ロールズのマルクス講義

ロールズ政治哲学史講義からマルクスに関するところをザクッと引用、意味不明の場合は現物にて。重たくなるのかと写真少なめ。つうかいらんか。

「賃金システムを廃止せよ」

「平等な権利とは、不平等な労働のための不平等な権利である」


ロールズ 政治哲学史講義 II

ロールズ 政治哲学史講義 II

正義に適った資本主義

マルクスは搾取を、市場の不完全性から、あるいは寡占的要素の存在から生じるものとみなしてはいません。(略)彼が白日のもとにさらしたいのは(略)資本主義秩序というものが、たとえそれが完全に競争的である場合でさえも、そしてその秩序に最も相応しい正義の構想を完全に満足する場合でさえも、それでもやはり、支配と搾取の不正な社会システムであるのはどのようにしてなのかという、そのあり方です。この最後の点が重要です。(略)正義に適った資本主義システムでさえも、搾取のシステムだとマルクスは言いたいのです。

アレン・ウッドその他の見解

(a)マルクスは『資本論』で、等しい価値どうしの交換(賃金と労働力の交換)としての賃金関係は、労働者に対する不正義を何ら含んでいないと主張している。
(b)『ゴータ綱領批判』でマルクスは、公正な、あるいは正義に適った分配についての社会主義者のいくつかの観念を深刻に誤っており間違った方向に進むものだとして攻撃している。
(略)
(e)マルクスが正義に関心をもっていたと言い張ることは、彼の見解を、賃金水準や所得の違いといった分配的関心によって特徴づけられる狭い、改良主義的な方向性に押し込めるという誤りを犯すことになる。こうした方向性に対して、彼のねらいは明らかにもっと根本的で、もっと革命的であり、私的所有と賃金のシステムそのものを変革することに関心をもっていたのである。
(f)(略)彼の主要な努力とは、現実的で能動的な歴史的諸力を明るみにだすことだった。(略)それなのにマルクスが正義に関心をもっていたと言うのは、そうした歴史的諸力の代わりにさまざまな道徳的論拠を待ち込むことになるだろう。しかしマルクスは道徳的論拠を観念論的なものとみなしており、それらについてきわめて懐疑的だったのである。
(g)おまけに、正義とは、それが法律的な価値であったがゆえに、完全な共産主義社会では効力を発揮しえないものと彼は考えていた。マルクスは完全な共産主義社会を、法規や国家といった法律的制度のないものとして構想していたとされる。

地主の市場参入

生産物はその生産者に対して、資本と資本家というかたちをとって――資本家とは実際には、たんに資本が人格化されたものである――一つの独立した力として対峙する。これとちょうど同じように、土地も地主によって人格化され、そして同じように一つの独立した力として突如立ち上がって、自分の助けによってつくりだされた生産物の分け前を要求するのである。したがって、土地がその生産性を復活させたり改良したりする見返りに、それに相応しい分の生産物を受けとるのは、土地ではない。その代わりに地主がこの生産物の分け前をとって、できるだけ高い値段でどこかへ売り飛ばすか、無駄に使ってしまうのだ」(略)
マルクスの軽蔑的な表現は、しばしばそういうことがあるのですが、彼の肝心な論点を見えにくくしてしまいます。ここでの要点は、地主が浪費家で怠惰で贅沢な暮らしを送っているだろうということではありません。(略)肝心な点は、地主がもっぱら所有者であることで報酬を受けとるということです。
(略)
 マルクスが、土地が「地主によって人格化される」云々と言うとき、このいくらか神秘的な語り方は、次の事実を指しているのだということに注意してください。すなわち、土地を所有している一つの経済主体としての地主が、その土地の使用に対する支払いを受けとるために、市場に参入するのだという事実です。

「賃金システムを廃止せよ」

もちろんマルクスは賃上げそれ自体に反対してはいません。それに彼は賃金を上げるために資本家との闘争をつづけるべきであると労働者に促しています。(略)
[1865年の]講義でマルクスは次のように言います。「「公正な一日の労働に対しては公正な一日分の賃金を」という保守的なモットーの代わりに、彼ら[労働者]は自分たちの旗に次の革命的な合言葉を書き込まなければならない。「賃金システムを廃止せよ」」。
(略)
(f)最後に考慮すべきなのは次の点です。諸々の道徳的観念について、とりわけ正義と自由、平等と友愛といった観念をただ語ることに対して、マルクスは懐疑的だということです。(略)
たとえば、分配における正義というものが、生産関係からは多少なりとも独立して改善されうるだろうと私たちは考えがちです。(略)けれども分配は生産関係から独立してはいない。生産関係こそが、マルクスの考えでは、根本的に重要なのです。

自由に連合した生産者の社会

全員がそれを理解し、全員がそれに参加する、民主的に到達された公共的な経済計画という観念です。
 自由に連合した生産者の社会がそのような計画に従うならば、イデオロギー意識は消滅し、疎外と搾取も存在しなくなるとマルクスは信じていました。(略)私たちは、自分たちがしていることをしているのはなぜであるかを理解しており、しかも私たちのしていることは、自由の諸条件のもとで私たちの自然的な力の数々を実現するのです。

不平等

個人のさまざま資質が不平等であることから生じる消費財の分け前の不平等[について]『ゴータ綱領批判』から(略)
「生産者の権利は彼らが供給する労働に比例させられる」。
「平等が存在するのは、平等な基準、すなわち労働[という基準を適用すること]においてである」。
「しかしある人は、別の人よりも、肉体的あるいは精神的にすぐれており、それゆえ同じ時間でも より多くの労働を供給する」。
「平等な権利とは、不平等な労働のための不平等な権利である」。
「個人の資質と、したがって生産する能力とが不平等であることは自然の特権として[認められる]」。
「したがってそれは、どんな権利でも同じことだが、その内容については不平等の権利である」。
(略)
「こうしたすべての欠陥を回避するためには、権利は平等である代わりに、不平等であるほかないだろう」。

共産主義社会

2 共産主義のこの記述で、マルクスにとって魅力的な特徴とは何でしょうか。第一に、「私たちの心のおもむくままに」ふるまえるという点です。私たちの活動は他の誰の活動とも調和的に進行します。私たちは私たちの好きなようにやり、彼らは彼らの好きなようにやり、さらに私たちは一緒にやってもよいのです。しかしそこには、道徳的制約や道徳的責務の感覚はいっさいありません。権利と正義の諸原理によって拘束されているという感覚もありません。
 共産主義社会とは、権利と正義について、道徳的責務についての感覚を日常的に意識することが、消滅してしまった社会です。マルクスの見解では、そうした感覚はもはや不必要であり、もはや社会的役割をもたないのです。