ヒップの極意・その3

前回の続き。 

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

 

デュークス・オブ・セプテンバーとともに

ソロ・アルバムの《ナイトフライ》をワーナー・ブラザーズに納品すると、わたしは安物のスーツのようにバラバラになってしまった。子ども時代の不安発作がぶり返し、ただし今回は病的な考えと、大々的なパラノイアというおまけがついていた。1日を生き延びるのもやっとという感じで、曲づくりなどとんでもない。わたしは精神分析医の診察を受け、抗鬱剤をがぶ飲みしはじめた。

 1988年に早送りしよう(お願いだから!)。わたしの精神状態はかなりよくなっていた。友人のリビー・タイタスは、マンハッタン周辺のレストランで、音楽とコメディの「おぞましくもささやかな宵」(本人の弁)をシリーズでプロデュースしていた。手短にいうと、われわれはコラボを開始した──プロジェクトはニューヨーク・ロック&ソウル・レヴューに発展し、このレヴューは2年間、全国をツアーしてまわった。その後われわれは結婚した。マイク・マクドナルドとボズ・スキャッグスは、1993年のツアーのラインナップに入っていた。2010年、われわれはこのコンセプトを、デュークス・オブ・セプテンバーとして復活させた。2012年のサマー・ツアー中に、わたしは以下の日誌をつけはじめた。

(略)

  2012年6月19日(略)

 わたしはデュークス・オブ・セプテンバー・リズム・レヴューというバンドとこの街に来ている。これはマイケル・マクドナルドボズ・スキャッグスとわたしが、もっぱらお気に入りのカビくさいR&Bやソウル・ナンバーをうたうというもので、TVベイビーたちのご機嫌を取るために、自分たちのヒット曲もいくつか差しはさんでいる。

(略)

[ヒット曲目当ての客のノリの悪さにイライラし、ツアー待遇の悪さをマネージャーに愚痴ると、ヒット曲主体にしたらキャパも増やせて高待遇になりますと返される]

  7月1日

 誇大妄想狂の嫌なやつとしてのアーティストの話題にもどろう──一般市民の場合と同様、不快で無礼なやつが不快で無礼なのは、こっちにどう思われているかが怖いからなのだ。一種の防御なのである。時には連中をかくも怖がらせている要素が、同時にクリエイティヴな気質を刺激することもあるが、わたしの知る限り、最高に不愉快な手合いは、たいていアーティストとしても凡庸だ。これはおそらく、本物のアートには、あくまでも一般論だが──ある程度の共感が必要とされるからだろう。

 むろん、アーティストはコントロールを保たなければならない。これはすなわち、つねに状態を最適化することを意味し、そのなかにはやるべき仕事をやっていない連中や、実はサイコだったと判明した連中等を、冷徹に切ることもふくまれている。だが人をクビにするときですら、優しさを見せることは可能なのだ。

 チャーリー・ミンガスは自伝のなかで、トロンボーン奏者のジュアン・ティゾールといさかいを起こした彼を、デューク・エリントンがいかに優雅にお払い箱にしたかをふり返っている。

(略)すまないけれどチャールズ──ぼくは人を首にしたことはないんだけど──君にはぼくのバンドをやめてもらうよ。これ以上悶着はごめんだ。ジュアンは昔から問題だったんだ。そいつはぼくが何とかできる。しかし君の場合は何が飛び出してくるか全く見当がつかないんだ」

ウェス・アンダーソンムーンライズ・キングダム

  7月4日(略)

[ウェス・アンダーソンムーンライズ・キングダム』を観て]

知的で、念入りにつくられた映画だった。ウォルターとわたしは一度、インターネットを経由して、アンダーソンのファンたちと一風変わったやりとりを交わしたことがある。きっかけはわれわれが、ユーモラスな(とわれわれは思っていた)手紙を2通、スティーリー・ダンのウェブサイトにアップしたことだった。

 われわれがアンダーソンに魅了される理由のひとつは、彼が一種のオタクっぽい、60年代初期の思春期体験に、大きなこだわりを持っているように見えることだ。ウォルターとわたしは実際にそれを生きぬいてきたが、アンダーソンは若すぎて実体験できなかった。それなのに彼は喜劇的な誇張とファンタジーを駆使して、そのムードを完全に捉えきっている。(略)

ムーンライズ・キングダム』のボーイスカウトたちを観ているうちに、自分自身のボーイスカウト・キャンプでの経験が思い出されてきた。わたしは大半の時間をテントですごし、大型のポットでこわごわハーブティーを沸かしていた。ハーブといってもほとんどは森で摘んだウィンターグリーンだが、それをスカウトのハンドブックに載っていたレシピに沿って、ぴったりのブレンドで煎れようとしていたのだ。

日本でのエピソード

  7月14日(略)
 日本のプロモーター、無敵のミスター有働が10月にデュークスで何度かライヴをやってほしいといっている。アーヴィングが値段をつり上げることができたら、たぶん、われわれは行くことになるだろう。このサイズのバンドがアジアに遠征するとなると、経費がバカにならないからだ。

 せいぜい1週間ぐらいだろう。そうだとありがたい。日本ではけっこうキツい思いをさせられるからだ。なによりもまず、西洋人にとって、あそこは火星の遊園地のように見える場所だ。ピンボール・マシンのなかで、道を探しているような感じといってもいい。

(略)

 これもやはり島国ならではの問題だし、イギリスの文化と共通する点も多々あるが、それにしても日本は極端だ。おそろしく堅苦しい礼儀作法、とりわけ外国人と接する際のそれは、多くの誤解を生み出している。以下はわれわれのギタリストが、好んで披露する日本でのエピソードだ。

 ある夜遅く、ジョンとほかに何人かのプレイヤーがレストランに入り、まだ食事はできるかと訊いた。ウェイトレスはかすかに動揺した様子だったが、どうぞ、お入りくださいといった。テーブルは空いてる?はい、こちらにお座りください。メニューはあるかな?ウェイトレスが今にも泣き出しそうな顔でメニューを持ってきた。オーダーしてもいいですか?彼女はついに頭を垂れ、ほんとうのことを口にした──もうしわけありません、もう閉店なんです。

 そういうことだ──どうやらあの国には「ノー」という概念を表現できる言葉がないらしく、プロモーター、クラブの従業員、運転手、そしてこっちに同情的な通訳たちですら、みんなほぼどんなことについても、嘘をつくしかなくなってしまう。(略)

あらゆる種類の曖昧な表現に激しいアレルギー反応を示すわたしの妻などは、もう二度とあの国に行けないだろう。わたしは1週間ぐらいなら、あぶく銭のために我慢できそうだが。

ディーコン・ブルース

   7月28日

 アラバマにもどる。(略)

 70年代にウォルターとわたしは、アンチヒーローとしてのジャズ・ミュージシャンというありがちなイメージをもてあそんだ曲── 〈ディーコン・ブルース〉を書いた。これはその当時までのわれわれの暮らしはもちろん、ノーマン・メイラーが大昔に書いた「白い黒人」というエッセイも、ある意味でおちょくった作品だった。われわれはまちがいなく、爆笑ものだと思っていた──なにしろ疎外された郊外の白人少年が、ビバップの奏法を身に着けさえすれば、抑圧の鎖を打ち捨て、ほんものの人生を歩み、芸術とパッションという奔馬を解き放つことができるなどという考えを抱くのだ。サビがすべてを要約している──

サックスの吹き方を覚えよう

ただ感じた通りにプレイしよう

(略)

人はアラバマクリムゾン・タイドと呼ぶ

オレのことはディーコン・ブルースと呼んでくれ

 ここでのミソは、もし一大学のフットボール・チームがこんなご大層な名前を名乗っていても、主流派のアメリカに受け入れられるとしたら、オレも同じくらいご大層な称号がほしい、とこの負け犬がいっていることだ。オレはきわめつけのはぐれ者、夢の裏側さ、あんた……オレのことはディーコン・ブルースと呼んでくれ(当時はラムズに、ディーコン・ジョーンズという最高のディフェンスが在籍していた)。アイデアはいくぶんとりとめがないが、音の響きは悪くなかった。やたらと長かったにもかかわらず、この曲はヒットした。

 何十年もたってツアー活動を再開すると、われわれがアラバマ、とりわけアラバマ大学があるタスカルーサでプレイする際には、どうしてもこの曲をやらないわけにはいかなくなった。おそらく酔っぱらって〈ディーコン・ブルース〉をやれと叫ぶ客は、だれひとりこの曲の意味を知らないし、知りたいとも思っていないだろう。連中は単に「クリムゾン・タイド」という言葉を、よく知られた曲のなかで聞きたいだけなのだ。

 いずれにせよデュークスは、一度もこの曲のリハーサルをしたことがなかった。

(略)

  8月5日

 日帰りでニュージャージーのレッドバンクに向かい──よく聞いてくれ──カウント・ベイシー・シアターでプレイ。(略)

カウント・ベイシーのホームタウンでプレイできるとあって、バンドも大いに力が入っていますと口にすると、客席からは本気で耳が痛くなってきそうな沈黙が返ってきた。どうやらTVベイビーたちは、ベイシーがあまりお好みじゃないらしい。

 劇場のウェブサイトによると、音楽系の高名なアーティストが大勢、ここをお気に入りの小屋に挙げている──

トニー・ベネットはここを『お気に入りの場所』と呼んでいます。アート・ガーファンクルは、『ピアニストにとってのスタンウェイが、シンガーにとってのこのホールだ』と語り(略)」

 なるほど、たしかに見た感じは悪くない。だが音は最低だ。前にもいったように、古い劇場はたいてい見てくれは最高だが、「定常波」ほかの原因のせいで、音響カオスを起こしてしまう。サウンドチェックではジョーといっしょに最前に立ち、駐車場ビル内の壊れたバイタミックス・ブレンダーのようだったドラムをなんとか聞ける音にするだけで、30分を費やしてしまった。この手のトイレのような小屋には、いくら高価なドイツのマイクを持ちこんだところで、まったくなんの意味もない。まともな楽屋もなく、着替えとひげ剃りはバスの車内でやるしかなかった。今回も、われわれはどうにか観客をごまかし、それなりに価値のある音楽を聞いたという気分にさせることができた。われわれにとって幸運だったのは、彼らがクズのような音に慣らされていたことだ。

(略)

  8月8日(略)
[10月に出るソロに関する質問がeメールで次々に来る]

デザイン部門がジャケットにほどこした処理は気に入りましたか?ライナーノーツの原稿をチェックしてもらえますか?(略)

 なかにはこういう、本気で気色が悪いものもある──iTunes用のマスタリングは問題ありませんか?そもそも質問の意味からしてわからない。アルバムはすでにマスタリング済みだし、それはすでに悩みの種となっている。それになぜそんな真似をするのだろう?どうせみんな、腐ったような音がするコンピューターの小型スピーカーか、あのどうしようもないイヤホンで音楽を聞いているというのに?

 1964年、ヴィニール盤のLPは最高の音をさせていた。それは高忠実度の時代であり、あなたの両親ですら最高の音を鳴らすコンソールか真空管コンポ、それにA&RやKLH等々の、いかしたスピーカーをひと組揃えていても不思議はなかった。(略)

[TVの]チャンネルは10から12しかなく、すべての番組がすばらしかったわけでないが、30年代、40年代のイカした白黒映画を、日中はもちろん、夜もほぼぶっ通しでたっぷり観せてくれた。魂を鈍らせるポルノや暴力はいっさいなし。メインはまっとうなニュース番組と、スティーヴ・アレン、グラウチョ・マルクス、ジャック・パー、ジャック・ペニー、ロッド・サーリング、そしてアーニー・コヴァックスらの知的でチャーミングな有名人をフィーチャーした、カジュアルなエンターテインメントだった。

 ああ、なんならわたしのことを、クソ親父と呼んでくれてもかまわないぜ。(略)

情報テクノロジーは、人を完全に操ってしまう。TVベイビーは手のひら人種に変貌を遂げた。それはたとえば客席にいる、即席ヴィデオを友人たちに送っていないと、パフォーマンスを経験した気になれない連中のことだぼくを見て、ぼくはまちがいなく生きてる、ぼくはそれを証明できる、だからこいつを送ってるんだ。

 いってやろうか?わたしはおまえなんか見たくない。おまえは死体だ。そしてそれを言動のひとつひとつで証明している。目を覚ませ、このウスノロめ!

(略)

  8月10日

 わたしが遠くの学校に通っていた同年代の終わりごろ、父親はジャージーでやっていた仕事をレイオフされた。彼は家族を連れてオハイオに移り、弟、つまり風変わりでおかしなわたしのデイヴおじさんとファーストフードの商売をはじめた。(略)残念ながらデイヴは数あるフランチャイズのなかから、よりにもよって数年後、マクドナルドに一掃されてしまうバーガー・シェフを選んだ。

 子どものころ、デイヴがわたしといとこのジャックのために、MDMDクラブという組織をつくってくれたことがある。これは「最高に大胆なやつよりもっと大胆(モア・デアリング・ザン・モースト・デアリング)」の略だ。われわれは自分たちがやってのけた危険な冒険の話を、次々にでっちあげた。たぶんオハイオにずらかったとき、中年だったデイヴとわたしの父親(それにジャックの父親、わたしのアルおじさんも)も、それと同じようなつもりでいたのだろう。

(略)

 バーガーの悲劇からまださほどたたないころ、わたしは休日の週末に帰省していた。夜になるとデイヴは、車でわたしの妹の家から、両親の暮らす悪夢のように味気ないアパートまで送ってくれた。(略)

もう遅かったので、店は閉まっていた。こぼれたビールの水たまりでしばらく立ちつくしたあと、よくある耳当てつきの帽子をかぶっていたデイヴがいった。「なあドニー、ときどき思うんだが、口にショットガンをつっこんで、この馬鹿げたもろもろ全部に終止符を打つ、というのはどうだろう?」

 その言葉はかならずしもショックではなかった。前にもいったように、デイヴはおかしな男だったからだ。問題はデイヴの父親、ということはわたしの父親の父親でもあり、わたしにとっては祖父にあたる男が、30年前に地下室に降りて、まさにその通りの真似をしていたことだった。

(略)

  8月11日

 けっきょくロチェスターのライヴは、最初から最後まで最高だった。今回ばかりは歓びが、ATDに勝ったわけだ。客筋はいいし、サウンドも上々で、全体的にすてきなヴァイブが漂っていた。(略)

同じプレイのくり返しも、それはそれで楽しいものだ。すべてがぴったりハマってくると、音とコードとそのあいだの美しいスペースに、すっかり釘づけにされてしまう。ドラムとベースとギターにぐるりと囲まれ、その中心に立っていると、大地は足元からはがれ落ち、そこにいるのはこの前に向かう動き──1万人もの人々を人生の惨めさから解き放ち、立ち上がらせ、踊らせ、叫ばせ、ひたすらいい気分にさせることができる、この否定のしようがない、魔法のようなブツをつくりだしている、自分とそのクルーだけになる。

逮捕歴?

  8月12日

[カナダの入国管理官が]

「あなたはニューヨーク州で逮捕歴があるこのドナルド・フェイゲンと同一人物ですか?」

「えっ?いえ、逮捕されたことはありません」彼に書類を見せられた。誕生や家族に関する情報は、まちがっていないようだ。するとそのいちばん下に、わたしが1969年にドラッグを売ったかどで逮捕されたという、FBIからの注意書きが入っていた。

「まさか、こんなものを見せられるとは思いませんでした」とわたし。「大学時代に強制捜査があって、学生が大勢捕まったのは事実ですが、わたしがマリファナを売っていたというのは、まったくのでっち上げだったんです。この件は不起訴になりましたし、当時、わたしの弁護士は、この逮捕を記録から抹消させたといっていました。そんなことが可能になったのは、告訴をした“郡保安官代理”が偽証をしていたからなんですが。G・ゴードン・リディのことを聞いたことがありますか?」

「いえ、ありません」

「彼は当時、ニューヨーク州ダッチェス郡の地方検事補選に出馬していました。 バード・カレッジの強制捜査を仕組んだのは、反ヒッピー票の獲得をもくろんでのことだったんです。するとその2年後に、リディはウォーターゲートに侵入した犯人のひとりとして告発されました」

 カナダ人の警官はわたしを一瞬見つめ、書類を取り下げた。「たしかに」と彼。「あなたは何度もカナダにいらしているようです。今回、この件が持ち上がった理由は不明ですが、いずれにせよずいぶんと昔の話ですし、わたしはあなたを信じたいと思います。ですが記録の訂正は、ぜひともやらせるようにしてください。そうしないと将来的に、カナダに入れなくなる可能性がありますから」といって彼は、この件を不問にしてくれた。
 というわけで43年たった今、わたしははじめてFBIに自分のファイルがあることを知った。

ストラヴィンスキー

  8月15日(略)

ホテルでオフ。わたしはアップルにストラヴィンスキーの長いプレイリストを入れていて、毎晩、それを聞きながら眠りに就く──《ナイチンゲールの歌》、《ミューズを率いるアポロ》、《プルチネラ》、《詩篇交響曲》といった頌歌だ。《春の祭典》の途中で目を覚ますと、ほんとうにイルな気分になる──まるで、火のついたベッドで目を覚ましたような。それと今は若きイーゴリの小さな写真を、ラップトップのデスクトップに置いてある。音を外したヴァイオリニストたちを震え上がらせたという、あの目つきでカメラをにらんでいる写真だ。

 こうしてまたイーゴリマニアがぶり返してきたおかげで、アマゾンからストリームされる『シャネル&ストラヴィンスキー』という映画を観てしまった。ココ・シャネルがロシアから亡命してきたばかりのストラヴィンスキーとその家族を、パリの郊外にある彼女のハイ・スタイルな貸間に招いていた時期に、このふたりのあいだでくり広げられたとされる情事を描いた映画だ。映画はもっと早い時代、1913年からスタートする。この年、あの悪名高い《春の祭典》のプレミアに出席したココは、どうやらこのイカれたニュー・ミュージックにすっかり心を奪われてしまったらしく、暴動めいた騒ぎのあいだも、ずっと席を立たなかった。彼女が彼と再会するのはその7年後、自分の家で仕事をすれば、と彼を誘ったときのことだ。それなのに映画が終わるまで、われわれはこのやけに筋骨たくましいストラヴィンスキーが、ココのピアノで《春の祭典》をあらためて作曲する姿をながめつづけることになる。このパラドックスは決して説明されない。たぶん映画をつくった連中が、イーゴリはココをコマしたことがきっかけで、この荒々しい、隔世遺伝的な、新種の音楽を書くことになったという筋書きを捨てきれなかったのだろう。ある意味、ジョージ・クリントンの「心を自由にすれば、ケツもついてくる」というスローガンの逆を行くようなものだ。

 実際には20年代初頭の時点で、イーゴリはもうこの種の作品と手を切り、より保守的な「新古典派」時代に退行していた。むしろ、最終的にはナチのスパイになるココが、イーゴリをファックして、反動的な流れに引きこんだ公算のほうが大きい。彼は終生、そこからぬけだせなかった。ただし音楽としては悪くない。

  8月16日(略)

[ヘンリー・フォード博物館訪問]

 フォードがはじめてユダヤ人こそ世界中の諸悪の元凶だと糾弾した、「国際ユダヤ人」の初版本はないかと訊いてやるつもりでいたのだが、けっきょくは尻込みしてしまった。イーゴリもやはり、ユダヤ人をあまりよく思っていなかったが、これはおそらく彼があの鼻やなんやらのせいで、自分がそのひとりであることを恥じていたせいだろう。バスのなかで、イーゴリに感謝するファンが、彼をミスター・ファイアーバーグ[訳注:「火の鳥(ファイアーバード)」をユダヤふうにもじった名前]と呼んだことがあった、という話が出た。 

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