フィッシュマンズ全書 小野島大

フィッシュマンズ全書 FISHMANS Chronicle(1988-)

フィッシュマンズ全書 FISHMANS Chronicle(1988-)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/12/07
  • メディア: Kindle
 

 〈コメント〉チバユウスケ

チバユウスケフィッシュマンズは、明治学院大学で同じサークル「ソングライツ」に所属していた。チバの一学年上が茂木欣一柏原譲、三学年上が佐藤伸治という関係である。
 大学は1、2年が戸塚で、3、4年が白金。だから伸治さんとは滅多に会わなかったけど、欣ちゃんや譲とはしょっちゅう会ってた。チケット買ってくれって言われて。で、渋谷のラ・ママでライヴ見たのが伸治さんに会った最初かな。
 最初の印象は、ふんわりしたバンド。うまいなと思ったし、いい歌だなと思った。歌が好きだったかな。声も歌詞もメロディも良かった。曲の合間に喋る感じがまた、うまいんだよね。客をつかむ呼吸。

(略)

ファーストが出たときは、俺はライブのほうがいい気がしたな。レコードはちょっと軽い感じがした。

『空中キャンプ』で変わったって言われるけど、俺はそういう印象はない。俺にとってはフィッシュマンズは伸治さんの歌だから。(略)伸治さんの歌は、伸治さんそのものだった。たぶん、すごく正直にやってたんじゃないかな。あんまり架空の世界じゃない気がする。そういうリアルなところは、俺も影響受けてるかもしれない。(略)
 でも伸治さんには挨拶するぐらいで、個人的なことはあまり知らない。俺の見た限りでは、すごく自信に溢れた強い人って印象。(略)
 伸治さんて、寝そべってる印象があるんだよね。フェスか何かで一緒になったんだよ。確か俺らがデビューしたばかりで。で、伸治さんのところに行って「お久しぶりです」って言ったら、「久しぶり~」って寝そべって手を振ってたイメージがある。最後に会ったのは、その時じゃないかな。(略)

レゲエ

東京Walker 91/5/28号

ミュート・ビートとたまを足して2で割ったみたいなバンドだなってよくいわれる」 (略)

[三人編成の]第1期フィッシュマンズの頃は、ブランキー・ジェット・シティみたいだったとか。

salida 91/5/31号

小嶋 (略)小玉さんはプロデューサーっていうよりメンバーに近い感じでしたね。(略)

小玉さんって本当にレゲエ好きみたいですね。僕らは……レゲエっていうか縁側なんですよ。縁側で一服……そんな感じですよね。

 アリーナ37℃ 91/6月号

──(略)レゲエをやりたくて始めたバンドなの?

 さとう いや、全然。ただ歌いやすいからで、べつにスカやレゲエはどうでもいいんです。あと、音がゴチャゴチャとまざってるのはすごいイヤだから、それでこういうのをやってるだけ。スカやレゲエはかえって聴いてない。ストーンズとかTレックスとか好きだから。

 宝島 91/6/24号

 おじま 単純に小玉さんしかいないんじゃないかって思ったから。今回はあまりプロデューサー然とした人を必要としなかった

(略)

──実際やってみてどうだった?

さとう もう、凄いよ(笑)。

おじま 凄いけど、プロデューサーじゃないよね(笑)。メンバー、バン・マスって感じ。

ゆずる 今までやっててあやふやだったところを全部明らかにしてくれたんだよね。特にリズム隊なんかエライ進歩したっていうか。根底から考え方が変わったね。今までは歌についていくだけで、歌がこけるとみんなこけるって感じだったんだよね。(略)

リズムを安定させて、その上で歌がドーンと伸びるみたいな、そういう気持ち良さがわかったという。

STAGE GUIDE 91/7

佐藤 (略)昔、モッズ系っていうか、JAMとかフーとか演ってたんですよ。で、演ってみて自分とはちょっと違うんだなあ、って。それがあって今の僕があるという。

〈コメント〉こだま和文 

 彼らはホントに無邪気でしたよ。音楽のことしか頭になくて。佐藤くんなんか、どう楽しく過ごすかとか、ものすごく先が開けている感じがあったし。あの一丸となってる感じというか、一生懸命さが良かったんですよね。(略)
 最初に会った時のことは、覚えていますよ。僕のライヴですよね、同じ学園祭でね。(略)ものすごく個性的な感じがしましたよね。 すごく華奢で(略)小動物のような、東南アジアとか南米とかの絵本に出てくる少年のような。それで、ものすごく明るいんですよ。

(略)

最初のデモ・テープは、なんかユーミンみたいだった。アレンジもね、ティン・パン・アレーとかに近い質感があったんですよね。そんなにレゲエでもなかったし。(略)

[1st録音では]参考のために、僕がロックステディのミックス・テープを作って彼らに渡して、まずそこから始めたんです。彼らはリズムが散漫だったんですよね。これはソウルっぽいとかこれはファンクっぽいとか、これはレゲエっぽいかなという。(略)僕は一回、レゲエとロックステディをしっかりさせようと思ってね。レゲエのリズムを解釈すれば、すごいオールマイティになれるから。(略)

(略)

リズムにおけるカリビアンなるものというのは、絶対この先強いぞって思っていたから。(略)

 だからファーストがレゲエになったのは、僕の意向ですよ。半ば強引だったと思いますよ。それに佐藤くんは必ずしも100%賛同しなかったと思うんです。そこにはちょっと衝突があって。すごくレゲエ好きな男でしたけど、それと自分たちのバンドでこれから出していこうとするものとはね、分けて考えていたという部分は、当然持っていたと思いますよ。ある種のレゲエ・バンドってくくられたくないとか、自分の中にはもっといろんな要素があるんだとか。だけど、僕は一番いいと思うことをやるってことですから。彼もバンド全体としても、それを納得した形になった。

(略)

最後の言葉を交わしたのも(略)亡くなる前の年(98年)の野音ですよ。その時僕は酔っぱらってて、なにかぼやいたと思うんですよね。佐藤くんはそれを察知したかなにかで、楽屋のソファーの陰に隠れたんですよね。(略)

酔っぱらっていたから、なんだよ佐藤、なんでそんなによそよそしいんだよ、みたいな、そういう感じで言ったんですよね。なんで隠れたのか、わからないですね、今となっては。
 佐藤くんは、すごくウェットな男なのに、すごいクールでもあった。繊細だし。自分の居心地というものを、ものすごく感じ取っている人だから。かといって難しい男じゃないんですよね。すごく江戸っ子なところもあって(略)

スパッと割り切れたところもあったし。だから願わくば、もっと話がしたかったな、と思う何人かの一人ですよね。あんなに想いを残す人も、そうはいないですよ。

ダブ、ヒップホップ

BANDやろうぜ 92/12

──(略)結構過激なダブ処理もありますよね?

佐藤「(略)録ってる段階から、1日の終わりにはダブ大会、みたいな。今回はそれが結構目玉だったなっていう」

茂木「<頼りない天使>なんてすごい収穫になりましたね。これはダブの理想的な到達点ですね。そこまで言わせてもらいます。歌ものに関してのという意味ですけど

 デイリーan 93/4/9号

佐藤「唐突だけどね、最近ヒップ・ホップ に凝っているんですよ(笑)。(略)レゲエとヒップホップって結構似ているんだよね。勢いっていうかリズムの強さに共通するものがある。(略)

それに音の詰め込み方が凄い。ムリヤリ詰め込んでいるんだけど、ちゃんと音楽になっているってところ。(略)

だから次の作品にもきっと影響が多少出てくるんじゃないかな。レゲエという基本は崩さないけど、音楽的でない音の入れ方とか」

〈コメント〉窪田晴男 

[2ndアルバムプロデューサー]

 僕にプロデュースのオファーをした理由というのは、特になんにも。あいつらもにゃもにゃしてるから(笑)。どうも自分たちの中でははっきりしているらしいんですけど、それをちゃんと外に表現したりするのが、あんまり上手な子たちじゃないんですよね。(略)

 すごくヘンなアルバムになったのは、まず、レゲエ・バンドですっていう骨格が見えた方が、絶対この子たちは当たるだろうって思ったんですよね。で、レゲエだったらダブだろ的な。彼らにポップ・チューンのスマッシュ・ヒットが出ても、その次が出るか出ないかが、ちょっと僕にはわからなくて。それよりも、佐藤伸治の得体の知れない才能とバンドの音楽性、そっちを出したいと。たとえばクラプトンもいろんな音楽やるけどあの人はブルースですみたいな、あれと同じように、いろんなことができるけど基本にレゲエが見えます、みたいなバンドの方が、バンドとしても長持ちするだろうし、売れるだろうなって当時は思ったんですね。それにこの子たちが自分たちでプロデュースするようになった方が、よりおもしろいものができるに違いないと。(略)

バンドと佐藤くんを自由にしてあげるのが、僕の役割かなあって。それと誰もやっていないようなことを俺達やってるぜ、という風な自信をつけさせてあげたかったんですよね。

(略)

 佐藤くんについては、おまえが天才だってことがわかったから、おまえは放し飼いにするって(笑)。だからおまえは好きに歌詞を書いていいし好きに歌っていいし、好きにやりなさいと。僕が全部面倒見てあげるから、やりなさいと。整頓された歌唱とか売れ線どうのとか、そうじゃない魅力がこの子にはあるなと。(略)ひたすら彼が愉快であることがバンドにとっても良いはずだと。

 あのアルバムの後も、レコード送ってくれていたんで、聴いていました。ああ、どんどん好きな方向へ行って、どんどんいい意味でわかりづらくなってるな、ポピュラーでなくなってるな、って思いましたね(笑)。でも、それもいいかなと。あのアルバムでは、要するにレコーディングの場合は演奏するだけじゃなくて、卓(コンソール)の側にも音楽がある、ということを、彼らは覚えてくれたんだと思います。そういう意味では、その後、なにか妙にクスリ臭い音になったりとか、いろんな風になっていくということの、ある種のきっかけ作りはしたのかしらと思いますね。
 佐藤くんが亡くなった時は、あれはねえ、ちょっとショックだったな。譲くんが抜けた時のコンサート(98年)に行きそびれてるんですよ。あの時佐藤くんは、相当絶望していただろうし。ただ、ドラムと2人でも音楽は作れるよ、ということをひと言言ってあげようと思っていたんだけど、それはちょっと言いそびれちゃってて。そのへんがね、未だに自分の中でもにゃもにゃしてるんですけどね。 

Go Go Round This World!

Go Go Round This World!

 

佐藤、歌番組に怒る

 『Go Go Round This World!』1994年2月2日発売

月刊カドカワ 1994年3月号 文 佐藤伸治

  お正月に『MJ』という夜やっている歌番組を観た。普段、歌番組はほとんど観ないけどその日はなぜか真剣になって最後まで観た。出てくる人の顔から歌詞から曲から何からもう全部。そしたら無性に腹が立ってきた。なんなんだね、コレは。もう何がなんだかさっぱりわからなかった。もう頭の先から靴の裏まで、歌詞のひとつからギターの趣味まで何ひとつわかりあえることはなかった。同じ人間でもこうまで違うものかと思った。それもこの日の出演者は去年すごく売れた人ばかりらしい。なんてことだ。これが売れてるって?前々から怪しいとは思っていたけど、もう相当怪しい。ここまでくるともう完全に犯罪だ。もう全員犯罪者。歌ってる人も聴いてる人もカラオケやる人もみんな極悪、悪党の集まり。こんなすごい犯罪国家は日本だけだ。さみしい。

 MUSIC GUIDE 1994年3月号 佐藤伸治インタビュー

(略)

 あと、ボク日本の音楽史にちゃんと興味ありますから。10年後にちゃんと聴けるものとかそういうのに。

(略)

だからあんまり“今、今”ってことだけで曲つくりたくないんですよね。無責任に。そう思うのだ!

大学時代

ガレージ・パラダイス 1994年創刊号

[インタビュアーは小嶋の同級生。尖ったブーツでストーンズやってた小嶋がこじゃれた感じになってびっくりしたので、その経緯を訊きたいというところからインタビューが始まり]

──それは小嶋君はLMS、佐藤君はソングライツ(両方共軽音サークル名)に入った後?
小嶋「そう。両方共の部室が近くて、それに学部もクラスも一緒だったから、ちょっと音出そうとかいって毎日やってたよな。その時伸治って歌うよりドラムよくやってたんだよ、ベースとか。当時学内でレゲエ叩けるの伸治しかいなくて重宝してたんだ(笑)

(略)

俺も狙ってはいたんだけど、いかんせん再現できなくてやめたね(笑)。当時は本物のレゲエより、クラッシュとかストーンズがカヴァーしたホワイトレゲエをよく聴いてた。レゲエいいなあとか言って、ボブ・マーリィだとなんかたるいなとか秘かに思ってて。で俺のバンドは卒業と同時に終って、伸治のも解散したんだよね?」

佐藤「うん。俺はそのバンドでプロになろうと思ってたけど、2年くらいで終ったな」
小嶋「こいつのバンドが解散したって聞いてさ、俺、入れろって言ったんだよ。そしたら断りやがってさ」
佐藤「あ、そうだっけ?」
小端「(笑)だめだ。お前のギターはうるさいとか高飛車に言われて、けっこうしょぼんとしててさ。一緒にできないのかにゃーって」(略)
佐藤「いやいや、俺忘れてたよ、まじで。それから大学3年の時、きんちゃんがライツに入って来て。今と全然違って、うるさくてしょうがないドラム叩いてて(略)

で、プロになるのをあきらめてた時で、きんちゃんがパンクみたいなドラム叩いてたから、これはちょっとギャグでモッズみたいなのやろうかなって(笑)」
小嶋「ギャグだったのか、あれ(笑)」

佐藤「最初はね。(略)」
小嶋「いや、俺ときんちゃんは本気だったよ(笑)。こいつはおちゃらけだったけど」
佐藤「そうなんだよ。この2人がいなかったら、このバンドはプロにはなれなかったね」(略)
──そのモッズバンドの名前は?
小嶋・佐藤「FISHMANS」(略)

小嶋、HAKASE脱退

ガレージ・パラダイス 1994年12/12号

(略)

[小嶋脱退について]

──なんで抜けちゃったの?

佐藤 うーん……。あんまり言いたくないかな(笑)。

──小嶋くんが抜けることでいろいろ思うところがあったのは、本人とか他のメンバーとかよりも、実は佐藤君なんじゃないかなって……。

佐藤 わかんない。小嶋はそりゃああるだろうけど……。俺と小嶋なんじゃないの、ショックなのは。

──じゃあなんで!(笑)。前インタビューした時、すごく信頼しあってるのが感じられて、ずっと一緒にやっていくんだろうなあと。

佐藤 ねぇ。そんな気もしてたんだけどね。なかなかうまくいかないですよ。(略)

サウンド&レコーディングマガジン 1994年12月号

──ZAKさんはいつごろからフィッシュマンズと関わるようになったのですか?

ZAK デビューしてすぐのころのライブからです。

(略)

──佐藤さんの声は結構特殊だとおもうのですが、ボーカルはどうやって録りましたか?

ZAK 真空管系のマイク・アンプとU47の組み合わせで録ってます。ライブでもボーカルだけは真空管のマイク・アンプを使ってます。

(略)

「ナイトクルージング」ポリドール移籍第一弾シングル

B-PASS 1996年1月号

(略)

スタジオはさ、レコード会社の人に、ちょっと軽く欲しいなって言ったら、じゃ、作ろうっていうことになっちゃった。それならって、自分達で不動産屋回ってさ。マンションの一室でもと思ったのが、結局2階建てのビルを借りれることになったんだけど。で、決まった時点で、俺はハワイに行ったの。でも、その行く当日、荷物持って出ようとしたらHAKASEから電話があったのかな。やめたいんだけどって(笑)

──ショックだった?

そうでもなかったな。(略)帰ってから話そうって、そのまま出掛けた(笑)。で、帰ってからじっくり話したな。すごく大雑把に言えば、HAKASEはソロ指向っていうかんじで。それならしかたないなって俺も納得したし。スタジオも決まってたから、俺の気分はやるぜ!っていう方向だったしね。ただ、HAKASEは何でもできるキーボードだったから、いなくなった時点で、今までとは別のバンドっていう感じが、俺の中にはあるんだよね。(略)

次回に続く。