ジョン・ケージ 作曲家の告白

ジョン・ケージ 作曲家の告白

ジョン・ケージ 作曲家の告白

 

プリペアド・ピアノ

シヴィラ・フォートが振り付けを担当したダンス用に作曲をしたときのことです。(略)打楽器の使用を指定したのですが、現実的な制約からピアノのみで演奏しなければなりませんでした。数日にわたりわたしは即興を続け、何が適切なのかアイディアを探しました。しかし満足できる結果はえられず、ついにピアノのサウンドそれ自体が好ましくないのだと認識するにいたりました。そこで、弦そのもの、あるいはその間に物体を置き、サウンドを変えることに決めました。

 これが、普通のグランド・ピアノをメタル、ゴム、木材、プラスチックそして繊維などの様々な物体でミュートした、「プリペアド・ピアノ」の始まりです。この結果、ピアノは独自のサウンドの出る打楽器のオーケストラとなり、ピアニストの指によってわずかな音量差の領域でコントロールできるハープシコードとなりました。大きく異なる音色を使用しながらメロディーを発明することが可能になったのです。

 わたしの知るかぎり、これは真に新しい可能性と言えます。

(略)

皆さんが知っているように、楽器のミュートというのはまったく新しいアイディアではありません。わたしたちは金管楽器や弦楽器のミュートに親しんでいます。そしてピアノ・サウンドの改造は、ニューオーリンズの魅力的なジャズ・ミュージシャン達によって、弦の間に紙をはさんでおこなわれてきました。また、ヘンリー・カウエルは拳と腕を使ってピアノの鍵盤を演奏したのですが、その際に弦を指先と手のひらで押さえてミュートしていました。各地のバッハ協会では、ハープシコードがない環境で必要なサウンドを模倣するために、小さなアップライト・ピアノのハンマーに画鋲をつけていたこともあります。

 プリペアド・ピアノは、一般的に用いられている半音より、さらに音程の差が小さい四分音の使用を可能にしました。ジャズやフォーク、東洋の音楽において長い間親しまれている聴覚的な快楽が提供できるのです。

(略)

当然、最初はわからないことがありました。例えば、弦の間にはさんだ物体の位置には正確な計測が必要だということや、得られた結果を繰り返すには、その時に使用したネジやボルトを取っておかねばならないということです。唯一最初の段階でわかったこと、それは発見の連続による歓びです。その可能性は無限大なので、今日にいたるまでこの歓びは消えることがないのです。

音楽へと還る

どちらの場合も、音楽がどのようであったかはまったく気にしていません。わたしたちは単純に音楽にもっていかれたのです。わたしはこの謎の答えをこう考えています。ある作品が作曲されたとき、作曲家たちは一となった、ということです。演奏家たちも、演奏をしている間、自意識を捨て去り無私となります。そして聴衆も、音楽を聴いている間は、我を忘れ、うっとりしながら自分自身を獲得していったのです。

 このような満ち足りた時間こそが、音楽が人の精神を集中させる、つまりわたしたち自身が音楽へと還る瞬間なのです。それはなんと幸福なことなのでしょう。そしてそれゆえに、わたしたちは芸術を愛するのです。

 ですから、わたしは、完成されたいかなる特定の作品も重要であるとは思っていません。過去の傑作を理想の作品と崇拝することには共感しません。和声を使うことで音楽を印象的で壮大にすることに感心しません。楽器を完璧なものにさせていく歴史は、進歩ではなく、何らかのものを否定してきた歴史なのだ、と考えます。

 また、わたしは大量の聴衆や、後世のために自分の作品を保護することに関心がありません。最近、美学という哲学の一分野で「天才」、「自己表現」、「芸術鑑賞」といった概念が発明されたことは悲しく、嘆かわしいことだと考えています。

シェーンベルク

シェーンベルクに直接師事したいと本人に伺ったら、「わたしのレッスン料を負担できないだろう」と言われてしまいました。わたしは「言うに及びません。お金はまったくありませんので」と答えると、彼は「今後、音楽に人生を捧げることはできますか?」と尋ねてきたので、「はい」と答えました。すると彼はこう言いました。「ではただで教えましょう」

 

こうして、わたしは絵を描くのをやめ、音楽に集中することになったのです。しかし、それから二年ほど経てわたしたち師弟二人には、わたしにハーモニー感覚が欠如していることがはっきりとわかりました。シェーンベルクにとって、ハーモニーとは色彩的なだけではなく構造的なものです。それは作品の一部分を他の部分と区分けするための手法だったのです。それゆえにわたしには作曲はできないだろうと彼は言いました。「なぜなのでしょう?」と尋ねると、「あなたは壁にぶつかり、それを突破することはできないでしょうから」と言われたので、「それではその壁に向かって頭を打ち付けることに人生を費やしましょう」と返しました。

聴いたことのない音楽

 わたしが一番好きな音楽とは、まだ聴いたことのない音楽です。わたしは自分が作曲する音楽を聴いているのではありません。わたしは聴いたことのない音楽を聴きたいから作曲しているのです。

 音楽の機能とは何か、またなんでありうるのかについて多くの人が考えをあらためている、そのような時代になっています。音楽は人間のように喋ったり語ったりしませんし、辞書の中の定義や学校での理論ではわからないでしょう。振動によって、それ自体が単に示されるものなのです。人々は固定化された理想の演奏とは関係なしに、振動する運動に注意を払っています。必ずしも同じことが二度起きるわけではないから、今回はどのようになるだろうかと一瞬一瞬に注意しています。音楽が、今、瞬間へと聴衆を移動させるのです。

打楽器は完全に開かれています

 打楽器は完全に開かれています。それはオープン・エンドですらありません。終わりがないのです。弦楽器や管楽器、そして金管楽器(ここでわたしはオーケストラの他のセクションを考えています)とは違い、和声の監獄から脱するとき、大切なことを教えてくれます。もしあなたが音楽を聴いていないとしても、打楽器はすぐ次に聴くサウンドによって示されるでしょう。あなたがどこにいても、室内や室外、あるいは都市にいるときでも。あるいはほかの惑星でも大丈夫でしょうか?

(略)

 弦楽器、管楽器、金管楽器奏者は音楽をどう鳴らすのかよく知っていますが、サウンドについては無知です。もし彼らがノイズを習いたいというのならば、打楽器の学校に行かなければならないでしょう。そこで彼らは自らの認識に変化をもたらす沈黙を発見するはずです。まだ実践されていない時間の様々な側面にも気づくでしょう。西洋音楽史はアイソリズムのモテットの追求から始まっていますが、それは和声の理論に取って代わられました。和声は打楽器の作曲家エドガー・ヴァレーズを通過し、ジェームズ・テニーによってオープン・エンドな生命を与えられました。去年の一二月にマイアミで、彼の作品を聴いてから、彼に電話をかけこう言いました。「もしこれが和声であるならば、わたしがこれまで言ったことはすべて取り消しましょう。和声に大賛成です」と。打楽器の精霊はすべてを解放しますが、もともと完全に閉じられたものさえも解放するのです。

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