グループサウンズ文化論・その2

前回の続き。

堀威夫

六〇年代初頭は、渡辺プロダクション日劇エスタンカーニバルで一山当てて、我々はなかなか食い込めずにいた。いいミュージシャンはいたんですけど、ブームを引き当てないといけない、と。それがGSをやるきっかけです。

――(略)昔は、興行というと裏の力、闇の力が強かったと言われていますよね。
 案外、そうじゃないんですよ。(略)闇と繋がるのは縦文字音楽なんです。演歌とか浪花節とか。横文字音楽、つまり洋楽系のほうは彼らは分からないんです。(略)
 江利チエミが「テネシーワルツ」で大当たりした頃、関係者として招持された組関係の方が、「こういう音楽は分からん」と帰ってしまったという話があります。分からないから手を出せなかった。

(略)
 そうした勢力と癒着していれば、上場したくてもできなかったでしょうね。

(略)

[田邊昭知がこれからはビートルズだと言ってきたが、エルヴィス世代の堀は乗れずにいた]

 僕は、最初に作った会社の東洋企画で、ある種の裏切りに遭ってホリプロを作りました。その時、義理堅い田邊はついて来たわけです。だけど、あいつはドラマーだから一人で来てもしょうがない。バンドをやるしかないとスパイダースを作ったんですけど、ジャズ喫茶は渡辺プロが強くてブッキングが難しい。最初の頃はなかなかうまくいきませんでした。そうしたらある日、田邊が会社に来て、「鎌倉の由比ヶ浜に行くと昼間から日本の若い男女が抱き合ってキスしている。世の中変わったんだ」と力説するんです。それで、「我々はビートルズ路線でいく」と宣言した。どのみち試行錯誤の時期だったので、僕も、騙されてみるかということでその宣言に乗ったんですよ。それでも、最初はなかなか売れませんでした。

(略)

[その前にベンチャーズブームが来たので、バンドコンテスト番組を始め、優勝者のサベージをロンドン録音しに行かせてる間に、ブーム終了。インストでは駄目だと、帰国後作った「いつまでもいつまでも」がヒット]

思いがけずGSブームの走りになりました。六六年夏のことですね。それでスパイダースは後れを取って、ますます焦ったわけなんです。

(略)
[その秋にヒットした「夕陽が泣いている」]は、僕が浜口庫之助さんからもらってきたものなのです。スパイダースのメンバーには、「おまえら、いくらいい音楽をやったって客のいないところじゃ意味がない。客のいるシチュエーションを作って、自分たちの本当に追求したい音楽をやりたいならやればいいじゃないか」と言って無理やりやらせました。

(略)

一緒にお酒を飲んでいたら、ハマクラさんが、「堀君、夕焼けというのはお陽さまが泣いているんだよ」と突然言い出して、「夕陽が泣いている」という歌を作ったと言うんです。(略)

[聴かせてもらって]これはいい、僕にちょうだいと言って持ち帰ってスパイダースに渡しました。だから、ハマクラさんはGSを意識してあの歌を作ったわけではないんです。

 (略)

この曲でいこうと僕は決めたんですけど、本人たちが乗らない。最終的には嫌々やったんだけど、彼らなりにアレンジをしてきた。そのアレンジが非常にGS的だったんです。

(略)

[初期GSの半分がホリプロだったが、出遅れた渡辺プロはタイガースを出して追いついてきた]

 GSブームのおかげで、経済的にも組織的にも、芸能プロダクションは変質しました。ビクター、コロムビアをはじめとして、縦文字音楽を中心に扱っていたレコード会社は、サビのある歌は流行らないという先入観があったんです。だから一番から三番まで、七五調の歌詞で淡々と作ることしか考えていなかった。(略)
専属契約に縛られない作詞家・作曲家を自由に使うためにGSを洋楽扱いにしたことは画期的でした。もともと海外から送られてきたマザーテープをプリントして出す洋楽部は、音楽を「作る」機能がない。そのぶん、ライセンス料がいるから、レコードの値段が、邦楽の一枚三三〇円に対し洋楽は三七〇円と高くなっていました。そこで、GS以降、いわゆる原盤供給契約を給ぶようになった。(略)
アメリカに原盤供給契約があることは知っていたけれど、日本ではレコード会社側の抵抗が大きかった。でも、洋楽扱いだからできたのです。

[原盤権を持ったことでホリプロの経営基盤が強固に]

[美空ひばりの時代は]レコード会社はレコードに関わることを全てやり、芸能プロダクションは興行をやっていました。だから、民放テレビの最初の頃は、テレビ局との折衝をレコード会社の宣伝部がやっていたのです。

(略)

[オックスのステージで]お客さまが失神した時は、会場から自宅までタクシーで全部送っていたんです。だから、失神は話題になっても出て行くお金が多かった。(笑)

きたやまおさむ

――きたやまさんが、東京進出にもっとも前向きだったわけですか。
 どうせ長くやるつもりはなかったので、いい社会勉強だと思いました。ちなみに僕らは大阪で、ファニーズ(後のタイガース)と同じライブハウス「ナンバ一番」に出ていました。だから、ドラマーの瞳みのるが楽屋に来て、「これから東京に行って来る」と去って行った時の後ろ姿を今でも思い出しますね。その頃、僕らにも東京に出て行くという話があったけれども、浜口庫之助さんの歌を歌わなくちゃいけないという条件だったんですね。(略)
それが気に入らないし、東京へ行ったら踊りの練習や発声法の練習をさせられて、それまで歌っていた歌をすぐ歌うわけにはいかないじゃないですか。それで僕らは東京行きを断念したわけです。

(略)
[自主制作で出した「帰って来たヨッパライ」がヒット]

フォークル以降は、東京ではなく関西にいても歌が出せるようになった。拓郎は広島にいながら、陽水は九州にいながら東京で歌が出せるようになった。(略)
 これはかまやつひろしさんにとっては不名誉なことじゃないので申し上げるけど、初めて東京でかまやつさんにお会いした時に、「僕もフォークルでデビューしたかった」と言っていましたよ。

(略)

[大阪の事務所に入り]もうレコーディングした曲(「帰って来たヨッパライ」)があって、その自主制作の音源で発売になりましたから。このやり方だったから僕たちは主体性を持つことができた。経済的なことをもっと詳しく言うと、版権を大阪にある高石友也の事務所が管理することになった。そうして得たお金を、五つの赤い風船岡林信康などの関西系フォークに投資して、それが日本最初のインディペンデント・レーベル「URCレコード」にまで発展するんです。つまり、関西を拠点にレコードビジネスのシステムを作ったわけです。

(略)

[GS現象を]

主体性もなく、東京が用意した流れに乗ってしまったと思っていました。

(略)

[フォークルも]東京にも進出したのはいいけど、だんだん僕たちは白けていくわけです。どこへ行ったって「帰って来たヨッパライ」を歌えと言われる。早回しで実際に歌えないんだから、テープに口パクで合わせるだけじゃないですか。主体性も何もないんですよ。歌いたい歌を歌いたいということで「帰って来たヨッパライ」を作ったのに、歌いたい歌が歌えない曲になってしまった。(略)
[「イムジン河」は歌う意義もあり手応えを感じていたが、直前で発売中止]

これで完全に音楽業界に幻滅し、こんな馬鹿馬鹿しいところにはもういられないと思い始めました。

小西康陽

[GSの魅力とは]

単純にかっこいいとしか思えなかったですね。音楽的にも洋楽より劣っていると感じたことはなくて、たとえばタイガースの『ヒューマン・ルネッサンス』というアルバムは僕の音楽体験の原点だと思うほどです。今聴いてもものすごくいいレコードだと思います。

(略)

[自分の音楽とニューミュージックとの分かれ目は?]

何だろう。逆に、自分の音楽は、歌謡曲とほとんど違わないんじゃないかと思うことのほうが多いですけどね。もし、自分の音楽が洋楽っぽいと感じるんだとしたら、マイナーキーのスケールがあんまりないからかもしれません。マイナーキーの曲を聴くと悲しくなるんですね。(略)

その意味でGSは、マイナーキーをかっこよく聴かせることに長けていて、そこはもっと評価してもいいと思うな。

(略)

[なぜ小西がおしゃれと言われ、GS等はダサいと言われるのか?]

マイナーキーがあるかないかの違いでしかないような気がします。(略)

なぜか演歌やアジアンテイストになじめないんですよ。ヨナ抜き音階などに対するアレルギーみたいなのがあるんですね。

(略)

[作曲で一番影響を受けたのは?]

 難しいですね……。やはりバート・バカラックかな。その意味では僕はロックじゃないんですよ。ギターを中心としたコンボで作る音楽は、あんまり自分の中になかったんです。GSということで言うと、ネオGSの連中と知り合ったことは大きいですね。(略)連中はヤンガーズの「マイラブ・マイラブ」とか、まさにB級GSをいろいろレパートリーにしていたから、珍しい曲をずいぶん教えてもらいました。

(略)

[80年代で一番成功したネオGSはチェッカーズでは、と稲増]
 実は、僕、チェッカーズの良さがこの二、三年ですごく分かってきて、最近DJで使いまくったんですよ。今、そう言われてなるほどな、と思ったし、もっと言うと、稲増さんがこだわっているGSって何かということが分かった気がしました。ただ、僕はネオGSを限りなく高く評価しているんです。チェッカーズになくてネオGSにあるもの。それは「批評」です。距離を持っているし、新しい解釈を持ち込んでいる。チェッカーズにはそれがない。自分の音楽とGS、あるいは自分の音楽と日本の歌謡曲を分けているものといったら、自分の音楽には何かしらの「批評」があることだと思うんですよね。何に対しての批評かというと、音楽そのものです。オリジナルの音楽があって、自分はそうじゃないという状況に対する批評です。 

ヒューマン・ルネッサンス

ヒューマン・ルネッサンス