ボブ・ディラン 指名手配 その2

 前回の続き。

 

 

回想  『ドント・ルック・バック』

 D・A・ペネンベイカーは著名なドキュメンタリー映画作家のひとりだ。彼は1965年にボブ・ディランのイギリス・ツアーを自ら制作した映画『ドント・ルック・バック』に収め、1966年にはディランが制作した映画『イート・ザ・ドキュメント』のためにヨーロッパ・ツアーのボブを撮影している。

(略)

[『ドント・ルック・バック』製作のきっかけは?]

 アルバートグロスマンとディランは、サラがライフ誌でぼくたちといっしょに働いていた関係で、ぼくたちにアプローチをしてきたのだ。(略)

ぼくは資金の問題が持ち上がってくるとは思わなかった。彼はおそらく、ぼくたちのサイドでディランの映画製作費用を集められると踏んでいたらしい。ぼくたちも最初はできると思っていた。だからコロンビア・レコーズに行って「資金を用立てる用意はあるのかい?」と尋ねた時、「発売予定のディランのレコードが2枚ほどある。それを担当する男に会わせよう」と言われたのには多少驚いた。下の階に連れて行かれて担当者に会い、ぼくは「この映画で儲けようと思っているわけではない。でも、経費――イギリス往復費用――だけでも払ってもらえれば、フィルムとその他一切を用立てて映画を完成させる。映画が完成すれば最終的には経費も賄えるだろう。5000ドル出してくれれば映画の権利の半分を提供してもいい」と説明した。しかし、彼らの答えはノーだった。

 なかなか売るのが大変だとわかったぼくは、『60 Minutes』というTV番組を制作しようとしていた友人に声をかけた。アイク・クライネーマンというその友人は「わかった、(フィルムの)何フィートかぼくが買おう、500ドルか600ドル分。もしいいものだったらな」と言った。ぼくは「それはいい」と答えたが、ここでも映画を売るのは容易じゃないことを思いしらされた。そしてその次も、ぼくらのフィルムはどれも簡単には売れなかった。

 

 それであなたがすべての製作費用を負担したのですか?

 

 映画にかかった費用はすべてぼくたちが用立てた。アルバートグロスマンはまったく出さなかった。

(略)

最初に入ってくるだろう10万ドルくらいから埋め合わせればいいという考えで、映画制作の契約を決めた。何かの紙切れ、たしかどこかのメニューの下に書いて、握手をして終わったんだ。正式な交渉の場はなかったと思う。ディランとぼくは握手をして、それだけだった。

 後でこの映画が劇場公開するとわかった時、グロスマンは劇場公開されるとはまったく考えてなかったようだった。大金を手に入れられるかもしもれないと考えていた彼は、別にワーナー映画にディランの映画を作らせようと思っていたらしいんだが、ディランはそれを望んでいなかったようだった。とにかく、グロスマンはぼくのフィルムを正式な映画として考えてなかったようだ。正式な映画と考えるにはあまりにもひどいホーム・ムービー的だと考えていたんだ。しかし、映画公開のポスターを見た彼は不満そうな顔で事務所に入ってきて「あれはすばらしいポスターだが、何をやろうというんだ?」と言った。ぼくは「ああ、アルバート、もちろん公開するんだ。了解済みのことだし、パートナーじゃないか。今さらやめろと言っても無理だよ」と答えた。すると彼は「ああ、でもきみが自分で公開するとは考えていなかった。ぼくに配給させてくれるものと思っていた」と言うんだ。ぼくは「それはできないよ」と言い返した。グロスマンは、『ドント・ルック・バック』がディランをつぶしてしまうと感じたんだろう。

 

 ディランが映画を撮ろうと思った動機は何だったと思いますか?

 

 ぼくにはわからない。それにそんなことを探っても何の意味もないと思う。ジェーン・フォンダケネディといった連中がぼくにフィルムを撮らせたのは、画像の中に何かおもしろいものが見つかると思ったからだろう。ディランも同じじゃないかな。彼は、ぼくたちの映画を2本ほど見ていて、それが他とは違って、一風変わっているってことを少し知っていたんだ。(略)

彼は何もかも新しい方法でやりたかったんだ。

(略)

それに(略)この映画はそんなに金がかからないと判断したのだろう。実際、彼は何の負担もしなくてよかったんだから。さらに、グロスマンがディランにこの映画製作の契約をすれば、フィルムの一部を海外での宣伝に使えると説明したのだと思う。

(略)

歌詞を書いたプラカードを持って撮影した場面は、〈Subterranean Homesick Blues〉のテレビ・プロモーション用だった。プラカードを持つことはディランのアイデアで、ロンドン滞在中に3回撮り直した。最初は公園で、次は屋上で、最後はサヴォイ・ホテルの裏通りで撮影した。最近そこを訪れたが、そこは依然としてうす汚い通りで、まだあの時と同じ足場も残っていた!とにかく、公園で撮影した時は、撮影の途中で逮捕されたんだ。フィルムにも、ちょうどディランが最後のカードを掲げようとしていた時に警官がやってきて捕えられたのが映っている

(略)

プラカードを書くのはみんなが手伝ってくれた。ジョーン・バエズも書いてくれたし、ドノヴァンは何枚も書いてくれた。ドノヴァンは画家としての才能もあると思わないか?

(略)

最後のシーンは、ぼくにとっては信じられないほど完璧なシーンのひとつだ。ミスなんか許されない瞬間だった。現場にいて、周囲の動いているすべてのものを撮らなけりゃならない。どうしてとか、どうやってなんて考えもしないで、ただ撮るだけだ。すべて自分だけの責任だった。あの最後のシーンは、アルバート・ホールに向かうタクシーの中でフレッドがもうひとりのフォークシンガー、ドノヴァンについて話し始めた時だ。ボブが「彼のやってることはどうなんだい?」と尋ねると、フレッドはドノヴァンをこき下ろした。しかしディランは一言も言わず、ただ窓の外を見ているだけだった。

 いいだろう!実にいい!たった1ショットだけだけどね。何も編集をする必要などないんだ。それがすべてを語ってくれている。ああいうのがぼくにとってドキュメンタリー・フィルムを撮影している時の最高の瞬間なんだ。

(略)

 

 アルバートグロスマンがティト・バーンズと交渉しているシーンは、彼らの仕事の現場がよくわかりますね。

 

 ふたりともそんな風には思っていない!しばらく後にアルバートは、クラブなんかであのシーンの彼がいかに下品に見えるかと女の子たちに言い寄られてもうこりごりだと言ってたよ。(略)一方、ティトはぼくに手紙をくれて、「1分間もアルバートといっしょに写ってた」自分が映画スターみたいに思えたって書いてよこした。役者に演技させても、なかなかあれ以上愉快に演じられないだろう。

(略)

 

 映画全体で、ディランがカメラを直視したのはただ1回だと思うのですが……

 

 みんなでホテルマンを部屋から追い出すところかい?

 

 ええ、アシスタントに、にやけたマネージャーのところへ行けと言ってる場面です。

 

 にやけたマネージャーね、そいつはいい!実際はもう一か所あるんだ。ディランがアラン・プライスとプレイしてるときだ。ディランがアニマルズとこれからもプレイするのかとアランに聞いた場面だ。アランが「いや、あれはたまたまだったんだ」と答えると、ディランはブルースのコードを弾き始めた。その直後、ディランはぼくが撮影しているのを怒ったような目で見たんだ。でもぼくは少しもかまわなかった。彼の視線をまともにとらえた場面のひとつだった。そして彼は視線をそらした。でもディランが時折見せる不快な表情をとらえたと思う。

ドノヴァン

 映画の中でドノヴァンを待っていた時の緊張は、あれは本物だったのですか?

 

 ああ、ドノヴァンが何者かぼくたちは知らなかった。ディランがしかけた冗談のひとつだったんだ。アルバートグロスマンは「今やビートルズは終わり、代わって新しいフォークシンガーが登場した。ドノヴァンだ!」と言ってたからね。

(略)

 ドノヴァンがドアをノックして入ってきた。彼はまだ少年だった。ぼくたち3人はテーブルを囲んでたんだけど、誰がディランかわからない。それで彼はにが笑いした。

(略)

[あなたに聴いてもらいたくて作ってきたとドノヴァンが歌い出した歌がモロ〈Mr. Tambourine Man〉のメロディーで、2番の途中でディランが笑いだしてしまう]

「まあ、そのメロディーは……確かに、ぼくのクレジットになっているメロディー全部をぼくが書いたわけじゃないが、でもそのメロディーはぼくが本当に書いたんだ!」と。するとドノヴァンはびっくりして言った。「えっ、知らなかった! 古いフォークソングだと思っていました!」と。ディランは「続けて、いいよ続けてくれ!」と言ったけれど、さすがにドノヴァンは「いいえ、とんでもない。これ以上歌えません」とその曲を止めた。彼は二度とあの曲を歌わなかったとぼくは思う。

ジョーン・バエズ

 当時のジョーン・バエズとの関係についてお聞きしてもいいですか?バエズ自身のコメントとして、彼女はとても疎外されていて、ディランからもひどい対応をされたと言っていますし、それに映画の中でも、例えばディランとニューワースがシースルーのブラウスを着ている彼女を、そんなもの着るもんじゃないってからかっていますよね。本当に悪意があったわけでもないでしょうが……

 

(略)

かつてナンバー・ワンかナンバー・ツーだった者が4番目か5番目にランクダウンしたとしたら、それは大きな衝撃だろう。つまりそういうことだったんだ。ディランには別の女がいた。サラという女がね。バエズはそれを知ってたんだ。その時期は、彼女の人生にとって苦しい時だったと思う。なぜだかわからないけれど、おそらく感情的に彼女は自分の人生がめちゃめちゃにされたように思っていたんだろう。本当のところ、ディランは彼女をツアーに招かなかったはずなんだが、グロスマンに「いっしょに来れば」と言われてやってきた彼女は、自分が招かざる客であったことに気づいたんだ。それで彼女は傷ついたのさ、つまり、もはや女王様じゃなくなったんだってね。バエズはディランと連れ立っていたかったけど、ディランはかかわりたくないと思ったんだけど、彼女もそれを察していたはずさ。そのことはバエズも気がついたと思う。でもやはり、あの場にいたかったんだろう。なぜって彼女はディランを愛していたからね。それに彼の音楽が彼女にはとてもエキサイティングだったのさ。その時のディランの音楽じゃなくて、これから彼がやろうとしている音楽がね。彼女はきっとそれをわかってたんだろう。彼はすべての古いものから抜け出しそうとしていた。それは彼女もやりたかったことだった。彼女は非常にロックンロールのアルバムをやりたがっていた。ぼくは彼女には同情してたんだ。彼女が好きだったからね。その後、彼女と映画を作ろうとしたけど、誰も興味を示してくれなかった。

 

 私はディランがジョーン・バエズといっしょにホテルの部屋で、ハンク・ウィリアムズの歌を歌っているシーンが好きなんですが、その夜彼はどれくらい歌っていたか覚えていますか?

 

 ああ、かなり歌ったよ。フィルムも相当撮ったんだ。バエズと彼はすごくいいデュエットをやったんだ。それを使おうと思ったんだけど、少し長すぎてね。「いいニュースはゆっくり伝わり、悪いニュースは山火事のように広まる」という歌を知ってるかい? すばらしい歌だったよ。ふたりはそれをいっしょに歌ったんだ。

 

 もしやここに、そのフィルムはありませんよね?

 

 たぶんあるんじゃないかな。ディランも見たし、みんな積み上げてあるよ。もし許可が得られたら喜んで見せてあげたいんだが。

アルバートグロスマン

 アルバートグロスマンは、ずっとぼくのいい友人のひとりで、ぼくはずっとそう思ってるんだ。だから彼が亡くなる数か月前まで、よく彼とを話していた。アルバートがある意味で敵だとかそんなことは思ったこともないし、アルバートとボブの関係が次第に敵対関係になっていたのは知っていたけどね。あれは最悪だった。アルバートはディランの素質をごく初期の頃から見抜いていた数少ない人間のひとりだったし、曖昧な言葉でごまかしたり、変に妥協もしたりせずに、彼とつきあっていた。彼はディランを古臭いテレビのショウ番組に出すことも、コロンビア・レコーズが他のアーティストたちにさせているようなくだらないこともさせなかった。ぼくは、ディラン自身も初期の頃はアルバートのように守ってくれる人が必要だったと思う。そうしなければ、ディランもわき道にそれてしまったかもしれない。まあ、アルバートがいなくても(略)おそらく最終的には有名になったと思うけど。つまり、われわれが知っているような売出し方法ではなく、ディランは自分自身の力で、ディランと同じ立場にいる者がこれまでほとんどできなかったこと、自分を失わずに生き残ることを成し遂げたのだ。

サラについて

彼女はいつも隠れていたいと考えているタイプの女性だった。実際には、彼女とサリー・グロスマンは友だちで、ヴィレッジでいっしょの部屋に住んでいた。それ以前のサラは一時期バニーガールをしていて、ヴィクター・ラウンズと暮らしていた。つまり、彼女はサラ・ラウンズという名前だった。しかし、ディランが彼女を彼からいわば奪ったというわけだ。彼女はとても美しい女性で、目を見張るほどの美人だった。性格はすごく変わっていて、健康食品に凝っていたりして、何か神秘的な生活をしていた。

(略)

サラは見た目はそんな感じだったけれど、内面はとても興味を引かれる女性だった。かなりの間、彼女はぼくたちの仲間に入って雑誌の仕事をしていた。ぼくたちはライフ誌の仕事をしていた。ぼくはダウンタウンにスタジオを持っていて、彼女はアップタウンにある事務所を担当していた。だから1963年の仕事はすべて彼女とぼくがこなしたんだ。それから彼女は仕事をやめ、妊娠して、子供を生んだ。ぼくがライフ誌の仕事を辞めた1964年7月まで彼女がいたかどうかは覚えていない。ぼくは個人的に彼女を雇おうとしたんだ。彼女もライフ誌の仕事を辞めたがっていたから。でもぼくにはその余裕がなかった。それで彼女はいなくなり、ヴィレッジのいわゆる神秘的な人たちの中に入ってしまった。時折会うことはあったけどもう久しく彼女とは会ってない。しかし、彼女はぼくが『ドント・ルック・バック』を最初に見せたひとりだった。その後、本当に長い間会ってない。 

ディランとウォーホル

 ジェラルド・マランガは、60年代中頃のアンディ・ウォーホルのファクトリーにおいて中心的な役割を果たしていた人物だ。

(略)

 イーディ・セジウィックはディランに興味があり、ディランもイーディに関心を示していた。

(略)
彼女は新しいボーイフレンドのディランのために、ボーイフレンドだったアンディと別れたのではない。そういうことではなかった。彼女はとても美人で独自の個性を持っていたが、結局ディランとはいっしょになれなかった。基本的に彼女には才能がなかった。彼女はボブと一緒にレコーディングすることを夢見ていたが、イーディはとてもそんな声ではなく、歌えなかった。彼女はただ何か別の興奮するような出来事を求めていただけだった。彼女とアンディの仲が終わったのは、アンディが彼女に金を与えなかったからだ。

(略)

彼女は自分にはより良い世界があるはずだと考え、また、彼女とディランの間の主なコネクションであったボビー・ニューワースにも励まされて、アンディの元を去った。その後、もちろんディランとの仲も共演も実現せず、結局彼女はボビー・ニューワースのガールフレンドになった。

(略)

 

 イーディとドラッグのことはどうでしょう?

 

 ひどい話だ。イーディ・セジウィックの伝記が出版された時、アンディは気が狂いそうだった。本当にうんざりしていた。イーディがウォーホルにかかわっていた期間、イーディは強いドラッグを常用していなかったし、アンディも同様だった。(略)

ディランとかかわるようになってから、イーディは次々と強いドラッグをやるようになり麻薬に溺れていったのだ。

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ディランのスクリーン・テストはどういうふうに行われたのですか?

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15分か20分くらいの間だった。(略)

3分間、動かずに黙っていただけで、フィルムにすると100フィートだった。ディランはたばこを吸っていた。撮影はボーレックスのカメラで、ディランはサングラスをかけたままカメラを見つめていた。(略)

フィルムは近代美術館 (MOMA)の目録に載っている。私は同じ日に撮影したディランの白黒フィルムの他にカラーフィルムも持っている。メモ用に撮ったフィルムだ。

(略)

 

 シルバー・エルヴィスの絵は、ディランがスクリーン・テストに応じた報酬だったのですか?

 

 ディランは以前からあの絵が欲しいと言っていた。アンディは少し迷っていたが、あの絵をディランに贈った。おそらく自分の映画に、これもおそらくイーディの相手役として出て欲しいという希望があったからだろう。しかし、もちろん実現しなかった。私はアンディの性格をよく知っていたし、アンディが自分のアートにとても執着する人間だったことを考えると、あの絵をディランに贈ったことはつらかったと思う。

(略)

ボビーとボブがあの絵をステーションワゴンの屋根にくくりつけているのを目撃したんだ。ビニールで包んであったが、絵の上にロープをかけていた。絵がそんなふうに扱われているのを見た時は妙な気分だった。あの絵をあんな風に扱ったのはおそらくディランだけだろう。アンディもまさかディランがあんな風に扱うとは思ってもいなかった。何て言えばいいのか、つまりディランの態度はかなりずうずうしいものだった。

 次回に続く。