証言UWF 最終章 3派分裂後の真実

 

船木誠勝

藤原組

 前田から「解散」が宣言され、再び選手がバラバラになりかけたとき、今度は宮戸優光が中心となり若手だけでUWFを続けていくことを画策。そのエースとして考えていたのも船木だった。

(略)

 「当時、自分が団体のエースになるなんて自信がなかったんですよ。(略)

だからUインターっていうのは本来、宮戸さんが中心になって自分をエースに若手だけでやっていくはずだったんですけど、お金もないなか、俺がメインでやっていく自信がなかったから、メガネスーパーがバックについている藤原さんのところのほうが安全だなって、安全なほうを選んでしまった。

(略)

昔の仲間がたくさんいるんで、Uインターの試合はけっこう観に行ってたんですよ。(略)熱気が凄かったですね。藤原組の会場とはまったく違ったんで、本当のファンはこっちについてるんだな、みんな凄く頑張ってるなって感じたんです。なのに俺らは、メガネスーパーからのお金でこんないい暮らしをして、チケットもメガネスーパーが売ってくれて、ただ練習だけしていればいいのに、会場は盛り上がってなくて、これってどうなのかなって。
 だから藤原組の2年間というのは、もの凄く自分でイライラしていました。(略)

それで藤原さんはメガネスーパーありきでやってますから、藤原さんともギクシャクし始めて。

(略)

[メガネから切られる危機感で営業に忙しく練習に来られない藤原をやる気がないと見てしまった船木達]

 鈴木も藤原さんの言うことを聞かなくなって(略)

最後の頃に、どこかで藤原さんと鈴木が試合をして引き分けだったんですけど、あの試合はほぼガチですよ。たしか、鈴木が途中で1回エスケープを奪ってるんですけど、藤原さんは最後まで一本は取らせなかった。あれは意地だったと思います。

 パンクラス

 「パンクラスを全試合完全実力主義にしたのは、リングスやUインターとの差別化をはかるために、もうこれをやるしかないと思ったんですよ。お金もないし、ある程度名前が知られてる選手も、自分と鈴木しかいない。

(略)

UWF時代から、自分だけ真剣勝負志向だったように思われてますけど、そんなことないんですよ。だって、前田さんに『あと何年で真剣勝負ができるんですか?』って聞いたのも、当時UWFは(対外的に)『真剣勝負の格闘技だ』と言っていたので、だったらそこに近づけなきゃいけないと思ったんです。

(略)

[プロレスが八百長と言われることは嫌だが、かといってガチでもないし、というジレンマが元々あったので]

世間に対して『バレるまではそのままでいいよ』っていうのは、凄く気持ち悪かったんです。

(略)

[旗揚げ戦]

『道場での練習をそのままお客さんの前でやればいい』って、けっこう単純に考えていたんですよ。それが実際にやってみたら(略)

あんな潰し合い、壊し合いになるとは想像してなかったんです。

(略)

[そこまで全5試合で試合時間が計13分だったので、ブーイングが起きて、最悪暴動になるのではと心配に]

 それで最後、メインで自分の出番が回ってきたとき、『とにかく時間を引き延ばそう』と思ったんですよ。[その結果、防戦一方で負けて]

(略)

会場がシーンとなって変な空気をつくっちゃって。

[だが“秒殺”が話題になりパンクラスの売りに]

(略)

[他団体への]優越感というのはまったくないです。ただ『別物になっちゃったな』っていうふうに思ってたんで。(略)

[試合が過酷で]Uインターやリングスを気にしてるヒマは、正直ありませんでしたね」

(略)

[前田から対抗戦をアピールされて]

『もう俺らは前田さんたちとは違うことをやってるんだから、あんまり茶々を入れないでほしい』っていう思いだったんですよ。(略)

[週プロの宍倉に相談すると絶縁したら答えないで済むよと提案され]

『じゃあ、もう面倒くさいんで絶縁します』って言ったら、あの週プロの表紙になったんです。[だから前田への悪感情はなかった]

(略)

[別件でまた揉めかけて]

高橋義生が、『パンクラスを潰すというなら、俺が前田日明を殺す』とか言い出して。

(略)

[安生の前田襲撃事件]

「あの大会前日、『明日、安生さんが前田さんをやるらしい』っていう噂が、パンクラスの事務所に入ってきたんですよ。それで当日、会場で安生さんに『本当にやるつもりなんですか?』って聞いたら[やると言われ](略)

それで高橋もやるつもりなんじゃないかと思って、問い詰めたんですよ。そしたら『自分も我慢できないんで、もし火の粉が飛んできたらやります。ただ、今日は安生さんがやるらしいんで、俺はそれを見てますから。安生さんがもしやられて、前田がこっちに来たらやり返します』

[面倒なことになったと思いつつ、前田が囲み取材を受けているのを遠くから見ていたら、『ドーン』という音だけで終わって、前田が倒れていた。安生と高橋の共謀説は否定]

 ヒクソン

あの頃のUインターって、ああいういやらしさ[1億円トーナメントetc]で売ってましたよね。 ただ(略)ヒクソン道場破り事件では、手をだしてはいけないところに出してしまったなと思ったんです。『なんで安生さんは、あんな無謀なことをしたんだろう。もっと効率的にヒクソンを引きずり出す方法があるはずなのに』って、凄く不思議でした。しかも負けてしまったんで、『これは絶対にこっちにしわ寄せが来るな』と思って。

(略)

[高田が再戦でも負けた]瞬間、『ああ、俺に来るな』と思いました。

冨宅飛駈

UWF

[新生Uの第一回テスト、田村と一緒に最後まで残ったのに不合格。後で訊くと、神社長がはまってた占い師が運気が悪いと言ったせいだった。その占い師はビッグマッチの日程やリングネームも決めていた。若手には神社長に悪い印象はなかった。前田は高身長選手贔屓だったが]

神社長は『これからは普通の体の人が格闘家になる時代になるから、どんどんアマチュアにも底辺を広げて、体の大きさに関係なく、みんながプロで活躍できるシステムにしないとダメになる』[と言ってて](略)

先見の明があるというか、やっぱり鋭い感覚の持ち主だったんだと思いますね。

(略)

[前田の解散宣言。練習も食事もいつも一緒だった船木鈴木田村垣原冨宅の5人が若手だけでは無理なので藤原のとこへ行くと宮戸に伝えると、宮戸が高田を担ぎ出してきた。高田がひとりひとりにどうすると聞き始めると、田村も垣原も高田と一緒にやると言い、焦ったが、それでも藤原のとこへ行くと答えた]

 SWS

[藤原組の道場に出稽古に来てた佐野直喜と藤原組の興行で試合をすることになったが、マッチメイカーのカブキが警戒して直前に鈴木との試合に変更。メガネスーパーの行事で一緒になると新日系は声をかけてくれたが、全日系はガン無視]

こっちもカチンときて、『やってやろうかな』と思ったりしたこともありますよ

パンクラス

「記者会見で船木さんの口から、『パンクラスは完全実力主義です』という言葉はあったと思うんですけど、僕らに対して改めて『格闘技にする』という話はなかったんですよね。だから僕は旗揚げ当日まで『どうなんやろ?』と思ってて。僕より前の試合を観たらそうだったんで、『それでいいんかな』みたいな(笑)。『そうなるんだろうな』っていう雰囲気は、旗揚げ前からあったんですけどね。
 藤原組のときから、そういう試合はけっこうあったんですよ。いわゆるシュートの試合を、僕らの用語で『ナチュラルスタイル』って呼んでたんですけど。日本人同士だとけっこうやってたんですよ。船木さんや鈴木さんとやるときも『極められるなら極めていいよ』みたいな感じで。藤原さんも、僕らがナチュラルでやるのを、暗黙のうちに認めてくれているような感じでした。
 ただ、藤原組時代のナチュラルは、『潰すようなのはやめような』っていうのはあったんですけど、パンクラスになってからは、すべての試合で、それすらもなくなった感じでしたね」

(略)

 「藤原さんや船木さんといったトップの人たちは、やはり他団体に対してライバル意識とか、負けられない気持ちはあったと思いますけど、僕は別にそういう立場じゃなかったので、全然ありませんでしたね。試合も、リングスはWOWOWでやってた映像を観ていたし、Uインターは東京であるときには、垣原さんにチケットをもらって、ほぼ毎回観に行ってたので。『ああ、頑張ってるな』『凄いな』という感じで、変な感情とかはなかったです。
 それこそ、リングスとパンクラスがいちばん揉めているときに(略)

新生U関係者の何回忌かの法要が[あり](略)僕が一人で行くことになったんですよ。そしたら、選手は僕と前田さんだけが来ていて。『お疲れ様です』って挨拶したら、『おう』みたいな感じだったんですけど。墓参りして帰るとき、ちょうど同じ墓地に高田さんのお父さんのお墓もあったんで、前田さんから『高田のお父さんの墓もあるから、墓参りしていこう』って言われて。お墓の周りに草が生えているのを、僕と前田さんの二人できれいにしてお参りして。帰りにちょっと食事して、『ちゃんと給料もらってるか?』『頑張れよ』って、いちばん揉めてるときに言ってもらえたんですよね。

 だから新生UWFって大きな家族みたいなものだったと思うんですよ。

尾崎允実

[高田とは仲がよかったがUインターは宮戸が動かしていたし、リングスとは絶縁状態だったので、親交のあった中村頼永経由で佐山に交流をもちかけたら向こうも乗り気だったが、その後すぐ、佐山は修斗を去り、後任の幹部たちはプロレスラーが作ったパンクラスに対する嫌悪感敵愾心全開]

田村潔司 

[パンクランス旗揚げ戦を観て]『ああ、船木さんたちが理想とする団体ができたんだな』と思ったんだけど、それと同時に『これは面白いのかな?』って疑問に思ったんだよね。(略)

ただ勝った負けただけでいいなら、格闘家なら誰でもできる。でも、俺らはお客さんを満足させてなんぼなんから。そこを考えてるようには見えなかった。(略)

パンクランスの『勝ち』にこだわる試合とくらべると、俺は絶対に桜庭VS田村戦のほうが[同じ類の試合だけど]面白いと思うんで。

山本喧一

[宮戸のクーデター]

 安生の道場破り失敗後、95年に入ると同じ取締役の安生、鈴木健との関係が悪化。団体内の会議も宮戸抜きで行われるようになり、新日本との対抗戦も、宮戸不在のなかで安生と鈴木健主導で進められたものだった。(略)
 「[高田引退宣言直後]宮戸さんが若手全員に招集をかけたんですよ。(略)

『お前ら、これでいいのか?新日本と対抗戦をやったら、Uインターは終わりだぞ』って言われたんです。(略)

[若手も真剣勝負でやりたかったので田村中心で]新たなUインターをつくっていこうという話になったんです」(略)
いわば宮戸は新生UWF末期と同じような動きをしていたのだ。
 ところが、ここで意外な誤算が生じてしまう。
 「(略)肝心の田村さんが『いや、僕は取って代わってやろうとか、そこまでは思ってないんですけど』とか言い出したんですよ(笑)。みんなズッコケましたよね。それで宮戸さんも、ガクーンってなっちゃって、その場は一度解散になったんです」

 しかし、それでも諦め切れない宮戸は[高山を中心で行こうと言い出すも失敗。焦って、鈴木を不正経理で排除しようとして、高田の逆鱗に触れ退社]

(略)

[猪木を崇拝し、新日本のことがわかっている宮戸がいたら、対抗戦の主導権を新日側に握られるようなことはなかったのにと山本]

[会社を守るために対抗戦に出てくれと高田に頭を下げられ了解した若手達、するとお前らは裏切り者だ、と意固地になる田村]

 でも、しょうがないじゃないですか。田村さんがちゃんと高田さんと向き合って、『真剣勝負の世界にしましょう!』『なんだったら僕らだけでやりますよ!』とか言ってくれてたら、みんなそっちについていったんですよ。高田さんだって引退を考えていたんだから、そういう言葉を待っていたはず。でも、いつまでたってもモジモジして動かないから、大将に頭を下げられた僕らは、みんな対抗戦出場を決めたんです。“田村の乱”が未遂に終わったのは、あの人の優柔不断さと、下の人間にはいろいろと言えるのに、上に対しては言えない性格が原因ですよ」

(略)

[対抗戦後、Uインター主治医から田村の話を聞いてやってくれと説得され田村の家まで行った高田]

 そこでじっくり話をして、高田さんは『田村、お前はそこまでUインターのことを考えていてくれたのか。すまなかった』って頭を下げたんですよ。そして『これからは、お前中心にUインターをもう一回立て直していこう。俺もそういう方向に力入れてくから』と言って、握手して帰っていった。(略)

[が、すぐあとに]

試合後の囲み取材で、記者から『田村潔司のリングス参戦が決定しましたね』って言われて、高田さんは『えーっ!?』ってなったんですよ。数日前のあの会談と握手はなんだったんだって。

(略)

 先生からその話を聞いて、僕は高田さんが怒り狂った気持ちもわかったし、顔を潰された先生もかわいそうだった。そして、僕が田村さんに対して怒り心頭だった一番の理由もこれですよ。Uインターを辞めたっていいけど、その経緯がひどすぎた。だから僕は田村批判をしたんです」 

次回に続く。