ボブ・ディラン 指名手配 その3

 前回の続き。

ニューポート、1965年

 ジョー・ボイドは現在ロンドンでハンニバル・レコードを経営している。(略)

1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルのプロダクション・マネージャーをしていた人物だ。観客は本当にディランのステージにブーイングを浴びせたのだろうか?

(略)

 

まず当時のアメリカン・フォーク・シーンを占めていたふたつの主流について説明しなければならない。つまり、ボストン派とニューヨーク派のことだ。ボストン派は基本的に民族音楽に近いもので、古いブルースやカントリー・ミュージックブルーグラスといった伝統的な音楽をいかによみがえらせるかということに興味を持っていた。たとえばエリック・フォン・シュミットや、クエスキン・ジャグ・バンドを結成したジェフ・マルダー、ジム・クエスキン、ビル・キース、ジム・ルーニーといった人たちだ。

 反対にニューヨーク派は政治色が強かった。ニューヨーク派は、50年代に人気を博したピート・シーガーやザ・ウィーバーズ、さらに、レッドベリー、ビッグ・ビル・ブルーンジーウディ・ガスリー、シスコ・ヒューストンたちの後を継ぐ、あるいは彼らの影響を受けて当時のフォーク・シーンに登場してきた人たちだった。

 その違いをもっと漫画的な表現で極端に言うと、ボストン派は、1930年代のミシシッピの農園で歌われていたような黒人たちのサウンドをそのままに再現しようとし、ニューヨーク派は同じ歌を、普通の人がスペイン市民戦争の歌やカウボーイソングを歌うのと同じスタイルで歌おうとしたということだ。つまり、人々の兄弟愛を高め、一般大衆がより歌いやすいようにしたというわけだ。

 言い換えれば、それはピート・シーガーの考え方だった。そして、ボストン派もニューヨーク派も互いにそれぞれの考え方に対して大きな疑問を抱き合っていた。ボストンのコーヒーハウスはまったくニューヨークの人間は受け入れなかった。彼らに対して懐疑的だった。ボストン派はボストンこそフォークミュージックの中心だと感じていた。そのためニューヨークからやってきた若僧、つまりボブ・ディランについても批判の声を投げかけはじめていた。

(略)

 ディランは既にシンガーたちの間でカリスマ性みたいなものを持っていて、ニューヨークでは誰もが知っている人物だった。それに、当時もハーヴァード・スクウェアの女王として君臨していたジョーン・バエズがディランにとても興味があり、彼にいかに夢中になっているかずっと語っていた。

(略)

ディランがベッドの上で〈A Hard Rain's A-Gonna Fall〉 を歌っていた。それを聴いた私は完全に圧倒された。信じられないほど力に満ちた演奏で、それまでの乏しい知識に基づく彼に対する疑念など吹き飛んでしまい、大ファンになってしまった。

(略)

 

 彼に初めて会った時の印象はどんな感じでしたか?

 

 みんなから聞いてる通りだった。背はあまり高くなく、痩せていて、皮肉っぽく、風変わりで、閉鎖的な感じだった。つまり、自分が知らない人間に対してはあまり友好的ではなく、温かくもなく、打ち解けない性格の男だった。

(略)

62年、63年のフェスティヴァルは会場にいた。そして、いつも音響が悪いと感じていた。(略)だから65年のフェスティヴァルの時に「わかった、もし私にステージをまかせてもらえるのなら、今年は絶対いいサウンドを聴かせるぞ」と私は公言し、運営委員会にかけあいに行った。

(略)

[運営委員会]メンバーはピーター・ヤーロー、セオドア・バイケル、アラン・ロマックス[等の](略)フォークミュージックの旧体制の人たちだった。

(略)

64年のフェスティヴァルはディランがニューポートの王だった。私は会場にいなかったが、一言で言えばニューヨーク・フォークシーンの夢を極めたものだった、ということはわかった。ディランはある意味で、彼らの祈りに答えた。マッカーシーに象徴される年代を人々はもがきながら歩んできたが、ようやくウディ・ガスリーの外套を着て、プロテストソングや政治的な主張を持った歌を歌い、ヒットチャートの第1位に曲を送り込む男が現れたというわけだった。そして、何千人という白人の中流階層の若者たちがその夏、南部ミシシッピーの選挙人登録集会に集まり、ヴェトナム戦争に反対し、人種差別に抗議した……実にエキサイティングな時代だった。ディランはその中心にいた。それを目撃し、その中に自分も入って、それに参加するということはすばらしく工キサイティングなことであり、ディランはその旋風となった。

 そして、明らかにディランを真似たようなソニー&シェールの歌う〈I Got You Babe〉、ディラン自身が歌う〈Like A Rolling Stone〉、ザ・バーズの歌う〈Mr. Tambourine Man〉がラジオで流れていた時期に、65年のフォーク・フェスティヴァルが行われた。確実に何かが起こりそうだった。すべてが大きく変わりつつあった。

(略)

フェスティヴァルの開催日までに、古臭い偏狭なフォーク差別主義やねたみは、ディランとビートルズが夏の楽天主義と地平線の彼方に吹き飛ばしてしまっていた。

(略)

ニューポートでのディランに、大きな期待が集まっていた。

(略)

ブルージーンズにワークシャツでハメルンの笛吹きとなるべく大勢を引き連れてフェスティヴァルにやって来た64年とは違い、65年のディランはまるでお忍びといった感じでやって来た。(略)

ニューワース、クーパー、ディランの(略)3人ともブルージーンズではなく、思い出せないような変わったズボンをはいていた。そして、全員がサングラスをかけていた。全体のイメージが何もかも違っていた。彼らはとても排他的で秘密主義だった。

 すべての出演者は、昼間、本会場の周りに何か所か設置されたワークショップと呼ばれる小さなステージで短い演奏をすることになっていた。当然、ディランもソングライターズ・ワークショップで歌うことになっていた。他にもブルース、ブルーグラスバンジョー、カントリー・フィドルといったワークショップがあり、同じ時間にそれぞれの場所で演奏が行われた。そして、昨年、一昨年ともそれぞれのワークショップに観客が適当に分散していた。ところが、65年はソングライターズ・ワークショップに観客がどっと押し寄せ、他のワークショップを圧倒してしまった。その結果、みんなが文句を言いはじめた。「ディランが出演するソングライターズ・ワークショップを中止にしろ。でないと、隣のバンジョー・ワークショプの連中が怒鳴りこんでくるぞ!」(略)

運営委員会の幹部たちは次第に緊張しはじめた。

(略)

彼らはマリファナを吸う連中などに対して、パラノイアのようにまったく否定的だった。そして、すべてに対してとても神経質になっていた。そして、ディランの登場、彼の態度、そしてワークショップで彼が歌った歌など、すべてが彼らの不安を増大させた。

 ディランのマネージャーのアルバートグロスマンは彼らの敵意の的となっていた。彼は幹部連中の間ではまったく人気がなかった。(略)

グロスマンはとてもクールな男で、そのクールさがよけいに人々をいらだたせていた。

 そして、その日の最後のブルース・ワークショップでついに事件が起きた。ピーター・ヤーローは以前からポール・バターフィールド・バンドをフェスティヴァルの出演者に加えるように働きかけていた。(略)

しかし、委員会の中のロマックスは、明らかにバターフィールド・ブルース・バンドの出演に抵抗を示していた。彼は白人がブルースを演奏すること自体に反対を示していた。(略)

何か彼らの望まないものが盛り上がってきており、それが自分たちの利害に反するものだということはわかっていた。

(略)

 バターフィールド・ブルース・バンドのクールさ、ヒップさ、白人若造がサングラスをかけたギャングのような恰好は、明らかに彼らが嫌っていた風潮を作り上げている要素の一部だった。そして、ブルース・ワークショップで彼らを紹介する立場に立たされたロマックスが非常に恩きせがましい言い方で彼らを紹介した。(略)

ロマックスは、グロスマンと口論となった。(略)

大柄なふたりの男が泥の中を転がりながら殴り合いをはじめた。

(略)

[ロマックスは緊急の委員会を招集しグロスマン追放を決定]

理由は、グロスマンが出演者にドラッグを渡していること、アラン・ロマックスを殴ったこと、その他にも周囲にとても悪い影響を振り撒いているというものだった。

(略)

投票権を持たない相談役だったジョージ・ウェインが、ここで口をはさんだ。「(略)もし、グロスマンを追い出すというのなら、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、バフィ・セントメリーも会場からいなくなってもいいという覚悟はできているんでしょうね」と。

(略)

[委員たちは]結局グロスマンの締め出しを諦めたが、もちろん腹の虫はおさまらなかった。

(略)

ディランがこれまでの彼を超える何かをやろうとしているのはわかっていた。噂ではディランはホテルで秘密のリハーサルをしていたということだった。だからこそ、ディランもサウンドチェックが必要だったのだろう……

(略)

ディランはバターフィールド・バンドとキーボードのアル・クーパーと共にやってきた。ぼくたちはステージを彼らの望む通りにセッティングした。それはバターフィールドのセッティングと同じだった。そして、彼らは演奏をはじめた。もちろん、すごい!の一言だった。その場にいた誰もが、これは重大な瞬間だと思った。それは実にエキサイティングな演奏で、疑問の余地などまったくなかった。

(略)

私が「何曲やりますか?」と聞くと、バターフィールド、ブルームフィールド、ディランの3人は互いに顔を見合わせて「そうだなあ、3曲しか覚えてないから、その3曲をやろう」と言った。私が「でも、観客はもっと歌ってほしいと思いますが」と言うと、ディランは「ぼくたちがやれるのはそれで全部だ。だから、それだけしか歌わない」と答えた。彼はかなり不機嫌になっていた。

 とにかく、コンサートははじまった。(略)

〈Maggie's Farm〉の最初の音が掻き鳴らされた。現在の基準からすれば決して大きな音ではなかったが、当時の基準からすると、それまで誰も聴いたことのないような大音響だった。

 ヴォリューム。そう、ヴォリュームが問題だった。歌った歌が問題だったというだけではなく、また、ディランがエレクトリック・バンドと演奏したことが問題だったというだけでなく、実際は、あれは、そう、ヴォリュームがすべてをもたらし、あの伝説化した事件に発展したのだ。この事件全体の中で、私がひとつだけ重要だと思うことは、ミキシングにポール・ロスチャイルドを起用したことだ。彼を起用した結果、古臭い感覚のミキサーに台無しにされることなく、パワーあふれる、大胆なミックスで、本物のロックンロールを聴くことができたのだ。

(略)

ウォール・オブ・サウンドだ。わかるだろう。音が壁のように、観客にものすごいパワーで襲いかかった。本当に座席の背に叩きつけられるような感じだった。(略)

私は「これはすごい」と思いながら、もう夢中で聴いていた。

 するとその時、誰かにひじを引っ張られ「バックステージに行け。話があるってさ」と言われた。私がバックステージに行くと、そこにはシーガーとロマックスがいた。そしてセオドア・バイケルか誰かが叫んだ。「あの音は大きすぎる!もっと小さくしろ! めちゃめちゃに大きすぎる!あんなのは許せない、耐えがたい大きさだ!」と。彼らは明らかに気が動転していた。完全に慌てていた。「でも、私には音量を調節できません。ミキシングは観客席の中央でやってるんです」と言うと、ロマックスが「どうすればそこへ行けるんだ。教えろ。おれが行く!」と言い出した。

[のらりくらり話をかわしていると](略)

彼は「いいか、君が行け、君なら行ける、行き方を知ってるんだから。そこへ行って言うんだ。委員会がヴォリュームを下げることを命合したって」

 私は「OK」と言ってミキシングの場所に行った。(略)その時点では確か2曲目がはじまったところだった。グロスマンとニューワース、ヤーロー、ロスチャイルドはそろってサウンド・デスクの前に座って、にやにやしながら、完全に悦に入っていた。観客も興奮していた。

(略)

ある者はブーイングで、ある者は声をあげていた。どちらなのか、ほとんど区別できなかった。

(略)

私がロマックスのメッセージを伝えると、ピーター・ヤーローは「アラン・ロマックスに言ってくれ」と中指を突き出した。(略)「アランに、フェスティヴァルの委員会の意思は十分にサウンド・ミキシングに伝わっているし、われわれはすべてを完全にコントロールしながら進めている。そして、われわれはヴォリュームは正しいレベルにあると判断していると伝えてくれ」と言った。

 そこで私は再びフェンスを越えてバックステージに戻ったが、その時駐車場の方に向かって小さくなっていくピート・シーガーの背中が見えた。私はロマックスとバイケルに、口から泡を飛ばしながらヤーローの言葉を伝え、ふたりは罵り、歯ぎしりするだけだった。この頃にはほとんどステージは終わりかけていた。そしてヤーローが私の後からバックステージにやってきた。たぶん彼は事前にディランと話しをして、「3曲だけでステージを終わらせるわけにはいかない。後で、アコースティックで何曲かうたわなければならない」と打ち合わせ済みだったのだろう。

(略)

ヤーローがステージに上がろうとしていた時、彼らは急に演奏をやめた。

 すると、ものすごい叫声が観客の中から沸きおこった。(略)私は賛否両論に二分されていたように思った。(略)

ヤーローがステージに上がって、少し戸惑いながら(略)

観客に呼びかけた。「もういいだろう、みんな。ボブ・ディランを聴こうじゃないか。彼にもう一度ここに戻ってもらおうじゃないか!」と。しかし、ボブ・ディランはすでにバックステージにもいなかった。ディランはテントに隠れてしまっていた。(略)

ようやくディランはアコースティック・ギターを抱えてよろめくようにステージに戻り〈Mr. Tambourine Man〉を歌いはじめた。

 彼は2曲歌った。人々からは称賛と歓声が上がった。そして彼の後、サウスカロライナの島から来た黒人のゴスペル・シンガー、ザ・ムーヴィング・スター・シンガーズが堂々としたステージを見せ、小休憩となった。休想の後は(略)

擦り切れた、退屈な、古臭い、いわゆるフォークの、左翼的な、わかると思うが、ああいう歌が最後のピーター・ポール&マリーまで延々と続いた。

(略)

そしてすべてが終わった…(略)

あの事件が起こった時、道が分かれたのだ。 

NASHVILLE SKYLINE

NASHVILLE SKYLINE

  • アーティスト:DYLAN, BOB
  • 発売日: 2004/03/29
  • メディア: CD
 

ディランを撮る 

写真家エリオット・ランディの作品は、ザ・バンドの《The Band》、ヴァン・モリソンの《Moondance》、ボブ・ディランの《Nashville Skyline》のアルバムカバーで有名だ。(略)

 

《Nashville Skyline》の写真は4日間くらいで、たぶん違ったショットを2回に分けて撮ったと思う。(略)コンセプトが決まっていなかったので、ただシャッターを切った。それがうまくいった!(略)

彼は写真を撮られるのが不快な様子で、ぼくも彼を撮るのが不快で、互いにそれが作用し合っていた。それでもひたすら我慢強く作業を続けた結果、最高にすばらしい瞬間を撮ることができた。その時撮った一連の写真はどれも退屈で馬鹿みたいだったけど、あの写真だけは魔術のように際立っていた。

 あの写真を撮ったいきさつを教えてもらえますか。

 ある午後、ぼくは彼の家へ行き、家の前や裏で写真を撮り、その後ぶらぶらと歩き回っていたんだ。彼の家の裏に広がる森を抜けて歩いていると、ちょうど雨が振り出し、地面に水たまりができた。……それに《Nashville Skyline》で彼が着ているジャケットは、《Blonde On Blonde》と《John Wesley Harding》で着ていたものと同じで、彼が脱ごうとしている帽子も《John Wesley Harding》と同じものだった。彼がいつも持っていたかったちょっとしたお守りのようなものじゃないかなとぼくは想像した。

(略)

家を出る時彼が「この帽子を持っていこう、前のアルバムでもかぶっていたんだ」と言ってたから。その時彼がふと思いついてぼくに言った。「下から撮ってくれないか」と。ぼくが屈み込もうと地面を見ると(略)

ぬかるみが目に入ったが、気にもとめずに低い姿勢をとった。(略)これだと思うアングルを見つけた。その時、彼が「この帽子をかぶった方がいいと思うか?」とぼくに聞いた。ぼくは写真を撮り続けながら「わからない」と答えた。彼はクスリを飲んでいたので笑い続けていた。わかるだろう。だからまた、繰り返し「この間の抜けた帽子をかぶった方がいいかな?」と言った。だから、ぼくたちは帽子について冗談を言い合っているような感じだったんだ。

 私がこの写真を見た時、彼がハローと挨拶をしているように見えたのですが。

 あの写真は彼の自信に満ちた笑顔なんだ。とてもいい表情で、にこやかに笑って、彼の本能があふれている。ぼくたちは別に何も考えてはいなかった。ただおもしろがってただけなんだ。出来上がった写真を見ると、すごくいい写真だった。写真に写っている彼は実に愛すべき男で、そう写真全体に愛が輝いているようだった。興味深いことは、出来上がった一連の写真を見ながら、彼があの写真を選んだことだ。彼はあの写真を見た瞬間「これにしよう!」と言った。

(略)

ぼくは自分が有名になりそうだと初めてわかったのは、《Music From Big Pink》のアルバムでディランの名前の隣にぼくの名前が載ることを知った時だった。ディランがカバーの絵を描いて、ぼくの写真がジャケットの内側に使われるということだった。つまり、アルバムのクレジットに書かれたディランの名前をみんなが見るだろう、そしてその隣にはぼくの名前がクレジットされているんだと思った。しかし、ぼくたちの名前がよく似ていたので、アルファベットを入れ換えただけだったから、みんなぼくという人物は実在してなくて、ディランの変名だとおもってしまった!

 あなたは彼と彼の子供たちの写真も撮っていますね。(略)

 あれはまったく個人的な写真なんだ。(略)彼はウッドストックで初めて住んだ古いバードクリフの家から引っ越して、もっと大きな、日当たりのよい家を手にれた。そして、彼はぼくに自分の絵を写真に撮ってほしいと言ってきた。(略)

彼から撮影を頼まれない限り、彼の家にカメラを持って行くことはなかった。ぼくは彼に撮影を押しつけはしなかった。(略)

いつも彼の要請で撮影していた。ぼくは人物写真を撮るのが恥ずかしかった。彼らのプライヴァシーに干渉したくはなかった。(略)

彼はカメラに興味を持っていたけれど、あまりうまくはなかった。でも彼は画家としては実にすばらしかった。本当に、また、優れた彫刻家でもあった。

(略)

[《Music From Big Pink》、ジャケ写ではたいしたことないが]オリジナルには肝をつぶしたよ。(略)《Self Portrait》のジャケットのオリジナルもそうだった。彼の画家としての腕は見事で、ヴァン・ゴッホに似ていた。同じような筆のタッチだった。

次回に続く。