ゴッホの手紙 絵と魂の日記

 

ゴッホの手紙―絵と魂の日記

ゴッホの手紙―絵と魂の日記

 

[1880年6月]

一体何ができるのだろうか。内面に起こるものは、外面に現れ出るものなのだろうか。人間の魂には、大きな炎があるものだ。しかしながら、そこには誰も暖まりには来ない。通りがかりの人々は、煙突のてっぺんからわずかな煙が出ているのを見るばかりで、通り過ぎて行ってしまう。

 

では一体どうするべきなのか。内部の炎を燃やし続け、自らの内に刺激を保ち、我慢強く待つことだ。とは言え、誰かがやってきて炎の傍らに座りたがるかもしれない時を、もしかしたらそこにとどまりたがるかもしれないその時を待つのに、どれほど辛抱が必要なことだろうか。そんなことを、どうしてぼくが知っているだろう。神を信ずる者には、遅かれ早かれ訪れるその時を待たせておこう。

 

今はさしあたって、万事まったくうまくいっていない。かなり長い間こんな調子だったし、今後もしばらくの間このままかもしれない。しかしながら、何もかもが間違っているように見えた後に、すべてがうまく運ぶこともあるかもしれない。そんなことをあてになんかしていないし、おそらくは起こらないだろう。でも、物事が好転した時には、それはとても大きな進歩だと考え、満足することだろう。そしてこう言うのだ。「とうとうやったぞ! そうだ、結局のところ何かがあったのだ。

(略)

春、籠の中の1羽の鳥は、自分に得意なことが何かあることをよく知っている。やるべき何かがあると痛烈に感じていながら、それを実行することができないのだ。それは何なのか。よくは思い出せない。それゆえに漠然とした考えを抱くようになり、独り言をつぶやく。「ほかの鳥たちは、巣作りして、卵を産み、ひなを育てている。」そして、籠の柵に頭を打ちつける。籠はびくともせず、鳥は深い苦悩で気が狂うのだ。

 

通りがかった別の鳥が言う。「ろくでなしがいるぞ。あいつはのんびり寛いでいる。」しかしながら、捕らわれの鳥は生き延び、死ぬことはない。彼の内面で起こっていることが、外面に明らかになることはない。彼は元気であり、陽光の下では多少なりとも快活になる。けれども渡りの季節がやってくると、メランコリーの発作が起きる。「でも」と、籠の鳥を世話をしている子供たちは言う。「必要なものはすべて持っているのに」。だが、鳥は外に目をやり、黒く今にも雷雨が来そうな空模様を見ている。そして、心の中で運命に嫌悪を感じている。「私は籠の中にいる。私は籠の中にいる。だから何も不足はない。ばかな!必要なものは何でも持っているだって! ああ、後生だから自由を与えてくれ。ほかの鳥たちと同じように。」

[1882年7月31日]

ぼくの作品の市場価値について、いずれぼくの作品が他の作家のようには売れなかったとしたら、ぼくは非常に驚くだろう。売れるようになることが、今起こるかのちに起こるかについては、そんなにこだわっていない。自然に基づいて忠実に粘り強く、辛抱強く描き続けることが、ぼくにとって確固たる道と思われるし、それが無になるということになるはずがない。

 

自然に対する感情や愛情は、遅かれ早かれ芸術に関心をいだいている人々の心に、必ず響くものなのだ。画家の本分は、他人に理解してもらえるように、自然を深いところまで探究し、自身の知性を総動員し、自分の感情を作品にこめることだ。しかし、販売目的で仕事をすることは、ぼくの考えではまったく正しい道ではない。むしろ、芸術愛好家をあざむくものだ。

 

この地での知り合いの何人かの画家が、水彩と油彩に苦労して取り組みながら、答えを見つけられないでいるのを見る時、ぼくは時々思う。同士よ、問題はきみたちの素描にあるとね。今のところ、ぼくは、水彩と油彩にただちに取り組まなかったことを後悔はしていない。ぼくにとって確かなのは、素描さえ努力して取り組んでいけば、遅れを取り戻せるだろうということだ。だから、ぼくの手は、ためらいなく素描や遠近法に取り組んでいる。

[1883年9月15日]

ぼくは屋外で、何人かの素晴らしい人物を目にした。彼らの質素さが表すものに、心打たれた。例えば、女性の胸は重労働に激しく上下しており、なまめかしさとは正反対にあるものだ。老いたあるいは病気の哀れな人間は時に同情を誘うが、また別の時には尊敬の念を起こさせる。物事の憂うつな側面は、ミレーの素描にあるように、たいていは健全な種類のものだ。幸運なことに、ここの男たちは短ズボンをはいているので、脚の形が明らかで、その動きをより表現豊かにしている。

[1885年10月]

昨今の美術市場についてのぼくの悲観的な態度には我慢してもらいたい。というのも、きみを落胆させるつもりはまったくないからだ。ぼくは自分をこんな風に納得させている。絵画価格の異常な取引きは、ますますあのチューリップ貿易に似ているというぼくの見方が正しいとしよう。そして、過去のチューリップ貿易のように、ほかの投機部門とともにこの美術市場は、今世紀の終わりまでに、それが起こってきた時と同じように比較的早くに消えてしまうと仮定しよう。

 

チューリップ貿易は終わっても、園芸業はそのまま残る。だからぼく自身としては、良くも悪くも、自分の庭の花を世話をする園芸家でいられれば満足なのだ。

 

近頃、ぼくのパレットは次第にほぐれてきた。初めの頃の不毛な色づかいは消え失せた。

 

今でも時折、何かに着手して間違いを犯すことがあるが、色彩はそれぞれ自然に出てくるのだ。仮に、ある色を出発点とするならば、次に何色が来るのか、どのようにそれを活かすことができるのか、ぼくにははっきりとわかる。

[1885年11月]

ともかく、アントウェルペンは、確かに画家にとって、とても不思議で美しい街だ。

 

ぼくのアトリエは、十分我慢できる。というのも、壁にひとまとまりの日本の版画をピンで留めてみたところ、たいそう楽しげな感じになったのだ。知ってのとおり、版画には、庭や浜辺にいる女たち、馬に乗る男たち、花々、節くれだったいばらの灌木などが描かれている。

[1886年1月]

自分の習作を他人のものと比べてみると、奇妙なことに、共通点がほとんどない。

 

彼らの習作は、ほとんど肌と同じ色であり、だから近くで見ると非常に正確なのだけれども、少し離れて見ると、痛ましいほど平坦に見えるのだ。すべてピンクや繊細な黄色などだ。それ自体は柔らかなのだが、実際には堅い印象を与えている。ぼくが使うのは、近くでみると緑がかったピンク、黄灰色、白、黒、そして多くの中間色で、ほとんどの場合、同定することができない色だ。だが、少し下がって見ると、それが絵具を超えて、ふさわしいものとなる。絵の周りには雰囲気があり、揺れ動く光のようなものが絵の上に落ちている。同時に、最後には絵につやを与えるもっとも小さい色の点が、絵の中で主張し始めるのだ。

 

しかし、ぼくに欠けていることは実践だ。50枚はこうした絵を描く必要があるし、それでこそ何かを得ることができるだろうと信じている。今は、絵具を塗ることがあまりに労力を要するものとなってしまっているが、それはぼくが、まだそれに十分に習熟していないため、探求に大変な時間がかかり、へとへとになるまで働いているからだ。しかしこれは、辛抱づよく絵を描き続けるかどうかの問題であり、描き方を自分のものにすればするだけ、筆触はますます核心をついたものとなるのだ。

[1888年2月21日]

最初に知らせておくが、あたり一面銀世界だ。少なくとも2フィート(約60cm)は積もっていて、しかもまだ降り続いている。

(略)

ごくかすかなライラック色の山々を背景にして、赤土に葡萄の木々が植えられた素晴らしい眺めがいくつかあることに気づいた。それから雪景色だ。雪と同じくらい輝いている空に映える山々の白い頂は、まるで日本人が描いた冬景色のようだ。

[1888年3月18日]

この田舎の景色は、澄んだ空気と鮮やかな色彩という点で、ほくにとっては日本と同じくらい美しい。水が、風景の中で、日本の版画で目にするようなきれいなエメラルド・グリーンと豊かな青の斑点を作り出している。淡いオレンジ色の夕焼けが、地面の青からくっきりと浮き立つ。そして太陽はまばゆいばかりの黄色だ。このあたりの景色を、あの夏の輝きのもとでも見なければなるまい。ここの女たちは上品に着飾っていて、特に日曜など大通りに行けば、とても単純だが巧みな色の組み合わせを目にすることができる。きっと夏になればいっそう輝きをますことだろう。

[1888年6月5日]

ここの海を見て、ぼくは今や、この南仏にい続けることの重要性と、色彩をさらに誇張することの必要性とを、完全に確信している。ここはアフリカそのものだってそう遠くないのだ。

 

きみがここでしばらく過ごせたらいいのに。しばらくいれば、ぼくが感じたのと同じようにきみも感じるはずだ。ものの見方が変わり、ものごとをより日本人のような目で見るようになる。そして色彩に対してこれまでとは違った感覚を持つことになる。

 

実際、ぼくは確信しているのだが、ここにしばらく滞在することは、自分の個性を解放するために必要なことにほかならないのだ。

 

日本の芸術家はすばやく素描する。まるで稲妻のようにとてもすばやく。それは彼らの神経がより繊細で、より単純な感覚を持っているからだ。

 

ここに来てまだ数ヶ月にしかならないが、パリにいてぼくが船の素描をわずか1時間で描くことができたと思うかい? それも透視図制作用の枠さえ用いずに。それができたのは、計測などせずに、気のおもむくままにペンを走らせているからだ。

[1888年7月22日頃]

ぼくがその上に何かを描いたカンヴァスは、白紙のカンヴァスよりも価値があることは確かだ。ああ、これこそぼくにとって、絵を描く権利、絵を描く理由のすべてなのだ。信じてほしい、ぼくはこれ以上のものを望むことはない。

 

そして結局のところ、ぼくは犠牲を払ってきたのだ。ぼくが送ることのできる、そして送らねばならなかった生活のために、つまり博愛主義者としての生活を送るために、ぼくの身体は痛めつけられ、頭は混乱させられてしまった。

 

ぼくの集中力はいよいよ高められつつあり、筆触はより確かなものになりつつある。

 

だからあえてきみに約束しよう。ぼくの絵はもっとよくなる。なぜならぼくが残したのはこれしかないのだから。

[1888年9月17日頃]

こんな機会を持ったことがなかったせいだろうか、ここでは自然がとびきり美しく感じられる。いたるところ、あらゆるものが美しいのだ。天空は輝くように青く、太陽は薄い硫黄色の光を放つ。それは、フェルメールの絵画における神々しい青と黄色の組み合わせと同じくらい柔らかく魅力的なのだ。そんな風に美しく描くことはできないが、あまりにも夢中になるあまり、筆が進むに任せ、規則などすべて忘れてしまう。

 

印象主義の中に、ぼくがウジェーヌ・ドラクロワの再生を見ていることは事実だ。だが解釈としては、両者は非常に異なっており、ある程度までは互いに相容れない。印象主義が、皆が従うような原理を作り出すことはないだろう。

 

そういうわけで、ぼくは印象主義者たちの中にとどまっている。印象主義は何も主張しないし、何かを約束するわけでもない。そして彼らの中にいれば、ぼくは自分のことを説明する必要がない。

 

スーラはどうしているかい。すでにきみに送った習作を、彼にあえて見せようとは思わないが、ひまわりや宿屋や庭などを描いた作品は、彼にはぜひ見てもらいたいと思う。ぼくは彼の理論についてよく考える。その理論にぼくが従うことはまったくないが、彼は独創的なコロリスト(色彩画家)だ。異なるレベルではあるが、シニャックにしてもそれは同じだ。彼らの創案した点描法は新しいものだし、事実ぼくは彼らのことがとても好きだ。だがぼくに関しては、きみには正直に言うが、パリに出る前にやろうとしたことに戻ろうとしている。ぼくより以前に暗示的な色彩について語った者がいるかどうか知らないが、ドラクロワとモンティセリは、それについて語っているわけではないとしても、暗示的色彩を実践した画家だ。