばん重要なところだと思うんですが、そこのところはたぶん、半分わかっているけれども知らないふりをして書いているんだろうなというふうに思います。(略)
柴田 (略)「あえて日本語を変えてやろう」という気でいたとかいうことは特になかったんじゃないかな。村上さんにしてみれば、英語の小説にたくさん接するなかで、あれが一番自分にしっくりくる日本語になっていったんじゃないでしょうか。
高橋 だとすれば、すごいですよね。彼自身は少しも違和感がなかったのかもしれない。(略)
中原君の小説も村上さんの小説も、おかしいんですよね。中原君と村上さんの小説は似ても似つかないんですけれども、そのイカレ具合は実はよく似ている。ふだん我々が目にする小説とは全く違っています。文学というものが、自己破産することなしに、原理的な「自由」を実現することができるとしたら、ああいうものになるのかもしれないという気がします。 言文一致体
コードのこわさ、意味ありげに見えるこわさ
柴田 漱石とか鷗外も、出てきた時は変だったんでしょうか。
高橋 そう思います。ただ、その「変」の具合がいまとはもちろん違うわけです。鷗外や漱石は規範を知っていたわけですね。つまり、イギリス文学やドイツ文学という、ある種ガチガチのコードでできた世界を知っていた。コードのこわさを知っている人たちだったんですね。二葉亭四迷もまた別の意味でコードをよく知っていました。
いま読むと当時の日本の作家は、すごくはしゃいでいるように見えます。言文一致体を手に入れて、「こんなにすごいものが書ける」とはしゃいでいる中で、何人かが「はしゃぐな。これはこわいことだよ」と警鐘を鳴らしていた。その意味合いはいろいろあったと思うんです。それは一言で言うと、「実力以上のことを書いちゃだめだ」ということです。つまり、「ニッポンの小説」が可能とした言文一致体、その散文を使うと意味ありげに見えちゃうんですね。それが作家たちを魅了した理由だったと思います。自分で真剣に考えていないのに真剣に考えたように見えてしまう、極端なことを言うと、さっき言っていた「嘘なのに本当に見える」ということにつながると思うんです。そのこわさを、その人たちは知っていたのです。
次回に続く。
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