試される民主主義 その3

前回の続き。

試される民主主義 20世紀ヨーロッパの政治思想(上)

試される民主主義 20世紀ヨーロッパの政治思想(上)

 

ファシスト的解決

 ファシストたちは、指導者と人民との神秘的とも言える合一──感覚あるいは「霊性」のようなものに基づく合一──を信じていた。こうした考えは、一九世紀末に端を発する大衆心理に関する擬似科学全体によって支えられていた。この科学はとりわけヒトラーに影響を与え、のちに『我が闘争』において忠実に再現されることになる。伝統的な保守主義とは異なり、ファシズムは大衆に依拠する政治形態として自らを規定していた。ファシズムはとくに、第一次世界大戦における犠牲と受難の共同経験を通して政治化された「大衆」を、訴えかける対象に据えていた。かくしてファシストたちは、権力に到達するための手段として大衆政党も活用したのである。一九世紀の自由主義者保守主義者たちとは異なり、ファシストたちは、社会における共通善を家父長主義的に扱おうとする名士や官僚の小さなエリート集団の伝統には固執しなかった。

 以上と関連する点として、仮に「近代」という言葉をテクノロジーや科学と理解するのであれば、ファシズムは近代に対して異議を唱えなかった。実際、とりわけイタリアのファシストは、飛行機や戦車、そして速度一般を理想化した。

(略)

すでに一九〇九年の時点で、のちにイタリア参戦の熱心な支持者となるF・T・マリネッティが、「未来派宣言」において以下のように述べている。

われわれは、この世で唯一清潔なもの、すなわち戦争を賛美し、軍国主義愛国主義、自由をもたらす者による破壊への意思表示、命を賭けるに値するもののために死ぬという美しい考え、女性への侮蔑を賛美する。……われわれは博物館を、図書館を、ありとあらゆる学術の機関を破壊し、道徳主義、フェミニズム、そしてすべての日和見的で功利主義的な臆病さに戦いを挑む……。

未来主義(そしてこれに触発されたファシスト的思考の諸要素)は、祝祭としての戦争の概念とともに、「戦争は、新しい飛行機の時代において、われわれを導くことのできる唯一の舵である」と標榜した。この舵は道を誤ることがないように思われた。なぜなら、未来派の単純な等式によれば、「戦争は死なない。なぜなら、戦争は生を司る法則のひとつだからである。生とは攻撃であり……戦争とは人民の強さを試す不可欠かつ流血を伴う試練」だからであった。未来主義は、専門政治から料理のような重要な日常の事柄に至るまで、生を包括的に改造することを意図していた。一九三二年に刊行された『未来派の料理』と題する調理本では、イタリア人はパスタを食べるのをやめるべきとされた。パスタは、マリネッティが言うところの無精、不能、臆病につながるのであり、その代わりに、パイナップルとイワシといった超現代的なレシピを採用すべきなのであった。

(略)

ドイツでも、あらゆる立場の思想家たちが、資本主義の規範に従属させられている技術を、ファシズムは解放できると期待していた。経済的および技術的諸力のすべてを、資本主義的な個々の事業家が無計画に用いるのではなく、国民共同体のために、より合理的に動員できるのではないかと期待されたのである。文筆家のエルンスト・ユンガーが「総動員」と名付けたものは、国民のために近代的テクノロジーを完全に活用すること、および国民──完璧に動員された集合体と理解されていた──を完全に組織化することと理解されていた。トーマス・マンは、想像の過去へのノスタルジーと最先端のものとの奇妙な組み合わせの混合を捉えようとした結果、「高度に技術化されたロマン主義」という表現を生み出している。

 この点は、ファシズムの支持者、およびファシズムの多くの観察者が、意志の非合理的な賛美としてよりも、時代の課題への説得力ある実際的な回答としてファシズムに引きつけられた理由のひとつを示している。当時、それだけではないにせよ、大恐慌によって引き起こされた問題への回答がとりわけ必要とされていた。こうしたなか、ファシストたちは、社会主義と資本主義の最良の部分を組み合わせた「中間の道」あるいは「第三の道」といった経済政策を提案した。ケインズ主義の理念と同様、彼らは失業問題に取り組むために公共事業のプログラムを支持した。

(略)

ファシズムは伝統的なエリートの関心も引きつけた。ファシズムは、急進的社会主義から彼らを保護するとともに、自由市場の最悪の失敗に対する一連の解決策も提供するように思われた。とにかく、ムッソリーニは実際にローマに進軍したわけではなく、ミラノからの急行列車の寝台車に乗って到着し、出迎えを受けたのである。彼は国王から首相に就くように請われ、すぐさま「陛下の忠実なる下僕」として要請に応えている。ムッソリーニの進軍に参加していたのは、「革命を楽しんでいた素人の軍人であり、貧弱な装備(狩猟用のライフルや古い軍隊の銃と僅かな弾薬)しかしていなかった」。仮に正規軍が止めようとすれば、彼らは全く対抗できなかっただろう(もっとも、彼らのほとんどは首都から約二〇マイル離れたところで止まってしまったのだが)。ヒトラーの場合と同様、伝統的なエリート──そして中産階級有権者──の間では、考えられうるすべての方策はすでに試されており、政治形態としての議会主義政府は終わってしまったという感覚が共有されていた。実際、武力で「権力を奪取した」ファシスト指導者は存在しない。国王からであれ保守的な大統領からであれ、彼らはいずれも任命されたのである。

コーポラティズム

 では、時代の問題に対し、ファシストたちが提供すると想定された解決法とは何だったのか?理論的には、それはコーポラティズムであった。コーポラティズムとは、社会を多様な産業別に雇用者と労働者の集団に明確に区分けしたうえで、そうした集団がすべて国民の善のために協力するというものである。コーポラティズムは、階級対立の問題、および懸案の経済分野における意思決定への個々人の参加という問題の双方に答えるように思われた。

(略)

 ムッソリーニは、コーポラティズム(略)のことを、「全世界にとっての利益」であり、ファシスト政治思想による主要な貢献のひとつだと喧伝した。

(略)

 ライヴァル、つまり非ファシスト的なコーポラティズムの理論は、なかでも、しばしば権威主義的傾向を伴ったカトリックの思想家によって精緻なものに仕立て上げられた。たとえば、オーストリアの著名な社会学者オトマール・シュパンは(略)ドイツ・ロマン主義に基づいて、社会を身体として理解した。職能身分団体がその手足を構成し、全体として調和をなす形で活動すると想定された。すべての人にとって利益となるような筋の通った社会的解決や「客観的価値」による支配が、議会の恣意的な妥協に取って代わるはずであった。シュパンの複雑な用語法に沿って言うとすれば、「等級」と有機的不平等が、民主主義的な、したがって「非有機的」な平等に取って代わることが重要だった。

(略)

主眼は明確であった。すなわち、階級闘争を終わらせることである。

(略)

イタリアでは、ファシスタ協同組合が実際に公的な国家機関となった。各組合は、労働者と(理論的には)雇用者とに規律を課し、国民生産に関して政府に責任を負うこととなっていた。ファシストの哲学者ウーゴ・スピーリトは、次のように補足している。構想は「経済的調停についての偉大なる実験として、……階級利益と国家の上級の利益との和解に向けた努力として」始まった。最終的には、階級的差異を完全に超越し、総合的な社会的統合をもたらすことが想定されていた。

(略)

スピーリトはさらに私的所有を「組合所有」へと転換し、労働者たちが会社の一部を所有し運営する形態までも望んだ。この考えは、予想通りイタリアの経営者の間に懸念を呼び起こし、決して実現することはなかった。その間、スピーリトはシチリアに追放された。いずれにせよ彼が後に共産主義者になったのは、それなりに首尾一貫していたのである。

 一九三〇年代末までに、イタリア国家、あるいは半政府機関や「公社」は、イタリア経済の主要部分を管理下に収めていた。実際のところ、イタリアはソ連に次ぐ大きさの国家セクターを有していた。コーポラティズムは、成功した、あるいは少なくとも信用できる、経済・社会政策へのアプローチと広く見なされた。アメリカでも、はっきりとムッソリーニファシズムに魅了されたニューディーラーが現われた。

(略)

哲学者のジョヴァンニ・ジェンティーレ(略)

にとって、国民とは、意志に基づいて選択され、想像された共同体であった。(略)

伝統的なナショナリズムの問題は、まさに国民を何か所与のもの、超越的で外部からもたらされたものと理解していることだった。しかし彼からすれば、人間の意志や道徳的選択を超越したものなど何も存在しなかった。伝統的なナショナリズムは、あまりに歴史的で「自然主義的」であって、彼の観念論にしっくり合うものではなかった。彼からすれば、ファシズムとは国民の継続的な創造であるべきだった。右派であれ(グラムシのような)左派であれ、イタリアの多くの知識人がそうであるように、彼も一九世紀のイタリア国家統一は完成しておらず、有名な言葉が示すとおり、統一はイタリアを創り出したもののイタリア人を創っていないと考えていた。

(略)

 倫理的国家は全体国家、あるいはむしろ全体主義国家であろうとした。それはつまり、「すべてが国家のなかにあり、国家の外部には何も存在せず、国家に敵対するものも存在しない」ことを意味していた。だが他方でジェンティーレは、これが正真正銘の民主主義の形態であり、集団的政治行動を生み出すうえで最良の方法だとも主張し続けた。一九二七年、彼は『フォーリン・アフェアーズ』誌上でアメリカの読者に以下のように説明している。

ファシスト国家は……人民の国家であり、つまり、抜きんでた存在の民主的国家なのである。国家が存在するのは、市民が国家を存在させようとする限りにおいてであり、国家と市民(個々の市民ではなく、市民の総体という意味)との関係についても、その点を前提とした形となる。それゆえ国家の形態は、個々人の、すなわち大衆によって意識されている形態と同一となる。それゆえに党組織が必要なのであり、ファシズムがドゥーチェの思想と意志を大衆の思想と意志にするうえで用いるプロパガンダと教育の実行組織が必要になるのである。そこから、ごく小さな子供も含めて人民大衆の全体を党の手中に収めるという、ファシズムにとっての巨大な課題が生じてくる。

(略)

[フェリーニ『アマルコルド』]

ファシズム下での成長を瞑想しながら思い出すこの映画では、体制が絶えず市民に対して行う全体主義的な要求の前景に、それを覆い隠す圧倒的な「正常さ」の存在が示される。もちろん、政治的な嫌がらせやヒマシ油による拷問もあるにはある。しかし、より暗示的に描かれているのは、国民の内的営みが徐々に形を変えていくという感覚である。彼らは自分たちの恐怖や欲求をドゥーチェに投影させる。ファシストのパレードが街で行われている際、ムッソリーニの巨大な仮面が、ある太ったさえない少年のイマジネーションのなかで突然生命を帯び、少年が憧れている少女を獲得してくれたりする。最終的には、すべての人びとが直接的に抑圧されるのではなく、幼稚化されていくように視聴者には感じられるのである。

 倫理的国家によって市民の内面が再形成されると考えられていたにもかかわらず、ドゥーチェが国民に対する掌握を簡単に失ったことは驚きである。一九四三年、国王とファシスト大評議会がムッソリーニの指導権について考えを変えると、体制は簡単に崩壊し、軍隊ですら、一八世紀の軍隊のように一晩で立場を変更した。振り返って見ると、国王がずっと正統性の最終的な源泉であり続けていたように思われる。ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が、ドゥーチェに対する支持をひっこめ、代替的な制度カリスマを有していたファシスト党も彼に信頼を置かなくなったとき、全体主義は終わった。ムッソリーニ自身が認めざるをえなかったように、「ファシズムの前に君主国が存在し、ファシズムの後にも君主国が存在する」のであった。このように、初めて「全体主義的」と呼ばれ、最終的には自らもそう呼ぶようになった体制は、「本当の」全体主義をもう一歩で実現するところまで行ったけれども、そのために伝統的なエリートにあまりにも多くの妥協をせざるをえなかったのである。

(略)
 「あらゆる国家につきまとう問題や困難」に対して提示された主要な解決法とは、コーポラティズムであった。それは、すでに見たように、イタリア・ファシズムの最も合理的な側面と呼びうるものであった。しかし、コーポラティズムはカトリックの社会教義のなかに正当化しうる明確な根拠を持っていたから、ファシズムよりもむしろカトリック権威主義体制に適合するものであった。コーポラティズムは、とりわけ一九三一年に出された教皇の回勅「クアドラジェジモ・アンノ」において中心的な位置を占めるものであった。それは、階級の代わりに職業を基本に据えようとするものであって、その点ではトルコのアタテュルクの共和国設立原則のひとつである「人民主義」とも類似していた。コーポラティズムは、第二次世界大戦後に非権威主義的な形をとって復活することにもなるが、権威主義版コーポラティズムは、サラザールポルトガルにおいて一九七〇年代初頭まで生き延びた。

(略)

マックス・ヴェーバーは、すでに第一次世界大戦後の段階で、ドイツをコーポラティズム路線で再編しようとする提案を「素人好事家の夢物語」であり(略)「理念に値しない理念」だとして一笑に付している。彼は、近代の複雑な社会において生業あるいは職業は明確に区分することが困難であり、仮に職業に基づく区分ができたとしても、急速に変化する資本主義経済においては持続しえないと主張した。むしろ反対に、人工的な区分は、個々の職業において存在しうる本来の連帯をかえって破壊しかねなかった。ヴェーバーによれば、コーポラティズムは議会主義に比べてはるかに不透明であり、それは必然的に国家官僚の権力を増大させることにつながるのであった。

 だが、透明性と連帯はコーポラティズムの真の目的では全くなかった。主眼は、代表民主主義につきものの不安定性と対立をコーポラティズムが排除する点にあった。職能団体のメンバーは、古典的自由主義理論が考える孤立した個人と同じようには利益を追求せず(略)何よりもまず国家と同一化するはずであった。こうしてコーポラティズムは、安定を最優先するサラザールのような独裁者に特に魅力的に感じられたのである。不断に人民を動員することを企図し、カトリックの中心的役割に反対する体制は、コーポラティズムにさしたる関心を示さなかった。

「無国家」状態のナチ帝国

シュミットがナチ体制下で最初に公刊した主要著作の署名が示すように、政治秩序は「国家・運動(すなわち党)・民族」という聖ならざる三位一体で構成されていた。シュミットによれば、運動(党)は(静的な)国家と同質的かつ非政治的な民族との間に「躍動的な」要素を提供する。(略)ヒトラーが述べたように、「党が国家に命令する」のである。またシュミットは、ナチの権力奪取によってドイツは再び真の政治指導を取り戻したと主張した。そしてその政治指導は──ここでシュミットはかつてのヴェーバーの懸念を繰り返したに過ぎないのだが──、ヴァイマル共和国の官僚国家のもとでは失われていたものであった。もし、何がこの構造全体をひとつにまとめているのかと問われれば、回答は人種でしかありえなかった。「同質性」という言葉は(略)人種的同質性を意味していた。こうして民族は、同じ人種的「実体」を共有するはずの総統という人物のなかに、ほぼ文字通り具現化する。それゆえこのモデルは、シュミットの言う治者と被治者の「同一性」という民主主義的原理に合致したのである。

(略)

エルンスト・フレンケルやフランツ・ノイマンのような批判者が理解していたように、ナチ国家は高度に断片化し、ますます正規の法手続きから外れた形で運営されるようになっていた。フレンケルは、伝統的な「実定法規範」に基づく「正常な」国家と、一方的な措置によって恣意的に支配される国家(略)から成る「二重国家」の出現を認識していた。単純に説明すれば以下のようになろう。ある者が結婚しうるか、あるいは窃盗罪で有罪となるかについては、通常の法に従う限り全面的に予測可能である。だが、誰が生きるに相応しいか、相応しくないかというもっと基本的な問題については、官僚の恣意的な判断に委ねられるようになった。官僚たちは、相反する目的のもとで働き、総統の意志を「予期し」、あるいはそれに応えようとしてお互いに出し抜き合うなかで、ますます混乱した状況に陥っていった。こうした混乱と支離滅裂は、ナチ・イデオロギーの基本と全く無関係というわけではなかった。「生物学」それ自体は法律となりえなかった。民族もそれ自体としては、制度化はおろか政治的行為者にもなれなかった。しかし、そうした事実を認めてしまうと、生物学が政治を規程するのではなく、逆につねに政治によって規定されることを容認することにつながり、生物学的決定論の知見から導き出されるはずの歴史的確実性を放棄することとなっただろう。

 ヒトラーが最終的にナチ憲法を公布すると約束していたにもかかわらず、イタリア・ファシストと同様、ナチもまた新しい憲法を制定せず、その意味において自らの政体の新しい構造を決して完成させなかったことは示唆的である。ナチによる法律や命令は大量に存在したが、全体を意味づけるようなナチ支配の基本的枠組みも、公認のナチ法学も存在しなかった。ノイマンは、ナチ帝国が恒常的な非常事態下にあり、それどころか、その帝国が混沌とした「無国家」の状態に転じ、「完全なる無定型」によって特徴付けられるような憲政となった事実を強調した。ナチの政体は、量的全体国家、すなわち社会のさまざまな利害集団に吸収された国家により近かった。一九三〇年代初頭にシュミットはこれを激しく非難し、その対極として、社会のあらゆる分裂を越えた質的全体国家を提唱した。それはジェンティーレとよく似た発想だった。ナチ帝国における実際の支配は各集団による非公式な安協に基づいて行われるようになった。それらの集団は、個々のナチ指導者やそれに対して個別に忠節を誓う従者たちから成り立っており、封建時代の氏族に似た存在となっていた。ノイマンによれば、「すべての集団の上に立つ国家の必要性」はますます低下しているように思われた。それどころか「集団間の妥協や被支配階級に対する支配を行ううえで国家が障害になりうる」とも考えられたのである。

 実際のところ、全集団の上に立っていたのはヒトラーという個人であった。彼は官僚や政治的集団をお互いに争わせる、一種の「制度的ダーウィニズム」を意識的に実践した。そこには明確な論理が存在した。ヒトラー個人は思想と行動の双方において何物からも拘束されなかった。彼は憲法どころか特定の政治理論に縛られることも拒否し、「指導者を導く者」になることを夢想していた思想家たちを失望させた。拘束されたくないというヒトラーの願望は、『我が闘争』からの引用が事実上タブーとなるほど強力なものだった。ハンナ・アレントが理解していたように、ナチはいかなることもなしうるのであり、「すべてが可能である」ことを実証しようとしていたのである。

(略)

レーニンの党は、最もカリスマが前面に出される局面においてすら、ルールを有し自己再生能力を備えた制度であった。これに対し、明らかに、ヒトラーは唯一人の個人であった。彼は人種的な闘争共同体を生み出すべく、すべてを民族共同体の恒久的動員に傾注した。闘争共同体は彼にとって手段でもあり、目的でもあった。だが、彼は制度を構築しなかった。国家および帝国の長としての役割を果たすときでさえ、彼は公的な場での演説とアジテーションによって支配しようとしたのである。

 ヒトラーが受け継ぎ、すでに部分的に「無国家」となっていたドイツ国家は、戦争の進行とともにを始めた。シュミットによれば、一貫して国家と対時し、かつ「躍動的」要素であるべきナチ党は、有名な「党と国家の合一を保障するための法律」が実際に施行されることで、国家を超えてさらなる権力を奪取するはずであった。だがナチ党は

(略)

適切な官僚制というものを全く発展させなかったため、国家に取って代わるような存在にはなれなかった(略)。結局のところナチの支配においては、すべてが動員であり、実験的制度は皆無であった。それは具体的無秩序だったのである。

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