ヒップの極意 ドナルド・フェイゲン・その2

前回の続き。 

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS

 

ヴィレッジ・ヴァンガード 

 ニューヨークのジャズ・クラブに通いはじめたのは12、3歳のころのことで、最初はマイクとジャックという年上のいとこがいっしょだったが、その後、ひとりで行くようになった。バードランドのマチネーで、偉大なるソニー・ペインをドラムスに擁する無敵のカウント・ベイシー・バンドを観たこともある。バンドが一丸となってあの13度のコードをくり出すと、顔にふわっと風を感じた。

 

 その昔、ジャズ・クラブは都会的なロマンス、自由恋愛のヒップスター主義、そしてエキゾティックな黒人によるディオニソス的な儀式を意味する神秘的な場所だった

(略)

郊外暮らしの少年だったわたしは、しばしばニュージャージー・ターンパイクでバスに乗り、荒れ地のような工業地帯を横断した。マンハッタン島を勝ち取るには、そこを通りぬける必要があったのだ。(略)

カフェ・ホワ?やカフェ・ビザールでは、観光客がエスプレッソをちびちび飲んでいた。ブリーカーとマクドゥーガルの角にあるフィガロズ・コーヒー・ショップで、わたしはバーガーを注文し、黒のレオタード姿で腰をふりふり店内を練り歩く、優美な仏頂面のウェイトレスをながめながら、自分の心臓の鼓動音を聞いた。メニューの題辞には「ビートがエリートと出会うところ」とあった。

 60年代のはじめ、すでにアメリカご用達のダンス・ミュージックの座をロックンロールに奪われてしまったジャズは、新たな危機に直面していた。バップとクール・ジャズに一瞬だけ色目を使っていた大学生たちが、「フォーク」 ミュージックを正式な熱狂の対象に定めたのだ。とっつきの悪いパーカー以降のジャズと異なり、ギターをベースにしたルーツ・ミュージックは来る者を拒まず、アイロニーとも無縁だった。そしてほとんどだれでも、なんらかの形態で演奏することができた。さらに大恐慌時代の左翼讃歌は、初期公民権運動の公式な音楽にたやすく転用が可能だった。ディラン、タリアーズ、ジュディ・コリンズ、リッチー・ヘイヴンスおよびその同類たちを売りものにした新しいクラブが、業界の大きなシェアを獲得しつつあった。それでも最後の輝かしさをまとったジャズを聞こうと思ったら、依然としてヴィレッジに勝る場所はなかった。

 ヴィレッジ・ヴァンガードの客席では、わたしが最年少だった。(略)

ちっぽけなステージに神々が立っていた。(略)

マイルス・デイヴィスソニー・ロリンズジョン・コルトレーンはまだいずれも若々しく、怖いもの知らずで、創造力のピークにあった。一度顔を覚えると、経営者のマックス・ゴードンはわたしをドラム・キットのとなりの特等席に座らせ、気がぬけたバーのコークをおごってくれた。カヴァー・チャージは、だいたい7ドルぐらいだった。

 お気に入りのひとりがベーシスト/作曲家のチャールズ・ミンガスで、いつも悪魔的なドラマーのダニー・リッチモンドを連れていた。リッチモンドがあの3拍子を叩きだすと、シズル・シンバルの振動が決まってわたしのグラスをテーブルの端に動かし、そのたびにまんなかに押しもどす羽目になった。ミンガスがアップテンポの曲の途中で演奏の手を止め、人種、政治、不正を働くレコード会社、そして白人、黒人双方の偽善について、レクチャーしはじめたこともある。この大嵐のようなアーティストのステージを観ていると、音楽以外の出来事も、音楽そのものと同じくらいエキサイティングに思えてきた。ただ、とりわけ荒れ模様だった夜のひとつで、ミンガスがバーの前に座っていた老コールマン・ホーキンスを「アンクル・トムめ!」と怒鳴りつけはじめたときは、さすがに縮み上がってしまったことを正直に認めよう。ホークは世に倦んだような笑みを浮かべ、なにもいわずにグラスを飲み干した。出番を終えたピアニストのジャキ・バイアードに「すばらしかったです」と声をかけると、ジャキがわたしのテーブルに座り、音楽に関する質問にこころよく答えてくれたこともあった。

 当時のニューヨークを代表するクラブだったヴァンガードには、真剣なファンと観光客の両方が集まってきた。

(略)

ヴァンガードで見ることができたミュージシャンのなかでもとりわけ衝撃的だったふたりは、いずれもジャズの父祖的存在で、30年代に入ってもなお現役で活動していた。アール・“ファーザー”・ハインズ(略)

ウィリー・“ザ・ライオン”・スミス(略)

20年代、30年代のウィリーは、ハーレムの「ストライド」 ピアノを発展させた達人中の達人だった。60年代に入っても相変わらずシャープで力強く、上に傾けたダービー帽、牛乳瓶のようなメガネと、噛みしめたシガーもそのままに、大恐慌時代のレント・パーティーから現代にまっすぐ歩いて来たような印象を与えた。彼は自分のステージを、ある種ジャズ史のセミナーと化し、自分のレパートリーと、ハーレムの音楽生活、演奏合戦、ギャング、そしてジェイムズ・P・ジョンソン、ファッツ・ウォーラー、ラッキー・ロバーツ、ユービー・ブレイクといった同時代のプレイヤーたちのスタイルを決定づけていたニュアンスに関するしゃべりを交互に披露した。また秘蔵っ子だったデューク・エリントンには特別な愛情を示し、その作品をふんだんにプレイした。

(略)

そのほら話にも引きこまれたが、ほんとうのお楽しみがはじまるのは彼がスタンウェイをいたぶり、驚異的な左手で機関車のようにリズムをくり出しながら、右手では繊細なメロディを奏ではじめたときだった。自分ヴァージョンの〈キャロライナ・シャウト〉をぶちかますと、ウィリーは決まって「さあ、今のがみんなのいう……むちゃくちゃいいってやつだ」とコメントした。けれどもたとえば自作曲の〈エコーズ・オブ・スプリング〉をやるときのように、リリカルさを発揮することもあった。

(略)

[マイクのない時代に]鍛えられたタフなアフリカ系アメリカ人エンターテイナー、たとえばウィリー、アール・ハインズコールマン・ホーキンス、エリントンのバンドといった男たちについてもうひとこといいそえると連中は本気ででっかい音が出せた!

 ヴァンガードビル・エヴァンスは、いつだって最高だった。彼のスタジオ・レコーディングしか知らない人は、ライヴという場で「アガる」曲をやっていたときの彼が、どれだけエネルギッシュで、ファンキーな攻め手だったかがわかっていない。

(略)

あの当時ですら、写真でおなじみのあのポーズをくずすことはめったになく、腰で身体をふたつに折ると(略)頭をピアノのなかに突っこんでいた。70年代の末ごろになると、わたしはこのきわめつけのモダニストが、右手のラインに、駆け足気味の、奇妙なシャッフルを取り入れているのに気づいた。それはあたかも彼があえて、ウィリー・スミスの時代にまでさかのぼる、骨董品的なリズムのスタイルに逆行しようとしているかのようだった。あれはいったい、なにがねらいだったのだろう?

 ほんもののファンや本気のヒップスターなら、3丁目のアヴェニューBとCのあいだにあったスラッグス・バーを覚えているはずだ。(略)客席にわたししかいない夜もあり(略)たっぷりクスリの入った常連客がふたり、テーブルに突っ伏していたりした。定期的に出演していたのは、シダー・ウォルトンジャッキー・マクリーンアート・ファーマージミー・コブといった面々で、1972年には[リー・モーガンが射殺された]

(略)

 1965年ごろ、フォーク/ロック・クラブのカフェ・ア・ゴー・ゴーが、月曜の夜に限ってジャズをフィーチャーするようになる。そこではたまたま街に居合わせたトップ・プレイヤーたちが、ジャム・セッションをくり広げていた。(略)

セットはまず、リズム・セクションだけ──ピアノのウィントン・ケリー、ベースのポール・チェンバース、ドラムのウィリー・ボボーではじまった。夜が深まるにつれて、ほかのプレイヤーたち──テナーのハンク・モブリー、ヴァイブのデイヴ・パイク、そしてたしか、トロンボーンのカーテス・フラー──もぽつりぽつりと参加しはじめた。休みぬきで2時間以上、スタンダードとブルースをネタにジャムりつづけたモブリーとケリーは、まさに怪物だった──ハードにスウィングしながら、その場で曲をつくっていく。最高としかいいようがなかったし、その場にいられるだけで幸運だということもわかっていた。

(略)

 80年代に入ると、ジャズ・シーンはかつてなく「ヘルシー」になって復活を遂げた。(略)

ある夜、わたしは数人の友だちを連れて、ウディ・アレンが毎週月曜の夜に出ていたマイケルズ・パブにピアノ・トリオを観に行った。雰囲気は堅苦しく、案内役はぶっきらぼうだった──そこにはロマンのかけらもなかった。

 われわれはステージがはじまる前に退散した。スラッグスを返せ!

ジャズDJ

 わたしの記憶だと、モート・フェガのラジオ番組「ジャズ・アンリミテッド」は深夜0時にはじまり、朝の5時か6時に終わっていた。両親の怒りを免れるために、わたしはラジオをシーツの下に引っぱりこみ、たいていはエンディング・テーマの前に、いつしか眠りこんでいた。

 

 (略)「ナイトフライ」のキャラクターは、決して特定のジャズDJがモデルだったわけではない。だがそこには実在するラジオ・パーソナリティの要素がいくつかミックスされている。60年代のはじめには、パワフルなマンハッタンのラジオ局が何局も、ハード・バップをメトロポリタン・エリア全域にとどろかせていた。探す場所さえ知っていれば、1日24時間、最高のジャズ漬けになることも可能だった。

 学校が終わると急いで帰宅し、みごとなまでに衒学的だったリヴァーサイド・レディオのエド・ビーチを聞いた。(略)

彼は古典的な俳優の声と口調でリスナーを引きこみながら、レコーディングの詳細について語り、ウィットに富んだこぼ れ話を披露する。よく覚えているのは、小編成のグループをバックにした40年代、50年代のジョニー・ホッジスの作品だけをかける回があったことだ。(略)

エドは仲間のマニアだけを相手にしていた──半可通はお呼びじゃない。

(略)

深夜12時をすぎると、WADOにダイヤルを合わせるだけで、いつもキング・プレジャーがうたう、DJ“シンフォニー・シド”・トーリンのイカしたテーマソングを聞くことができた。

(略)

 金曜の夜も、シドはバードランド(「世界のジャズ・コーナー」!)から中継放送をやっていた。わたしは部屋の扉を閉めて、あの小さなゼニスのテーブル・ラジオから、ベイシーやミンガスのライヴ・ミュージックを鳴り響かせた。

(略)

 わたしがいちばんひいきにしていたのは、WEVD局のオールナイトDJ、モート・フェガだった。うなり声でジャズ通ぶりをひけらかすシンフォニー・シドのスタイルが(略)ケネディ時代になるといくぶんずれて聞こえていたのに対し、モートはいっさいそうした仮面をまとわなかった。リラックスしていて、知識が豊富で、ずばりものをいうクールな男──だれもがこんなおじさんがいたら、と願うような男だった。わたしは音楽そのものと同じくらい、モートの曲間のコメントを楽しみにしていた。

(略)

 当時はジャズ・ファンのよくいう巨人たちが、この地球上を歩いていた。(略)モートはその全員──マイルスやモンクやロリンズやミンガスやコルトレーンビル・エヴァンスやら──をプレイしていた。けれども彼には彼独自の、さほど知られない個人的なお気に入りがいた。そのひとりがオリヴァー・ネルソンで、彼の精緻な《ブルースの真実》が広く知られるようになったのは、モートの力によるところが大だった。

(略)

レイ・チャールズ

 2004年にレイ・チャールズが亡くなったとき、われわれの知っていたアメリカ文化は終焉を迎えた。聖なるものと俗なるもの──ベーシックなカントリー・ブルース、クラブ・ブルース、カントリー&ウエスタン・ミュージック、黒人ゴスペル、チャーリー・パーカービバップ、そしてアメリカン・スタンダードの正典──の要素を錬金術のごとく合体させることで、ブラザー・レイは、少なくとも音楽に関する限り、心身の問題を解決した男だった。

 レイが最初にお手本にしたのは、ナット・コールの洗練された人気トリオと、とりわけチャールズ・ブラウンだった。ごく短い物真似の時期をへて、彼はブラウンの気取ったクラブふうの唱法を払拭し、コールのシカゴ的なクールさと、黒人バプティスト教会の熱狂を合体させた、自信にあふれる、独自の肉体性を見つけ出した。(略)

レイはクロゼットの奥からソウルを引っぱりだしたのである。

 広く知られている通り、レイは1954年1月8日のレコーディング・セッションでゴスペル・ナンバーをハイジャックし、本人がよくいっていたように「神と女を入れ替えた」。その結果生まれた〈アイ・ガット・ア・ウーマン〉──そしてそのあとにつづく(略)数多くの曲──は、第2次世界大戦後のこの国を苦しめていた、感情に対するおぞましい神経症的な抑圧からひとつの世代を救い出した。

(略)

 レイ・チャールズ効果が波及したのは、ポピュラー音楽の世界に限らなかった。レイのビッグ・バンドと小編成バンド(略)は、50年代のジャズが取った方向性──フランス人評論家のアンドレ・オディールが「ファンキーでハード・バップな退行」と呼んでクサした動きに、多大な影響をおよぼした。ホレース・シルヴァー、カウント・ベイシーの“アトミック”・バンド、チャールズ・ミンガスブルーノートのファンキーなアーティスト全員──彼らはみんな、レイ・チャールズに借りがあった。レイが1948年にシアトルに移ってきたとき、クインシー・ジョーンはその地に住むティーンエイジャーだった。

 

「姿をあらわしたレイは、16歳ぐらい(略)で……まるで神様のようだった!アパートもあったし、レコード・プレイヤーもあったし、ガールフレンドもいて、スーツも2、3着持っていた。(略)

わたしはただそのそばにいて、「きみが16歳だなんて信じられないよ。もうなんだって揃ってるじゃないか」といっていたわけさ。なにしろ彼はまるで……頭の切れる大人のようだったから。アレンジのやり方も、なんだって知っていた。そして彼は……アレンジのやり方や音符のことを、点字で教えてくれたんだ。音符とはなんなのかをね。なにしろ彼にはわかっていたから」

 

(略)より武闘的な70年代(略)[JBやスライの]ファンク・ブームに乗ろうとするレイのこころみは、中途半端なものだった。新しい黒人のサウンドは、より冷たく、より直接的で、実のところ、より細分化したビートを基盤にしていた。ジェイムズ・ブラウンアイザック・ヘイズ、そしてバリー・ホワイトはいずれも、女性を喜ばせることよりも、遺体のパーツを集めることに関心がありそうな見てくれをしていた。(略)

下降期に入ってからも、レイの作品はつねに新世代のそれより賢明で、繊細だった。それは大人のための音楽だった。

 とはいえわたしやある世代の郊外型ベイビーブーマーにとって、レイは「欲望の先生」だった(略)

悪魔とアイク・ターナー

マディ・ウォーターズはクラークスデイルで育てられた。ジョン・リー・フッカーサム・クックはそこで生まれ育った。アイク・ターナーもまた、クラークスデイルっ子だった。1930年代の深南部でのことだ。

(略)

ティーンエイジャーになるころには、アイクはピアノでブギーを叩きだし、まさしくデルタ的な音を鳴らすギターを弾くことができた。(略)

[とはいえ際立つ腕前でもなく]

アイクが秀でていたのは、リーダーシップの部分だった──コンセプトをつくり、お膳立てをして、それを実行に移すこと。

(略)

[ティナとの]幕切れとともに、彼の名前は主として「妻を殴るコカイン中毒の誇大妄想的な黒人男」のコミカルな代名詞となってしまうのだが──すでにアイクは半ダースほどの分野で成功を収めていた。彼はDJであり、執拗なタレント・スカウトであり、アレンジャー(サム・フィリップスのサン・レコードでも仕事をしていた)であり、バンドリーダー(自身のグループ、キングス・オブ・リズムを率いていた)であり、セッション・プレイヤー(B・B、ハウリン・ウルフエルモア・ジェイムズほか、数多くのアーティストとレコーディングをしている)でもあった。彼を雇っていたのは、モダーン・レコードのビハリ兄弟、シカゴのチェス兄弟、そして一連のタフなクラブ・オーナーたち。彼らは無駄金を使うことをなによりも嫌っていた。アイクは時間通りにセッションにあらわれ、ライヴをブッキングし、バンドのスーツがプレスされていることをたしかめ、いつでもプレイできる状態で彼らを次の町に送り出さなければならなかった。お膳立てだ!

 アイクはことを起こせる男だった。たとえば(略)〈ロケット88〉がある。アイクと彼のキングス・オブ・リズムが1951年にレコーディングしたこの曲を、チェス・レコードはジャッキー・ブレントン&ヒズ・デルタ・キャッツ名義で(略)リリースした。音楽評論家の多くはこれを、R&Bからロックンロールへの飛躍を遂げた史上初のレコードと見なしているようだが、それはおそらくギタリストのウィリー・キザートが使っていたオンボロのアンプが、彼のサウンドをたまさか歪ませていたおかげだろう。けれども曲を引っぱっているのは、アイクのエネルギッシュなピアノだ。〈ロケット88〉はR&Bチャートの首位を獲得し、まちがいなくリトル・リチャードとジェリー・リー・ルイスも、しっかり聞きこんでいた。

 翌年、ビハリ兄弟の命でメンフィスに向かった彼は、ブルースマンのロスコー・ゴードンをスカウトする。アイクはゴードンの〈ノー・モア・ドッギン〉という曲を気に入り、セッションには彼のバンドを参加させた。(略)

〈ノー・モア・ドッギン〉はその年、チャートを2位まで上昇する。ロスコー・ゴードンのピアノ・スタイル──とりわけ、そのレコードでの──はディープなシャッフルで、アップビートに強くアクセントを置いたブギーの変種だった。ほとんどスカのように聞こえたとしても、それは決して偶然ではない。このレコードはしばしば、ジャマイカで生まれたスカのリズムのひな型と見なされているからだ──そこからロック・ステディが生まれ、さらにはレゲエが生まれたのである。アイクが盗もうとしたのも無理はない。

(略)

わたしはアイクがティナ&ジ・アイケッツのためにつくった初期のシングルがみんな大好きだ(略)

いちばん好きなのは、ジ・アイケッツの〈アイム・ブルー(ザ・ゴング・ゴング・ソング)〉だ。リード・ヴォーカルを取るドロレス・ジョンソンは、「すごい」という使用過多のフレーズがまさにしっくり来る歌声を聞かせる。定形化した透明セルの無接点シーケンスを思わせるこの曲は、アイクによる至上の傑作だ

(略)

1965年にアイクは、レヴューのセカンド・ギタリストとして若きジミ・ヘンドリクスを雇い入れるが、大変な目立ちたがり屋だったせいでやむなく解雇する。ジミは線の内側に留まっていられるタイプではなかったのだ。

(略)

アイクとティナはストーンズの前座を務め(略)白人層にも大人気を博した。彼らは今やスーパースターとなり、ドル札がどっと流れこんできた。

(略)

アイクは年を追うごとによりハイになり、と同時により嫌なやつになっていた。(略)

 1976年にティナが去ると、すでにセックスとドラッグとロックンロールでズタズタにされていたアイクは、とうとうバラバラになってしまった。(略)

ティナとともにロックンロール・ホール・オブ・フェイム入りを果たしたという報せが届いたとき、彼はまだ獄中にいた。

(略)

[ティナの自伝や映画で]DVの象徴的存在となったアイクは、必死で復帰への道を探りはじめた。彼はキングス・オブ・リズムを再結成し、自分でも「Takin' Back My Name(汚名返上)」と題する本を出した。(「たしかに、ティナをひっぱたいたことはある。(略)ケンカはしたし、なにも考えずにパンチを浴びせたことも何度かあった。(略)でも一度も叩きのめしたことはない。(略)オレの母親がされても気にならない範囲のことしかティナにはしたことがないんだ」)。アイクは明らかにこの問題の本質をつかみそこね、カムバックのライヴでは、それっぽい衣裳を着せたティナの代用品たちに、彼女の曲をうたわせていた。どうやら彼には依然として、彼女が出て行った理由が理解できていないらしかった。

(略)

69年の卒業生

(略)

 ご存じの通り、ハイスクールでのわたしは、決して社交的なタイプではなかった。わたしはニュージャージーの田舎にできた真新しいエリアに暮らす、数少ないユダヤ人のひとりだった。さらに、ラジオでジョニー・ソマーズの〈内気なジョニー〉がかかったらどうしようと怖れるあまり、ほかの子の車に乗るのを嫌がる、内向的なジャズ・スノッブでもあった(ただしシャングリラズのメアリー・ワイスには秘かな恋心を抱いていた)。(略)

ハイスクール時代の大半を家ですごし、同級生たちがみんなスポーツのイヴェントに出たり、ガソリンスタンドで盗みを働いたりしているあいだに(略)、「サタデイ・レヴュー」(定期購読していた)のページをめくったり、プリンストンの地下書店から盗んできた分厚いドーヴァー社のペーパーバックを読んだり、ピアノの前に座ってレッド・ガーランドのレコードからフレーズをコピーしたりしていた。酒も煙草もやらなかった。

(略)

平たくいうとわたしは最上級のオタクであり、悲しいほど孤独だった。

 肉体に自信のないわたしは、女性にも奥手だった。プロムや卒業パーティーの類はすべてすっ飛ばしていた。実際にデートをするということを考えただけで嫌気がさしてきたし、同時にそれは、わたしの勇気の限界を超えてもいた。

(略)

1967年のある午後、わたしはキャンパス内で音楽クラブの役割を果たしていた森のなかの薄汚れた小屋、レッド・バルーンに足を運んだ。近づくにつれ、だれかがなかで適当に弾いている、エレクトリックなブルース・ギターが聞こえてきた。(略)本物のブルースのタッチとフィーリングがあり、説得力のあるヴィブラートを響かせていた。ファットでメロウな音を生み出すために、彼のアンプは手を加えられ、アルバート・キングっぽいサステインを程よく出すのにちょうどいい音量まで上げられていた。なかでクランベリー・レッドのエピフォンを弾いていたのは、人を寄せつけない感じのメガネをかけた少年で、この彼こそが以後40年間にわたり、わたしのパートナーにしてバンドメイトとなる男だったのである。

 ウォルター・ベッカーとわたしには、共通の趣味が多かった──ジャズ、ブルース、あらゆる種類のポピュラー音楽、ナボコフと当時は「ブラック・ユーモア」一派と呼ばれていた作家たち、サイエンス・フィクションだのなんだの。

(略)

われわれの趣味はとてもよく似ていて、マイルス・デイヴィスからマザーズ・オブ・インヴェンションにまでおよび(略)新(ローラ・ニーロ)旧(ハウリン・ウルフ)の刺激的な音楽を、はじめてわたしに教えてくれたのもウォルターだった。

 われわれは主にマナーのロビーにあった小さな居間のアップライト・ピアノで、曲と歌詞を共作しはじめた。どちらかが馬鹿馬鹿しいアイデアを思いつくと、ふたりでそれをつっつきまわし、その作業はわれわれが笑いすぎて引きつけを起こし、やめるしかなくなるまでつづけられた。ファンキーなグルーヴ、ジャズのコード、そしてトム・レーラーと「青白い炎」の中間に位置するような感性を持つ歌詞の組み合わせが、どういうわけかわれわれを死ぬほど爆笑させたのだ。むろん、その時点でわれわれがやっていたことは、後年の仕事に比べるとかなり粗雑なものだったが、楽しさの点では決して劣っていなかった。

次回に続く。