霧中の読書 荒川洋治

 

霧中の読書

霧中の読書

  • 作者:荒川 洋治
  • 発売日: 2019/10/02
  • メディア: 単行本
 

アーサー・ミラーの小説

[『存在感のある人』は]八五歳を過ぎて書いたものだが、印象はとてもみずみずしい。

(略)
次は「パフォーマンス」。ユダヤ人のタップダンサーのもとに、ナチスの高官が来て、ベルリンで一日だけ公演をしてほしいと。気がつくと、ヒトラーの前でタップダンスを見せていた。総統が気に入ったので、ここにとどまってほしいと言われたときには、さすがに危険だと思い、断ることに。「僕はユダヤ人なんです」と打ち明ける。するとナチスの高官は、あおざめた表情で、「初めまして」と言った。なんと不思議な、ことばだろう。ダンサーは言う。「僕はこう思った。この人たちはまさに夢を見ていたんだって」ここからさらにミラーは世界を押し開いていく。

 「裸の原稿」は、書くことに倦む小説家が、特別に大柄の若い女性を募集。裸の彼女の皮膚のすみずみにフェルトペンで文字を書いて作品を仕上げ、生気をとりもどす。

(略)

 最高傑作は「テレビン油蒸溜所」だろう。中南米の、ハイチの原野が舞台。自力でテレビン油の蒸溜所をつくろうとするアメリカ人。だが装置は、にわかづくり、部品も古い。無事に稼働したのかどうか。彼と、ほんのひととき会っただけの主人公は、三三年ぶりにハイチへ行き、男の消息を知るため山に入る。ハイチ人との淡いやりとりから見えてくるもの、異国への愛、社会の姿を見事に映し出す。 

存在感のある人:アーサー・ミラー短篇小説集

存在感のある人:アーサー・ミラー短篇小説集

 

則武三雄

一雄さんに高校生のとき出会い、終生ぼくは一雄さんのもとで詩の世界を知ることになった。

(略)

 さて前記の一雄さんの筆名は、則武三雄である。その短い詩を一つ。

 

 「ガーネット氏」

僕はガーネットがすきだ
何時か佐藤春夫が訳していた
ロンドンの郊外に出た男が
5ポンドの贋金をつかませられて
かえってくるとやはり5ポンドに使えた。
正真正銘の5ポ ン ド貨だった短篇
それから狐になった奥様の作者もやはりガーネットだった
僕もあんな小説が書きたい
日記に書きたい希望を書いている

『西東三鬼全句集』

『夜の桃』(一九四八)の代表句は、

 おそるべき君等の乳房夏来る

 中年や遠くみのれる夜の桃

 だろう。二句は同時期の作。「恋猫と語る女は憎むべし」「人の影わらひ動けり梅雨の家」「顔みつつ梅雨の鏡の中通る」のあとに「おそるべき」乳房が来て、「茄子畑老いし従兄とうづくまり」につづく。そのあとに「中年や」が現れる。掲載順が制作順とは限らないとしても、どのような流れで生まれ、動き出すのか。どのように流れは動くのか。全句集はそれを知る絶好の機会だ。

 みな大き袋を負へり雁渡る

 は、終戦直後の庶民風景を象徴する名句だ。(略) 

西東三鬼全句集 (角川ソフィア文庫)

西東三鬼全句集 (角川ソフィア文庫)

  • 作者:西東 三鬼
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 文庫
 

北村太郎『おわりの雪』 

ヨコハマの
さぎやまは谷の町で
家々の明かりは
いよいよ内へ内へと明かるくなり
谷のはざまに見える麦田の通りには
「個人」と灯したタクシーが一台
たちまち
海岸通りのほうへ消えてゆくのだった

中村薺『かりがね点のある風景』

中村薺詩集『かりがね点のある風景』(私家版・二〇一七)を開く。装幀もとても美しい本だ。そのなかの一編「ひととき」は、戦争の光景を記した。

 

 「ひととき」

袖をたくし上げた若い兵士が
スチールヘルメットに水を満たしたなかで
仔犬を洗っている
犬はヘルメットの縁に前脚を掛けながら
こちらを見ている
左目が潰れていた
銃弾を避け損ねたのだろう
塞がれた眼の周りが大きく腫れ
針の穴のように開いている目尻から
血と涙が流れていた
身を以て怪物に出会った最初のことだった

(略)
北緯三七度の
アフリカの光に
若い兵士が背後を曝しながら
布裂でいっしんに犬の背中を洗っている
自分自身になりきって
 「そうら、綺麗になったよ」
どこからも
なんの音もしない昼
   『ロバート・キャパ』より

 

 中村薺は一九三一年、石川県小松市生まれの女性詩人。よみは、なかむらなづな。この詩集には近作二七編が収録されているが、いずれも完成度が高い。「ひととき」は、末尾の注にあるように、報道写真家ロバート・キャパが撮った一枚の写真をもとに書かれた作品のようだ。(略) 

「幸福な王子」の幸福 

 子どものとき、童話はあまり読まなかった。

(略)

 新美南吉の童話では、かなりおとなになってから、「ごん狐」を読み、とてもいい作品だと思った。でも新美南吉の作品では「手袋を買いに」のほうが好きだ。

 子狐は、手袋を買いに行った。店に入ったら、光がまぶしくて、まちがえて、人間の手ではなく、自分の手を出してしまう。

〈「このお手々にちょうどいい手袋下さい」

すると帽子屋さんは、おやおやと思いました。狐の手です。狐の手が手袋をくれと言うのです。これはきっと木の葉で買いに来たんだなと思いました。〉

 狐だとわかっても、店の人は手袋を渡した。よかった。人間って怖くないと思ったという子狐に、お母さん狐は、いう。「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」と、つぶやくのだ。この結びのことばちいい。心にひびく。

 現代の童話は、どうか。いくつか読んでみたが、あまりいいものがないようにぼくは思った。いかにも子どもがよろこびそうなことを書いたり、時流に合わせて趣向を凝らしたものなどもあってにぎやかだが、総じて、ことばが雑で、おのずと絵も雑。いいものは、なかなかないように思う。

(略)

 童話を書き写していて、気づくことがある。童話は子どものために書かれているので、わかりやすさが第一。漢字の比率、送り仮名、句読点の場所など、文章の景色がおとな向けの本とはちがうのである。「手袋を買いに」は、一九三三年(昭和八年)の作品。いまの子どもには読みとりにくいところある。

 たとえば、「町に始めて出て来た子狐にはそれらのものがいったい何であるか分らないのでした」は、現在なら、「町に初めて出てきた子ぎつねには、それらのものがいったい何であるか、わからないのでした」のほうがわかりやすいかもしれない。以前の童話は一つのセンテンスに切れ目があまりない。「手袋を買いに」を読むと当時の人たちが、どういう呼吸で文章を読んでいたのかがわかる。(略)

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