装幀者・菊地信義 ユリイカ 2019年12月臨時増刊号

 

対談 永遠の未完成――これからの「装幀」を考える

菊地信義+稲川方人 

[菊池の手作業を協働者の神保博美がデジタル化]

手作業を手離したら私の表現は成立しないんです。四〇年で一万数千点をつくりましたが、最初からいまでもA3の一ミリ方眼紙に設計図を書いて、手でデザインを作り上げる。神保は、デジタルがない過去には、ケント紙に写植などを切ってペーパーセメントで貼って台紙を作っていました。その台紙づくりがいまはPCでデータとして構築するかたちに変わったわけです。台紙がデータになった。しかし、私はずっと同じ作業をしている。最終的なかたちが紙の台紙だろうと、デジタルデータだろうとあまり私には関係ないんです。

 ところが、質問から少しずれるかもしれませんが、PCで作る、つまりモニター上でデザインする次の世代には新しいかたちが見え始めています。それは、紙と方眼紙の世界からは見えない世界なんですよ。

(略)

たとえば「贈与論」という文字であれば、同じ書体の同じ級数でも「贈」と「論」のあいだにある「与」は大きく見えるんです。これを小さくするというのは、私の直感なんです。この場合の「与」であれば、天地は二パーセント小さくしてくれ、左右は三パーセント小さくしてもいいと。これは私の目が決めていることです。

(略)

つまり数字で把握する必要がない。数字で把握するというのはある意味で抽象なんです。デジタルで直接いじっている人は具体です。デザインしているもの、文字なら文字、ビジュアルならビジュアルがコンピュータの画面の中、目の前にあるわけですから。数字を意識しながらデザインする必要がない。明朝体の文字を組む時、字画によって縦棒の大きさはまちまちです。上下の字の太さとバランスを内からとらえるのが数値です。字を漠然と外から見て判断するのとはちがいがあります。活字から写植、そしていまはフォントの時代になっていますが、フォントの書体というのが決していい書体ではない。写植の時代に完成した文字をコピーしたのがフォントの文字なんですよね。完成度は低いです。

(略)

講談社文芸文庫でいろいろと実験していますが、たとえば漢字の「鷹」という字は斜体をかけることによって、飛んでる鷹に見える。丸ゴチを使えばアニメの鷹になる。ところが欧文で「Bird」と書いて、それに斜体をかけても鳥にはならない。これは漢字とアルファベットの違いでしょう。日本の装幀が豊かなのは、漢字とかなの文化だからだと思います。

(略)

若い世代の仕事を見ると、これはMac でしか発見できなかった形だなというものはいくつも見うけられます。たとえば平気でタイトルや著者名の端を切ったりする。ああいうことはMac の画面でなければ見えないものです。私のように方眼紙という結界を作ってそこに四六判のカバー全面を描いてそこに文字を置いていくと、はみ出させるということは考えない。はみ出すことを考え出すのはアイデアではなくて、Mac が自然に導き出すかたちなんだと思います。ああ、ここの文字が切れていても読めるな、と。

(略)

それが平台の装幀に氾濫していると新鮮に見えてくる。切れてない文字は古くさくなる。私たちの世代では切るにはそれなりの理由が必要でした。

 私も文字を切った仕事をやっています。広島の原爆である女学校クラスの学生がみんな亡くなった、そのルポルタージュ本。そのタイトルの一文字一文字を印画紙でつくって字の角を燃やしたんです。学生たちの遺体が校庭にある写真から出て来たイメージなんです。テキストの内からの要請が文字を切らせる。切っても読めるから切ってみようとはならない。

(略)

[Macを使おうとは]思いませんでした。というのは、私から見れば非常に不自由なんです。モニターのなかにカバーを原寸に描けないんです。本当に不思議な世界ですね。部分、部分を拡大して見る。私は原寸でしかものを考えられないんです。方眼紙の上にきちっとした実寸があって、はじめて見えてくる。Macを使ってデザインしている人たちは世界を拡大したり縮小して見ていて、実寸で見ることがない。

(略)

実寸でものを考えられない機械というのは私は信用できない。それにやたら線があって、造形感覚に非常に邪魔なんです。

(略)

一ミリ方眼紙というのはトレスコープのなかで見ているとほとんど方眼の線というのは見えません。文字をトレースしてトレスコープから出て実寸を知る。他の文字とのバランスを数値でとる。

(略)

私が一番気になるのは印刷効果です。たとえばインクの染み込み具合。これはパルプの原料の配合で随分と変わります。簡単に言えば、針葉樹と広葉樹のパルプの配合がどのくらい違うかによって、水溶性のオフセットインクというのは染み込み方が違う。またはインクが上にのるか染みてしまうか。新鮮な触感を持った紙だけれども、インクは完全に中に入ってしまうということもある。では、その紙のインクの染みを制限するためにはどうすればいいか、と考える。そのためには水溶性のインクではなくて、ある種の樹脂製のインクに置き換えればいいわけです。インクはその色にあるのではなくインクという物質。紙という物とインクという物の劇がまずあるわけですから。

(略)

 私はいまこそ作家性が大切だと思っています。デジタル技術が進歩したことで、たとえば背景の色を簡単に変更してみせることができるようになった。Mac という機械がそれを可能にした。私たちの時代だったらバックの色を変えたカンプを作るのに数千円かかった。Mac が合議制を可能にしてしまったわけです。私たちの時代には版下からトレペごしにデザインを見通せる編集者がいて、その人が会社に説明して説得してくれる。いまは美意識のあるなしに関わらず全員がチェックして、部長はこの色がいいと言っている、営業部はこのタイポグラフィがいいといっている、といったようにしてデザインが決まっていく。これに装幀=菊地信義とクレジットを入れる気持ちにはなれない。装幀誰某の後に欧文の屋号がぶら下がっている表記が多い。若い装幀者たちの装幀表現の作家性にたいする皮肉とも言えるし、同時に出版界にたいする皮肉でもあると感じるんです。

 装幀者が読者を想定しデザインの手掛かりにしたマーケティングが出版企画や販促活動までパッケージして平台に積み重なっているプロダクション装幀の本。突き破っていくのは「作家性」のある装幀です。志のある少部数の本の言葉と人の出会いを作るのは「作家性」のある装幀です。 

重層的な非決定へ

重層的な非決定へ

  • 作者:吉本 隆明
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 1985/09/01
  • メディア: 単行本
 
重層的な非決定へ <新装版>

重層的な非決定へ <新装版>

  • 作者:吉本 隆明
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2012/10/25
  • メディア: 単行本
 

菊地信義さんとの仕事で思い出深い本について / 小川哲生

『重層的な非決定へ 』装幀

 読者ばかりでなく、担当者である私にも、そして著者である吉本さんにもある種インパクトを与えた。見本をお届けした際の吉本さんが、「へェー」とおっしゃって、口ごもったこと、そしてつぎに「やるもんだねー」とおっしゃったことを鮮明に覚えている。

 だってそうでしょう、タイトルや著者名よりも定価が先に来るなんて、だれも思いつかないし考えもしないからだ。

 久しぶりの評論集であり、当時、二八〇ページ、定価二二〇〇円が普通のとき、六〇〇ページを優に超える本の定価が二二〇〇円であり、二冊分の分量で定価据え置きを意図したものだったので、それを読者に直にアピールする仕掛けが、この字の配置にあったのである。

(略)

 白い紙(コート紙ではなく全体に波模様の模様がはいっています)に文字はスミ一色で、まことに単純な装幀である。あたかもなにもしていない装幀の典型みたいなものだ。人間は何かしないと怠慢と思われると考え、必ず何かを付け加えがちである。そうはしないところが菊地さんの見識である。

(略)

 当時は白い紙にスミ一色なんて装幀はほとんどなかった。四色がふつうで、まるでバブル期のようにカラフルを競うのが普通で、それは色数が多いのは人の目を引くという思い込みがあったからだ。でも、書店の店頭の平積みというコーナーではこういうモノクロはかえって新鮮に見える。現在は結構こういった装幀は多くなっているが、じつは、それは菊地さんがつくった流れからであることを強調しておきたい。

 菊地さんとわたしが手がけた本の流れが、実はこの本からはじまったといっても過言ではない。

(略)

まず最初に定価があり、その次にタイトル、そして著者名が三段に横組に組まれており、そのタイポグラフィーがみな違っていることが特色である。

(略)

菊地さんは、タイポグラフィーに重きをおく装幀家であるが、カバー、表紙の材質感にも重きを置くにとどまることなく、インクにも独特のこだわりを持っている。同じスミでもインクにはさまざまなものがある。通常使用されるのは、大日本インクや東洋インクなのだが、場合によっては、粒子が細かく黒々と見える東京インクのスリーエイト・ブラックのようににかわが入っているものや、つやがないマットインクなどが使われる。おなじスミと一口ではくくれない。材質を引き立てるためにどのインクを使い分けるかに意を用いる。そこがすごいところだ。

 また、菊地さんは出版社の大小によって使いたいインク、色数、紙の種類など違うことにあまり不平を言わない。小出版社は原価をどれだけでもつめるために、使える色数や紙などに多くの制限を課すが、菊地さんはそうした制限があればあるほど、それを独鈷にとって独自の世界をつくろうとする。あたかもそうしたしばりを楽しんでいるかに見える。編集者が考えもしないやり方を考えつくし、これならどうだと私どもに提案してくる。この本などは、そうした典型的な作品ではないかと思う。

(略)

 あと一冊について話してみたい。(略)

一九八六~八八年にかけて刊行された『吉本隆明全集撰』がそれだ。

(略)

本文印刷は当時、なくなりつつあった活版印刷所をさがし出し、活版印刷を採用した。オフセット印刷よりも文字の強さを打ち出したのだが、今回はカバーのみについて話させてもらう。

(略)

カバー印刷において、オフセット印刷活版印刷という技法を同時におこなっているのである。そうするとどういうことが起こるのか。

(略)

オフセット印刷は右端と左端、そして中央は活版印刷を併用することで違った効果を生む。オフセット は平滑さを表し、活版は凹凸を生むという効果である。それは触ってみると微妙にわかる。これが手触り感の重要性というものである。

 本を読むことは単に字面を読むだけではなく、触って感じ、読んで理解し、そして愛情をもって接することの奥深い世界を指す。

 こういうことを、身を以て教えてくれた菊地信義というひとのすごさの一端を示す大きなエピソードである。

 そして、もうひとつ。

 この全集撰のカバーをとり表紙をごらんになってほしい。なにやら薄い色で、表紙の表1と背に印刷されている。実はこれはインクが載せてあるのではなく、活版印刷のインクを洗い流す油をそのままインクの代わりを使用し、活版の圧の強さと紙に染みていくあぶらの特性をつかった手法であるが、なんとも心憎いやり方ではないか。

 これはどういうインクで印刷したものですか、当時、連絡してきた読者がたったひとりいたが、こうした読者に出会えたことは大いなる喜びであった。 

古典 (吉本隆明全集撰)

古典 (吉本隆明全集撰)

  • 作者:吉本 隆明
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 1987/09/01
  • メディア: 単行本
 

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