ハービー・ハンコック自伝 その5

前回の続き。

  移籍 

[ワーナーでの三枚はマスを獲得できず、放り出されて価値を落とす前に移籍しようとデイヴィッドが画策]

 ブルース・ランドヴァルはコロンビア・レコードの副社長であり、幸運なことに大のジャズ・ファンだった。彼は社長のクライヴ・デイヴィスに私と契約することを提案した。(略)

[移籍を伝えられ]ワーナーはほっとしたのではないかと思う。彼らはファンクとジャズとロックが合体した新しい音楽から手を引きたがっているように見えた。事実、彼らは同じころに[アース・ウィンド&ファイアーとも契約解除](略)

それから間もなくして、彼らはこの二つのバンドを手放したことを後悔することになる。

 コロンビアからの第一作『セクスタント』[売れるつもりで色々やったが結果は出ず]

(略)

 そんなとき、思いがけない音楽からインスピレーションを得た。ポインター・シスターズの音楽だった。

 ファンクへの転身

[デイヴィッド・ルービンソンがマネージャーをやっていたので、エムワンディシの前座に起用。楽しさあふれる30分のショウは客をノックアウト。メンバーの一人はローラースケートでステージを走り回った]

 彼女たちが人々にもたらした興奮を見て、私の頭のなかは裏返しになった。

(略)

新しい方向性について考え始めた私は、デイヴィッドに「おれもあんなふうに人々に受け入れられたい」と言った。

[この方針がバンドに亀裂を生み、メンバーからギャラアップの要求が。メンバー達はバンドがハービーの持ち出しで維持されていることを知らなかった](略)

 しかしエムワンディシが解散した直接の原因は金銭的な問題にあったのではない。けっきょくのところ、それは音楽だった。

[ピーク時にはスピリチャルな感覚があったが]

エムワンディシとしての意識が消えたとき(略)私たちの音楽に喜びはなく、演奏しているものはただの騒音になってしまった。

純粋なファンクをやりたい 

[エムワンディシ解散後の展開に悩む日々]

“自分は音楽的に何をやりたいのか?”この問いに対する答え見つけるため、心を解放し、御本尊の前で何時間も過ごした。

 そしてある日、唱題しているときに曲が聴こえてきた。

(略)格好いいファンキーなグルーヴ――〈サンキュー〉“Thank You” の歌詞の一節だった。(略)

とつぜん脳裏に私がスライ・ストーンのバンドに飛び入りで参加し、ファンキー・ミュージックを演奏しているイメージが浮かんだ。私は心がときめいた。(略)

[自分の音楽的エリート意識がファンクを下に見ていること認識し自問自答]

ファンクはジャズと関連があるし、黒人の体験全体と結びついている。私は自分自身の偏見(略)と向き合い、それを打ち破らなければならない。

 それがファンク・バンドをスタートさせようと決心した瞬間だった。

 ファンクへの転換は私にとって大きな賭けだった。(略)

[一度だけ]六〇年代にブルーノートと契約していたとき、ファンキー・チューンをレコーディングしたのだ。しかしそれは無残な結果に終わった。私のアプローチは中途半端で、出来上がったサウンドにはまとまりがなかった。けっきょく、そのレコードは発売されなかった。これから作るレコードはジャズとファンクを融合させたものにしたくなかった――純粋なファンクをやりたかった。

『ヘッド・ハンターズ』の成功 

ストレートなファンク・バンドとしてスタートしようと考えていた。だが一九七三年夏、五人で一緒に演奏し始めると(略)ジャズとファンクのあいだのグレー・ゾーンに入り込んでいた。最初のうちは、なんとかファンクに引き戻そうとした。しかし間もなく、統御するよりも音楽が語りかけるものを聴いたほうがいいということに気がついた。

(略)

私たちはエムワンディシよりもっと軽くて心地よい、音楽ゲームに興じたり、リズムとともに遊んだりするような方向に進もうとしていた。

(略)

 私たちは一緒にアイデアを練った。私は自分が書いたベース・ラインをミニモーグシンセサイザーで演奏した。ポール・ジャクソンはベースの高音を使って伴奏した。バンドにはギタリストがいなかった。(略)クラヴィネットでギターのようなサウンドを出せるからギターはなくてもいいと考えたのだ。(略)

私はスティーヴィ・ワンダーや(略)バーニー・ウォーレルがクラヴィネットを演奏しているのを聴き、そのサウンドに魅せられていた。(略)

それがおそらく、私たちがストレートなファンク・サウンドからはみ出すようになった理由のひとつだと思う。

(略)

ベース・ラインを書き上げたあと、私はデイヴィッド・ルービンソンにそれを聴かせた。いまや彼はプロデューサーでありマネージャーであるにとどまらず、ドラマーでもあった。そのラインを聴いた彼は「少しシンコペーションを加えたらどうかな」と言った。それは小さな手直しだったが、曲の全体的な雰囲気を変えることになった。(略)

この曲はのちに〈カメレオン〉と改名された。

(略)

[ハーヴィ・メイソンが〈ウォーターメロン・マン〉の新録音を提案]

アレンジにストップ・タイム[訳注: ソロイストの背後でバンドが一斉に伴奏を止める技法] の要素を組み込んだら面白いんじゃないか、と彼は語った。(略)

アフリカ音楽を中心とした民族音楽学で博士号を得たビル・サマーズがもうひとつのアイデアを思いついた。(略)

[ヒンデウフーというアフリカのピグミー族の音楽スタイルを取り入れては]

「よし、やろう」と私はビルに言った。彼はまずビールのボトルに水を注ぎ込んだ。そして自分の声によってサウンド・パターンを作った。次にボトルの口を吹いて別の音を生み出し、さらにまた声による別のパターンを作った。じつに格好いいサウンド・パターンだった。そのサウンドがフォークウェイズのレコードとそっくり同じではなく、ビル独自の創造的なひねりが加えられているところも気に入った。彼はさらにビールのボトルでそのパターンにカウンターメロディをオーヴァーダビングした。それが〈ウォーターメロン・マン〉のニュー・ヴァージョンのイントロになった。

 新しいレコードのための曲を仕上げているうちに、私たちは新しいタイプのバンドへと変貌していった。ジャズ・ファンクフュージョン・バンドだ。そんな方向に進むつもりはまったくなかった。音楽が私たちを導いた先がそこだったのだ。私の心は躍った。(略)

[数週間かけ]ベイ・エリア周辺地区のジャズ・クラブで新曲を披露した。さらにダンス・クラブなどの大衆的な店にも出演し、あらゆる種類の客の前で演奏した。(略)客はみな音楽のグルーヴを満喫していた。

(略)
[レコードタイトルに悩みつつ唱題していると]

とつぜん“ヘッド・ハンターズ”という言葉が浮かんだ。(略)ジャングル、知的、セックスという三つのニュアンスをすべて含んだ、完璧なタイトルだった。

(略)

[デイヴィッド回想]

 

(略)レコード会社の連中の反応は鈍かった。好反応を示したのはアルバイトで仕事しているカレッジの学生だけだった。R&B担当グループも白人のジャズ担当者もそれにかかわりたくないと思っているのは明らかだった。まったく情けないかぎりだ。音楽業界は既存のジャンルにあてはまらないものをどのように扱ったらいいのか分からないのだ。(略)

 

 レコードが発売されて数週間後、デイヴィッドから電話があった。

「やあ、ハービー」と彼は言った。「簡単な質問を出すぞ。今週、『ヘッド・ハンターズ』が何枚売れたと思う?」「分からないよ」と私は答えた。「千枚とか二千枚ぐらいかい?」。売り上げはたぶん『クロッシングズ』や『セクスタント』と似たような数字だろうと思っていた。

「はずれ」と彼は言った。「七万八千枚だ」。唖然として、一瞬、言葉が出なかった。(略)

「こりゃ間違いなくプラチナ・レコードになるぞ」とデイヴィッドは言った。

(略)

 長きにわたる試練を経て、ようやく新しいリスナーと結びつくことができた。

 VSOPクインテット

[76年春ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル出演依頼。『ヘッド・ハンターズ』のヒットでランクが上がったのだから、これまでのギャラで受けるべきじゃないとデイヴィッド。かといってジョージ・ウィーンのような大物の依頼を断るのも懸命ではない]

「ジョージが絶対に受け入れられないような提案をしよう」と彼は言った。(略)

デイヴィッドはジョージに電話し、「ハービー・ハンコック回顧プログラムをやらないか?」と言った。

(略)
ジョージはノーと言うはずだった。彼はそれまで、デューク・エリントンジョン・コルトレーンチャーリー・パーカー、マイルスを含め、どんなジャズ・アーティストの回顧プログラムも組んだことがなかった。(略)私はまだ三十代であり、音楽としてはそれほど大きな広がりをもっていなかった。

 唯一の誤算はジョージがイエスと言ったことだった。彼はその提案に飛びついた。彼がとりわけ気に入ったのは、三つのバンドが登場するというアイデアだった。最初がマイルス・デイヴィスクインテットの再結集、二番目がエムワンディシ・バンドの復活、三番目が現在のヘッドハンターズという構成である。

(略)

問題なのはマイルスが参加を了承するかどうかだった。

(略)

[マイルスに電話し頼むと]驚いたことに、彼はイエスと答えた。ウェイン、ロン、トニーと再び演奏できることを喜んでいるようだった。

(略)

[他の]メンバーから出演の約束を取りつけたあと、私は再確認のためマイルスに電話した。

「ハービー」と彼は言った。「考えていたんだが、おれがサイドマンのために演奏するっていうのが、どうもなあ。おれのサイドマンだったおまえのイヴェントに参加するのは、ちょっと引っかかるんだよ」。(略)

落胆はしたが、彼の言うことは理解できた。私はすでにマイルスの代わりを依頼するトランペッターを決めていた。フレディ・ハバードだ。

(略)

マイルスがいない以上、とうぜんながらそのグループをマイルス・デイヴィスクインテットと呼ぶことはできない。どんなグループ名にすればいいだろう?いろんなアイデアを検討した結果、私たちはVSOPという名前を思いついた。私は二重の意味が込められているタイトルが好きだった。(略)まずこれはコニャックの格付けを示す言葉であり(Very Superior Old Pale = とても優れた古くて澄んだ)、一定期間熟成された原酒から作られるブランデーを指している。

 そしてVSOPは“Very Special One-time Performance”(一夜かぎりの特別公演)の略語でもある。

初めてのパソコン

 一九七九年、ブライアンと私はパーソナル・コンピューターを手に入れるときが来たと判断した。すべてがデジタルの方向に進んでいた。

(略)

[キース・ロフストロムに意見を訊くと]

「アップルⅡにしろ。インターフェースがうまくできているし、基本設計が公開されている。それにスロットが設けられているから、いろんな周辺機器とつなぐことができる」と言った。

(略)

[同時に購入した]モデムにはザ・ソースという会社のサブスクリプションが付随していた。ブライアンはモデムを使い、ダイヤルアップでネットワークに接続した。

「オーケー、次は何だ?」と、数字や文字が表示されている黒い画面を見ながら私は訊いた。ブライアンは説明のページをめくり、“チャット”機能に接続する方法を調べ始めた。彼は私のために説明書の指示を読み上げた。私がコマンドを打ち込むと他のユーザーにつながった。「やあ」と画面に入力すると、知らない誰かから、同じく「やあ」という返事が来た。

「私はアップルⅡを買ったばかりです。これは私が初めてやるチャットです」と入力した。すると先方は「おめでとう! 私の名前はフリッツです」と打ち返してきた。

(略)

チャットを続けた。フリッツは私の職業が何なのかと訊いてきた。私はピアニストだと答えた。「レコードをもっていますか?」と訊かれたので、「はい、二十枚ほどあります。ところであなたの仕事は何ですか?」と打った。

 彼は「ビールを造っています――あなたがレコードを作っているのと同じように。たくさんのビールです。じつのところ、私はアンカー・ビール醸造会社のオーナーです」と書いてきた。

 私はびっくりした。あのアンカー・スチーム・ビールのオーナーとコンピューターを通じて会話しているのだ。サンフランシスコで画面に向かっている彼とロサンジェルスのスタジオで座っている私が知り合いになった――まるでSF小説のようだった。私は驚異の念に打たれて興奮していた。するとブライアンが真面目な顔つきでこう言った。「なんてことだ、ハービー。もしすべてデジタルでレコーディングするようになったら、そしておれたちがコンピューターによってデジタルで情報をやり取りできるようになったら、それが何を意味するか分かるかい?いずれおれたちはコンピューターを通じて音楽を売るようになるってことなんだよ」。一九七九年という時点で、ブライアンはすでに将来を正確に予測していたのだ。

 十六ビットのマスター・コンピューター

この新しい機械を使って、どのように音楽を作ればいいのだろう?

 当初、私はおもに作曲のために使おうと思っていた。コンピューターにはオーディオ装置が入っているので、音を記憶させれば音楽を再生することができると考えたのだ。(略)

コンピューターにはプログラミングのマニュアルが付属されていた。ブライアンはそれを読んで独学で学ぼうと決心した。

 彼はコズミック・キーボードというソフトウェアを作成した。歌詞、コード、使われるすべての楽器名、どのようにつなぐか、どんなケーブルが必要か、どんなセッティングにするか、どんなプログラムを使えばいいかといった、曲の情報に関するページを作ってコンピューターに記憶させるためのソフトウェアだった。彼の目的は、コンピューターによって、曲に関するすべてのデータを追跡できる、図表を備えたシステムを作ることにあった。それは前代未聞のアイデアだった。

(略)

ブライアンはさらに野心的な計画を抱いていた。セットアップに時間がかかりすぎると感じていた彼は、プロセスをスピードアップするため独自に十六ビットのマスター・コンピューターを作ろうと考えた。

(略)

彼はプログラミングの本と格闘し、プログラムを作り始めた。それはさながらアップルⅡプラスのハッキングだった。

(略)

彼は十六ビットのマスター・コンピューターを完成させただけでなく、シンセサイザーのキーボードにディスク・ドライヴを取り付け、キース・ロフストロムと一緒に音楽のための自動パッチ・パネルを作った。彼の発明や改良は私の曲作りに大いに役立った。一九七九年から八一年にかけて、私は六枚のアルバム(略)を発売した。

(略)

[79年のVSOP日本ツアー]田園コロシアムで行われるコンサートはライヴ・レコーディングされることになっていた。会場で準備しているとき、ソニーの名録音エンジニア、鈴木智雄がやって来て私に話しかけた。「私たちが開発した極秘の製品があります」と彼は言い、直径三インチの銀色のディスクが入った小さなケースを見せてくれた。

(略)

「ハービーさん、私たちは今日のコンサートをオーディオ・テープではなくデジタル装置でレコーディングするんです。それから私たちはミニ・コンパクト・ディスクというものを作製します」と言った。

(略)

 私のエレクトロニクス好きを知っていたソニーは、この新しいテクノロジーを使って行なう初めてのライヴ・レコーディングという名誉を私のバンドに与えたいと考えた。

フェアライト登場 

 一九七〇年代末期(略)スティーヴィ・ワンダーと私はある意味で競合する間柄になった。二人とも新しい種類のシンセサイザーを探し求め(略)

新しく格好いい製品が出れば、私たちはどちらもそれを手に入れる最初の男になろうとした。

(略)

[79年、フェアライト登場]

ワン・セットで二五〇〇〇ドルという値段であり、私に払える許容範囲を超えていた。そこで、これに興味をもつであろう(略)クインシー・ジョーンズとジョーディ・ホーメル[に声をかけた](略)

ジョーディは有名な食品会社ホーメル・フーズの直系の跡取りであり、創業家の遺産を相続したが、彼の情熱は音楽を作曲することに傾けられ[『名犬ラッシー』『逃亡者』『名犬リンチンチン』などの音楽を手掛けた](略)

[デモ終了後、値段を聞いたクインシーは首を振ったが]

ヒッピーのような格好のジョーディは、オーヴァーオールのポケットに手を突っ込み、札束を取り出した。「二台買おう」と彼は言った。[フェアライトの]代理人の両目は顔から飛び出しそうなほど丸くなった。

 私はそのときはフェアライトを買わなかったが、あとで二台購入した。

次回に続く。