ヒトラーランド ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

ヒトラーランド――ナチの台頭を目撃した人々

 

よき勝者と悪しき勝者

[先の大戦では敵同士だったのに]ドイツ全体に親米的ムードがあったのは確かだ。(略)

 アメリカ人はどうやら、彼らにとって“よき勝者”であったようだ。

(略)

アメリカ人とドイツ人はまた、どちらにとっても“悪しき勝者”であったフランスに対するいらだちも共有していた。第一次大戦直後の混乱期、ワシントンとパリは、敗戦国ドイツの扱いについてことごとく対立した。(略)

アメリカは、フランスがドイツから、彼らの常識からすればひどく法外な賠償金を搾り取ろうとしていることにも強く反対していた。

(略)

「フランスは欧州一の軍国主義国家です。(略)彼らは先の戦争からなにひとつ学んでいません」。ケイ・スミスは、一九二〇年三月一二日付の母親への手紙にそう書いている。「ドイツは新たな戦争を引き起こしたりはしないでしょう。ドイツは英米とはとくにうまくやっていきたいと考えており、現在、自国の改造に懸命に取り組んでいます」。また別の手紙では、こうも書いている。「フランスはドイツがふたたび襲ってくることを恐れており、ドイツをできる限り痛めつけてやろうと考えているのです」ウィルソンが指摘しているように、フランスはさらなる悪手を繰り出して事態を悪化させた。一九二〇年にライン川を越えて派兵したあと、フランスはラインラントにセネガル人などからなる黒人部隊をさせたが、その直後から、現地からは強姦や暴行事件の報告が相次いだのだ。「フランスに対する燃えるような憎しみが、ドイツ国中にわき上がった」と若手外交官ヒュー・ウィルソンは書いている。

 このただならぬ事態を受け、アメリ国務省は米軍当局者に調査を依頼した。ドイツ駐在アメリカ軍の司令官であったヘンリー・T・アレン少将は、ひと通りの調査ののち、ワシントンにこう報告している。ドイツの報道は事実を故意に誇張して伝えており、人種差別問題にかこつけて、他国がフランスに反感を持つよう仕向けている。「これはとくに、黒人問題に敏感なアメリカを意識した行為である」。(略)

「ドイツの報道にあるような、フランスの黒人植民地軍による大規模な残虐行為──拉致および強姦、身体の切断、殺人、被害者の遺体の隠蔽などは虚偽であり、政治的プロパガンダを目的としたものである」。アレンはそう結論付けている。

 アレンはさらに、こうした大げさな報道の根底には、「ある層のドイツ人女性の黒人部隊に対する態度」があると指摘している。戦後の経済危機によって売春が広く行なわれるようになり、「大勢の身持ちの悪いドイツ人女性が、黒人兵に積極的に近づいた」のであり、数多くのラブレターや写真がその証拠だと、アレンは断じている。(略)

「人種差別は、フランスにもドイツにも見られない。わがアメリカと違い、彼らには白人の純血を守ろうという意識はない」。アレンは性的暴行の実例が数多く確認されていることを否定はしなかったものの、いっぽうで「問題を誘発した」のはドイツ人女性の態度だと考えていた。

 しかしドイツにいたアメリカ人の大半は、あらゆる問題の原因はフランスのドイツに対する報復政策であって、ドイツ人に非はないと確信していた。彼らの目から見たドイツ人は、地元の政治家たちが主張する通り、不当な迫害を受けている犠牲者であった。「残念ながら、第一次大戦後のドイツに赴任していた。アメリカ人の多くが、すっかり術中にはまっていた」。〈シカゴ・トリビューン紙〉の記者シグリッド・シュルツは後年、そう書いている。「世間の同情を集めたいドイツ人を、われわれは無意識のうちに手助けしていたのだ」

 大手出版社ハーストの名物記者だったカール・ヘンリー・ヴォン・ウィーガンドは(略)[同僚への手紙で]フランスに対する不満を爆発させている。「おまえが仲良くしているフランスの連中は、戦争が終わってからこっち、これまで以上に頭がおかしくなったとしか思えない」。そしてフランスが要求する賠償金に関しては、「フランス人はいったいいつになったら正気を取り戻して、ョーロッパの真の姿を見ようとするんだ」と書き、アメリカ人もヨーロッパ人も、「自分たちがどれだけ戦争で苦しめられたかを訴えるフランス人の泣き言を聞くのには、うんざりしはじめている」と結んでいる。

ヒトラーに関する報告

 のちに大使館付武官補佐トルーマン・スミス大尉は、当時ベルリンに駐在していた外交官はほぼ一様に、国家社会主義党を「取るに足らない存在であり、指導者のアドルフ・ヒトラーは教養のない狂人」だと考えていたと指摘している。(略)

[1922年11月ヒトラーと面会]
のちにトルーマンは、あのとき、ヒトラーの政治的な意見にばかりに重点を置かずに、その人となりをもっとよく観察しておくべきだったと悔やんだ。しかしトルーマンがこの日、ホテル・マリエンバートの部屋に戻ってすぐにノートに書き留めたヒトラーの印象は、非常に的を射たものであった。「とてつもない扇動政治家だ。あれほど論理的かつ狂信的な男の話は、めったに聞けるものではない。彼が民衆に与える影響は計り知れない」。ヒトラーの主張はじつに明白だった。「議会も、議会政治制度も廃止すべきだ。今日のドイツを議会が統治できるはずがない。独裁政治だけが、ドイツをふたたび立ち上がらせることができるのだ」

(略)

 ミュンヘン駐在の代理領事ロバート・マーフィの場合、ヒトラーが垣間見せる危険性に早いうちから気付いていたとはとうてい言えなかった。のちに彼は、自分は当初、アメリカ領事館で働いていたドイツ人、パウル・ドライの意見に惑わされてしまったと書いている。ドライはバイエルンに古くから続くユダヤ人名家の出身だった。マーフィとドライは、ヒトラーが活動初期のころに開いた集会に何度か足を運んでいるが、一度目の集会が終わったとき、ドライは憤然としてこう言ったという。「このオーストリアの成りあがり野郎は、どういうつもりでおれたちドイツ人に指図してやがるんだ」

 それから幾度かヒトラーの演説を聴きに行ったあとで、マーフィはドライにこうたずねた。「ヒトラーのような扇動家が、この先もっと大きな支持を得ると思うか」

 「とんでもない!」。ドライは答えた。「ドイツ人にはすぐれた知性がある。あんなごろつきにだまされやしないさ」

 ドライはガチガチの保守派であった──そして急速に勢力を拡大するナチ党に対して、いかにも保守派らしい反応をしたのであった。

(略)

[1923年に]マーフィがヒトラーに面会を申し込んだ動機は、反ユダヤ主義を標榜していることで有名だったヘンリー・フォードが、ヒトラーの運動を支援しているといううわさが本当かどうかを確かめたいというものであった。

 「ヒトラー氏は真摯に対応してくれ、わたしがいちばん聞きたかった質問に対しては、残念ながらいまのところ、フォード氏の会社からは金銭的な支援はまったく受けていないと述べた。党の資金はおもに、国外に住んでいる愛国心の強いドイツ人から寄付されたものだそうだ」とマーフィは書いている。

(略)

[マーフィは]ヒトラーの問題を徐々に深刻にとらえるようになっていった。ドライのほうはといえばあいかわらずで、ヒトラーは小物で、ナチ党は異常者の集まりだと言い張っていた──そしてその態度は、ナチスが政権を取ったあとも変化することはなかった。(略)

[1938年にミュンヘンシナゴーグが放火された際]

ほかの国で国務省関連の仕事を見つけてやるからと言って彼を説得しようとした。これに対しドライは、心遣いはありがたいが、自分は国を離れないと答えた。「こんなのは一時的におかしくなっているだけだ。誇り高いドイツ人が、あんな田舎者に我慢していられるはずがない」と彼は言うのだった。

 パウル・ドライは、ダッハウ強制収容所で命を落とすことになる。

 プッツィ・ハンフシュテングル

一九二二年一一月二二日の夜、プッツィ・ハンフシュテングルがキントル ケラーに到着すると、店内はすでに商店主、役人、若者、職人たちであふれかえっており(略)なんとか記者用のテーブルに辿り着いたプッツィは、そばにいた男にヒトラーはどれだとたずねた。将来ドイツの指導者となる男の姿を確かめたプッツィは、大いに落胆した。「がっしりとした編み上げ靴を履き、黒っぽい背広と革のベストを着て、軽く糊をきかせた白い襟とおかしなちょびひげをつけたその様子は、とても見栄えがいいとは言えず、まるで駅の食堂にいるウエイターのようだった」。(略)

 ところが大歓声を上げる聴衆に向かって(略)記者席の前を「きびきびとしたすばやい足どりで通り過ぎた」ヒトラーの姿は、「まぎれもなく、私服に身を包んだ兵士そのものだった」という。(略)

[暴動を扇動し刑務所から]数ヵ月前に出てきたばかりであったため、聴衆のなかに警察官がいることは本人もよく承知しており、言葉の選び方には慎重を期していた。それでも会場の雰囲気は「ゾクゾクするほど沸き返って」おり(略)

ヒトラーの演説をはじめて目撃したこの夜を、プッツィはこう振り返っている。「初期のころのヒトラーは、声や言いまわしとその効果を自在にあやつる術に長けており、あんな芸当ができる人間はほかにいなかった。そしてあの夜、ヒトラーは絶好調だった」

(略)

プッツィは聴衆──「とりわけご婦人方」が、ヒトラーの演説をたいそう楽しんでいることを見てとった。(略)

「まるで宗教的な恍惚感に包まれているかのように、彼女はわれを忘れて、ヒトラーが語る独裁国家ドイツの輝かしい未来への信念に、すっかり魅了されていた」。

(略)

ヒトラーからは、自力でのし上がってきた男という印象を受けた。彼なら共産主義とは違う思想で、ドイツ市民の心を動かすことができるだろう。しかし取り巻き連中の顔を見たところ、なかにはどうにも「うさんくさい」者たちもいた。たとえば党の理論家であるアルフレート・ローゼンベルクは「顔色が悪くてだらしがなく、よくない意味で半分ユダヤ人が混じっているかのように見えた」。

活気あふれる性文化

居住者であれ旅行者であれ、ドイツにいたアメリカ人にとって、この国の活気あふれる性文化はたまらなく魅力的だった。エドガー・マウラーはこう書いている。「大戦直後の時期には、世界中がセックスの喜びにあふれていたが、ドイツはまさに乱痴気騒ぎといった様相を呈していた。(略)なにしろ積極的なのは女性のほうなのだ。道徳観念、純潔、一夫一婦婚、さらには良識さえ、偏見と一蹴されてしまう始末だ」。マウラーはまた「性的倒錯」についても言及し、古い常識はまるで通用しないと驚きをあらわにしている。(略)

[マウラーの前任者]ベン・ヘクトは、そうした「性的倒錯」の例としてこんな話を書いている。ヘクトはあるとき、将校クラブで同性愛者のパイロットたちに出会った。「彼らはしゃれた服を着て、香水の香りを漂わせ、片メガネをかけ、たいていはヘロインかコカイン漬けになっていた。人目のあるところで性行為におよび、カフェのボックス席でキスを交わし、午前二時ごろになると仲間うちのだれかが持つマンションへと消えていく。グループのなかにはたいてい、女性がひとりかふたり混ざっている。口がやたらと大きな、暗い目をした身持ちの悪い女たちで、爵位付きの名前を持っていたが、体のほうには不名誉な傷がそこらじゅうに付いていた。ときには一〇か一一歳くらいの少女たちをフリードリッヒ通りから拾ってきて、パーティに仲間入りさせることもある。その子たちは真夜中過ぎ、口紅を付けて、赤ん坊が着るような丈の短いドレスにギラギラと光るブーツをはいて、通りを練り歩いているのだ」

 執筆中の自叙伝におもしろみを加えるために、ヘクトは多少、大げさに書いたのかもしれないが、それでもベルリンでゲイ文化が華々しく咲き誇っていたというのはまぎれもない事実であった。アメリカからやってきたフィリップ・ジョンソンのようなゲイの若者にとって、ベルリンとの出会いはまさしく心躍るできごとだった。(略)[バウハウス運動など]に憧れてベルリンにやってきたこの未来の名建築家は、専門分野への興味をはるかに超えて、この街の魅力のとりこになった。

ヒトラーの裁判

 失敗に終わったビアホール一揆のあと、世間ではナチ党はもはや、表舞台には出てこないだろうと考えられていた。しかし(略)[反逆罪に問われた裁判をヒトラーは]ヴァイマール共和国を打倒するというみずからの目的を公に主張する場として利用し、得意の《背後のひと突き》理論を滔々と語ってみせた。(略)

 裁判官はヒトラーに、裁判の進行ばかりか、証人に対する反対尋問まで好き勝手にやらせたため、彼は一揆の側につくと言いながら最後に裏切ったバイエルン州幹部をこきおろし、己に対する周囲の評価をぐいぐいと引き上げていった。

(略)

 ヒトラーの言いたいことは明白だった。わたしはみずからの信念──ドイツの現支配層を嫌悪しているすべての人々と同じ信念──に従って行動しているが、バイエルンの権力者たちは、政府にもこちらにもいい顔をしようとしている。

(略)

 この裁判の取材でヒトラーをはじめて見たマウラーは、たいそう感銘を受けた。「ヒトラーの話にはユーモア、皮肉、情熱がこもっていた。きびきびと動く小柄な男で、新兵を訓練するドイツ軍の軍曹のようでもあり、ウィーンの百貨店の売り場監督のようでもあった」。(略)

「その場にいる傍聴人や記者たちは、ひとり残らずヒトラー喝采を送りたい気持ちになっていた」とマウラーは書いている。

 ヒトラーには反逆罪の最低刑である禁固五年が言い渡され、ルーデンドルフは無罪放免となった。

(略)

 ヒトラーがランツベルク刑務所に収監されていたのはわずか九ヵ月足らずで、そのあいだもかなり自由な振る舞いが許されていたため、彼はその時間を使って自叙伝『わが闘争』の口述筆記を進めていた。ヒトラーはまるで賓客のように扱われ、彼にあてがわれた広くて眺めのいい快適な部屋には、大勢の面会人が押し寄せ、支持者からの贈り物が山のように届いた。そしてついに釈放されたあとも、ヒトラーが故国オーストリアに追放されることはなかった。

 とはいえヒトラーの進めていた運動のほうは、彼が不在にしているあいだに、内部抗争によって膠着状態に陥っていた。そしてヒトラーがふたたび党員の指揮を執りはじめ、さらにはナチ党への活動禁止命令も解除されたにも関わらず、国内の経済状況が好転したことで、ナチ党の吸引力はすっかり弱まっていた。一九二四年一二月の国会選挙で、ナチ党の議席はわずか一四にとどまったが、ドイツ社会民主党は一三一議席、比較的穏やかな右翼政党であるドイツ国家人民党は一〇三議席を獲得した。(略)

[1925年の大統領選挙で77歳のヒンデンブルクが当選]

この大統領選挙のもっとも興味深い点は、ナチ党が「ちょっとした話題」にさえのぼらなかったことであった。ヒトラーはすでに出所していたものの、演説は禁じられており、「わたしの記憶にある限り、ドイツ人であれアメリカ人であれ、わたしに向かってヒトラーの名前を口にした者はだれひとりいなかった」という。

 一九二八年五月の国会選挙で、ナチ党はさらに議席を減らし、一二議席となった。

経済破綻

[1925年ジェイコブ・グールド・シャーマンが駐独米大使に。28年、ヴァイマール共和国の安定は確実なものにと語ったが]
さらなる混乱が起こる可能性にまるで無頓着だったわけではない。ベルリンに赴任した最初の年から、彼はアメリカの金融機関が危険も顧みずに、こぞって高金利の融資を進めていることを憂慮していた。「ドイツの地方自治体の金庫に無駄なお金を大量に注ぎ込んでやろうという動きは、ますます病的な熱気を帯びてきた」。

(略)

マウラーらアメリカ人特派員たちもまた、ドイツ経済の現状に疑問を抱きはじめていた。あるとき、ミシガン大学でマウラーを教えた経済学者のデヴィッド・フライデーが、ドインへの資金提供に意欲的な投資会社の代表としてベルリンにやってきた。(略)

「われわれはこの国の人々のことを、手堅い商売相手と見ているよ。仕事熱心で、堅実で(略)われらの力でドイツ人はふたたび立ち上がれるだろう」

「九%の金利でですか」とマウラーがたずねると、フライデーはこう答えた。

「そりゃあ、こっちも慈善事業じゃないからね」(略)

各国からひどく簡単に手にはいるお金が大量に流れ込んだことで、じきにドイツには「熱狂的な消費」の波がやってきた。(略)

 ドイツは融資で得た資金を賠償金の支払いにまであてており、経済的な負担が重すぎてこのままでは立ち行かないと嘆くドイツ政府に対し、シャーマンは同情を隠そうとしなかった。ウォール街の暴落以前から、ドイツ経済の危うさを示す不吉な兆候はあちこちに現われていた。(略)

 やがてドーズ案に代わり、ヤング案が採択された。(略)

ドイツ財政にもっともくわしいアメリカ人として知られたファーディナンドエバースタットは(略)ヤングに向かってこう言い放った。「おい、この案はただのごまかしだ──すぐに破綻するに決まっている。政治的なつじつまあわせばかりで、経済のことはなにひとつ見ていないじゃないか」。(略)

ウォール街の暴落がすべてを変えた。(略)

国会の行き詰まりに業を煮やした首相は、九月に総選挙を行なうことを決めた。

 ミュンヘンの扇動家がカムバックする舞台は整った。

次回に続く。