シェーンベルク
多くの亡命者がそうだったように、[60歳の]シェーンベルクもカリフォルニアに居を構えた。(略)生活のために教壇に立った。
(略)
ケージもまた、はじめてシェーンベルクのところを訪れたときには、彼がいま生きているもっとも偉大な作曲家だと思っていた。
(略)
「さあ、音楽以外のことを考えてはいけない。一日六時間から八時間勉強しなさい」。(略)
ケージはさらに勉強量を増やして、ホルンの勉強を始めた。(略)
「とても不思議な楽器だ……僕が出せるとしたら、どういう音が出せるのかはまだ分からない。でも音が出たときには、いつもびっくりしてしまうんだ」。
(略)
音楽をできるだけたくさん聴くことが「とても必要だ」と考え
(略)
ケージは音楽に対する自分の反応が変わってきていることを感じていた。ふつうはチャイコフスキーのようなロマン派の音楽は退けていたが、いまは音楽として書かれているものには何であれ、愛と尊敬の念を抱くようになった。「もっとも価値のあるものと同じように、もっとも価値のないものにも美がある」。(略)
[42歳の子持ち女性ポーリーンに最初の恋愛感情を持った23歳のケージ]
その訪問は彼に肉体的な興奮を与えた。「僕はほんとうに輝いています」(略)「僕は敏感さの頂点にいます……熱くとろとろと燃え、いい気分になっています」(略)
[一方で一歳年下のクセニアとも交際、のちに結婚]
クセニアとポーリーンを口説いている間にも、ケージはシェーンベルクとの勉強を続けていた。(略)
[だが勉強はうまく行かず、授業のために作曲した作品にも失望]
この曲がシェーンベルクも失望させるだろうと思った。「僕は音楽にへたに『手を加えている』と感じ始めています」とワイスに書いている。
(略)
長年の間に、ケージはシェーンベルクの授業の受講をやめたことについて、いくつかのいくぶん異なる説明をしている。一〇年くらい後に、やめたのは、作曲家になるために学生は和声感を養わなくてはならないとシェーンベルクが主張したからだとしている。ケージはそうした要求には今日的な意味がないと思った。「僕がやっていることとは何の関係もありません」。そのうえ、「僕には和声感がないんです。和声はできます。規則に従い、課題をやることもできますが、自由にやることができないんです」と彼はつけ加えた。少し後の説明では、彼に反感を抱き始めたのは、ある日シェーンベルクがクラスで次のように言うのを聞いたときだっただろうと述べている――「私の目的、私の授業の目的は、みなさんが作曲できないようにすることです」。シェーンベルクは賢明にも、励ましを必要とする学生にやる気をなくさせるやり方をとっていた。「なぜなら、創造『しなくてはならない』人だけが作曲すべきだからです。そういう人はたとえ千回意欲をくじかれたとしても、作曲をやめはしません」とシェーンベルクは言った。この手法はケージにはうまくいった。ケージはシェーンベルクの言葉に激しい反抗心をもって反応した。「シェーンベルクには熱狂的に傾倒していたけれど――まさにその瞬間に、私は自分の全存在を作曲に捧げようと誓ったのを覚えています」。
実際に、ケージの音楽生活は方向を変え始めていた。この変化は、ひとつには見識あるドイツ系ユダヤ人亡命者のガルカ・シャイヤーを中心に展開した。[彼女はカンディンスキーら「青騎士」の展覧会&普及に努め、ケージにクレーの絵を貸し、さらに](略)オスカー・フィッシンガーという友人に紹介した
オスカー・フィッシンガー
当時三〇代半ばで、ドイツでエンジニアとしての訓練を受けたフィッシンガーは(略)ドイツにいたころ、紙のうえに図柄を描き、それをフィルムのサウンドトラックに焼きつけて、「合成音」をつくりだした。
(略)
ケージは『オプティカル・ポエム』を実験的なアニメーションの素晴らしい作品だと思った。四角や三角、円が動いて、一種の視覚的な音楽をつくる。(略)
フィッシンガーは超自然的な現象に関心をもっており、世界のありとあらゆるもののなかには精霊が宿っているとケージに語った。「そして、その精霊を解き放つためには、ただその物体をさっとなでて、その音をとり出しさえすればいいと言ったんです」。この言葉はケージのなかに芽生えていた考えをぞくぞくと刺激した。それは「僕に火をつけました」。
打楽器だけのコンサート
[1938年12月]
彼はそれが「アメリカではじめての完全な打楽器だけのコンサート」だと考えるようになった。
(略)
[40年初旬のプログラムでの声明文]
「打楽器音楽はまだ開拓されていない音の全領域に向けて放たれた矢のようなものです。これは、将来、一九世紀音楽という限られた音楽から『電子音楽』という無限の自由への橋渡しとして考えられるようになるでしょう」
(略)
自ら実験音楽センターを設立(略)
作曲家と科学者は協力して、電子楽器や映画の実験を行って、音を生み出す新しい手法を開発する。「打楽器はそれ自体が目的ではなく、電子音楽のための耳の準備なのだ」ということを確信するようになった、と彼は言う。センターの人々は、「何であれ望ましい周波数を、望ましい持続と振幅と音色で」生み出そうとし、いわば聞こえる音は何でも、あるいは聞こえない音も、作曲家たちに提供した。彼は矩形波発生器の音を熱心に聴いた。
(略)
ヘンリー・カウエル(略)は、彼にリズミコンを一台貸してくれた。カウエルとテルミンが共同で制作したこの電子機材は、複雑なポリリズムを出すことができた。
(略)
[コミュニティセンターなどで黒人少年達と音楽制作]
「黒人たちには驚かされます。僕はただ彼らに楽器を与えることしかしていないんですが、そうすると彼らは素晴らしいリズムや複雑で驚異的な……クロス・リズム、ビートを外れたアクセント、小節線をまたいだ装飾音などを演奏するんです」。
同性愛と別居
コーニッシュの教員の仕事として、ケージはマース・カニングハムが学生として踊るダンスのピアノ伴奏者を務めることもあった。しかし、彼らがお互いのパフォーマンスで、学生ないし教師としての役割をしたのは、一年にも満たなかった。(略)
ケージがシカゴに、そしてそれからニューヨークに移ると、彼とカニングハムの関係は、友人関係になった。
(略)
彼らの関係は、創作をするパートナーの関係になった。カニングハムは、ケージの音楽のために「ダンスをつくり」(略)演じ始めた。
(略)
あるとき――ケージは三一歳頃、カニングハムは二四歳頃になっていた――、彼らの関係は愛人のそれになった。ケージは多くのゲイの男性たち――ゴールドとフィズデイルのような仲間たち、ヴァージル・トムソンやルー・ハリソンのような親友たち――と知り合いで、一緒に仕事もしていた。ハリソンは「手当たりしだいに相手をあさること」によって、セックスの上でニューヨークで生き残った、と言い、ある日付のないノートには、彼とケージが互いにシックス・ナインのスタイルで、フェラチオをしたと記されている。しかし、それを除けば、ほとんど一〇年前にドン・サンプルとの情事が終わって以来、男性の愛人はいなかったようだ。
クセニアはセックスに関して寛容で、ケージとサンプルの情事についても知っていた。しかし、夫がカニングハムと一年に渡って関係を続けていると知って、彼女は動揺する。「私は……必死になって受けとめ、理解しようとしました」。しばらくはなんとかやっていたが、「それから取り乱してしまって、かっとなって、二人ともひどいことを言い合いました」と彼女は言う。(略)
ケージはクセニアとの結婚を立て直そうと努めた。彼女がハドソン通りを去って三週間後に、ケージはカニングハムとひどい喧嘩をして別れたと、彼女に告げた。(略)
しかし彼女は憐れみよりも嘲りの気持ちをむしろ感じた。「彼は……ひどくショックを受けていたけれど、私はもう献身的な妻にはならないと決めて、ほんとうに去ったの」。
(略)
ケージの情事について分かっていることのほとんどは、クセニアの手紙から読みとったものである。しかし、この時期の彼のプリペアード・ピアノ作品のいくつかは、そのタイトルと性格に悲しみと不安を映し出している。たとえば次のような作品である。《ルーツ・オヴ・アンフォーカス》は執拗に反復を繰り返し、打撃音が噴き出すように鳴る。《オフィーリア》は神経の消耗を激しく喚起する。《危険な夜》は落ち着きのない、気違いじみた瞬間があり、ピアニストの両手は鍵盤上でかなり大きく分断される。「愛が不幸な結果を迎えたときに、孤独と恐怖がひとつになる」ことに関わる作品とケージは説明している。おそらくは和解の申し入れとして、ケージは《季節はずれのヴァレンタイン》と意味ありげに題された短い憂鬱な曲をクセニアに捧げた。しかし、ケージが毎日電話をしたにもかかわらず、クセニアは関係を復活させようとする彼の辛抱強い努力をはねつけた。
(略)
一九四四年四月五日、ケージが二人の喧嘩をクセニアに伝えてから一ヶ月後に、彼らは全面的に二人だけのコンサートをはじめて行った。(略)
[批評家たちに絶賛され]
パートナーとなった二人は、すぐに次々と成功を獲得していった。
サティ
彼はヴァージル・トムソンを通じてサティの音楽を知るようになり、敬意を抱いていた。
(略)
ケージは「エリック・サティの音楽のアマチュア・フェスティヴァル」をプロデュースする前に、サティの楽譜で入手できるものを集めた。ケージはそれぞれのコンサートの前に一〇分間くらいの話をし、それらのすべて、あるいはそのいくつかをまとめて、後に「サティを擁護する」として出版した
(略)
ケージはとくにサティの五曲からなる《しかめっ面》の第四曲を高く評価した。「なぜなら一九三八年以来、私がすべての作品で用いているのと同じリズム構造で書かれているからです」と彼は述べた。
ケージの話のひとつが、騒動を起こした。そのなかで彼は、短さと衒いのなさを求めるサティを賞賛し、ほとんどの作曲家は長さと感動を与えることを求めていると述べたのである。(略)[その例として挙げたベートーヴェンの]
影響たるや、嘆かわしいほど長く続いており、音楽という芸術を弱体化させてきた」と彼は主張する。そして、ベートーヴェンの手法から後に派生した音楽上の思考は、「実際にこの芸術を、類廃という島で難破させることに貢献」した、とケージは続けた。
ベートーヴェンの優位性を強く非難することが、彼曰く「異端」と見なされるということを、彼はよく分かっていた。(略)
リヒャルト・シュトラウスに学んだ、ピアニストの[常任教員]アーウィン・ボドキー(略)は一種の反論として、べートーヴェンの弦楽四重奏曲のコンサートを行ない、それに先立ってベートーヴェンを擁護する話をした。そしてある夜のパーティーで、サティのパロディをピアノで演奏した。
ケージの講演は、この学校を二つの音楽陣営に分断した。ある指導者によると、何人かの学生がベートーヴェンのレコードと楽譜を燃やした。
鈴木大拙
ケージは、グリニッチ・ヴィレッジからアップタウンヘと六マイルほど上がって、コロンビア大学へと通い、禅のクラスに出席し始めた。「禅には私に合った特色があります。ユーモア、妥協のなさ、そしてある種の地に足がついた性格があるんです」
(略)
鈴木の講義は、コロンビア大学のキャンパスの中心にある哲学会館の最上階で行なわれた。仏教思想の展開を扱った彼のコースは、多くのニューヨークの芸術家、音楽家、精神分析家、正式に登録していないその他の聴講生を惹きつけた。
(略)
彼は先生の振る舞いも覚えていた。鈴木が風呂敷に包んだ本を持って、静かに教室に入ってきて、一人一人を見ながら、全員と顔を合わせて挨拶する様子を覚えていた。二時間のクラスの間ずっと、彼はゆっくりと静かに話した。講義が始まっても、一〇分間くらい何も言わないことがときどきあった。しかし、その沈黙で学生たちが苛立つことはなかった。ケージはそのかわりに、「クエイカー教徒の集会でも経験できないような美しい静けさ」を体験した。
ケージは鈴木の講義を面白いほど刺激的だと思った。ここ数年の仕事の疲れや感情的な浮き沈みで、くたくたになっており、「機能停止寸前の状態」だと彼自身分かっていた。精神分析を退けて、彼は新しい個人的な方向性を禅に見出したが、「悟りを開いたとか、そういった」ふりをすることはなかった、と彼は言う。彼が学んだことは、また彼の音楽上の考えの現在の方向性を確認し、発展させた。さまざまな仏教の宗派のなかで、禅はその実践性と単純性、直接経験、既知の事実の重視という点で際立っていた。ケージが実践を始めてみると、禅は超然、脱理性、無心を強調していた。
鈴木がとくに「無心」に重きを置いて話をしたのを聞いて、ケージは一九世紀アメリカの超絶主義者たちの考えを、知らない間に受け入れるようになっていた。たとえば、ソローは見ることではなく、見えることについて語った。またエマソンは、偉大な小論「自然」において、非個人的な知覚の状態について述べている。「私は透明な眼球になる。私は無であり、私にはすべてが見える」。鈴木は「エマソンについて」という小論を出版し、また禅のいくつかの面をエマソン流の言い回しに翻訳した。たとえば、「禅は自由の宗教である」という言説において、「自由」はふつう“freedom”として翻訳される。しかし鈴木はそれをエマソンの言葉で解釈する――「禅は自己信頼の宗教である」。いくぶん愛国主義的な意味合いを含んだエマソンの言い回しは、ただ禅だけでなく、ケージが実践していたラディカルな個人主義を明確にしてくれた。
ケージは主要な仏教書籍の翻訳を自分の本棚に集めたり、読んだりすることによって、禅への理解を広めていった。鈴木はとくに『易経』を高く評価しているわけではなく、「ひじょうに重要な本だが、全面的に受け入れるべきものではない」と考えているようにケージには思われた。その一方でケージは、鈴木が高く評価する(略)莊子に大いに感銘を受け、その書を何度も読み返した。
次回に続く。
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