試される民主主義(下) その2

前回の続き。

憲法裁判所  

一九六五年にカール・レーヴェンシュタインは「一九世紀には究極の政治的智慧と考えられた議会主義が……広汎な価値低下を経験した」のに対し、ヴェーバーが議会の役目とした官僚制の抑制という課題が、いまでは裁判所の手で十分に果たされていると断定した。

 憲法裁判所はまた、この新しい秩序全体を、とりわけ個人の権利の保障を通じて保護した。これらの権利も、議会の手の及ばぬ、自然法のような絶対的諸価値に基礎づけられた。これは、民主主義は必然的にある種の価値相対主義を含むというケルゼンの主要な哲学的立場とは全く矛盾するものだった。懐疑的な自由主義者たちですら、過去からの直接の教訓として、そのような客観的価値の不動の基礎の必要性を認めた。アイザイア・バーリンは「先のホロコーストから何が生まれたか」という問いに対し、「人類に本質的と呼びうるような普遍的価値が存在するという新たな認識に西側が近づいているようだ」と答えている。

 ヨーロッパ統合は、人民主権に対する不信を内蔵している点と、行政を国民国家の細かい監督下にある機関に委ねた点で、新しい「憲法精神」に十分に適っている。加盟国は、自由民主主義的合意を「固定」し、権威主義への堕落を防ぐために、選挙によらない制度と超国家機関に意識的に権力を与えたのである。

 欧州司法裁判所は二つの基本的判決で、「ヨーロッパ」が選挙による民主主義に対する一連の制限を意味するという捉え方を強めた。一九六三年と六四年の画期的判決で、ヨーロッパ共同体(EC)が国内法に優位すること、並びに加盟国に直接効力を及ぼすことが確定した。

(略)

一九六九年には、基本的人権は事実上「共同体法の一般原則に含まれて」おり、そうした権利が原条約に言及されていない場合でも「欧州司法裁判所の手で守られる」ことまで裁判官は付け加えている。この基本的人権の発見(というより創造)は、ドイツとイタリアの憲法裁判所が自国憲法の基本規定の名のもとにヨーロッパ法に対抗する可能性への恐れから促進されたものであった。(略)

欧州司法裁判所は自力も用いて並はずれた法的権力を備えた地位によじ登ったのである。そして各国の裁判所と政府は大筋において欧州司法裁判所の権力を受け入れた。

 そういうわけで、戦後の憲政秩序の中核は、無制約の議会優位という考え方がイギリス以外では正統性を失ったという点にある。(略)

民主主義の正当化は、各自の見解が効果的に議会に代表されることよりも、責任ある政治エリートが選挙を通じて定期的に交代することを保障する点に置かれるようになった。

 これはヨーゼフ・シュンペーター、つまりカフェでのロシア革命をめぐる論争でヴェーバーを冷笑した相手が、世紀中葉に唱えた民主主義の解釈そのものであった。彼は第一次世界大戦後にオーストリア財務大臣を短期間務めたが惨憺たる結果に終わっていた。シュンペーターは、ヴェーバーと同様に、一貫した人民の意志など存在しないと考えていたし、普通の人びとにとって政治参加は意味があるという考えを否定していた。しかし他方でヴェーバーとは異なり、彼は公的領域に特別の尊厳を認めなかった。投票をめぐるエリートの競争は望ましい。しかし、それ以外の民主主義イデオロギーは、経済から独立し、集団的意味を創造できる領域としての政治へのヴェーバーの希望も含めて、幻想でしかない。戦後の思想家の多くが同様の想定を共有していた。

(略)

 いまや政治は意味の主たる源泉と思われなくなった。そもそも意味の源泉ですらなかった。しかし、意味(および政治を通じて達成される人格的実現)への期待とともに、集団的自由の場としての公共圏の感覚も失われてしまう。その点は、ナチにもソ連にも共鳴しないハンナ・アレントのような批判者たちが苦言を呈しているところである。ヨーロッパの自由主義者は、個人生活が干渉を受けない「消極的自由」を強調した。おそらくそれが、個人的ないし集団的自己決定として理解される「積極的目由」の理想の名のもとに、全体主義の悪夢が生じるという事を防ぐ唯一の道だったのだろう。しかし批判者たちにとっては、この表面的な自己制約(略)が、実際には民主主義の劣悪な形態に通じると思われた。アレントのような観察者の目には、このような制限的自由主義は、実際には「大衆人」の孤独を強め、逆に全体主義への回帰を容易にするように見えたのであった。それに加えて、戦後秩序の制限的自由主義のせいではなく、安定を約束した合意の政治のせいで全体主義が復活するのではないかと悩む自称「古典的自由主義者」もいた。

 

主権はつねに下から、それを恐れる人びとによって作られる。―― ミシェル・フーコー

 

民主主義者であるということは、何よりも恐れないことだ……。――イシュトヴァーン・ビボー

 

経済は手段に過ぎない。目的は魂を変えることにある。――マーガレット・サッチャー

 

わたしが思うに、共産主義の終焉は全人類に対する深刻な警告だ。それは、高慢で絶対的な理性の時代が幕を閉じようとしていることの兆候であり、そして、このことから結論を引き出すときが来たことを示している。――ヴァーツラフ・ハヴェル

 

高度資本主義が……「民主主義」や「自由」と特に結合しやすい親和性があるなどと見なすのは笑止千万である。問いはかく立てられねばならない。資本主義の支配下で、民主主義と自由が長期的にいかにして「可能」なのか、だ。――マックス・ヴェーバー

ニクラス・ルーマン 

 ルーマンの「システム理論」はパーソンズの影響を深く受けたものであり、パーソンズの理論はまた、ヴェーバーの多くの考えを定式化させ体系化させたものであった。ドイツの一官吏であったルーマンは、ヴェーバーパーソンズの中核的な洞察のひとつを極端に推し進めた。近代社会が、社会自身の論理もしくは「機能」(たとえば経済や芸術や政府)に応じて稼働する「複数のシステム」に次々に分化していくことで、つねに進化し続けるものであると論じた。システムは、システムの周りの世界をそれ自身理解可能なものとすることによって、世界の複雑さを縮減してきたのである。あるシステムによる別のシステムへの干渉は、どんなものであれただちに逆効果を生み出す。したがって、政府が国家行政システムの外部からの「価値」を実現できるなどと考えること自体が、一種のカテゴリーの取り違えである。政治が経済を支配しようとすればどんなことになるかは、まさに「鉄のカーテン」の東側で日常的に目にすることができるではないか。

 ルーマン理論の結論は、政府の仕事を政治家に、究極的には官僚機構に委ねるべきだというものだった。そして、もし政府が、自らの良心のみに従う社会運動の活動家による方向性の誤った要求や、彼らの政治参加への幻想に応じてしまえば、近代社会に多大なダメージを与えることになるというのである。明らかに信条倫理に対するヴェーバーの批判から着想を得たルーマンのこのような分析には、しばしば「敵対文化」の担い手への侮蔑が伴っていた。ルーマンの師である社会学者ヘルムート・シェルスキーも、知識人に対して、他の者がなすべき仕事をしている間に、自分たちの勢力を伸ばすことだけを考えている「新しい高聖職者階級」だと嘲笑していた。ただ、ルーマンの理論にはさらに独創的で不穏な教訓が含まれており、それは、政治(および国家=統治機構)には、人が考えているほどの重要性はないというものだった。政府は社会全体の「舵を取る」ことなどできないし、国家とは専門化された自足的な「政治システム」による「自己記述」に過ぎず、たとえばそれが経済システムを改革するなどということは不可能だというのである。

 ヴェーバーの理論と違い、ルーマンの理論では意味を生み出す役割は政治に与えられておらず、公共空間が「崇高な諸価値」の発祥地となるチャンスはなかった。それどころか、「いくつもの社会を統合する」市民宗教やイデオロギーといった包括的な信条体系は必要とされなかった。このように、ルーマンの理論は、一九五〇年代から六〇年代に支配的だった技術者支配的な思考法の単なる復活の兆候というよりは、むしろ、 経済と政治への期待が先細りした時代(略)に適合した理論なのである。

 ルーマンはまた、批判理論のフランクフルト学派の傑出した継承者であるユルゲン・ハーバーマス、最大の論敵という役割を引き受けることになる。ハーバーマスは六八年の学生反乱とは距離を置いていたけれども、大局的には国家行政や経済を民主化することに対して望みを抱き続けていた。(略)

ハーバーマスは、彼が「生活世界」と呼んだ、家族や他者と人格的につながる親密圏、および市民社会を、経済や公行政の特徴である手段・目的論理――もしくは冷徹な戦略的思考――から守らなければならないことを強調した。ハーバーマスが論じるには、市場と国家は、「生活世界」をつねに「植民地化」する傾向にある。公共空間のなかで、社会運動と、とりわけ知識人は、このような植民地化に対できる存在であり、そうすることでおそらく漸進的な脱植民地化というものが達成できる。

 自らを「社会学的啓蒙」に携わる者と見ていたルーマンは、[脱植民地化という]このような希望に対して正面から反対はしなかったが、皮肉をもって対応した。なぜなら、社会とその進化を理解するためには、政治的な価値への賛否のもとに戦おうとする個々の人間や運動ではなく、システムに目を向ける必要があるからだ。ルーマンのシステム理論は、ヴェーバーにおける鋼鉄の容器や、ジンメルにおける文化の悲劇といった診断、つまり社会の複雑性が、個人の実際の自律能力をはるかに凌駕するという視点をある程度まで追認しているように思われる。しかしルーマンは、自らが提供する種類の脱魔術化は、その先に現れる「諸システム」(これはただひとつの「システム」とは厳密に区別される)が独自の強靭な論理を強いるにしても、人びとを解放する性質も持ち合わせていると主張した。

(略)

 ルーマンの理論の多くをやがては自らの思索のなかに組み込んでいったハーバーマスが、経済と国家行政のさらなる民主化という野望を、一見すると諦めてしまったのは興味深い。これに代わってハーバーマスの望みうる最良のものとなったのは、国家という城塞の周りを恒常的な包囲網のような形で取り囲む、活発な公共圏、油断のない報道、そしてそこから生じる精力的な公論といったものであった。

フーコー 

 敵対者から見れば、構造主義は技術者支配の時代に完全に適合した哲学だった。ジャン=ポール・サルトル構造主義を嘲笑して、「マルクス主義に対抗するためにブルジョアジーが立てることのできた最後のバリケードだ」と述べている。その思想は、人類には自らの歴史を構築してゆく能力が一切ないと言っているように思われたのである。

(略)

個人の自由を強調する実存主義に対して、一九六八年にフーコーは「知の対象としてではなく、自由と実存の主体としての人間が、哲学において消えさろうとしている」と主 張した。フーコーはまた、権力に対して道徳的真実を説く者としての普遍的知識人という理想を拒絶した。普遍的知識人を誰よりも体現していたのはサルトルだったから、フーコーのこの主張は実存主義マルクス主義、双方への攻撃を意味していた。

(略)

 しかし、やがてフーコーは考えを変えるようになる。その変化とは、普遍的知識人の限界に関してではなく、人間の自らの歴史形成能力に関してであった。何が彼の考えを変えたのだろうか。その端的な答えは、六八年とその後(その最大の教訓のひとつは、「構造は街頭でデモ行進をしない」というよく知られたジョークに表現されている)だった。確かに[六八年]五月の出来事の最中フーコーは[チュニジアにおり](略)権威主義的なブルギバ体制に抗議する学生運動に対する、はるかに野蛮な(しばしば死者を伴う)弾圧を目撃した。フランスに帰国したフーコーは、ポスト六八年(一部は毛沢東主義者でもある)団体「監獄情報グループ」に深く関わるようになる。(略)

何人かの指導者が投獄されたのち、残されたメンバーは、フランスの監獄における身の毛もよだつ状況に世論の注目を集めようと試みていた。刑務所の内部を直接調べることはできなかったが、囚人に面会に来た配偶者たちに質問票を配ることはできたし、かつての収監者に自らの体験について筆を執るよう勧めることもできた(略)

フーコーは封筒に調査票などを入れて発送する作業も厭うわなかった。(略)

すべての政治的事件を解釈する枠組みとしてのマルクス主義が一九五六年以来その信用を失墜した以上、いまや哲学者は文字通りジャーナリストとならなければならない、と唱えてきた自らの考えに忠実な行動であった。こうした活動はさらに、一九七〇年代にフーコーが展開することになる思想の少なからぬ部分の下地を用意した。とりわけ、フーコーは「権力」を再構築し、その新たな概念を提示した。権力には国家によって上から行使される抑圧だけでなく、より精妙な方法で機能するものもある。それは、特に病院のような慈善的な機関や、わけても自分自身によって規律化されるやり方を通じて機能する。つまり、見世物社会ではなく監視社会なのであり、国家は執行者の役割を果たすのではなく、「従順な身体」を欲するサナトリウムの医師の役割を果たすのである。

 しかしながら、これと関連しつつ、より前向きな教訓も六八年はもたらした。政治的変革は必ずしも、国家機構との正面衝突(そしてレーニン主義のモデルにおいては中央集権化された官僚的権力の掌握)を意味しないという発見がそれである。この発見は一見すると、個人の解放をより容易にするように思われた。(略)

フーコーは、解放されるべき「真正なる自己」なるものが存在するとは信じていなかった。さらに彼はまた、近代的国家、とりわけ自由主義国家は、主体の自己規律化を、 認識も破壊も難しいやり方で強化するものであり、そこから自由になるのは一層困難だと考えた。

 フーコーは「今日における政治的、倫理的、社会的、哲学的な問題は、個人を国家から解放することではなく……国家ならびに国家と繋がっていながら自分は自由だと信じているある種の個人の双方からわれわれを解放することなのだ」と主張した。かくして、攻撃の的は自由主義的な「統治様式」へと移っていった。自由主義的「統治様式」とはつまり、前近代的な国家や権威主義国家で見られたように国家が自由な主体を抑圧するのではなく、自由な主体が自分自身を効率的に律するように仕向ける、一連の統治の技術と「技法」なのである。

(略)

 フーコーによれば、自由主義とは人びとの自由を阻害せぬようにする思想を指すのではなく、むしろ自らを自由と思いこむ人間ひとりひとりの挙動を、とてつもなく精妙なやり方で「操作する」国家に関わることなのだ。これは、人びとの素朴な思い込みを逆撫でする強烈な一撃だった。

(略)

しかしこのような問題は、ずっと以前にヴェーバーが政治的な論稿で提起したものでもあった。すなわち、近代はいかにして自己規律と「人民の質」(これはヴェーバーがあからさまに求めたものだった)を互いに関連させたのだろうか、という問いである。ナチの生物学的支配は、実は一般に考えられているほど西側の歴史の基本線から逸脱しておらず、フーコーが書いたように、それは「近代権力の夢」だったのではないだろうか?答えは、明白かつ衝撃的なものだった。フーコーによれば、「近代国家はある地点において人種主義と関わらないとほとんど機能しない」のである。

 同時にフーコーは、権力を上意下達の支配として認識すべきではないという点に断固としてこだわった。

(略)

「思想や政治的分析において、われわれはいまだに王の首を刎ねそこなっている」とフーコーは主張した。なぜなら、「政治理論がいまだ主権を握る人物に執着しているから」であり、そしてこの執着によって権力の認識は伝統的な「主権に関する法・政治理論」に縛られ、歪められているのである。権力をもっぱら法(と抑圧)という観点から認識することによって、どう分析しても国家に特権的な地位を与えてしまうという伝統から決別することこそが緊急の課題なのだ。

(略)

 フーコーの考えは、奇妙な形でルーマンの考えと類似していた。どちらも、理論家や一般市民は何世紀も遡る時代遅れの政治用語を使うことで国家の役割を過大視していると主張し、どちらも権力は政治の公的な領域の「頂点」に位置しているわけではないという考えを提示したのである。そしてまさに二人の考えが共鳴したのは、新たな経済的困難や社会的不満に直面した国家が奇妙にも「力を喪失」しているように見えたときであった。

(略)

ルーマンにとって理想の知識人が官僚への助言者だったのに対し、フーコーにとっては、それは囚人、精神病患者、同性愛者に取り組んだ具体的な専門家であっただろう。これまた、きわめてポスト六八年的な思考であった。知的エリートは高みから普遍的なものを代表するのではなく、特定の他者とともに(しかももっぱら間接的に他者のために)働くべきなのだ。フーコーはこのような議論をさらに進める。

 

知識人の仕事は、他者の政治的意志を形作ることにあるのではない。そうではなく、知識人が自らの専門領域で行う分析を通じて、自明視されている思いこみや物事を再び問題とし、慣習を揺さぶり規則と制度の実態を見極め、そしてこの再問題化(そのプロセスにおいて知識人は知識人として固有の役割を発揮する)から出発して、政治的意志の形成(そのプロセスにおいて知識人は市民として役割を発揮する)に参加すること、それが知識人の仕事である。

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