ボブ・ディラン 指名手配 その4

前回の続き。 

謎の人物、ノーマン・レーベン

 ノーマン・レーベンは、ボブ・ディランの人生に大きな影響を与えた人物のひとりだ。ディランは、70年代中頃、自分の作曲の才能をよみがえらせてくれたのはノーマン・レーベンだ、と語った。ディランはまた、ノーマンから教わったことや、彼の影響は自分の人生に対する考え方を変え、それによって妻のサラは自分を理解できなくなり、結果としてふたりの結婚生活が破綻した、ともほのめかしている。

(略)

 ディランが初めてレーベンについて語ったのは、1978年、自分の映画『レナルド&クララ』の宣伝のために行った数多くのインタヴューの中だった。ただし、しばらくの間ディランは、彼の名前を明言しようとはしなかった。「彼のような男はいない。彼の名前を言うのは避けよう。彼は本当に特別な人だから、彼を探し出したりして欲しくない」

(略)

ディランがノーマンの家のドアをたたいたのは1974年の春のことだった。

 「絵を描きたいんだね?」と彼は言った。(略)「じゃあ、君がここにくるだけの価値があるかどうか、君に何ができるか見てみよう」と彼は言った。そして、ぼくの前に花瓶を置き「この花瓶が見えるだろう?」と言った。彼は花瓶をそこに30秒ほど置いた後、その花瓶を持ち去ってぼくに「あの花瓶の絵を描いてみろ」と言った。ぼくは描きはじめたが、その花瓶について何も思い出せなかった。ぼくは花瓶を眺めていたが、理解はしていなかったのだ。そして、ぼくが描いた絵を見て彼は「OK。ここにきてもいい」と言った。さらに、ぼくは13色の絵の具をそろえるように言われた。ぼくはそこに絵を描きに行ったわけではなく、どんなところか知りたくて行っただけだったが、結果は、たぶん2か月くらいそこに通って絵を描いていた。彼は驚嘆すべき人物だった……

(略)

 ぼくは変わった。あの日以来家に帰っても、妻はぼくを理解できなくなっていた。ぼくたちの結婚生活が破綻しはじめたのはあの時からだった。彼女はぼくが話すことも、ぼくが考えていることもわからなかったし、ぼくもそれを説明するのは不可能だった。

(略)

 そのクラスには、フロリダからきた金持ちの老婦人、非番の警官、バスの運転手、弁護士といった連中がいっしょに集まっていた。あらゆる人間がいたんだ。

(略)

 ノーマンは技術的なことよりむしろ抽象的なことに興味を持っていたようだった。彼はさまざまな方法で表現することが可能と思われる究極のリアリティについて教えていた。

(略)

 ぼくは何人ものマジシャンに会ったことがあるが、彼はそうしたマジシャンたちよりもパワフルだった。彼はじっと相手を見つめただけで、その人がいったい何者であるかを言い当てることができる。(略)

もし自分自身を明らかにしたいと思うのであれば、彼の元に通い、自分で自分自身を見つけるように努力しなければならない。それをやるのは自分自身なのだ。彼はただ何かガイドのような役割を果たすだけだ...…

 ディランのいうノーマンという神秘的な男がノーマン・レーベンであることを、私が突き止めたのはそれから少し後のことだった。彼は1901年にロシアで生まれ、3歳で家族と共にアメリカに渡り、14歳の頃に永住権を得た。ノーマンの父親は著名なイディッシュ語作家、シャローム・アレイヘム(1859~1916年)だ。彼はティヴィエというキャラクターを生み出した作家として現在でも知られている。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』はこのティヴィエの物語が原作だ。ノーマン・レーベンのスタジオで過ごした2か月間で、ディランに現れたもっとも顕著な変化は作詞の方法だった。

 ディランは1966年7月9日のオートバイ事故の後(略)もはやこれまでのように自由に書けなくなったと語っている。

 あの事故以来、ぼくは多少記憶喪失になった。文字通りにでも、抽象的にでも、きみの好きなようにとってもらっていいが、とにかく、ぼくは記憶喪失になった。それまでぼくが無意識でやってきたことを、意識してやろうとするととても長い時間がかかるようになった。

(略)

例えば《Highway 61 Revisited》の歌詞も忘れてしまった。つまり、机に向かって意識してあの歌詞を書こうとしてもできないんだ。記憶がばらばらになってしまっていた。

(略)

ディランはアルバム《John Wesley Harding》と《Nashville Skyline》を次のような試みだと表現している。

 

……ぼくが行くべきところだと思っていたところまで導いてくれる何かをつかもうとした。でも、どこにも行けなかった。ただ下に落ちて行くばかりだった……ぼくはもう何もできなくなったと確信した。

(略)

 彼は、以前ぼくが無意識に感じていたことを意識的にできる方法で、ぼくの心と手と目をいっしょにしてくれた。

 

 ノーマンとの時間はディランの精神を新たに方向づけ、新しいいくつかの曲を書かせることになった。それらの曲は、今でも傑作と称賛されている《Blood On The Tracks》に収録されている。

 

 このアルバムが今までのものととはかなり違うことを誰もが認めるだろう。何が違うかというと、歌詞にひとつの法則があることと、また時間の概念がないことだ。

(略)

[以前とはちがい]ぼくは意識して歌を書いた……時間というものを打ち砕いた、つまり、時間の概念がない、太陽光線を虫めがねで集めたような高密度に凝縮された歌を書こうとした。意識的に書くことが肝心だった。それを初めて《Blood On The Tracks》で実践した。技術を学んだので、ぼくにはどうすればよいかわかっていた。事実、それを教えてくれる先生がいた…

(略)

 

[ディランは]時間の概念について、単に「過去と現在と未来が同時に存在する」だけではなく、「すべてが同じに存在する」ように努力したと語っている。そして、これはノーマンから習ったことのひとつだとジョナサン・コットに話している。ノーマンは次のように、教えていた。

 

 昨日も今日も明日も、すべて同じ部屋の中にあると考えてみよ。そうすれば、何が起こるか想像できないことは何もなくなる。

 

(略)

彼はさらに「歌は書き直されるべきだ」と続けている。実際、ディランは常にこのアルバムの歌を書き直している。〈Simple Twist Of Fate〉や〈Tangled Up In Blue〉は何度も何度も書き変えられている。

(略)

 

 ぼくは絵画のような歌を書こうとした。つまり、絵画のように一部分だけを見ることもできるし、全体を見ることもできるような歌だ。〈Tangled Up In Blue〉でそれを試みた。時間の概念と、登場人物が第一人称から第三人称に変化する方法を試みた結果、聞き手には三人称の人物が話しているのか、あるいは一人称の人物が話しているのか、明確にわからない。しかし、全体を眺めるときには、そんなことはどうでもよくなる。

 

(略)

ディランは『レナルド&クララ』を作る際にも同じ手法を用いようとした。

(略)

 

 映画自体が時間の概念を作りだし、維持するのだ。映画とはそうあるべきものだ。映画が時間の概念を捕え、その中で呼吸をする。そうすることで時間を止めるんだ。例えば、セザンヌの絵を見ながら、その絵の中である時間、自分を忘れてしまうようなものだ。もちろん、息はしている。そして、時間が過ぎていっても、そのことに気づかない。呪文をかけられたようになってしまう。

 (略)

 ぼくは理解し、掌握しなければならないと思っていたものを、初めて手中に収めることができたのは《Blood On The Tracks》を作った時だった。しかし、掌握したと確信できた時には、《Blood On The Tracks》は完璧なものではなくなってしまっていた。同じように《Desire》も完璧ではなかった。ぼくが今後目指そうとしていた音楽にもっとも近いものにできあがったのは《Street-Legal》だ。このアルバムは時間の幻覚と関わっている。つまり、歌に不可欠なものは時間の幻覚だ。そのことをノーマンは知っていた。そして、ぼくもそれを取り戻すことができた……

パティ・スミス

 1975年、私とバンドがレコード会社と契約を交わした直後、私たちがアザー・エンドで演奏した時にボブがやって来た。彼がいることはわかっていたわ。(略)

彼は才能とスピードと刺激にあふれていた。しかも、すべてが本物だった。

(略)

ちょうどハイスクールの廊下で男の子に会った時のような、10代の頃の感じに似ていた。2人の間でエネルギーが衝突したようだった。……2台の青色のサンダーバードが正面衝突したような感じだった。(略)

彼に会った直後、私はとてもナーバスになり、別の部屋に移ったの。すると、彼も私の後についてきて、私に何か言ったのよ。私はさらに別の部屋に移った。すると、また彼もついてきて、今度は私を抱き締めた。その時、誰かがわたしたちを写真に撮った。それは今までずっと壁の花のような人生を送ってきた私にとって最高の瞬間だった。

(略)

私はとても哀れな女の子だった。ボブはそのことを知っていた。彼は私のことを知っていたので、〈Wallflower〉(壁の花)という歌を書いたの。わかるでしょう。彼は私のことを調べていた。私が彼のことを調べた以上に!

 当時、彼は過渡期にいた(略)

かつて、ディランは60年代の王だった。それも絶対的な王だった。エルヴィス・プレスリーが持っていた王の茨の冠が、ディランに手渡され、ロックンロールの王座の後継者となった。私にとって、ディランは常にロックンロールの代表だった。彼をフォークシンガーとか詩人とか何とか思ったことは一度もなかった。彼はエルヴィス・プレスリー以来最もセクシーな男性だと私は考えていた。頭の中で描いた理想の男性だったの。

(略)

あの夜は彼が客席にいたのでとても刺激を受け、即興で〈Bob Dylan's 114th Dream Of Captain Ahab〉という歌を歌った。もちろん彼の〈Bob Dylan's 115th Dreams〉という歌から思いついた歌だったけど、ディランにはまったく新しい歌に聞こえたようだった。私はステージから「この歌の出所を思い出すべきよ」と叫んだ。でもディランはバンドのすばらしさに夢中になりはじめていたようだった。

(略)

[バンドは]私の歌に合わせて、あるいは私を駆り立てるように演奏を続けていた。彼が不可能と思っていたことを、私とバンドが繰り広げたのです。彼はそれを見て、「ぼくもずっとひとつのグループとだけいっしょにやっていればよかった。ずっと同じメンバーといっしょにやっていれば、互いに隅々まで知り尽くすことができただろう」と後で言ったわ。

 彼はしばしばそのクラブに出入りするようになった。(略)

そして、ある夜、ボブはステージに上がるようになり、集まっていた連中とセッションを始めたの。彼がロブ・ストーナーや、ボビー・ニューワースといった連中に興味を示しはじめたのを私は見ていました。ボビーとディランが再びいっしょに歌うのを見るのは最高だった。ボビーはディランの一番悪い面を見事に引っ張りだすの。そして、この悪い面こそ、私たちがもっとも好きだと感じる彼の一面でした。そうするうちに、ディランはこのローリング・サンダーを形作っていった。彼は即興で歌うことを考えていた。言葉の面で自分を広げようとしていた。

(略)

 私以外の全員がそのローリング・サンダーへの参加を頼まれた。(略)
[ボブにバーに誘われて行くと]

それは誰かの誕生日のパーティで、彼らはそこでローリング・サンダーのことを発表するつもりだったのです。

 彼の発表の仕方はとても奇妙だった。まず、彼とジョーン・バエズがいっしょに、私の大好きなディランの歌のひとつ〈One Too Many Mornings〉を歌った。(略)

いろんな人たちが次々とステージに上がりました。ボビー・ニューワースが歌い、ジャック・エリオットが歌い、ジム・マッギンはあの馬の歌を歌い、ベット・ミドラーも歌った。彼女の出来はあまりよくなかった。

(略)

ステージに上がるとエリック・アンダーセンがいて、私は彼に「後ろでEのコードを弾き続けて」と頼んだ。そして私は詩を朗読することにした。私はボブを見ていると、兄弟姉妹についての詩が浮かんだ。でも、そう思っているうちに、私はサム・シェパードのことを考えはじめていた。私の意識の中に彼がいたのです。(略)すっかり夢中になってストーリーを続け、体制の欲と腐敗によって別れていく兄弟姉妹の詩にした。なかなかの出来栄えで、みんな気に入ってくれた。

(略)

ディランはいろんな面を持っていて(略)上品で優しい性格の人間に変わったわけではなく、実に嫌な奴なのよ。でも、それは本物の嫌な奴になるためではなく、彼の芸術のためには重要な要素だと私は思っているわ。そして、あの夜のディランは本当に嫌な奴だった。フィル・オウクスは怒り狂っていました。かわいそうなフィル・オウクス……私には信じられなかったけど、ボブは絶対にフィル・オウクスに話しかけようとしなかったの。ふたりはまるで……部屋の真ん中に首吊りの縄があって、その周囲をぐるぐる回わりながら、互いにどちらかを捕まえて、首吊りの縄にかけてやろうとしているみたいでした。

(略)

ディランがいろんな歌を歌っていたけど、私はもっとロックして欲しいと思った。だから私は「どうしてアコースティック・ギターなの?」と言ったの。すると、彼は別の部屋に消えてしまった。そして代わりに、やり手の弁護士やボディガード、スタッフたちが私を取り囲んだ。まるでマフィアみたいだった。その時私はなぜディランがジョーイ・ガロに興味を持って歌まで書いたのかわかったわ。

(略)

[弁護士に連れていかれた]部屋にはディランが立っていた。彼はすごく偉そうに見えた。そして、弁護士が「ボブは今度ローリング・サンダー・レヴューをやろうとしているんだけど、彼は君にも参加して欲しいと思っている」と言った。そして、ディランも「ウーン、そう。君のキャリアにもとてもいいことだと思うよ。人前にいっぱい出られるんだから」と言ったの。彼がそんなことを私に言うなんて大笑いだと私は思った。そして、私は「どういうこと?人前に出られるですって? 私はいまでも充分に出てるわよ。ロックの下に隠れてたから見つけられなかったんでしょう。みんな私が充分に活動してることを知ってるわ。いい、あなたは1億5千万人もの人を連れてこのツアーをするんでしょう。私のために席を開ける必要なんかないのよ。私はあなたを駆り立てたいだけよ。完全にクレージーになるまでね。あなたといっしょにやりたいことは、あなたをクレージーにすることだけよ。あなたを駆り立てて、あなたがみんなを言葉で切りつけたり、エレクトリック・ギターで最高のソロを弾かせたり、とにかく、最高のあなたを見たいだけなの。古いフォークソングを焼直したり、カントリー風のハーモニーなんかで歌って欲しくないの。私はあなたとカントリー風のハーモニーを歌うなんて全然興味ないわ。確かにあのバーでは歌ったわ。でも、あれはカントリーのお店だったからよ」と言った。

 彼は私の言った意味を理解した。私は彼から得るべきものはすべて得ていた。長い間、彼は私を触発し続けてくれた。私はそろそろ立場を逆転する時だと感じた。そこで、私は「ひとつだけ教えてあげるわ。こぶしを使うのよ」と言った。彼はいつも手をぶらりと下げたまま歌っていた。彼はギターを持たずに立って歌う時、手をどうしたらよいか知らなかった。私は「マイクをつかむの。こぶしを使うの。あなたはハリケーン・カーターというボクサーの歌を歌っているじゃない。だったらこぶしを使うのよ!客とボクシングをするのよ。

(略)

あなたはクールの父なのよ。だから、直立不動でクールを装うんじゃなくて、今という時とともに動いてクールに見せてよ」と言ったの。(略)

「いい、私は12年間もあなたのまねをしてきたわ。あなたも少しくらいのまねをしてもいいはずよ」と言った。すると、彼はただ笑ってた。

(略)

 とにかく、ライバル意識を捨てきれない部分が、彼をローリング・サンダーに駆り立てた。サムはいっしょに行ったが、私は行かなかった。サムが私の役割をした。サムはディランを駆り立てて向上させ、ケルアックの墓に彼を連れていき、彼に悪魔払いをさせ、とても陽気に浮かれ騒がせはじめた。そして、ディランも開発された。肺とサングラス、つまり、言葉と目が窓口となった。しかし、すぐにまたその窓を閉ざしてしまった。サムは「もしあなたがつまらないフォーク風の歌ばっかりやろうと思っているのなら、ぼくは別れる」と言った。そして、サムは離れた。

(略)

 ディランは、このようにとてもクレージーな人間です。(略)

ディランの強さがうまく現れるのはロックンロールの純粋表現主義に徹した場合だけだ、ということを伝えたかったのです。私の目に映るディランは、ビラを撒いたり、旗を掲げている男ではなく、マシンガンを持った男なのです。

 次回に続く。