ぼくの好きなコロッケ 糸井重里

いろんな長さの文章が入ってるので、糸井の得手不得手がわかって面白い。現代詩風になると冗漫になる。企画書風だと急に鬱陶しい説教臭が。コピー風もリブログ確定な「役立ちフレーズ」なのではあるけど、そこは長年やってるだけあってうまく脱臭できてるカンジ。一番つまらないのがペット写真のキャプション。あえて親バカなのか。なんか安心できる駄目加減w

ぼくの好きなコロッケ。 (ほぼ日ブックス)

ぼくの好きなコロッケ。 (ほぼ日ブックス)

手元にある木片とナイフで、神さまだって彫れるのだと。

変化の側に、おもしろさを見つける。
必ずうまく行くかどうかは、わからなくてもね。

[わらしべ長者についての文章の一部]
(略)最初に「10円」という貨幣だったら、「10円」そのものは、「10円」のままなんですよね。誰も「20円」に交換してくれないんです。お金って、なにかの姿に変えないと、ただの魅力のない記号なんですよね。「なんにでも変えられる」と思うのは自由ですが、それは、「なにか」に変えてからの価値を、勝手に想像しているだけです。「お金の価値を想像しているもの」どうしでないと、お金って、「わらしべ」より格下だとも言えます。(略)
アブを結んだ「おもちゃ」が、おもしろかった。つまり、魅力を感じる人がいたから「みかん」に交換してもらえたんです。で、「みかん」を持ってた人は、損したと思ってるのではなく、よろこんでいるわけで、この「交換」は、他人によって評論できないんですね。つまりは、普遍的な「等価交換」って、ないんです。(略)

「コスト」という考えが、どういいのかと言うと、
人は、自然に、「激しくケチ」になりたがるからです。
おそらく、だいたいの人間は、
ほっとくと無意識に、そういう傾向を持ちます。
そういう「激しくケチ」になりがちな人間に、
「かかるものはかかる」と教えてくれるのが「コスト」。

ほったらかしにしていると、
どこからどう手を付けていいかもわからなくなって、
やがては、そのひどい状態を、
「じぶんの個性である」とか言い出す。
なんか、「多重債務」の渦中にいるみたいなことですよ。

なんだか、たくさんの人の、とても多くの時間が、
「正解」を探すことに費やされているように思えてなりません。
いや、遠慮なく言えば、「正解」探しばかりで人生終わっちゃう人ばかりじゃない?
(略)
「正解病」ってのが、いまの時代病のような気がする。

「変わらないつもり」の人を、変わらせることは、
ぼくは、ほぼあきらめることにしています。
できることなら、あらゆる人が
「じぶんって変わるものだ」と思っててくれたらなぁ。
「変わる」ことを怖れない人どうしだったら、
人に会うことは、たいていたのしいと思うんです。