糸井重里のイメージが80年代サブカルで止まってるので、あの糸井重里が「LIFE」がどーしたと「ユソマリ」的なこと言ってる、これはどれだけサブイ展開になるのか確認しようではないかと読み進めると、コピー職人から転身する際の気持ちなども語られて、学生運動から「おいしい生活」を経て、こういう会社形態を成功させたのだから「空谷行入のZAW」なんかより立派じゃないかという気もしないでもなく……。
「心」の問題、「LIFE」
[中国の学生から、すぐ真似されそうだが、不安はないかと問われたが]
この質問には、「心」の問題がまったく入っていませんでした。
ぼくは、お客さんはかならず「心」の問題をわかってくれていると思っています。ビジネススクールの学生が言うように、大企業がうちの手帳と同じものをつくって、一〇〇倍の量を売ろうとしたとします。「ほぼ日よりもはるかに安くすれば、みんながほしがるよ」というビジネスモデルも描けます。
けれど、それは間違いです。
どうしてダメかというと、その手帳には「心」の問題が抜けているからです。(略)「心」が宿っていると感じるのは、人の「心」がそこで動いている、つまりアイデアになっているからです。アイデアというのは、まずじぶんが「これでやっていけるかもしれない」と未来につながるなにかを感じて、そこに「頑張れば芽が出る」という力が込められて、そこで初めてつよさを持つ。
そういうアイデアは、周囲から「あいつ、バカだよな」と言われても、つい引き寄せられる。人をよろこばせるもとにもなる。簡単にまねることはできませんよね。?(略)
ほぼ日手帳は、もう手帳という言葉だけでは定義できなくなってきています。単に予定を記録するだけのスケジュール帳ではないし、ダイアリーでもない。ノートでもない。
これはなんだと思ったら、みんなの「LIFE」が書かれているということでした。(略)
一日一ページに書かれたことは「LIVE=ライブ」だけれど、それをミルフィーユのように重ねていったら「LIFE=人生」になる。そういう「LIFE」がつまった手帳は、それ自体が自叙伝であり、伝記でもあります。あとから読み返すと、そこにあらわれてくるのは「BOOK」です。それは「いい時間」とも深い関係がある。
(略)
「いい時間」を過ごすお客さんと、ぼくらはつながることができていますから、共有しているものの広さと深さが大きい。
(略)
[オフ会を開くと]みんながすぐ仲良くなります。
なぜかと考えたら、お互いに敬意があるからです。おそらく、一人ひとりが誰かに大事にされているという敬意みたいなものが持てているんじゃないでしょうか。
いまは「あなたはなにもしなくてもいい」という商品ばかりが売れる時代です。でも手帳は、あなたがなにかをしなければいけない商品です。使いながら完成させていくものです。(略)
それは使う人を信頼してゆだねている。そういったことが敬意につながっているのではないでしょうか。
(略)
買いものというのは面倒や手間ではなく、実は楽しみなんです。じぶんのポテンシャルの表現であり、自由のシンボルでもある。選挙に近いものがあるんです。「私はこの商品に賛成して、一票を入れるつもりで買います」という感じがどこかにあるのだと思います。だから買いものは「あればうれしい」し、「買うと楽しい」。
弟子と社員の違い
[今の会社に]制度はないけれど(略)じぶんの仲間にはこう育ってほしい、こういう人になってほしいということは伝え続けています。
ぼくはコピーライター時代、師匠や弟子という関係で人と付き合ってきた人間です。品質管理という意味で、上下関係をものすごくはっきりさせていました。
ものをつくるということは、ものすごくわがままなことなので、弟子の出すものがライバルになるほどのものだったらいいけれど、そこにいたらない段階だと割ときつい感じで否定していたと思うんです。弟子が芽を出そうとしているのを無意識のうちにつぶしてしまって、「ああ、やっちゃったな」と思ったこともありました。(略)
弟子には理不尽なこともしたけれど、その反省があったからいまのほぼ日がある。
会社組織図
お互いが自由にかかわっていく組織がいい。それで内臓に近い形にしたんです。(略)
みんなが生き生きしてくれたらいいな、という思いがありました。誰かの
命令で動くのではなく、じぶんの頭で考えた「これはやりたい」という思いが、誰かの「これはやりたい」と組み合わさっていくのが一番いいですから。
(略)
[他の会社を見て]
「上がわからず屋だから俺の考えが通らない」と言う人がいたとき、ぼくは「本当かな」と思っていたんです。それは「上と言われる人が、本当にいい考えを止めているのかどうか」ということと、「上と言われる人を説得できるだけのことを、下と言われる人は本当に考えたのか」ということです。そして、やはり上下の縦軸にしてはダメで、組織は横に広げるべきだという考えにいたりました。
(略)
[内臓の話にたとえるなら]
「腎臓が傷んだときには別の臓器が代用するようになる」という説明もできます。「片方の肺を取ったけれど、それで別の臓器が鍛えられました」 ということだってあるはずです。(略)
[「上がどんどん聞いてくれる」ようになったら、文句を言っていた人の本気度が問われます]
上の人も下からどんどん上がってくる提案の中からいいものを選ばなくてはならなくなると、同じように本気度が問われて、上も下も緊張感が高まります。
(略)
おもしろい提案を引っ張り上げることのできる先輩にならないと、後輩から相談してもらえなくなります。
「糸井先生」稼業を止めた訳
――フリーで活動を続けて、「糸井先生」のような扱いを受ける選択肢もあったはずです。
そもそもフリーのときのぼくの仕事は、「人に伝えられない」「人には教えられない」から、ぼく個人にギャランティが払われていました。ぼくも、「俺が来たから大丈夫!」というふりをしていました。相手にそう思わせたほうが得だと知って、やっているところもありました。
ただ、ぼくは根が悲観的な人間だから、この方法論はもう古いのかもしれないとも感じていました。そのうちだんだんとダメになっていくじぶんを想像したんです。
このままいくと、どこかの会社で受付を通ろうとすると、「もしもし?」と止められて、「社長に会いに来たんだけど」なんていう顧問のおじいさんになってしまうかもしれない、と思うようになったんです。
じぶんひとりの欲望が満たせればいい、というのはなんだか不自由な気がしました。ひとりぼっちで考えるより、人と話しながら考えると、「あ、じぶんはこんなことを考えていたんだ」と気づかされることもあります。ひとりで閉じこもって考え込むのではなく、誰かとつながりながら動くチームの仕事はおもしろいかもしれないと思うようになったんです。
ちょうどそのとき、インターネットと出合ったのも大きかったですね。新しい出発が案外楽しいぞと思えたんです。(略)
半分くらい伝えられたら、もう相手に任せられる。そして半分くらい伝わったチームと一緒に働くのは「ものすごく楽しいぞ」と実感できるようになりました。
(略)
けれどある頃から、ぼくの中でなにかがトゲのように引っかかるようになったんです。
(略)
[会社の事業サイズが小さい]
結局は波の荒い大海原に出ることよりも、湖の中でなんとかしようとしている。それが当たり前になっていたんです。(略)
やさしさに保護されている会社になっていたわけです。
[それで十年ほど前から上場を考え始めた]
「おじさん成分」と「お父さん成分」
[上場を前に]「ぼく、全然、大丈夫じゃないかも」とじぶんの中で戦いが起きたのです。それで上場直後は少し気持ちが落ち込むようなときもありました。
振り返れば、なにかが生まれる直前に、ぼくはかならずこうなってきました。
「ほぼ日」を始める前もずっと釣りをしていて、いわば落ち込んだ状態にありました。といっても決してマイナスな気持ちばかりではなくて、なにかやらなきゃという気持ちがそうさせているわけです。経験的にそれは知っていたので、上場後、しばらくすると自然とそういう落ち込んだ状態からは抜けていきました。(略)
ぼくの中にはいつも、さぼろうとするじぶんがもうひとりいます。ぐずなじぶんが、そういう弱さをなんとかしようとして、いまのじぶんになってきているのかもしれません。
(略)
そして、そこから見えてきたのは、「おじさん成分」でできていたぼくが、「お父さん成分」を入れなくてはいけないということでした。
(略)
おじさんのときは、「こっちに進むぞ」と決めても、「あとは任せた」と会社のことを忘れる時間があってよかったわけです。力を抜いて、全部の責任を背負わないようにしているけれど、一方でみんなの自由を維持するためにまじめに頑張る役割がおじさんです。
ただ会社をやっていくのには、やっぱり「お父さん成分」が必要になります。(略)
「おじさん成分」なら「いいよ、やりなよ」と言っていたけれど、「お父さん成分」は「ちょっと待てよ。もっといいアイデアがあるかも」と頭の中でじぶんに聞いているんです。
(略)
ぼくは社長になったときから、どれくらい「ぬかり」のある状況にできるかということばかり考えてきました。理想はやっぱり、おじさんになることなんです。
ただ「ほぼ日刊イトイ新聞」は「ほぼ」とネーミングしたのに、ぼくは二〇年間、一日も休まずそこに原稿を書いています。そういうところは「お父さん」です。
ぼくは「おじさんの顔をしたお父さん」で、バランスが大事だとはわかっているけれど、意識的に使い分けることがまだできていません。
組織
[コピーライター時代は]ぼくなりの創作の秘密も多かったし、コツのようなものがあったとしても、人には教えませんでした。
本当の意味で人と一緒に活動を始めたのは、「ほぼ日」を創刊したときから。五〇歳近くになってようやく「組織」を始めたわけです。
最初の頃、組織というのは言ってみれば海賊のようなものだと考えていました。(略)
仕事がおもしろくてしょうがない人たちが集まって、いつ寝ているんだかわからないような状況で、人がおっと驚くことをしてしまう。そんな人の集まりです。(略)
ぼくはいまも昔も「ご近所の人気者」でいたい人間です。けれど、その状態をキープできる人はそんなにいません。過去にあった天才組織のようなものも、早くに解散することが多かったですよね。(略)
もうそんな時代ではないということが、ぼくもだんだんわかってきて、それぞれが手分けをしてきちんと仕事をするチームになっていきました。そのとき、じぶんの生き方そのものをつくり直さないといけなくなったんです。(略)
少しずつぼくの仕事をみんなができるようになっていった。
そこからぼくはだんだんと「みんなが働きやすくて、よろこんでくれる(略)場にするにはどうしたらいいだろう」と考えるようになっていきました。(略)
[なぜ普通の会社は昔のやり方を変えられないのかと問われ]
そうあるべきだとしても簡単には変えられない面がたくさんあるのでしょう。
正しそうなことを口で言うだけならやさしいけれど、現実にはそれを変えられない理由がいくつもあります。逆に、正しそうだけれどそもそもその正しさを疑ったほうがいい、ということもあります。たとえば″平等のマジック″のようなものにみんな足を取られてしまう。「本当の平等ってなんだろう」と。でもそれは永遠にわからないことだし、ぼくは「本当の平等」はないと思っています。
ブレーキ
[チヤホヤされても]
いい気になりそうなときのブレーキが、ぼくの中にあるんです。
「これってお金は入るけどフェアじゃないんじゃないか」「人気者になりたくてガツガツしていないか」「誰かを悪者にしていないか」「逃げていないか」とか、とにかくブレーキになることばかり考えています。(略)
ぼくは昔からじぶんをたいしたことのない人間だと考えていて、その意味ではあまり自己肯定的ではありません。だからずっと、つよいつよいブレーキを持ち続けてきたのかもしれません。(略)
[ブレーキをかけるのは]つらいですけど、やってしまってから「ああっ」って後悔するのはいやじゃないですか。そうならないじぶんが、ぼくにとっての憧れなのかもしれません。(略)
ダメになりたくないとつよく思っていたら、人はおのずとそちらに行かないはずです。ぼくはそうやって踏み外した人をたくさん見てきたからかもしれないけれど、できるだけじぶんはそうなりたくないと思っています。それは、「みっともない」という感覚よりも、やっぱり「かっこいいほうがいい」と思っているからです。
「いい方向」
どこに行くんだろうといつも無意識に探しています。すると、よさそうだなと感じるときがあるんです。そしたらかならずその方向に行くことにしています。方向が少し見える気がするだけでも、近づいてみますね。
(略)
「こっちに行こう」と決めたら、勝算を証明できなくても行っていい。
世の中では「勝算をはっきり出して行け」とよく言われます。でも向いている方向が合っていて、おもしろくなる可能性があるのなら、どんどん進んだほうがいい。
風通しのよさ
大事なことは、情報が届くかというようなことではありません。それよりも陰口やイジメがあることはいやですよね。組織が腐っていきますから。(略)
陰口もあるだろうけど、そこにみんなの興味がいっていない。いつも陰口を言っている人が、みんなから「またそんなことを言っている」と思われて、自然に言わなくなる環境をつくることが大事なんです。
――社長の中には社員をえこひいきしてはいけないと考えて、社員との距離の取り方に悩む人も多いようです。
ぼくはそういうことは平気でやっていますよ。単にぼくの都合で仲良くしているだけですから、えこひいきですらありません。(略)
「社長はみんなを平等に扱ってください」といったことは一番つまらない話です。そういうことを言いだす人がいたら、ぼくはきっと「きみがもっとおもしろくならないといけないんじゃないか」と言ってしまうと思います。
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