分配的正義の歴史・その2 マルクスは道徳的な言葉を嫌った

 

しまった!前にも読んでたシリーズ。

同じ箇所を引用してるw

分配的正義の歴史 道徳的な言葉は非人間的 - 本と奇妙な煙

分配的正義の歴史

分配的正義の歴史

 

 道徳的な言葉は非人間的である、とマルクスは考えた

マルクスは分配的正義を擁護したと見なすのは間違いである。彼は、そのような用語を用いて資本主義への批判を展開したのではない。

(略)

なぜマルクスは正義の名のもとに資本主義に対する批判を表明するのを避けたのかについて、マルクス論者の間で激しい論争が続いている。

(略)

我々の目的からすれば、マルクスは分配的正義の明確な支持者ではなかった、というだけで十分である。

(略)

 個人の権利という考え方を批判した『ユダヤ人問題によせて』、権利への請願を「ブルジョア的表明」で「イデオロギー的に馬鹿げたこと」だと述べた『ゴータ綱領批判』、この二つの著作でマルクスは、正義が社会主義の思想に適合しないツールであるということを最も明瞭に打ち出している。マルクスは後者において、財の再分配への社会民主主義的な要求についても拒絶しており、実際のところ「何よりも分配を変更させるものとして社会主義を表明すること」を拒絶したのであった。

(略)

経済的分配を生産から引き離して扱うのは間違いである、とマルクスは考えている。第一に、分配されるべき最も重要な財は生産手段である。(略)

食料、衣服、住居が分配される以前に、まずは、土地、用具、その他の資本財が分配されなければならない。また、社会における勢力均衡の大部分は、消費財の分配でなく、これら生産要素の分配によって決定される。土地や資本財を所有する人々は、労働によって生きる人間において不足する消費財の分配に支配力をもつことになるだろう。だから「分配構造は生産構造によって完全に決定される」、というわけである。

(略)

 「人間らしくする」ことや「社会化する」こと(略)は、「より公平に」することや「公正に」することではない。

(略)

アレン・ウッドは次のように論じている。資本主義のもとでの労働者の搾取は公正である、とマルクスは考えたのだ。マルクスは「正義」のことを、固有の生産様式を保持する合法的関係を表す用語であると考えたのだ。そのような定義のもとで、資本主義の繁栄に寄与するあらゆる制度が、「公正」と呼ぶに値するのだと。
 しかし、このように述べるのは、資本主義を礼賛するということではない。それは、「正義」が有用な規範であるという理念に挑戦するということである。正義の基本的仮定――人間は社会的集団の一員である以前に、個人とみなされるべきである――は、人間本性に関するマルクスの構想と根本的に食い違っている。マルクスは、正義にとって個人の権利が極めて中心的であるとする考え方に怒りの矛先を向ける。人間は権利を保持する(略)という考え方に対して、マルクスは次のように述べる。それは、(1)極めて個人主義的である。(2)主に一八世紀ヨーロッパの思想における展開の所産である。(3)政治的領域と私的領域の明確な区別が存在するのであり、政治的領域の目標は私的領域における個人の自由の保護であり、そして人間が最高度の願望を実現するのは私的領域に限られるのであるという、個人を讃える構想にとっての要諦なのであると。

(略)
「隔離された個人」という考え方は、実際「一八世紀の個人こそが理想であるかのように想像力を働かせた一八世紀の提唱者」の道徳・政治思想の所産なのである。

(略)

個人を賛美する一八世紀の思想家たちが(略)商業だけでなく、宗教的慣行もそこに位置づけようと望んだ私的領域において、人間本性は最も繁栄するのだと。そのような権利の宣言は、マルクスが人間の「解体」と呼ぶもの、あるいはもっと穏やかに今日我々が生活の「区画化」と呼ぶものへと向かう、より一般的な運動の一部である。

(略)

我々が一緒に取り組み、互いの関心を理解しようと試みなければならない政治的領域は、私的領誠における我々の信条や利害を実現する能力を保護する主要手段となるのだ。大多数の一八世紀の思想家たちは、このように目論んだのであった――マルクスが嘲笑的に述べたように、「このようないわゆる人間の権利を保持するため」の「単なる手段」にすぎないと。

(略)

マルクスによると飲食や生殖のような明らかに本源的な私的行為は、あらゆる他の人間活動と統合され、そのような活動が単に彼自身の孤立化された生物的単位によって(略)果たされるのではなく、社会的な方法で果たされる場合に限って、「本当の人間的機能」となる。

(略)

我々は、社会化された方法というよりも個人主義的な方法で生活を送るように強いられる場合、最高度の形式の芸術(感覚的な満足)と最高度の経験的科学の両者を獲得するのに失敗するという。

(略)

 以後の分配的正義の歴史に最も顕著な影響を与えたのは、このような徹底的に社会化された人間に関する構想である。

(略)

マルクス自身は、いかなる意味でも「正義」の唱導者ではなかった。彼は、伝統的な正義の考え方で焦点となる諸権利を拒否したのであり、共産主義にいっそう適した正義という考え方のために、新たな意味を展開させようとはしなかった。実際のところ、彼は道徳的な用語をほとんど嫌っていた。道徳的な言葉は非人間的である、とマルクスは考えたのである。

(略)

カントによる自由を通じた道徳の正当化でさえも、マルクスからすれば道徳的規範を我々から離れた遠くに追いやるものなのである。道徳的規範が我々自身から遠く隔たっている場合、それは支配のための簡単な道具にされる。そして互いを叩きのめすために、他の人々に望むことをするように強要したりおだてたりするために、我々は道徳を用いがちである。適切に人間らしさを付与された一連の社会的規範というものは、外部から我々のもとに現れるのではなく、我々自身の規範として我々が――隣人たちと一緒になって――創造し、我々が日々形成するものとして、我々の前に立ち現れることになるのだろう。
 正義は――道徳において特徴的なように――、疎外された、驚異的な、他律的な様相を呈する。さらに正義は、個人主義のもつ疎外化する力を促進する。だから正義は、理想的社会では存在しないのであろう。

ロールズ 『正義論』

 ジョン・ロールズの重要性を明確に描写するためには、一九世紀初頭から『正義論』が出版される一九七一年にかけて登場したほぼすべての政治哲学に関する重要な著作が、以上四つのカテゴリーのいずれかに分類されるという点をおさえておくことが大切である。ロールズが筆をとったときに、政治問題に関する規範的な根拠を示そうと企てていたのは、マルクス主義者と功利主義者だけであった。さらに彼らでさえ、あらゆる規範的な主張は感情の表明であって、科学的・哲学的分析に属するものでないと考える、大流行の実証主義パラダイムを支持する人々からの絶え間ない攻撃に晒されていた。ロールズが実行したのは、非功利主義的な基調で道徳哲学への敬意を回復させる、ということであった。ここで彼の成し遂げた革命は、実に驚異的であった。『正義論』の出版から一〇年も経たないうちに、功利主義は衰退の途を辿り始め、大量の道徳体系が活動を再開することになった。かなりの部分は、功利主義を魅力的にしていたものを大量に借り受けること、マルクス主義実証主義者に見られる伝統的な道徳理論への批評を承認すること、およびこれらの批評に対して彼のスリム化したガント主義が応えうると示すことにより、ロールズはこの革命を成し遂げたのであった。
 もっと正確にいえば、ロールズがライバルたちと共有しているのは、道徳体系をまるで神から溢れ出して我々を監視するものと見なすような、道徳に関する疑似神秘的な見解に対する嫌悪感である。マルクス主義者、実証主義者、功利主義者と同様にロールズにとって、道徳体系は人間社会の創造物であって、人間が共に生活する際に生じる問題を解決するために考察されたものである。そのうえ、特に功利主義者と同様にロールズにとって、道徳体系は論争的な問題を解消する具体的提案をもたず、決定手段となるものを備えていなければ役立たずのものである。人々の間で生じるあらゆる具体的問題に道徳哲学者が解決策を提供できると期待することに対して、ロールズは自分の著作のなかに思慮深い戒めを扶み込んでいる。

(略)

 功利主義や同時代の他の道徳・政治哲学のパラダイムと比べた場合、ロールズが顕著に異なっている部分とは、個人の重要性を強力に主張している点である。『正義論』の最初の頁では、「各人は、全体としての社会の福利でさえ覆すことのできない、正義に基づく不可侵性を所有する」と宣言されており、そしてこの論点は、同書全体を通じて功利主義に対抗するかたちで用いられている。ロールズによると、功利主義の用いる方法論は「多くの人々が一つに融合される」というものである。そうではなく、「別々の異なる目標の体系を備えた別個の個人であるという複数性こそが、人間社会の本質的特徴である」と仮定することから開始すべきなのだという。(略)

ロールズは極めて真剣に人々を区別するからこそ、あらゆる人間の目的を一つの同質的な型(快楽)に還元しようとする功利主義にも抵抗するのである。ここから導かれるのは、ロールズによる最も興味深い提案の一つである。すなわち、正義は「基本財」――実際に何らかの人間的な目標を追求するために必要な財――の分配にのみ関連すべきで、究極の人間的な善を構成するものは何かという問題は棚上げにすべきだというのである。

(略)

ロールズは、人間の個人としての人格の重要性――だから社会がそれ自体のより大きな利益に反してでも、諸個人を保護する必要性――を強力に主張することにより、最終的に近代的な分配的正義の考え方を的確な位置で定義し始めるのである。

(略)

マルクス同様にロールズにとって、人間本性は社会の決定因というよりもその産物である。社会制度は、「人々が抱くようになる欲望や選好に[常に]影響を与える」ため、「人はいくつかの社会体制のなかから、部分的にはその社会体制自体が生じさせたり促したりする欲求や必要にしたがって選択せざるを得ない」。我々の「人生の展望」の大部分は、我々の暮らす政治構造や社会構造によって形作られ、さらに我々の能力や技能は、我々の社会によって決定的に形作られる。「様々な社会条件や階級観」は、我々の本来の能力が「発展し成熟する」程度に影響を与え、「努力しようとする意志、挑戦しようとする意志、さらに通常の意昧での適格者になろうとする意志でさえ、……幸運な家族や社会状態に依拠する」。さらに我々の「個人的性格」は、そのように社会によって形作られ、我々がほとんと制御できないものであるため、財を公平に分配する原理を考察する際に脇に置いておかなければならないものである。アリストテレスにおいて分配的正義を定義し、それを矯正的正義から切り離した報償は、いまや分配的正義という概念から完全に消失してしまっている。ロールズによると、応報的正義の対極にある分配的正義において、「必要性という教訓が強調され」、また「道徳的価値が無視されている」という。まさしくこれは、アリストテレスが二種類の圧政を分類した方法を逆転させている。そしてカントが人間の価値を説明し、絶対的価値――それゆえ等しい価値――をすべての人間に帰属させる際、このような措置は暗示的に表明されているのだが、ロールズにとってそのような問題に決着をつけるのは、性格の大部分が我々の社会の産物であるとするマルクスの議論なのである。