ハービー・ハンコック自伝 その4

前回の続き。

エレクトリック・ピアノ   

[『マイルス・イン・ザ・スカイ』を仕上げるためスタジオに行くと、マイルスが「あれを弾け」とフェンダー・ローズの方を顎でしゃくった]

私はあまり愉快ではなかった。“こんなおもちゃを、ほんとうに弾けって言うのか?”と思った。それに歩み寄り、スイッチを入れてコードを弾いてみた。すると、驚いたことに、そのサウンドをクールだと感じた。アコースティック・ピアノの深みとまろやかさはなかったが、その響きは思っていたより美しかった。しばらく弾いたあと、試しにヴォリュームを目いっぱい上げてみようと思った。コードを弾くと大きな音が出た。とっさに頭に浮かんだのは、このエレクトリック・ピアノを弾けば、トニーは私がソロをとるとき、思いきり激しく演奏できるようになるな、ということだった。

(略)

エレクトリック・ピアノだと、鍵盤を軽く押さえるだけで、いくらでも大きな音を出すことができる(略)それまで見向きもしなかったこの楽器を演奏するのが、がぜん面白くなった。

(略)

 それより数年前、私はトニー・ウィリアムスにドイツの前衛音楽作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンのことを教えてもらい、電子音楽を聴き始めた。トニーは長年にわたって私の音楽的地平を広げてくれた。アルバン・ベルクジョン・ケージパウルヒンデミットなどを聴くようになったのも彼の影響だった。私はいつも彼に「いま何を聴いているんだ?」と訊いていた。(略)

 〈少年の歌〉において、シュトックハウゼンは正弦波とクリック音を使い、目くるめくような電子的情景を生み出している。初めてこれを聴いたとき、すっかり魅了されてしまった。

(略)

一九六六年のある夜、私はヴィレッジ・ヴァンガードにトリオで出演していた。[休憩の時、クラシック演奏家が会いたいと言っていると言われ名を訊ねると](略)

その男は「カールハインツ・シュトックハウゼン」と答えた。

 私は興奮し、わくわくしながら階段を駆け下りた。(略)私は彼に、あなたの作品の大ファンだと告げた。彼は「私はいま、いろんな国の国家を使った作品を書いている。ついては、アメリカの国家を演奏してもらえないだろうか?」と言った。

[当然やりたかったが忙しくて断念] 

ビル・コスビー

一九六九年の夏、ツアーを行ない、セクステットの運営に関するさまざまな雑事をこなし、コマーシャル・ソングやこれから入るであろう映画スコアの依頼にも対処しなければいけない私には、仕事を手助けしてくれる人物が必要だった。そこでビル・コスビーに電話をかけた。

 

 初めてビルに会ったのは、一九六三年の春、ヴィレッジ・ゲイトでジュディ・ヘンスキの伴奏をしているときだった。熱心なジャズ・ファンだったビルは、すでにマイルスが私をバンドに雇うという話を耳にしていた。ライヴのあと、彼は楽屋に訪ねてきて祝ってくれた。「やったな!」と、私の背中を叩きながら彼は言った。「心からおめでとうと言わせてもらうよ。おれもいつかはそんなふうにチャンスをつかみたいもんだ」。そのころビルは全米を回ってスタンダップ・コメディのショウをやっていた(略)が彼はまだ成功する機会には恵まれていなかった。

 それから二年後(略)交差点に立っていると、赤いメルセデス・ベンツ三〇〇SLが停まり、ガルウィング・ドアが跳ね上がった。驚いたことに、なかからビル・コスビーが満面の笑みを浮かべて降りてきた。

「やあ!」と私は言った。「誰の車だい?」

「おれのだよ!」(略)

[TVドラマ『アイ・スパイ』で黒人として初めて主演に抜擢。二年の間に]

ビルはトゥナイト・ショウに出演し、ワーナー・ブラザーズからコメディ・アルバムを発売し、テレビ・ドラマの主役の座を手にした。彼は大きな成功を収めたのだ。

 ビルの成功はそれだけでは終わらなかった。一九六九年春、私がセクステットでツアーをするころには、彼は「アイ・スパイ」により三つのエミー賞、コメディ・アルバムにより四つのグラミー賞を受賞していた。(略)

[雑誌インタビューで]ビルがマネジメント会社をもっていることを知った――そして私は心底からマネージャーを必要としていた。

 というわけで、私は彼に電話した。(略)ジャズが好きなので面倒を見てくれるだろうと思っていた。ところが、彼はそれとは別のアイデアをもっていた。(略)

「おれがいま制作しているアニメのスペシャル番組のために曲を書いてほしいんだ。フィラデルフィアの少年、ファット・アルバートの物語だ」。ためらう理由などどこにもなかった。

(略)

[R&Bタイプがよかろうと、JBタイプのレコードを15枚ほど買い研究し、曲を書き、『ファット・アルバート・ロタンダ』を録音] 

Fat Albert Rotunda

Fat Albert Rotunda

  • アーティスト:Hancock, Herbie
  • 発売日: 2001/02/13
  • メディア: CD
 

エムワンディシ

シェリーズ・マン・ホールはハリウッドにあったクラブだ。(略)一九七〇年の春、私たちのセクステットはここで二晩ライヴを行なった。

 そのころのセクステットのドラマーはトゥーティ・ヒースだった。(略)トゥーティの甥、ジェームス・フォアマンが私たちに会うためクラブに現れた。当時二十三歳のジェームスはサックス奏者ジミー・ヒースの息子で、ミュージシャンであり、曲も書いていた。だが彼の最大の関心は黒人の地位向上運動にあった。彼は戦闘的な黒人ナショナリスト・グループ、USオーガニゼーションのメンバーだった。USオーガニゼーションはブラック・パンサー党と覇を競っていたグループであり、マウラナ・カレンガとマルコムXの従兄弟ハキム・ジャマルによって率いられていた。ジェームスは先ごろ本名を奴隷の名前 だとして捨て去り、いまはスワヒリ語でエムトゥーメと名乗っていた。

 その夜、私たちがサウンド・チェックをしている最中、エムトゥーメは、黒人の歴史を理解していない、アメリカの黒人としての理念を深めようとしていない、と私たちを非難した。「あんたたちは自分の伝統に敬意を払っていない」と彼は言った。「態度を明確にしなければならない。いまこそ立ち上がるときだ」

(略)

 エムトゥーメは叔父のトゥーティにスワヒリ語の名前をつけてやると言った。すると私や他のバンド・メンバーは「おれたちもスワヒリ語の名前がほしい」と言い出した。(略)

トゥーティはクーンバという名前で“創造性”を意味した。バスターには“熟達したプレイヤー”という意味のエムチェザジという名が与えられた。私の名前はエムワンディシになった。“コンポーザー”または“ライター”を意味する言葉だった。

 それ以来、バンドの性格は変化し始めた。正式には、私たちはいぜんとしてハービー・ハンコックセクステットだったが、間もなく人々からエムワンディシ・バンドと称されるようになった。そして、お互いをスワヒリ語の名前で呼び合い、しだいに黒人らしさを強調するシンボルを身にまとうようになった。

 スピリチュアルな体験

 マイルスのバンドにいたときと同様、薬物を摂って演奏するのはきわめてハイ・リスクだということが分かっていた。(略)

[70年夏ライヴに出かける前についLSDを一粒口に]

強力なトリップが始まる前にクラブに着くことを祈りながら通りに出た。しかしベイ・ブリッジに差し掛かったとき、汗をかき始めた。私はひたすら“くそっ、この橋はなんて長いんだ”と思っていた。

(略)

 どうにかクラブにたどり着き(略)[入店した]とたん、色と光に圧倒された。

(略)

私たち六人はあらゆる方向に拡散する音のモンタージュを創り出した。LSDをやると、ときおりスケールをアルペジオで演奏し、最後に短いトリルが入るような音が聴こえる。私はそれをLSDが走る音だと考えている。その夜も、他のメンバーがエキサイティングなプレイを繰り広げているあいだ、ずっとその音が聴こえていた。(略)

 セクステットを旗上げした当初から、私は“コントロールされた自由” における“コントロール” を緩めたいと願っていた。自分を解放し、ジャズ音楽のアヴァンギャルド的な側面を追求したいと思っていた。

(略)

一九七〇年十一月に行なった驚くべきライヴがまさにそうだった。

(略)

[ジェリーという男が数霊術でメンバー三人とエンジニアの誕生日が29日云々で「429」がバンドのマジックナンバーに、以来]至るところでその数字を見かけるようになった。[部屋番号、時計、買い物の金額](略)

私たちは興奮し、四、二、九の数字をあしらったロゴまでつくった。何か非現実的なことがバンドのなかで起こっていた。みんながそれを感じていた。

(略)

[ロンドン・ハウス出演二週目]

 セカンド・セットはもっと素晴らしかった。一糸乱れず波長が合い、もはや私たちが音楽を演奏しているのではなく、音楽が私たちを演奏しているように感じ始めた。天のどこかから降りてきた音楽が私たちを通して鳴り響いているかのようだった。メンバー全員がどこか別の次元にいた。しかし、それはまだその夜の最高の到達点ではなかった。サード・セットときたら……その演奏は超自然的だった。

 サード・セットが始まり、私は演奏している自分の指を見た。驚いたことに、指は勝手に動いていた。私が動かしているのではなく、指が自分の意志で演奏していたのだ。それでも、私の指が演奏することはすべて、バスターの演奏、ベニーの演奏、ビリーの演奏と完璧に結びついていた。音楽に深く入り込むにつれ、私たちはひとつの大きな脈動する生き物になった。すべてのメンバーが私になり、私が彼らのすべてになった。まるで私たちそれぞれがお互いの内部にいるかのようだった。そのように感じたのは、後にも先にもそのときだけだ。じつに奥深い、スピリチュアルな体験だった。(略)

[演奏を続け]そのセットが終わったとき、クラブは完全な静寂に包まれた。誰も微動だにしなかった。私は陶酔感に満たされ、空中を漂っているように感じた。そして、とつぜん拍手が沸き起こった。(略)

 ピアノの椅子から立ち上がろうとしたが、脚の感覚がなかった。見下ろすと、床は十フィート下にあった。ほんとうの話だ。体が浮遊していたのだ。その夜はドラッグもやっていなかったし、酒も飲んでいなかった――バンドのみんなもそうだった。私は言葉を発することができなかったし、何が起こったのか理解できなかった。(略)

 全員が楽屋に戻り、呆然と顔を見合わせた。「何が起こったんだ?」と誰かが言ったが、誰もその問いに答えることができなかった。

(略)

 私は客が失神したことに気づかなかった。バンドが空中浮遊するのを見たと言った人物は私たちの友人ジェリーだった。

(略)

私たちはさらに二週間そこで演奏した。そのような超現実的な体験することは二度となかったが、音楽はより自由になり、奇抜になっていった。

シンセサイザー導入 

[72年初頭]デイヴィッド・ルービンソンが「最近ロック・ミュージックではみんなシンセサイザーという新しい楽器を使っている。あんたも使ってみたらどう?」と提案した。

(略)

 バンドはすでにファズ・ワウ・ペダルや、電子楽器につけてテープ・エコーを創り出すエコープレックスなどのエフェクターを使っていた。(略)またエレクトリック・ピアノにもいろいろなユニットを取り付けていた。

(略)

[MIT]のエンジニアから「これをピアノにつなげば音の波形が変わるよ」と、箱を手渡されたこともあった。(略)

私はローズの上部を外して、ケーブル、ワウ・ペダル、エコープレックスを取り付けた。そのため、見た目はなんとなくフランケンシュタイン風のピアノになった。それでもかまわなかった――望みどおりの音が出るのであれば(略)

[だがローズ・ピアノを発明したハロルド・ローズは]

「ハービー、おれのピアノに何てことをしたんだ。まるで解体されたみたいだ」と言った。私は笑いながら「エフェクターにつなぐためには、こうするしかなかったんだ」と言った。それでも彼はおぞましげにピアノを見ているので、「インプットやアウトプットを簡単にできるようなピアノを開発したらどうだい」と付け加えた。(略)その後発表されたローズの新しいヴァージョンにはプラグの差込み口が付いており、さまざまなユニットに手軽につなぐことができるようになった。

 [72年当時の]シンセサイザーの複雑さはエレクトリック・ピアノの比ではなかった。(略)

[プログラム保存できないし]サイズが巨大で、スタジオの壁全体を占めるほどだった。セットアップに時間がかかり、もち運ぶことは不可能だった。しかしシンセサイザーは他の楽器では出せない音を生み出すことができた。(略)

デイヴィッドは「地元にシンセサイザーを演奏する男がいる。彼を呼ぼう」と言った。こうして私はパトリック・グリーソンと出会った。

 パットは、エムワンディシのレコーディングに参加するメンバーとしては、きわめて異色だった。彼は白人のヒッピーであり、ジャズやファンクで育った男ではなかった。音楽教育を受けたこともなく、その代わりに十八世紀のイギリス文学で博士号を取っていた。音楽的な能力はないし、バンドで演奏した経験もない(略)

[だが]さまざまなロック・バンドのためにシンセサイザーのプラグラミングを何度もやっていた。

(略)

私は彼を質問攻めにした。グリネルで工学を学んでいたので、彼の言葉を理解することができた。(略)

シンセサイザーのことを学べば学ぶほど、この楽器をエムワンディシのサウンドの一部としていつまでも使い続けたいと思うようになった。

 『クロッシングズ』

[完成した『クロッシングス』は万人向けとはいえず、ワーナー幹部たちは不満を漏らすだろうと読んだマネージャーのデイヴィッド・ルービンソンは販促責任者とのミーティングで黙ってあるテープを聴かせ感想を求めた]

 彼らは口々に、素晴らしい曲だ――だけど、いったいどうやってこれを売ればいいんだ、と言った。彼らはこのレコードも、『エムワンディシ』と同様、注目されないままに終わり、商業的成功には至らないのではないかと考えていた。

「じつは、いま聴いてもらったのはハービーの新作ではありません」とデイヴィッドは言った。「現在チャートで九位になっているマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』のB面です」。その策略は見事に功を奏した。『ビッチェズ・ブリュー』がベストセラーになっているのに、この種の音楽は売れないなどと誰が言えるだろう?(略)

続いてデイヴィッドは『クロッシングズ』を抜粋して彼らに聴かせた。彼らは売るために努力することを約束した。しかしデイヴィッドはすでに、これがワーナー・ブラザーズから発売されるエムワンディシの最後のレコードになるだろうと予測していた。

 [さて宗教の話である。ちょっとでも茶化すとたちまち信者の怒りのコメントが到来するので適当にぼかしております。ウェイン・ショーターの場合、家族に外堀埋められてご愁傷さまという感じだったけど、ハービーの場合、理路整然と入信してて、もう何も言えねえ。とにかく布教活動に最適な文章が続出であります]

[凄い演奏したバスター・ウィリアムスを捉まえ]

「あのパワーはどこから来たんだ?あんなふうにベースを演奏させるものが何であれ、おれにもそれを分けてもらいたいよ」と言った。
 彼の目は明るく輝いており、まるで内部から光を発しているようだった。「ハービー、いずれあんたに話そうと思っていたんだが、おれは題目を唱えているんだ」と彼は言った。そして彼は最近実践し始めた仏法の教義について語り出した。(略)

[半年前にも彼の妹が楽屋で詠唱したことがあった]

 私たちはみな彼女の姿をうっとりしながら見つめていた。そのサウンドとリズムは耳に快く響いた。私はああ、これは確かにクールだな。と思った。一度も聴いたことのないリズムだった。バンドのみんなはいつも新しいサウンドを探し求めていた。それは間違いなく一風変わった新しいサウンドであり、ある種の催眠的な効果を及ぼした。

(略)

 バスターは翌日の夜に行なわれる仏法の会合に参加するよう私を誘った。私は行くよと言った。その現象についてもっと突き詰めたいと思った。

  *  *  *

 私は若いころから自分をスピリチュアルな人間だと見なしていた。(略)教会に通う習慣は身につかなかった。だが私はいつもさまざまな宗教に興味を抱いていた。西洋の宗教的な伝統のなかに自分の求めているものを見出すことができなかった私は、七〇年代に入り、当時の多くのアメリカ人と同じく、東洋の宗教を探求し始めた。

 私だけでなく、バンドの全員がそうだった。とりわけロンドン・ハウスでこの世のものとは思えないような体験をしたあとは、急激にのめり込むようになった。時間があるとき、私たちは旅先の街で本屋に行き、超越瞑想イスラム教のスーフィズム、東洋の神秘主義、さらにはオカルト思想まで、宗教に関するいろいろな本を読んだ。あの夜にステージ上で得た感覚をもう一度呼び起こすことができるかどうか、みんな知りたいと思っていた。

(略)

 多くの本を読み漁ったが、それによって得るのはいつも答えではなく疑問だった。私が読んだ本のほとんどは、普通の人間が理解するには難しすぎるように思われた。(略)

[バスターが教えてくれた教義は]自分が抱いていた信念と大に共鳴するのを感じた。

(略)

 しかし、ある種の言葉を唱えることによって実際に何かが起こるものなのかどうか、確信がもてなかった。(略)

もし仏法が頭からそれを信じろと教えているのなら、私にはついていけない気がした。

「ああ、それは問題ないよ」とバスターは言った。「信じていてもいなくても“南無妙法蓮華経”と唱えれば効力があるんだ」

 何だって?それは私の知っているどの宗教の考え方とも違っていた。他の宗教は教えを盲目的に信じることから成り立っていた。それをあからさまに強要する宗教もあった。だが仏法はそうではなかった。それは科学に似ていた。重力の法則は、それを信じるか否かにかかわらず、この世界を律している。熱力学も然りだ。宗教が自然の法則より弱くていいのだろうか?それより強いものであるべきではないのか?だとすれば、なぜ宗教はそれを信じなければ効力は現れないと説かなければならないのだろうか?

 バスターは続けて「いいかい。信じるか信じないかに関係なく恵みがもたらされるんだ。だから、とにかく試してみても損はないよ」と言った。私は完全に納得できた。人間は自分の運命を創り出す能力をもっているとする仏法の教えが気に入った。

(略)

 私はもうひとつの質問をバスターにぶつけてみた。「仏法徒になるためには、何か自分が信じていることを止めなきゃならないのかい?」

「いや」と彼は答えた。「どんなことでも、すでに自分が信じていることを止める必要はない。これを実践すれば真実はおのずから明らかになるはずだ」。題目を唱えることが、自分のやりたいことを達成する手助けをしてくれるのだ、と彼は語った。

(略)

 試してみるだけの価値はあると思った。私はいつもライヴで音楽と一体になるための方法を模索していた。仏法がそんな私を助けてくれるのなら、すぐにでも入信したかった。

(略)

バスターは「自分のためと同時に他人のためにも実践するのだ」と語った。仏法は慈悲の実践なのだ。それは他人を尊敬し、思いやるためのものであり、他人を苦しみから解放するためのものでもある。

(略)

それまで他人をどうしたら助けられるかということなど、あまり考えたことがなかった。私は悪人ではなかったが、とくに同情心が篤い人間でもなかった。多くの時間を音楽に費やしてきたし、音楽がすべてだった。しかし、他者への思いやりと他人の人生をより良くするための手助けについて語るバスターの言葉は、私の心を強く動かした。

 七歳のころから、音楽は私の人生のなかで関心事の第一位を占めていた。おまえは何者だと問われたなら、ためらうことなく「私はミュージシャンだ」と答えただろう。だが仏法を実践するにつれ、新たな認識が私のなかで芽生え始めた。自分と他人との隔たりが取り払われ、自分は何よりもまず人間なのだと考えるようになった。

 私は音楽をそれまでとは違った視点で見るようになった。以前の私は音楽そのもののために演奏しており、焦点は、曲、ハーモニー、リズム、メロディに当てられていた。けれどもその後の私は、音楽を通じて日常生活におけるさまざまな問題に取り組むという、より大きな目的のためにミュージシャンとしての能力を活かす方法を探り始めた。

(略)

仏法を実践し始めたころ、ライヴで演奏する音楽は、おもに一握りの熱心な先端的ジャズ・ファン向けのものだった。どうすれば音楽の新しい方向性を受け入れてもらうための道を切り拓き、リスナーの幅を広げることができるだろうか?私はそう考えながら唱題に励んだ。

次回に続く。