前半をパラッと読んだ。
「社会契約論」の系譜
ロールズは「社会契約論」と呼ばれる学派の系譜にあり、それを現代の文脈で復活させた人である。だから課題の出発点は過去にある。と同時に、それは西洋と言う限られた地域で始まり、そこで培われた思想である。
(略)
ロールズが 最も重要と考えるものは「平等な自由」である。そしてこの自由は人間の本性が完璧に発揮される状態である。じつはこの時点で、ロールズはひとつの人間観を前提にしている。ロールズは自由を「なにも拘束のない状態」とは考えておらず、むしろ「人間が最も人間らしい状態」と捉えている。これはロールズが「人間であるならば、こうあらねばならぬ。こうあるはずだ」という特定の価値観にもとづいていることを示す。
人間が人間らしくあるとは、その精神を最大限に活用することであり、それを他人と共有することであり、他人と交流することでさらにその能力を伸ばすことである。そして他人と関わる以上、関わり方についてのルールを合意にもとづいて決めることであり、そのためには精神的にも身体的にも他人の支配下に入ることなく、他人との合意の結果である法律によって守られるということである。
人間が人間であることの最大の特徴は、その精神の働きにある。そのため、精神の働きを制約してはならないから、「思想・良心の自由」が大切になる。そして人間はひとりでは生きてはいけないし、むしろ他人と交流することによって能力がもっと有効に利用されるから、だれと関わるかということについても制限があってはならない。
(略)
ここで自由とルールは循環関係にある。自由を守るためにルールが必要なのであるが、ルール、すなわち法律が「自由」を定義して、それを保障することになる。
われわれはここで、なぜロールズはいまさらこれらを正当化するために本を書いたのか、と疑問に思ってしまう。というのも、やはり日常的には、われわれにとっての自由とは、自分の持っているものを、他人にとやかく言われることなく、制限なく使用することや、処分できることである。
しかしこれは「経済的自由」であって、ロールズが問題にしているのは「政治的自由」であるし、さらに大事なのは、ロールズにとっては、政治的自由のほうが経済的自由より、も重要だということである。
(略)
ロールズの第一の目的は、過去三〇〇年の社会契約論という政治哲学を現代の文脈で語りなおすことであって、現実社会への適用は二次的な関心であり
(略)
[三〇〇年前の西欧]での最も大きな社会的課題は宗教戦争である。当時の政治哲学者たちは、宗派の対立による殺し合いを解決するために「社会契約」という発想を思いついた。
彼らは、対立を解消して異なった考え方の人びとがひとつの社会のなかで平和的に共存していくためには、社会のメンバー全員が合意したルールにもとづいて統治していくことが必要であると考えた。
じつはここまで、あまり「平等」という言葉を使わないようにしてきた。というのも、現代のわれわれにとって最も重要な平等は「経済的平等」であり、これはとくに貧困や格差という課題とともに語られることが多い。しかしロールズが第一に問題にしている平等は「政治的平等」であり、「平等な自由」や「権利の平等」のことである。
(略)
ロールズは政治的平等のほうが経済的平等よりも優先すると考えている。
というのも、貧困から抜け出すために、つまり経済的平等を手に入れるために、自分を奴隷として売ることや、投票権などの政治的権利を手放してよいのか、すなわち政治的自由をみずからの意志で捨ててよいのかと聞かれれば、ロールズはノーと答えるからである。
(略)
なぜ三〇〇年前の西洋で、このような平等を大切にしなければならなかったのかと言えば、それは宗教が人間の階層性を前提にしているからである。たとえば、ある宗教においては、信者は立派な人間と見なされるが、異教徒は劣等な人間か、または人間以下となってしまう。
(略)
三〇〇年前の西洋における平等とは、全員がお互いを人間として認め合うことだから、最優先の自由は信教の自由となる。他人を認めるとは、他人の宗教を許容することであり、どの宗教を信じようと、相手を自分と同じ人間と見なすことである。
(略)
だれがどんな神を信じようと、それはその人の自由であり、他人が干渉してはならない。
ロールズの出発点はここにある。これが共有されていないと、ロールズ正義論を誤読してしまう。ただ困るのは、このように(私が考える)ロールズの正しい読み方を推し進めていくと、多くの人が「ではロールズになんの意義があるのか」と疑問に思ってしまうことである。
多くの人が考えるロールズ正義論の偉大な貢献は、福祉国家を正当化したことである。しかし以上の解釈を突き詰めると、その先には福祉国家とは別の社会が現れてくる。私が怖れるのは「ならばロールズを読む価値はない」と切り捨てられることである。
とはいえ、私はいままでのロールズの読み方、つまり「ロールズが経済的平等を正当化した」という考えに疑問を呈したいと思っている。それはロールズの現代的意義を失わせてしまうかもしれないが、私はかえってロールズの歴史的価値を高めると信じている。
現代における格差と貧困は、われわれにとって最重要課題ではあるが、この問題に目を奪われてはならない。というのも、政治的自由と権利という、いま現在はだいたいが達成されているからそれほど気にしなくてよいが、一度失ったら取り返しのつかないものに、改めて思いを馳せるべきだからである。そしてこちらのほうが普遍性のある課題である。
(略)
法の下の自由には、政府の思いつきで逮捕されない権利や、財産を没収されない権利、犯罪の被告人になった場合の公平でオープンな裁判を受ける権利も含まれる。
ロールズはこれらの自由が人間にとって最も重要であり、経済的繁栄のためにこれらを手放してはいけないと主張する。ロールズにとっての自由は、くり返すが、外部からの制約のない状態という消極的なものではなく、人間の本性が発揮される条件であり、それを手に入れるためにわれわれ自身が努力しなければならない積極的なものである。
ロールズは、単に「制約のない」という意味での自由を想定してはいない。他人がとやかく言わなければそれでよく、あとは個々人が他人に迷惑をかけなければ好きなことをしてよい、ということではない。ロールズは具体的な人間像を提示して、われわれはそれを目指さなければならないとしている。
この主張を最も端的に表しているのが、みずからの自由意志で奴隷となることの禁止である。人間はどんな利益を得られようとも、自分からこれらの自由を手放してはならず、金銭的見返りがあるからといって、みずからを奴隷として他人に売り渡してはいけない。
このような意味で、ロールズはかなり厳しい人間像を前提にしている。
(略)
じつはロールズを、従来の福祉国家の正当化という読み方ではなく、社会契約論の精密化と読むことの意義はまさにここにある。本書の冒頭で書いたように、ロールズが自由を優先することに、二一世紀の先進国に住むわれわれは違和感を抱く。なぜなら、すでに前記の自由と権利を勝ち取っているからである。
しかし実際のところは、われわれは獲得したと信じ込んでいるだけで、それを活用しきってはいないのではないだろうか。形式上は言論の自由を獲得したように見えて、われわれは金銭的利益のために、暗黙のうちに言論の自由の一部を捨ててしまっているのではないだろうか。なにかに遠慮して本音が言えない状態は、言論統制の予兆である。
「正しい社会とはなにか」
すでにお感じのことと思われるが、ロールズは厳しい人間像を提示しており、それは「損か得か」という打算ではなく、「正しいか」「正しくないか」と言う普遍的な基準にもとづいている。
(略)
ロールズは、功利主義が想定する「喜び」「痛み」や欲望を、道徳的な人間が具えるべき美徳とは考えていない。(略)人間には本性として正しい物事を識別できる能力があるとしている。
(略)
当然のことに「では犯罪者はどうなのか」という反論が出てこよう。(略)このような批判にロールズは長年悩まされてきた。なぜなら、これはロールズの目的ではないからである。ロールズは現代版の社会契約論という意味では、完璧な書物を書いたが、そこから派生するすべての課題に言及することは不可能である。ロールズは「人間とは本来的に、こういう存在だ」という前提のもとに、正しい社会のあり方を語ったのであって、そこから外れた人がどういう理由で堕落したのかは、別の次元で説明されるべきことで、これについてロールズに責任はない。だからここで議論されるべきはロールズの人間観自体であって、揚げ足取りに関わってはならないだろう。
(略)
細かく見ていくと、自分にとって価値あるものを見つける合理性を育てるために思想・良心の自由と結社の自由が必要であり、たとえば言論の自由 (思想の自由と結社の自由の結合)がなければ、哲学や宗教など、さらにはそれらを含めた多様な道徳論や倫理観を比較検討して吟味することができない。これが個人の価観を形成していく。哲学や宗教を自由に議論することは、人生の意味を問うことであり、それによって「どんな人生にしたいか」「その人生を実現するために必要な資源はなにか」というその人にとっての価値観、すなわち「善」が明確になる。
そして思想の自由と政治的自由が合わさることで、今度は「正しい社会とはなにか」ということが議論できるようになる。これは「正しさ」を識別する理性を鍛えることになる。政治は全員が納得する解を見つけることだから、単なる「善し悪し」ではなく、「正しさ」を追求する必要がある。だから政治に関与することで理性が発展していく。
道徳や政治的課題について自由に討議し、政府を批判し、公的な政治活動に参加していくことは、社会の正義を考える能力を伸ばし、それにもとづいて行動しなければならないことを教える。だからこそ、これらの自由には特別な保護が不可欠となる。社会の正義について考えるために自由が大切にされるべきなのであるが、こういう自由を守るために社会において正義を実現しなければならない、という循環関係になっている。
ヘイトスピーチと誇大広告
ロールズは政治的発言に関しては、かなり広範囲の自由を認めている。例えばヘイトスピーチそれ自体は禁止されるべきだと考えていただろうが、ヘイトスピーチとみなせるからと言う理由だけで、類似の言動を全て排除して良いと主張していたわけではない。
(略)
ロールズ門下のリベラル学者は、感情的には認められないだろうが、原理原則から[ホロコースト否認]デモ行進を認めなければならないとしている。
しかし一方で、ロールズは誇大広告の商業的な表現に関しては、政府や自治体は禁止できると考えている。われわれの感覚からすれば、前者は禁止されるべきで、後者は容認されるべきであろう。というのも、前者はユダヤ人の心情を著しく傷つけるが、後者は商品の質を決めるのは消費者であって、当局に取り締まる権限はないと思われるからである。
ロールズはわれわれの常識とは正反対に、政治的意見はほとんどいかなる場合でも規制されてはならず、商業的表現には行政が介入してもよいと主張する。それほどロールズは政治的自由、とくに政治的な言論の自由を神聖なものと見なしており、一方で経済分野、とくに商業については優先順位として劣るだけでなく、これを取り締まることでかえって社会的無駄を省けると考えている。
(略)
[ロールズは]政治的自由こそ完璧に守られるベきであって、所有権のような経済的自由のほうが境界はあいまいだとしている。なぜかと言えば、ロールズにとって個人の労働で創り出された成果は、その個人だけの働きによって生み出されたものではなく、社会的な協働作業の結果としてもたらされたものだからである。
(略)
ロールズの考える基本的自由は(略)いずれも精神に関することや、人間関係についてのことである。人と結びつくことが前提であり(略)「他人に関与させず」という従来の自由の定義とは大きく異なっている。
所有権は基本的自由には入らない
保守にとって所有権は絶対的だから、本人の同意なく、それに手をつけてはならない。リベラルは、このまま放置して政府がなにもしなければ貧富の格差が広がってしまうから、政府はお金持ちから税金を取って、それを福祉という形で貧しい人たちに再分配すべきであると主張する。
ロールズはそもそもの前提から、この議論を覆す。ロールズにとって、所有権は基本的自由には入らないから、「本人の同意なく、個人の財産を取り上げてはならない」という保守の発想もなければ、意外に聞こえるかもしれないが、リベラルの「貧富の格差を是正するために、本人の同意がなくても、政府は個人の所有物(の一部)を没収できる」という考え方にも賛同しない。
(略)
ロールズの理論のなかには、お金持ちが嫌々ながら税金を差し出して、それが政府を通じて貧しい人たちに配られるというシステムは存在していない。
(略)
なぜなら、最初の正義の二原理を採択する段階で、極端に貧しい人が生じてこないような制度を、社会のメンバー全員の合意によって決めているからである。
(略)
全員が完璧に平等な立場で、公平に決めた原理をただ守っているだけである。そこには「税金を取られる」という不満も、「助けてあげたい」という情緒的な善意もない。単に「決めたことに従う」というドライで冷静な判断に則って粛々とルールを遂行しているだけである。
ロールズの独自性は、このように中心概念である「自由」が保守とリベラルに関係なく、現実の政治用語と異なっていることである。だからこそ、かえって「ロールズには現実を変える力がない」という妙な幻滅感が広がることにもなる。
お金より投票権
ロールズは、社会的基本財のなかで「自分を価値ある存在」と見なすための社会的基盤が最も重要なものであると示唆している。おそらく、自由と権利、パワーと機会、所得と富は、すべて「自分を価値ある存在」と見なすための社会的基盤の手段である、と考えてもよいのではないだろうか。
しかしロールズのユニークなところは、「自分を価値ある存在」と見なすための社会的基盤の手段として、経済的要因ではなく、政治的要因を重視していることである。
(略)
所得や富を平等にするよりは、政治的自由を平等にするほうが、セルフ・エスティーム(「自分を価値ある存在」と見なすこと)は高まると考えている。
(略)
ロールズにとっては、お金を持っていることよりも、みんなと同じ影響力を有する投票権を得ていることのほうに意義がある。そのほうが金銭面よりも、市民として、すなわち立派な社会のメンバーとして見なされることになるからである。
「平等な自由」と所有権
ここで注目したいのは、すでに述べたが、ロールズが「平等な自由」と所有権とでは、前者のほうを優先していることである。自由主義経済学者は、自由を財産・資産を自分の意志で保有し処分する権利と捉えている。所有権こそが自由の基礎の基礎だということである。一方、ロールズは自由を人間が能力を発揮するための条件と見なしており、所有権を自由には含めていない。さらに財産・資産は社会的協力によって生み出されたものであるから、個人には排他的な(他人を排除できる)権利はないと考えている。
すると、ここからはロールズが具体的には説明していないので想像するしかないが、格差原理が社会の基本構造に入っていることによって、以上の所有権や取引権にも、特別な意味が与えられるだろう。財産が社会のもの、みんなのものでないことはたしかであるが(共産主義になってしまうから)、完璧に個人の所有物というわけでもない。
市場取引についてロールズは、財やサービスの交換に関しては市場によって価格をつける方式を支持しているが、所得と富の分配がすべて市場の結果になる、いわゆる「市場原理主義」には反対している
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