ボブ・ディラン 指名手配 その5

前回の続き。 

 

ジョエル・バーンスタイン

 ジョエル・バーンスタインは写真家、ギター調弦師、ミュージシャンだ。(略)

ニール・ヤングジョニ・ミッチェル、そして最近ではプリンス(略)そして、もちろんボブ・ディランとも深く関わっていた。

(略)

 彼はすばらしい小型のギブソン・ギターも持っていた。それは古いギターだった。彼はある日リハーサルにやってきて、そのギターで1曲歌った後、それを置き、椅子に立てかけたままどっかに行ってしまった。椅子は宴会場のベランダにあって、日差しが当たっていた。ギター係として気になったぼくは、そのギターを中に移し、調弦し直し、本来のギターを置くスタンドに戻しておいた。数時間後にボブが戻ってきて言った。「ジョエル、頼みたいことがあるんだけどきいてくれるかい?」と。「もちろん、ボブ」とぼくは答えた。彼は「この次ぼくがギターをどこかに置いたら、動かさないでそのままにしておいてくれないか? 君があちこちに動かすので、ぼくはとても混乱するんだ」と言った。これが、ぼくがボブと交わした最初の会話だった。彼の変な論理でまず洗礼を受けたってわけだ。

 彼は、その後すぐに今度は今までぼくが見たこともないギターを持ってきた。それは古いマーティンの0シリーズか00シリーズのギターで、彼のサインが書かれていた。彼はそのギターをコンサートで一度も使ったことはなかった。弦を長い間、おそらく1年は張り替えてないことは一目瞭然で、完全に駄目になっていた。だからごく自然にぼくはそのギターの弦を張り替えた。するとほんの少しして彼が戻ってきて言った。「ジョエル? 古い弦をどうしたんだい? ぼくはあのサウンドが好きだったんだ! 返してくれる? ギターに張り戻してくれるかい?」と。ぼくは「えっ、そんな!できません、ボブ。でもこの新しく張った弦を古いのと同じくらいに何とか汚してみます」と答えた。事実、彼のギターケースには、こうした古い弦がいくつも大事そうに包んでしまってあった。普通の人なら二度と使いたくないような代物だったが。それは彼のかつてのフォークの時代、新しい弦を買う余裕のなかった頃への彼の思い入れのようにぼくは思った。

(略)

彼がぼくに対して「ハーイ」とか「元気かい」とか声をかけたり、普通に接してくれるようになったのは、ツアーも終わりかけた頃だった。実際、あれはいい訓練になったよ。ぼくは現在プリンスといっしょに仕事をしてるので、あの時の経験が大いに役立ってる。プリンスもまた、とても感情の激しい人間で、表情だけで人と多くをコミュニケートして、ほとんどしゃべらないのに、物事の完璧さを求める人間だから。

ボブがやって来た夜 レイモンド・フォイ

 ある日の深夜、わたしはアレン・ギンズバーグ、そして著名な民族音楽学者であり民俗学者でもあるハリー・スミスとともに、東12番ストリートにあるアレンのアパートメントにいた。

(略)

ボブ・ディランからの電話だった。そっちへ行って新しいアルバムのテープを聞かせてもいいか?もちろんいいよ。アレンはそう答えて、呼鈴がこわれているから通りから声をかけてくれといって住所をくりかえした。

(略)

 ディランは半ダースのビールにかかえていた。口をひらかず目だけでものを言う美しい黒人の中年の女性がいっしょだった。ディランはブラック・ジーンズにバイク・ブーツをはき、黒のベストを着ていた。半分しかボタンをとめていないシャツが、贅肉のついた腹を目立たせていた。アレンはめざとくそれをひやかした。ディランはそれを無視することに決め込んだ。指なしのバイク用の手袋、白髪のまじった髪とひげ、長くのばした爪がニコチンで黄色く染まった指。むさくるしくて、だらしがなくて、とても落ちつきのない姿が、歩きまわってアパートの部屋をながめまわしていた。10年前、彼が『レナルド&クララ』の撮影クルーをつれてきて、公開前の一挙上映試写をやったのも、この部屋だった。

(略)

 「それでテープはどこ?」アレンは興奮して訊いた。ディランはシャツのポケットに手を入れ、プラスチック・ケースに入ったカセットをとりだした。みんなでリヴィングルームに落ちつき、ディランが低いソファに寝そべったあと、アレンがテープをかけた。「タイトルのいいアイデアを教えてもらえないと思ってるんだよ」ディランがいった。「いままでアルバムのタイトルで迷ったことはなかった。いつも、すぐに浮かんできた」

 バンドがにぎやかに〈Tight Connection〉をはじめた。(略)「ことばがわからないよ」アレンが文句をいった。「どういう歌詞なんだ?」アレンはディランに質問した。「ちゃんと聴かなきゃだめだ」ディランが怒った声でいった。アランは首をふり「ちゃんと聴いてるよ。ことばが聞きとれないんだ。教えてくれないか」といった。この時には、ディランもあきらかに動揺していた。「すまないけど、聞こえないんだよ」アレンがくりかえした。もう一度〈Tight Connection〉をかけなおし、ディランは苦痛の表情を浮かべながら、アレンに歌詞を教えた。困っているといってもよい顔だった。

(略)

 もう一度、ギンズバーグは宗教的な意味がこめられていると感じた所で、意見を表明した。「なるほど」皮肉をこめた言いかたで、アレンは続けた。「きみはいまだに、エホヴァの審判にぼくたちの運命が握られていると考えているわけだ!」と。ディランはアレンの二倍の皮肉をこめて「あんたは神がわかっちゃいない」とやりかえした。「そうさ、まだ神とやらに会ったことがないんでね」と言って、アレンはその話題を終わりにした。ディランは、二本目のビールを開けた。

(略)

メロディがあらわなままの、よけいなものも飾りもいっさいない基本要素だけで構成された〈Dark Eyes)がはじまると、緊張はさらに高まった。視線をそらし、神経質に何度も座りかたを変えるディランの側で、わたしは初めて〈Dark Eyes〉を聴いた。人生に一度あるかないかのすごい経験だ。そして自分のむきだしの心をこんなふうにさらけだすのが彼にとって、とてもたいへんなこと、とても苦しいことであるのを強く感じた。テープが終わったあと、だれもが自分の足元をみつめ、長いあいだ黙っていた。

 「どういうアルバム・タイトルを考えているんだ!」ギンズバークがやっと口を開いた。「エンパイア・バーレスク」とディランはどちらかといえば強い調子で答えた。アレンはうなずいた。「ニューヨークに出てきたころよく通ったバーレスク・クラブの名前だ。アランシー・ストリートにあったんだ」とディランは、あきらかな政治的な意味をはぐらかすかのように、自分からそう説明した。

(略)

「いいね。いいタイトルだと思うよ」とギンズバーグが答えた。ディランはおどろいたようだったが、やがて自分の直感がまちがっていなかったのをかすかに喜んでいるように見えた。この件については、これ以上の話はなかった。(略)

 「いま、ハリー・スミスといっしょに暮らしているんだ」アレンが自慢するかのようにいった。ディランはそれをほんとうにすごいことだと思っている様子だった。「ハリー・スミス」彼はゆっくりとその名をくりかえした。「前から会ってみたいと思っていたんだ」「よんでくるよ」アレンがそう言って部屋を出ていった。しかし寝るつもりでいたハリーは、ベッドから出るのを拒否した。アレンはたばこをくれとも言ってみたが、それもおなじように断られた。アレンがもどってハリーは起きてこないというと、ディランはがっかりするのと同時に、感心しているようだった。

 「わたしがいまやっているものを見せよう」とアレンが誇らしげに言って、わたしたちはみんなでキッチンに行った。鉄道のブレーキ係ハンドブックをポケットに入れ、ニューヨーク特有の非常階段に立つケルアックの横向きの写真を、アレンがディランにわたした。「あんたがこの写真を撮ったって?」とディランは信じられない様子でいった。「この写真は長いあいだ見てきた。でも、あんたが撮ったなんて考えもしなかった。こっちもいい写真だ」とアイランは新しいプリントをつぎつぎにながめはじめた。「そうだ、いつかぼくのアルバムのジャケットの写真を取ってくれなくてはいけないね」「それはいい!」アレンがそう言ってテープを指さした。「そのジャケットはどうだ?」「だめだよ。これはもう終わってしまっている。次のならいい」とディランはそう約束した。

(略)

 ディランが突然、熱のこもった声で言った。「いいことを思いついた。写真をまとめて送ってくれたら、ぼくがキャプションを書く。いっしょにこの本がつくれるよ!」と。アレンはおどろいたようだった。アレンはディランの提案に多少めんくらいながら「ああ、送るよ」と言った。「そうだよ、ぼくが写真にちょっとしたストーリーをつけることにするよ」。(一週間後、アレンはディランのオフィスに電話をしてその件を打ちあわせた。「写真をおかえしできなくなるかもしれませんが、それでもいいですか?」とディランの秘書が言った。アレンは考えた末にロバート・フランクの忠告をあおぐことにした。「いいじゃないか、やってみるだけの価値はあるよ」とフランクは答えた。数か月後、アレンはディランのオフィスへ行き、写真を返却してもらった。包みの封はあけられていなかった)。

(略)

 アレンは、その夏、ボウルダーのナロパ・インスティテュートでソングライティングを教えないかと、ディランを誘った。ディランはその話にのらずに歩きだし、キッチンの反対側にあるアレンのオフィスへ入った。彼は机を見て「ここで詩をつくるんだね」と言った。「いや、ほとんどの詩はノートに書いてつくるんだ。ここはそれをタイプする場所だよ」。ディランは壁に並んだ本を見た。「まだバローズに会ってる?」「来週、ボウルダーで会うことになっている」とアレンが答えた。「では、言ってくれないか……ぼくが彼の作品を読んでるって」とディランは言った。「それから、彼がいっていることはすべて正しいと思ってるって」

 午前2時半ごろ、ディランは帰っていった。(略)

エリック・クラプトン 1985年

 ふたりが初めて会ったのは、1965年5月のジョン・メイオールのレコーディング・セッションですね。(略)

セッションの前にボブのコンサートを見ていたんですか?

(略)

 見たことはなかった。まったく興味がなかった。実際、あの時には彼を尊敬する気持ちなどなかった。あの人はただのフォーク・ミュージシャンで、ぼくはブルース・ミュージシャンだった。ふたりはまったく違う世界にいた。

 では、いつからボブの音楽に特別の思いを感じるようになったのですか?

 ぼくがチェルシーに住んでいるころに、ボブにのめりこんだのだと思う。友だちがいつも《Blonde on Blonde》を聴いていたから。そのレコードから、すごく力強いものが聴こえた。彼が真の意味でのジャンルを越えたものをつくっているのがわかった。ロックンロールをやるのは彼にはとてもむずかしいことだった。でも、それはとても強力だった。そこには何かあるぞと気づきはじめた。だが彼に特別のものを感じたのは、デラニー・アンド・ボニーのツアー中だったと思う。あの時、本当の意味での出会いがあった。「すぐ側にいたのではないのに、たがいの目があって」、ふたりがおなじ魂を持っていることがわかったというような感じだ。わかるだろう?

 どういうことでしょう。ミュージシャンとしてということですか?

 もっと深い意味だよ。(略)(低い声で)それよりずっともっと深い意味だ。

 あなたはワイト島には行ったのですか?

 行ったよ。ボブはハンク・ウィリアムズだった。(略)あれがボブのやりかたなんだ。彼はほんとうにすごい。何でもすっかり変えてしまう。ブルースの声で歌っていたのに、声を変えたと思ったら、今度は白いスーツを着たカントリー・アンド・ウェスタンのシンガーになっていた。彼はハンク・ウィリアムズだった。《Nashville Skyline》の感じだった。わかるだろう。《Nashville Skyline》をつくった時、彼はとても強力なものを探りあてた。

(略)

 それからしばらくして、ボブはあなたに〈Sign Language〉を進呈したのですね。

 そう、あれはふたりでつくった歌だ。(略)

ぼくがコードをつけて、彼が歌詞を書いた。ぼくが《No Reason To Cry》というアルバムを作っている時だ。ボブが遊びに来たんだ。カリフォルニアのシャングリラに。シャングリラはスタジオで、前は学校、その前は売春宿だったところだよ。ボブはその庭のまんなかのテントのなかで暮らしていた。そこからときどきスタジオに顔を出して、何をやっているかを見たり、ぼくをつかまえたりした。

(略)

 『ラスト・ワルツ』はザ・バンドの特別なコンサートだったのに、ボブが中心人物になっしまったように思えますが…

(略)そう、たしかに、ボブとヴァン・モリスンがあのコンサートを自分たちのものにしてしまった。ボブは明日だって、いつだって、どこだって、ステージに出て行ける……ああいうカリスマを持った人はほとんどいない。ライヴ・エイドの最後をだれでしめくくるかを考えても、そうなんだ。あの数週間前にだれかに「きみならだれを選ぶか?」ときかれて、ぼくは言ったんだ。ほかにはいない。ディランしかいない。絶対にディランだって。

 でも、大方の人はスプリングスティーンだと言ったでしょうね。

 スプリングスティーンはここ、5、6年のことだ。20年、30年という単位で考えなければいけない。

 わたしもおなじ考えですが、いまはほとんどの人がスプリングスティーンをトップと考えていると思いますよ。

 (首をふりながら)ばかばかしい考えだ。スプリングスティーンは、実のところロックンロール版のドノヴァンにすぎない。

 あなたは「ほかのだれが最後をしめくくれるか」と言いましたが、ほとんどの人がライヴ・エイドのホブの演奏には白けていました。

 ボブが混乱して目茶滅茶だったからね。ひどいあつかいをうけたんだ。ひとりで出たほうがよかった。それに、あの幕のうしろでは、ボブの歌がはじまるその時まで、〈We Are The World〉用にフル・オーケストラのセッティングがおこなわれていた。そんなことをやっている前に出ていくなんて、ボブはつらかったと思うよ、おまけにロニーとキースが直前になってやってきて、「ぼくたちもいっしょにやってもいいかい、ボブ?」なんて言って、ボブはやさしいから、「もちろんいいよ」ということになって、それでふたりが出ていって目茶苦茶にした。目茶苦茶にしたのはあのふたりだとぼくは思う。ボブが出ていって〈Masters Of War〉か何かを歌ったら、ひとりでだよ、コンサートをしめくくるのにふさわしかった。なのに、助けにならないふたりがくっついていた。ふたりはちゃんとやれなかったんだ。長い一日だった。ふたりともストーンして、頭に来て、夜がだんだん更けていった。大きなプレッシャーを感じていた。ひとりでやったほうがよかったんだ。

(略)

 彼の歌詞や詩についてはよく知られていますが、音楽についてはどうなんでしょう?みんなはあまり評価していないようですが……

 〈Lay Lady Lay〉はどうなんだ?あの歌をカヴァーできる人がいるだろうか?(略)

いまだって、ボブのバラッドは最高だ。"If you're traveling  in the North country fair"もそうだ。つまり、ここに(胸をさわって)ズンとこない彼のバラッドがあるなら、言ってみてくれということだ。彼は本当に偉大なソングライターだ。《Nashville Skyline》は重要なアルバムだよ。《John Wesley Harding》もそうだ。

(略)

 [ブートレグの話から]

 ボブの作品のなかには、60年代につくられて20年たったいまも、すばらしいしものがいくつかありますね。

 そう、ぼくもだれにも聴かせない、ぼくだけのものを持っている。ボブにとってのベースメント・テープスのように、ぼくのとても個人的なものなんだ。コレクションのなかに"I see my light come shining”のオリジナル・ヴァージョンもあるが、おそらく公開すべきものではないだろう。それを人に聴かせたくないというのもミュージシャンのプライヴァシーの一部だよ。(略)

これはぼくの私生活だ、だれにも聴いてほしくない、どんなにみんなが聴きたがっていてもだめだ。ぼくが死んでいなくなったら全部が発表されるだろう。でも生きているあいだはだめだ、すごくいやなことなんだ。

 しかし、あなたやボブのような人は、ほとんど公的な人間になってしまっています。どういうことかわかりますよね?(略)

ロバート・ジョンスンの録音作品を新しくみつけたとしたら、聴きたいと思うでしょう、ちがいますか?

 だが、ロバート・ジョンスンは死んでるじゃないか。つまりね、自分がつくったたくさんのアウトテイクを人が聴いていることを知ったら、ロバート・ジョンスンはどんな気がしたろうか、ということだよ。ロバート・ジョンスンは、いつも誇りを持てる仕事をしようとしていた。完璧なものをつくろうとした(略)

一回目のテイク……だめだ、うまくいかなかった。じゃ二回目のテイクだ…だから一回目のテイクは二度と聴きたくない。だれにも聴いてもらいたくない。

 わかります。それでもわたしはそれを聴きたいですよ。

 (笑って)わかってるって!!ぼくだってそうなんだよ。

(略)

[あなたの歌詞はとても個人的だが……という話から]

 でも長いあいだに歌をつくる技術を身につけたから、どんなことについても歌をつくれるんじゃないですか?

 技術は、職人がいなければ成立しない。職人が自分を投入しないなら、そこには技術は存在しない。だからぼくが歌をつくりたいと感じなければ、技術とか方法といったものは存在しないんだ。いつだって一からはじめるんだ。ギターを一音弾くたびに、第二弦はどこだ第三弦はどこだって確認しなくてはならないんだ。信じられないかもしれないが、そういうものだよ。

(略)

 1978年にボブはなぜあなたに曲を進呈したのでしょう?〈If I Don't Be There By Morning〉のことですが。

 ただぼくにそのカセットをくれたんだ……ぼくは近くにレースコースのあるニュルブルクリンクにいた。ボブはヘレナ・スプリングスという女性に夢中になっていた。ふたりで曲をつくっていて、ボブはそれをとても誇りに思っていたから、ぼくにその曲をくれたんだと思う……まだふたりが歌っているカセットを持っているよ。きみは持っている?

 いいえ、よかったら、エリック、あとで聞かせてください。

 これもブートレグだよね。ぼくは売りものではないコピーを持っている。ときどき気持ちが落ちこんだとき、それを聴くと、ほかのだれもそれを持ってないことを知っているから元気が出るんだよ。これはぼくへの贈りものなんだとね。(略)

[後にスタジオで録音した〈If I Don't Be There By Morning〉数曲を]

ボブが、それでいつ完成するのかっていったんだよ(笑い)。それでぼくは、彼はやっぱりぼくの大先生だなと思った。いまでも大先生だし、これからだってこうなんだ。あの人は大先生なんだ。

 ボブはどうしてあなたに歌を贈ったんでしょうね?

 さあ、ぼくにはわからない。きっと感じたのだと思うよ……ぼくがいいスピリットを持っていて、歌を正しく処理できるんじゃないかと。だけど、彼の目には、ぼくはそうできなかったと見えたのかもしれない。

(略)

 ビッグ・ピンクはどんな感じでしたか?どんな雰囲気でしたか?

 いなかだよ。(略)リチャード・マニュエルがぼくの飲み友だちだったんだ。ボブはおだやかな家庭中心の生活をしていた。ヴァン・モリスンも来ていたよ。

 ボブといっしょに演奏したんですか?

 いや、でもザ・バンドとはジャムをやった。ザ・バンドは最高だった。彼らは、とくにベースメント・テープスをやって理解する力を深めていた。ザ・バンドはボブをこわがっていなかった。おそれおののくなんてことはなかった。

 ボーン・アゲインの時期にはおどろきましたか?

 いや。もともとぼくはボブは宗教的な人だと思っていた。昔から宗教心があって、倫理的で博愛主義的なタイプだった。あのボーン・アゲインについても、彼がひとつのことに傾きすぎていただけなんだと思う。ボブはいつだって変わりつづけている。大酒飲みの時もあるし、酒を断っている時もある。ドープにのめりこんでいる時も、やめている時もある。彼なら、車いっぱいに乗ったメキシコ人たちといっしょに消えてしまったっておかしくない。どんなことをしたって、それで終わりではないんだよ。

 次回に続く。