ニール・ヤング自伝 II

 前回の続き。

ニール・ヤング自伝II

ニール・ヤング自伝II

 

 渚にて

[《アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ》のジャケット・デザインからずっと組んでいるゲイリー・バーデン]

 特に気に入ってるジャケットのひとつが《渚にて》。(略)

ゲイリーとわたしはそのアイデアを実現するために、あちこちで部品を探しまわった。テールライトも完備した1959年型のキャデラックのテールフィンとフェンダーを探してサンタアナの廃品置き場を訪ね、目の前でキャデラックからカットしてもらった。つづいてテラス用品店に向かい、パラソルとテーブルを入手。安っぽいメンズ・ショップで質の悪いポリエステルの黄色いジャケットと白いパンツを選び、そこでは万引き犯が現行犯で逮捕される場面を目撃した。ダイナマイト級のハッパでストーンしていたゲイリーとわたしは、ぼうっと突っ立って逮捕劇をながめた。犯人の娘は絶叫し、もがきまくっていた!最後にLAの地元紙をつかみ取り、小道具として使うことにした。そこには驚くべき見出しが掲載されていた――「バックレー上院議員ニクソンに辞職要求」。次にわたしたちは、《今宵この夜》ツアーでいっしょに世界をまわったパームツリーを持ち出した。そしてこれらの部品をすべて、サンタモニカ・ビーチの砂上に注意深く配置した。それから撮影。カメラマンはボブ・シードマンだった。ブラインド・フェイスのジャケット用に、飛行機を持った裸の少女の写真を撮った男だ。  

渚にて

渚にて

 

 

《ラスト・ネヴァー・スリープス》 

ショウは『ラスト・ネヴァー・スリープス:コンサート・ファンタジー』と銘打たれ、観客にはよりいっそう奇異な印象を与えた。なぜならわたしは《カムズ・ア・タイム》というニュー・アルバムを、リリースしたばかりだったからだ。
 《カムズ・ア・タイム》は別のバンドとナッシュヴィルでレコーディングした、まったく別種の音楽だった!当時のわたしはすべての新曲をまずライブで披露し、その場でレコーディングしたあとで、ミックスから観客をはずすのが習慣になっていた。それをスタジオ・アルバムとしてリリースしていたわけだ。ライヴでのクレイジー・ホースは最高だったし、これがやっていていちばん楽しいレコーディングのスタイルだった。

(略)

 あの曲を書いたのは、子ども時代のヒーローのひとり、エルヴィス・プレスリーが亡くなった直後のことだった。(略)

アコースティックのナンバーとして書かれた、どちらかというと、内省的な曲だった。
 『ヒューマン・ハイウェイ』の撮影中に、わたしはディーヴォと共演し、ブージー・ボーイがこの曲を、ベビーベッドでシンセサイザーを叩きながらうたった。わたしはオールド・ブラックを弾いた。そのヴィデオを観て、オールド・ブラックのストラップについていたピース・サインと鳩が、ブージー・ボーイのヴィジュアルとの対比で、えもいわれぬ感情を呼び起こしたのを思い出した。それはヒッピー世代とあらたなパンク世代の並置から生じた感情だった。ディーヴォの影響と彼らの出自をきちんと描写した文章には、いまだにお目にかかったことがない。彼らは真の意味でオリジナルだった。あれは、そういう得がたい瞬間のひとつだった。
 それが決定的なオリジナルのロック・ヴァージョンだった。ブージー・ボーイは新たな歌詞を追加し、「燃えつきるほうがマシだ、錆は決して眠らないから」、あるいは「錆びついてしまうよりは」とうたった。どっちだったかははっきりしない。その後、ディーヴォのメンバーのひとりが、グループが結成されたオハイオ州アクロンの店に「錆は決して眠らない」という看板がかかっていたのだ、と説明してくれた。それはメンテナンスと錆防止のサーヴィスだった。 

 デイヴィッド・ブリッグス

ぜひ読んでほしいデイヴィッド・ブリッグスの発言がある。ジミー・マクダフの『シェイキー』[でのインタビューから引用]

(略)

知っていることは全部、1時間で教えられる。全部。レコードづくりというのは、それぐらいシンプルなものなんだ。(略)最近の卓を見ると、ノブが30個ついている――高周波、低周波、中周波。(略)

そんなのは全部たわごとだよ。(略)無視すればいいんだ――全部まるごと。

(略)

最近の卓は全部、金目当ての連中がつくっているから、これぽっちも価値がないし、音もひどい。昔の真空管を使っている卓にはおよびもつかないシロモノだ――たとえばハイダーのグリーン・ボードとか。トーン・コントロールはふたつ――高音と低音、それにパン用のつまみ――それで全部だ。ガキのころ、レコードをつくりはじめたころのオレは、最高の幸運に恵まれた。ウォリー・ハイダーのスタジオやゴールド・スターを使ったおかげで、フランク・ディミディオ、デイヴ・ゴールド、スタン・ロス、ディーン・ジェンセンといった男たちに教わることができたからだ。音楽業界の天才だった男たちに。今もそうだが。

 あの男たちはサウンドと、サウンドがどうつくられるか、そしてその原則について、よりくわしいことを教えてくれた。そして彼らにいわれたことは、絶対的に正しい――最高のサウンドは音源で録れ。音源の前に正しいマイクを立てたら、あとは最短距離でテープに収めろ――そうすれば最高のサウンドが録れる。それ以外のやり方はないし、あってもそれはお仕事だ。オレの人生で最高の瞬間は

(略)

[61年に見学したレイ・チャールズのセッション]

レイはピアノのパートを全部左手で弾き、右手で点字のスコアを読みながら、フル・オーケストラをバックに、ライヴでヴォーカルを入れていた。オレはじっと座ってその様子を見ていた。そして思ったんだ、「レコードはこうやってつくるものだ。全員をクソったれな部屋に入れて、一気にスタートするものなんだ」と。あのころは全員が、スタジオに入ると、同時にチンポコを硬くして発射しなきゃならないのを知っていた。そして3時間後には、レコードを仕上げてクソったれなドアから出ていくものと相場が決まっていた。
 むろんあのころには、8、16、24、48、64、とにかく嫌になるぐらい数が多いトラックはなかったし、だからそのせいでグシャグシャになることもなかった。ちなみに今のレコーディング業界とミュージシャンがグシャグシャになっているのはそのせいだ

(略)

[録り直せるようになると]

ロックンロールというのは、考えれば考えるほど駄目になってしまうものなんだ。
 ロックンロールの真の姿を、みんな簡単に忘れてしまう。たとえばオレは47歳だが、ワイオミングで育ち、リトル・リチャードを見るために、盗んだ車で500マイルの道のりを走ったことがある。オレがいいたいのはつまり――金色のスーツを着たニガーが、髪をおっ立ててソルトレイクシティのステージにあらわれ、飛び跳ねながらピアノを叩き、完全にイカれていくのを見ているうちに、「オレもあんなふうになりたい。オレの望みはそれだ」となったということだ。

(略)

14歳のガキは考えたりしない。感じるだけだ。ロックンロールは炎なんだよ、「炎」。突っぱること。世界をあざけることなんだ。 

 オーヴァーダブはしない

[ステレオLPをモノ機材でかけたときに自動的にモノにする]

ハエコCSGには、このシステムを通じて処理されたモノとステレオ両方の音質を低下させるきらいがあった。

(略)

 なんてこった!
 このおかげでわたしのファースト・ソロ・レコード《ニール・ヤング》は完全に台無しにされ、ミックスとは似ても似つかないサウンドになった!(略)

スタジオにもどったわたしたちは、むろん過剰に反応し、その処理を取りのぞいただけでなく、一部の曲ではミックスをやり直した。(略)
 そしてアルバムの新たなヴァージョン(やはり《ニール・ヤング》と題されていた)が(略)

別ヴァージョンであることを明確にするために、初版とちがってわたしの名前がジャケットの上部に大書された。オリジナル版も一部市場に出まわり、現在ではコレクターズ・アイテムになっている。

(略)

この一件は大きな教訓となった。

(略)

わたしはオーヴァーダビングに飽き飽きしていた。それは孤独な作業だ。あのファースト・アルバム以降、ごくわずかな例外をのぞくと、わたしはごく小規模なオーヴァーダブしかしていない。曲に彩りをそえるためのもので、たいていはどこかにコードを入れる程度だった。それ以外はすべてほかのミュージシャンたちと、同時に同じ部屋でプレイしてきた。 

マッセイ・ホール

 次のショウはトロントのマッセイ・ホール。最大規模のライヴだった。それは帰郷(ホームカミング)だった。わたしがステージに登場すると、会場は火がついたような騒ぎになった。

(略)

[デイヴィッド・ブリッグス] はマッセイ・ホールのショウをレコーディングした。このライヴ・ショウはすぐさま世に出されるべきだと考えていた彼は、代わりに《ハーヴェスト》を出すというわたしの決断に失望し、異議を唱えた(略)
 「最高じゃないか、ニール」とブリッグスはいっていた。「こいつを出せよ」。だがそうはならなかった。
 35年後、アーカイヴ・パフォーマンス・シリーズ用にテープを調べていたわたしは、このショウを聴いて少しショックを受けた――デイヴィッドのいう通りだった。聴き終えたわたしには、彼のフラストレーションが感じ取れた。こっちのほうが《ハーヴェスト》よりも出来がいい。もっとたくさんの意味がある。彼は正しかった。わたしは見過ごしてしまったのだ。 

Live at Massey Hall 1971

Live at Massey Hall 1971

 

 バッファロー・スプリングフィールド

バッファロー・スプリングフィールドがウィスキー・ア・ゴー・ゴーにはじめて出演したとき、ブルース・パーマーとわたしはLAに来て、まだ6週間しかたっていなかった。

(略)

ティーヴンとリッチーは信じられないぐらいうまくうたい、音楽的なルーツが多種多様だったおかげで、バンドはその当時、ほとんど知られていなかった音楽のブレンドをものにしていた。それは一種のフォーク・ロックだったが、ロックンロール的なエッジのある、一種のカントリー・ブルースでもあった。リッチーのすばらしい声と、ブルースのユニークなモータウン・スタイルのベースが深みをもたらし、ドラムのうしろに座ったデューイの笑顔は、似つかわしくないのと同時に魅力的だった。われわれを別次元に誘ってくれたのは、スティーヴンのソウルフルなヴォーカルとフレージングだった。
 わたしたちのギターのインタープレイも、やはりだれも聞いたことがないものだった。スティーヴンとわたしは始終、大部分は即興だった入り組んだパートをおたがいにぶつけ合い、それが自然に生まれてきたことは、観客にも伝わっていた。刺激があったし、わたしたちは若く、生気にあふれていた。なにもかもが猛スピードで動きはじめた。

(略)

アルバムをつくってミックスを終えたとき、われわれは最高の気分だった。ずっと現場に立ち会い、ミキシングにもすべて口を出していた。するとある日、バンドが週末のあいだ留守にすることになったため、ステレオのミックスは、グリーンとストーンがやることになったと聞かされた。(略)ほんとうに青二才で、なんにも知らなかったのだ!ステレオはまだ目新しい、次世代の大物だった。(略)

[ツアーから戻り聴いたステレオミックスは]
 まるで気に入らなかった。
 ミックスは最悪で、スタジオやライヴ中にステージで感じられたエネルギーがなかった。その肝心なところが欠けていた。音はとても薄く(略)スティーヴンとわたしはすっかり失望した。

(略)

ティーヴンは暴動を題材に〈フォー・ホワット〉を書いた。彼の特異なヴォーカル・フレージングをフィーチャーした、あの時代を代表するメッセージ・ソングだ。われわれはゴールド・スターのオーナー、スタン・ロスの助けを借りて、この曲をコロムビアでレコーディングした。ゴールド・スターはすでにふさがっていて、使えなかったからだ。コロムビアのエンジニアはトム・メイだった。スタンとトムはちゃんとした音を録ってくれた。ドラムの音もドンピシャだった。ありがたいことに、プロデューサーのグリーンとストーンは不在だった。バンドは最初のヒットを飛ばし、この曲を入れてLPを出し直した。今、あのレコードを聴くと、〈フォー・ホワット〉とそれ以外の収録曲では、音色とプロダクションに差があることがわかる。われわれはアルバム全体をリミックスするまたとない好機を逃し、しかもそのことに気づいてもいなかった。

(略)

 どんなグループでも相性は重要だが、われわれがユニークな存在になれたのは、ブルースがいればこそだった。とりわけ重要だったのが、彼の持つR&Bのルーツ(略)

彼は完全なオリジナルだった。モータウンのようにプレイしたが、そこに100パーセント彼のものといえるスタイルをつけ加えていた。

(略)

彼を失ってからのバンドは、もう二度と元にもどれなかった。それが、まさに終わりのはじまりだった。(略)

ブルースのような男は二度と見つけることができず、それがゆっくりとバンドを殺していった。

(略)

もしブルースを失うことがなかったら、バッファロー・スプリングフィールドはそれこそ無限に伸びていけたのではないか。だが現実にバンドは彼を失った。クラブまわりでニューヨークのホテルに泊まっていたとき、ハッパでパクられたブルースは、その場で国外退去になった。ブルースはいなくなった。
 スプリングフィールドが解散したのは、それが理由だった。いさかいはすべて、ブルースを失ったことが原因だった。もし彼が残っていたら、バンドは今もつづいていたかもしれない(全員が生きていればの話だが)。たしかに、いくつかソロ・レコードはつくったかもしれない。だがあのサウンドがあれば、かならずそこにもどっていっただろう。

(略)

 スプリングフィールドが観たければ、いちばんのお薦めはディック・クラーク制作の「ホエア・ジ・アクション・イズ」だ。(略)口パクだが、あれがバンドの見た感じだった。バッファロー・スプリングフィールドの絶頂期で、それを上まわることはついになかった。 

ボックス・セット

ボックス・セット

 

 

わたしがつくるのはアルバムだ 

わたしは今もアルバムという呼び方をする。それがわたしのつくっているものだからだ。CDやiTunesのトラックをつくっているつもりはない。つくっているのはアルバムだ。それが、わたしのやっていることだ。呼び名はなんでもかまわない。何時間も苦労して決めた曲順を台無しにしてしまう、iTunesのシャッフル機能をどれだけわたしが嫌ったことか。曲のばら売りとシャッフル機能は、わたしに関するかぎり、最悪だ。古臭いといわれてもかまわない。わたしがつくるのはアルバムだし、フィーリングを生みだすためにも、曲をバラバラにはされたくない。意図的にやっていることなのだ。アルバムのつまみ食いはされたくない。シングルを選ぶのは好きだ。少なくとも、その権限はわたしにある。 

本物のエコー・チェンバー

 想像してほしい。(略)コントロール・ルームにいるスペクターと、隅で譜面を持っているジャックの姿を。まさに伝説だ。これはあの魔法のエコーとともにミックスされた、ホンモノの音楽だった。毎晩のセッションは鳥肌モノだった。

 エコー・チェンバーそのものも、ちょっとした秘密だった。ゴールド・スターのオーナーのスタン・ロスは、絶対他人に見せようとしなかった。だれも、そこには入れなかった。現在のちっぽけなエコー・マシーンと異なり、これは本物のエコー・チェンバーだった。

(略)

 不気味だった。あのサウンドは。デジタルの仕掛けでいじったものではなく、極限までリアルだった。なにかに共鳴するたびに、サウンドは変化した。その深みに耳を傾けているだけで、われを忘れることができた。まぎれもなく、魔法だった。

(略)

80年代のある日、スタン・ロスがゴールド・スターを売却した。(略)

スタンはわたしに電話で、チェンバーを買い取る気はないかと訊いてきた。わたしはないと答えた。後悔している。動かしたらもう元にはもどせないと思っていたのだ。その判断は正しかったと思うが、いまだに未練を捨て切れない。伝説のチェンバーは、廃棄された肉貯蔵庫だった。

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