試される民主主義(下) 20世紀ヨーロッパの政治思想

試される民主主義 その3 - 本と奇妙な煙 上巻の続き。

キリスト教民主主義

自身国防軍の兵士で、ソ連で捕虜生活を経験したドイツの歴史家ラインハルト・コゼレックがのちに述べたように、死は「もはや何かに対する答えとは考えられず、ただ問いと見なされたし、もはや意味を与えるものとしてではなく、ただ意味を叫び求めるものとして理解された」のである。

 ハンナ・アレントは、「悪の問題が、戦後ヨーロッパの知的生活の根本的な課題となるだろう――第一次世界大戦の後に、死が根本的な問題となったように」と予言した。さらに彼女は、全体主義の経験がヨーロッパ史における深い断絶をなすこと、過去はもはや現在を照らさないこと、そしてナチが誰にも不可能と思われたことを試みたため、それを目撃した世界では政治的思考を根本的に再検討する必要が生じたことを強調した。

 しかし、「悪の問題」をめぐって多くのヨーロッパ知識人が無理やりながら出した解答は、全体主義をヨーロッパの政治経験におけるひとつの断絶として深刻に捉えるものではなかった。彼らの時代診断は、二〇世紀の大変動が「大衆」の興隆に起因しているという、全く陳腐な紋切り型のものだったのだ。オルテガの『大衆の反逆』のような本が、一九三〇年代初頭から五〇年代後半にいたるまで、多くの西欧諸国において哲学書のベストセラーであり続けたことは、その点で示唆的である。大衆の政治への闖入という不吉な運命のお話は、フランス革命に始まっていたが、どんどん引き延ばされていって、いまや第二次世界大戦をも含むようになった。結局、第二次世界大戦は、どことも知れぬところから出てきた、「大衆」的人間を体現した男によって始められたのではなかったか。一九四六年に「ドイツの崩壊」の原因を論じたドイツの歴史家フリードリヒ・マイネッケは、「ヒトラー主義」を「大衆マキアヴェリズム」の一形態と断じたのち、大衆はまださらに「前進している」と主張した。アレントは、大衆の出現が全体主義の前提条件であったという考えを提示した。その際、大衆は、固有の自己をもたないという意味で、「余計者」で「無個性」という印象によって特徴づけられた。彼女はまた、「大衆的人間の主たる特徴は、野蛮さや後進性ではなく、孤独と、通常の人間関係の欠如である」と主張した。

(略)

伝統的なヒエラルヒーと権成関係の解体は第二次世界大戦を通じていっそう進んでおり(略)

いまでは誰もが「大衆」になりえた。

(略)

 最も鮮やかな過去との決別を約束し、しかも最も根源的な自由の捉え方を強調したのは実存主義であった。人間は自分自身をゼロから作り上げることができる。あらかじめ定められた「人間の本質」などはなく、ただ実存だけが存在する。確かに歴史というものは存在したし、それをヨーロッパ人は最も恐ろしい形で経験したところだ。しかし、その過去との関係においてさえ、進歩の確実性が存在しないところで、自己超越し、新しい種類の行動を自ら選び、状況に倫理的に対決する個人の可能性は存在するのである。

 これは抽象的に、あるいは若干青臭い風に聞こえただろうか。それにもかかわらず、もしくはそれゆえに、実存主義は文化のスタイルとして途方もない影響力をもったのである。

(略)

 確かに、戦争直後の雰囲気は一九一八/一九年に劣らず革命的ではあった。資本主義は大恐慌のせいで信用を失なっていた。多くの知識人の目には資本主義がファシズムへの地ならしをしたように見えた。権力を維持する目的で資本家が手にした道具がファシズムだったという見方がマルクス主義者以外にも広まっていた。ところが、第一次大戦直後と違って、巨大なストライキの波は発生しなかったし、工場評議会なども生まれなかった。

(略)

 戦間期とのもうひとつの明らかな(略)違いは、ヨーロッパが全体として、もはや自分自身の運命の主人公ではないという点だった。

(略)

 安定こそが戦後西ヨーロッパの政治的想像力の主要な目標、希望の星となった。法律家や哲学者に劣らず政党指導者たちも、とくに過去の全体主義の再現を回避するよう設計された秩序を樹立しようと目論んだ。彼らの見るところ、ヨーロッパは過去に無制限の政治的ダイナミズム、制御の利かない大衆、それに抑制を全く欠いた政治主体――浄化されたドイツ民族共同体――に振り回されてしまった。それに対抗するため、西ヨーロッパ人は、人民主権に対する不信に色濃く刻印された――実際には伝統的な議会主権にさえも懐疑的な――高度に抑制された形の民主主義を作り出したのである。

(略)

 別の言葉で表現すれば、戦後の西ヨーロッパでは、新しい、緩和されたヴェーバー風の政治が勝利したのである。

(略)

西ヨーロッパに出現したのは、かつて存在した自由主義秩序の復興ではなく、全く新しいポスト・ポスト自由主義の秩序で、反全体主義を強く刻印された諸制度とそれに付随する正当化言説(道徳的判断は前面に出されなかった)とから成り立っていた。

(略)

 新たな半自由主義的な諸制度と、反自由主義とは言わないまでも明らかに非自由主義な政治言説の組み合わせ――これこそ一九四〇年代後半から五〇年代にかけて政治思想と政治制度との関係に存在した巨大な逆説であった。(略)

キリスト教民主主義である。これこそ戦後の最も重要なイデオロギー上の革新であり、ヨーロッパの二〇世紀全体のなかでも最も重要なもののひとつである。一九四五年以降の数十年、西ヨーロッパでは社会民主主義がついに全面開花した、とよく言われる。しかし、そういうことはほとんどなかった。スウェーデンデンマークのようないくつかの国では以前から社会民主主義が開花してきたけれど、大陸西ヨーロッパの核になる国々、つまりドイツ、イタリア、ベネルクス諸国、フランスで実際に戦後の国内秩序の建設、なかでも福祉国家、現代行政国家の建設を中心になって進めたのはキリスト教民主主義だったのである。

(略)

戦後のキリスト教民主主義が、カトリシズムと近代社会との融和をもたらしたのである。さらにキリスト教民主主義は、異なる宗派間の平和(少なくとも休戦)も達成した。ドイツのような国では、間違いなく宗教改革以来初めてのことであった。

ジャック・マリタン

 前章で見たように、ファシズムは戦争のおかげで完全に信用を失っていた。カトリック権威主義体制は、かつてもっていたファシズム的傾向からいまや距離を置くようになった。つまり、ますますカトリック的になったのである。フランコサラザールはさらに数十年死んだふりをして体制を維持し、他国に多くの崇拝者をもっていた。けれども他方で、西欧で永く続いた反革命の伝統に戦争がとどめを刺した点も否定できない。反革命の発祥の地フランスでそれが最も鮮明に現れた。ヴィシー体制は占領のおかげで「国民革命」に失敗し、さらには王党派と宗教右翼運動の夢が長い間博してきた信用も失わせてしまった。

 しかしながら、最も大きな変化は、戦後ヨーロッパでキリスト教民主主義が近代世界と折り合うからといって、恨みがましさや、嫌悪感をもたずに仕事ができるようになった点である。キリスト教民主主義者が本当に民主主義者になったのだ。(略)

キリスト教民主主義者はさらに人権をカトリック固有の世界観に不可欠なものとして受け入れた。この展開はフランスの哲学者ジャック・マリタンの役割を抜きにしてはほとんど理解できないだろう。マリタンは著名な共和派の家系に生まれ、ソルボンヌの哲学生としてその知的生活を始め、右派勢力に抗してドレフュス大佐を支持した。一九〇一年にマリタンはロシアからの亡命ユダヤ人の、ライサ・ウマンソヴァと大学で知り合った。(略)

一九〇三年、日の輝く夏のある日、植物園で恋人同士は、もし一年以内に無意味に見える人生に対する答えを見つけることができなければ一緒に自殺しようと言った。しかし彼らは答えを見出した。それはカトリック信仰だった。

 マリタンは熱烈な、そして明らかに右翼的なカトリックとなった。(略)

一九二六年に教皇庁が「アクシオン・フランセーズ」を、実際には無神論者であるのに、カトリックを政治の道具として使っていると非難すると、暫くの間マリタンは運動の指導者シャルル・モーラスとヴァチカンとの間を取り持とうと努め、その後、運動から完全に足を洗った。そうは言っても、彼は依然として近代世界にはきわめて批判的であり、とりわけプロテスタンティズム自由主義に対して厳しかった。彼の信仰は台頭してきた人格主義とぴったりだった。

(略)

スペイン内戦でのフランコの行動を現代の十字軍として支援することを拒否した点で、マリタンはヨーロッパの多くのカトリックと異なっていた。そうして彼は、人権および民主主義という近代思想と力トリックとの哲学的宥和という課題にとりかかった。

 一九三〇年代半ば、アメリカとカナダの大学がマリタンを講義に招待し始めた。大戦が勃発したとき彼は北米におり、そのまま留まる決心をした。(略)

 いくぶんかはアメリカの例に刺激されて、マリタンは、彼が考えた民主主義とキリスト教との間にある内的連関をもっと率直に宣伝し始めた。一九四二年に彼が書いた『キリスト教と民主主義』というパンフレットは、連合軍の飛行機でフランスの空からばら撒かれた。そのなかで彼は「民主主義はキリスト教と繋がっており、民主主義の衝動は福音の霊感の道徳的表明として人類の歴史に初めて現れた」と主張した。そしてさらに大胆に「民主主義こそ政治の道徳的合理化をもたらす唯一の道である」と宣言した。(略)さらにもっと強い調子で「民主主義は脆弱な器に人間のこの世の希望を、もっと言えば生物学的希望を入れて運んでいる」と言明したのだった。

(略)

彼は国家に懐疑的であり、とりわけ主権の概念に批判的だった。人民主権概念の創始者とされるルソーだけでなく、ルターも二〇世紀中葉の災厄のゆえに非難された。マリタンは次のように論じる。「政治哲学は「主権」を言葉としても概念としても除去しなければならない。それが古くなったからではなく……主権の概念が克服しがたい困難と理論的紛糾とを国際法の世界に作り出すからである。さらに、真の意味で考えると……この概念は本質的に誤っており、これを使い続ければ必ずわれわれを誤った方向に導くからである」。

 マリタンにとって「主権」は「分離」と「超越」を意味した。そして国王も人民も政体から適正に分離することはできない。神のみが主権者なのだ。同時に「人格」の概念は、超越性に対して開かれていることのシグナルそのものであった。彼が、多元主義的で人格主義的な民主主義のもとで実現することを願った「神中心の」人間主義とは、「自然にして超自然的な全体存在としての人間」を正当に取り扱おうとするものであった。だが、「神中心の(theocentric)」とは「神権的(theocratic)」という意味ではない。「新しいキリスト教の現世秩序は(類比的に言えば)中世のそれと同じ原理に立つけれども、世俗的キリスト教徒の、聖化されない現世秩序を意味するだろう」と彼は主張した。

 マリタンの見解を支えていたのは、究極的には神法に由来し、人類固有の目的を特定する、強度にトマス主義的な自然法概念であった。したがってマリタンにとって、自由とは放縦や欲望への恣意的従属ではなく、自然法の与える目的の十分な実現にあった。彼が労働者の権利や、ついには生存権全般の重要性に固執した背景はここにあった。そうした権利はこのような人格の適正な実現に欠かせないものだったからである。

 マリタンの思想はカトリック思想家内の議論に留まってはいなかった。彼は国連の人権宣言作成にあたって中心的役割を果たしたし、ド・ゴールは戦後、彼を説得してフランスのヴァチカン大使を引き受けさせた。聖庁の側も彼の考えの多くをのちに承認した。(略)

しかしながら、妻が一九六〇年に亡くなって以来、トゥルーズ近郊の修道院に隠棲していたマリタンは、教会が「近代主義」の方に行きすぎたと考えるようになった。自由主義的な立場に対する彼の辛辣な批判は、彼の支持者の多くからは怒りと無理解をもって迎えられた。彼は自分の生涯をかけた哲学を否定するというのか。それでも、カール・シュミットのような頑固な右翼カトリックは彼を「悪夢マリタン」と非難し続けたし、他方、ハンガリーのアウレル・コルナイのような保守派にとっては「かわいそうなトマス・アクィナスに民主主義の世俗的使徒のぼろをまとわせる」マリタンの努力は全く信用できないものであった。鉄のカーテンの東ではポーランドの哲学者レシェク・コワコフスキが、新トマス主義の傾向全体を、私有財産を正当化し維持するための絶望的手段だとして攻撃した。

 しかしながら、西ヨーロッパで新たに立ちあがったキリスト教民主主義政党にとって、マリタンの思想は重要な引照基準を提供した。もっとも、フランスのトマス主義者マリタンは公然とキリスト教政党を創ることには必ずしも好意的ではなかった。キリスト教は政治生活の「酵母」のような存在であるべきだと彼は感じていたのである。マリタンの哲学が特に重要性を帯びたのは、イタリア憲法の起草に関わった左よりのキリスト教民主主義の思想家グループに対してだった。(略)

彼らは人格主義の著作を貪るように読み、個人主義を批判し、なかでも人格は共同体と結び付いているという点を推奨した。

産業社会

大陸では技術者支配[テクノクラシー]、あるいはヴェーバーの「鋼鉄の容器」はずかしげもなく推奨された。その「容器」のなかに安全があるように見えたからである。「容器」は、バーカーの言う「愉快さの場」ではないにしても、消費中心の新たな時代にあっては、少なくとも快適なものであった。フランス共産党の詩人ルイ・アラゴンのような批判家が「冷蔵庫の文明」と嘲笑しても、気にするには及ばなかった。

 産業社会、あるいはフランスの社会学者レイモン・アロンが言う「科学的」で「合理化された」社会は、いまや国家に依存しなくとも、何とか自ら安定化できると断定したい空気があった。シュミットの弟子のひとり、ドイツの法学者エルンスト・フィルストホフは一九六〇年代末に「社会総体の中核はもはや国家ではなく、産業社会である。そしてこの中核の特徴は完全雇用とGNPの増加である」と明言した。フォルストホフの診断の当否は別として、西ヨーロッパが急速に近代化しており、近代化が永く続いたイデオロギー対立、端的に言えば階級闘争を終わらせるだろうという感覚は広く見られたのである。ドイツの社会学者ヘルムート・シェルスキーはこれを「平準化された中産階級社会」と診断した。

(略)

 それどころか「大衆」という表現も消滅した。「大衆」がヨーロッパ知識人の議論の中心から外れたのはいつからか確言はできないが、一九六〇年代初頭には価値中立的な「社会」や「産業社会」がそれに取って代わったことは疑いない。少なくとも暫くの間、文化批判に代わって、社会学が、その高度に抽象的な概念とともに、政治的思考の通奏低音となる傾向を見せた。

 憲法裁判所の創設

政治制度にも安定を担う役が期待され、最後にはハンス・ケルゼンが「憲法技術」と呼んだものに決定的な革新がもたらされた。二〇世紀のヨーロッパ全体を通して最も重要な技術革新のひとつが、憲法裁判所の創設である。(略)

司法審査というこの固有の概念は三〇年以上前に遡る。ケルゼンは第一次大戦後に起草したオーストリア憲法にこの制度を含め、一九三〇年に反ユダヤ主義の攻撃を受けて辞任するまで自ら憲法裁判所判事として活躍した。(略)

[シュミットとの論争で]ケルゼンは、そうした憲法裁判所だけが憲法の最終的「番人」たりうると主張した。それに対してシュミットは、大統領にその役を割り当てマックス・ヴェーバーにより近い立場で論じた。当時のドイツの政治エリートたちは、ケルゼンよりもシュミットと歩みを共にした。

 一九四五年以後、伝統的に司法審査に懐疑的だった諸国――とりわけフランスでは「裁判官の統治」として忌避されていた――でも、違憲立法審査権の概念は結局受け入れられた。憲法裁判所は伝統的な人民主権に制限を加え、ときにはそれと矛盾するように見えたが、民主主義のもつ潜在的全体主義の危険に敏感だった戦後の時期にあっては、抑制・均衡をもっと強化することにまさに主眼点が置かれた。予期していなかったのは、憲法裁判所が行政とも矛盾したことである。西ドイツ基本法の設計者のひとりだったアーデナウアーが、彼の再軍備案に憲法裁判所が反対し始めたとき、「われわれが想定したことと違う」とこぼした通りである。

次回に続く。