ハービー・ハンコック自伝 その6

前回の続き。

ウィントン・マルサリス

[フレディの遅刻癖にうんざりしていた時に、ウィントンを紹介され、フレディとの交代を思いつく]

ロンはVSOPが継承するマイルス・デイヴィスの遺産にこだわりをもっていた。(略)十九歳の若者にその役を任せてもいいのだろうか?トニーはそれほど気にしていなかった。マイルスのバンドに入ったとき、まだ十七歳だったからだろう。

(略)

「聞いてくれ」と私は言った。「おれたちは、やろうと思えば、マイルスの遺産を自分たちだけで守り続けることはできる。だけど、おれたちが死んだら、それも一緒に死んでしまう。若い世代の連中と分かち合ったら、彼らがそれを後世に伝えてくれるんだ」。

(略)

 ロンは理解してくれた。彼はウィントンのレコードを聴いていなかったが「オーケー、ハービー。彼を入れよう」と言った。

(略)

最初のショウからウィントンは圧倒的なプレイを繰り広げた。彼は臆することなくステージ上で私たちと渡り合った。

(略)

 ニューオーリンズで育ったウィントンには多少ショーマンシップがあった。彼はすぐれたプレイヤーだったが、客の拍手を得るためソロの最後にこれ見よがしの派手な装飾フレーズを付け加えた。マイルスはけっしてそんな見せびらかしはやらなかったし、ロンもトニーも私もそんなマイルスに薫陶を受けた。私たちはウィントンのそのようなパフォーマンスが好きではなかった。私は彼が演奏だけに専念してくれればいいと願っていたが、いっぽうで、それは彼が緊張しているからであり、いずれはそんなプレイをやらなくなるだろうとも思っていた。というわけで、マイルスがそうしたように、私は演奏に関してウィントンには何も言わなかった。

 ところがウィントンは、まだ十九歳だというのに、他のミュージシャンを批判するようになった。(略)

インタビューで彼は先輩の偉大なジャズ・ミュージシャンの何人かに関し、否定的な意見を述べた。私は理解できなかった

(略)

私は何度か彼を諭した。「おまえは何を考えているんだ?ジャズはいま難しい時期にある。ファンをつなぎとめなくちゃいけない。だからおれたちは傷つけ合うんじゃなく、助け合わなきゃいけないんだ」。するとウィントンは「ああ、そうだな。悪かった!おれはどうかしていた」と言った。あとで謝るということから考えると、彼は口が滑るのを制御できない性質だったのかもしれない。

(略)

 数年後、ウィントンの言動はさらに過激になった。彼はヴァンクーヴァー国際ジャズ・フェスティヴァルにおいて、客の目の前でマイルスを挑発した。マイルスはバンドを引き連れてステージに登場した。彼の音楽はエレクトリック・サウンドにどっぷり浸かっていた。そのセットの途中、ウィントンが呼ばれてもいないのに、トランペットを手にしてステージに上がった。彼はマイルスに競演を挑もうとしているかのようだった。だがマイルスはそんなことはやりたくなかった。彼はウィントンを追い払おうとしたが、ウィントンがステージから下りなかったのでバンドの演奏を中断させた。

 ウィントンは目覚ましいプレイヤーだったが、そんな競争意識が彼の欠点だった。ごく若いころから、彼は特権を与えられた男のように振る舞った。演奏に専念し、自分がやるべきことをやるだけでは満足しなかった。いつも自分と他人を比較し、自分の基準に合わない演奏をしているプレイヤーをこき下ろした。

 だが、誰にでも欠点はある。正直なところ、私にも多少ウィントンと同じような短所があった。若いころの私はエリート意識に凝り固まっており、トニー・ウィリアムスとマイルスが私の目を開かせてくれるまで、ロック・ミュージックやポップ・ミュージックをばかにしていた。またマイルスから教えられるまで、エレクトリック・ピアノなど見向きもしなかった。

(略)

 あれほど前向きなエネルギーに満ちていながら、なぜウィントンは他人をけなさないではいられなかったのだろうか? それを考えるとき、私の頭には日本にツアーした際に起こった奇妙な出来事が思い浮かぶ。それはウィントンを迎えて行なった二度目のVSOPツアーだった。このときはウェイン・ショーターも参加しており、バンドはクインテット編成だった。ショウが終わったあと、夜遅くに、ホテルの私の部屋にウェインから電話があった。

「あのな、ハービー」と彼は言った。「ウィントンの部屋に行ってみないか。なにか様子がおかしいんだ」。何があったのか訊くと、ウェインは「彼がえらく落ち込んでいるんだ。ちょっと心配なんだよ」と言った。

(略)

部屋の窓が開いているのが目についたので、少し妙に感じた――そんな高層ホテルの窓を開ける者など誰もいない。ウィントンは私たちから離れて窓辺に座った。

「大丈夫かい?」と声をかけたが、彼は黙り込んだまま、私たちを見もせず窓から外を眺めていた。(略)

「おれはあんたのプレイのなかに何かを聴いた、ウェインのプレイにも、ロンやトニーのプレイにも聴いた――おれにはない何かを聴いたんだ」と彼は言った。

(略)

「おれのプレイには何かが欠けているような気がするんだ」と彼は言った。

 ウィントンがステージ上でこれ見よがしのプレイを挿入したくなるのは、彼が感じている欠点を補うためなのだろうかと考えた。それについて彼に訊きたかったが、思いとどまった。そのことについて最後まで彼と話すことはなかった。彼の気持ちを損ねたくなかったからだ。

(略)

「ウィントン、おまえが何を聴いたのか分からないけど」と私は言った。「おまえは立派に演奏している。おまえのプレイには心がこもってるよ」。

(略)

これほど自分に対して不安を抱くとは、この若者の人生に何かそうさせるようなことがあったのだろうかという思いが駆け巡っていた。その不安感の裏返しで、彼は自分の気持ちを盛り上げるため他人の悪口を言っているのだろうか?

 その夜ウィントンに何が起こったのかは、正確には分からなかった。私たちはそれについて二度と話さなかった。彼が弱さをさらけ出すのを目撃したのはそのときだけだったが、それはいまも記憶に残っている。

 そのVSOPツアーについて、もうひとつのエピソードがある。ウィントンは兄のブランフォードを日本に呼ぼうと決めた。(略)もちろんバンドにはすでに偉大なウェイン・ショーターがいた。私たちはツアーの途次にライヴ・アルバムをレコーディングする予定になっていた。ウィントンはレコーディングに際して二曲ブランフォードをフィーチャーするよう強く主張した。

(略)

 あまりにも大胆な提案だった。なにしろ、バンドに加入したばかりの男が史上最高のサックス奏者のひとりに代えて自分の兄弟に演奏させろと言っているのだ。とうぜんながら、バンドの他のメンバーやクルーは、とんでもないアイデアだと言い張った。“ブランフォードがウェインより上手いはずがない! レコードの出来が損なわれる!ウェインの気持ちを傷つける!”

 ウェインにどう思うか訊くと、彼は面白そうにニヤリと笑った。

「よし、ちょっと状況を整理してみよう」と彼は言った。「ウィントンには愛する兄がいて、彼に演奏させたがっている。そしておれは約束どおりのギャラをもらう。レコードにはおれの書いた曲が収録される。おれはそんなに演奏しなくてもいい」。ウェインは無表情な顔で私を見た。「なぜみんなそれがとんでもないアイデアだと言うんだ? おれには分からないな」

(略)

けっきょくブランフォードはアルバムのなかの二曲に参加して演奏した。ウェインはブランフォードに「がんばれよ! 何か訊きたいことがあったら、おれはここにいるからな」と上機嫌で声をかけた。こうしてブランフォードはジャズ・ミュージシャンとしての輝かしいキャリアの第一歩を踏み出した。

 ロックイット

[82年デイヴィッド・ルービンソンが39歳で心臓発作。さらにエムワンディシからVSOPまで立ち会ってきた協力関係にも発展性がなくなり、若い世代の創造性に入り込むため]

私は『ライト・ミー・アップ』のサブ・プロデューサーとしてトニー・メイラントを雇った。

[トニーとデイヴィッドは対立](略)

私はヒートウェイヴのロッド・テンパートンと組んだ。収録曲の大部分は彼が作曲している。(略)

[マイケル・ジャクソンでヒットを生み出していたが]

なぜか結果は芳しくなかった。(略)

ロッドはいい曲を提供してくれたのに、私がうまく曲のイメージを表現できなかったのだろう。

(略)

次のレコードにはもっと大胆な予想外のサウンドを取り入れたかった。(略)

ある日、トニーが「ニューヨークでビル・ラズウェルとマイケル・バインホーンという二人の男がチームを組んで最先端の音楽をやっている」と教えてくれた。

(略)

音楽ジャンルとしては、ラップはまだごく初期の段階にあった。「思い切って、次のレコードで彼らを使ったらどうだろう。きっとクールなものができると思うよ」とトニーは提案した。私は、よし、やってみようと応じた。トニーが電話すると、彼らは私のレコードために二曲分の斬新な面白いアイデアを用意できると言った。

(略)

そのいっぽう、私は名付け子のクリシュナ・ブッカーにどんな音楽を聴いているのかと訊いた。クリシュナはキャノンボール・アダレイのバンドのベーシストだったウォルター・ブッカーの息子であり、ウェイン・ショーターは彼の叔父だった。(略)

「おれが聴いておくべきだと思うものを、何でもいいからテープに入れてくれ。いま若い連中が聴いているような曲をな」(略)

一曲だけ、とても惹きつけられた曲があった。(略)マルコム・マクラーレンの〈バッファロー・ギャルズ〉という曲だ。 (略)

クラッチサウンド(略)によってリズムを創り出すというアイデアを私は気に入った。

(略)

[LAにやってきた]ラズウェルがテープをかけると、驚いたことに(略)スクラッチサウンドだった。私は膝を叩いて「これだ!まさにおれがやりたかったサウンドだよ」と言った。

(略)

『フューチャー・ショック』に入っているサウンドの多くは、シンセサイザー――ほとんどのリスナーはそう思っていた――ではなく、DSTと彼のターンテーブルによって生み出されたものだ。

(略)

[デイヴィッドは新しい音に拒否反応を示したが、前向きにアルバムを売ろうとコロンビア幹部に立ち向かってくれた]

 デイヴィッドによれば、コロンビアは『フューチャー・ショック』の発売をあと一歩で拒否するところだったという。

[実際、販促プライオリティ・リストの上位に置かず、MVは自分で作れと言ってきた。トニーがゴドレイ&クレームの名を挙げ、ポリスのMVを作ってると言った]

「〈アラウンド・ユア・フィンガー〉と〈見つめていたい〉」だ」

「どちらもおれの好きなビデオだ!」と私は言った。それはほんとうだった。私は十三歳になったジェシカの影響で、よくビデオを見るようになっていた。

[MTVが黒人をパージしていることを知っていたので、ケヴィン・ゴドレイに]

「どんなビデオを作るかはすべて君たちに任せる。でも、ひとつだけリクエストがある。おれは黒人臭さを表に出したビデオにしたくない。デュラン・デュランやポリスのビデオのようなものに仕上げたいんだ」(略)

[出来上がったビデオはピンと来なかったがトニーは大喜び。コロンビアの若い社員にも大ウケ]

そのときの私は、たぶん私のアヴァンギャルドな音楽についてよく分からないと感じた人々と同じような気持ちだったのだと思う。みんながあまりに興奮するので、自分だけが仲間外れになったような気がした。

(略)

『フューチャー・ショック』は史上四番目に売れたジャズ・レコードになった。そして〈ロックイット〉の成功がきっかけでヒップホップはメジャーな音楽スタイルになった。皮肉なことに、私は今日に至るもヒップホップ・ミュージックについてあまりよく知らない。扉を開けるのを手助けできたことで私は満足している。

 コカイン

ある日の午後、自宅の階段を下りているとき、奇妙な症状に襲われた。心臓の動悸がやたらに速くなり、めまいがして、それまで感じたことがないほど気分が悪くなった。

(略)

往診してもらった医者[に](略)私は正直に打ち明けた。「コカインのやりすぎかもしれない」。

(略)

私はコカインをやりすぎ、いまや心底から伝えていた。そんな状態になったことなど一度もなかったからだ。

 LAやニューヨークの音楽シーンで、コカインを吸うことは酒を飲むことと同じようにありふれた行為だった。人々の家のコーヒー・テーブルには、まるで前菜のようにコカインが用意されており、バーやクラブでも自由に手に入った。多くのミュージシャンはコカインの吸引をそれほど重大なことだとは考えていなかった。ヘロインはそうではなかった。ヘロインははるかに中毒性が強く、体を蝕んだ。(略)

 私はそれほど大量のコカインはやらなかった。たいていは楽しむために、ときには夜遅くまで起きて作曲することができるように、折にふれて適量をたしなむ程度だった。しかし、その時期の数日間、作曲の締切日が近づいているため、いつもより量が増えていた。(略)

[ノーマン・ジュイソン監督『ソルジャー・ストーリー』のスコアのため]

 自宅のスタジオで何時間も過ごしたが、音楽のアイデアは湧いてこなかった。井戸が枯渇したように感じ、フラストレーションが募った。そして締切日が近づくにつれ、眠気を追い払うため明け方にコカインを吸うようになった。(略)

 ノーマン・ジュイソンや音楽編集者のエルゼ・ブラングステッドに会ったとき、彼らは私の様子がおかしいことに気がついていたと思う。私はコカインの力を借りて目を覚ましていた。問題なのは、そうやって起きていても仕事がはかどらないことだった。コカインをやっているときの私は本来の自分ではなかった――だから曲を書くことができなかった。私は問題を解決しようとしながら、実際はそれを引き伸ばしていた。

『ラウンド・ミッドナイト』

 映画のなかでもっとも重要な曲のひとつであり、私がぜひとも完璧な歌詞をつけたいと思っていたのが〈チャンズ・ソング〉だった。

(略)

五〇年代のミュージシャンが娘に捧げて書き、何世代も生き続ける曲なのだ。イントルメンタル・ナンバーとしても演奏できるし、歌詞をつけてヴォーカル・ナンバーとしても歌える曲にしたかった。

(略)

[スティーヴィー・ワンダーに歌詞を書いてもらったが]

残念ながら、歌詞を映画のなかに織り込むにはタイミングが遅すぎた。(略)

 映画のなかでスティーヴィの歌詞を使えなかったことは心残りだったが、後年、ダイアン・リーヴスをはじめ何人かの歌手やプレイヤーがこの曲をレコーディングした。だから、ベルトランの望んだとおり、この曲は生き続けていることになる。

 ベルトランの方針に沿い、音楽は生でレコーディングされることになった。カメラが回り、私たちが演じるわけだが、そのためには多少の工夫が必要だった。メイク係と衣装係が私たちを一九五〇年代のミュージシャン風に仕立て上げた。私たちはスタジオにセットされた“クラブ”のステージに上がった。その時代の雰囲気を正確に再現するため、私たちは当時のマイクロフォンを使った。だが古いマイクは性能がよくないので、録音技師がそれらを分解し、なかの装置を現代のものと取り換えた。こうして私たちは音質を損なうことなく、望みどおりの設定で撮影することができた。

(略)

 ある日のこと、撮影のため九時間にわたって演奏が続き、みな疲れ果てていた。撮影を終えようとしていたとき、誰かが私を脇に呼んで「チェットが来ている」と言った。(略)
[数週間前にチェット・ベイカーに出演を]依頼はしたが、やって来る可能性は低いだろうと思っていた。

(略)

私はどうやってみんなにもう一度やる気を出させようかと考えた。(略)

「みんな、ちょっと聞いてくれ。なんと、あのチェット・ベイカーが来てくれたんだ! いまならやれる。彼と一緒に録音しよう!」と言った。

(略)

[譜面を配り]カウントをとろうとしたとき、チェットが譜面を読めないことを思い出した。“しまった!”。彼に恥をかかせたくない。どうしたらいいだろう?(略)

そのときチェットが言った。「最初にみんなで演奏してくれないか? おれはそれを聴いているから」(略)

〈フェア・ウェザー〉は意表を突くコード・チェンジが織り込まれた入り組んだバラードで、一度聴いただけですぐに演奏できるようなものではなかった。しかしチェットはそれをやってのけた。続くテイクで彼はコードに即した音やフレーズを紡ぎ出し、陰影豊かに歌い、美しいトランペット・ソロを披露した。そのころ彼は五十代の後半にさしかかっており、健康的にはベストの状態ではなかった――それから三年後に彼は亡くなった。それでも彼は、その日、類い稀な才能を私たち全員に見せつけたのだった。