音職人・行方洋一の仕事 伝説のエンジニアが語る日本ポップス録音史

 
音職人・行方洋一の仕事 伝説のエンジニアが語る日本ポップス録音史

音職人・行方洋一の仕事 伝説のエンジニアが語る日本ポップス録音史

 

初録音

レコード会社として本当に駆け出しだった東芝音工は、自社スタジオを所有していなかった。そこで初期は、主に博報堂の[CM録音用の]「麹町スタジオ」をレンタルして録音を行っていたのだ。

[録音テクニックが盗まれるのを恐れて同業者の出入りが少ない所をという理由もあった]

(略)

 多田さんは最小限のEQとリバーブだけで完璧なバランスで音作り

(略)

[入社から一年、ようやく初録音。パラダイス・キングという]東芝のスターバンドを前にしてペーペーの僕がやり直しのお願いなんかできないから、ものすごく緊張した。(略)

 何度かバンドに演奏してもらってマイキングを調整していく。ここでしくじると、うまく音が録れないばかりか、位相がぐちゃぐちゃになる恐れもあった。
 録音本番も、後ろに付いた多田さんが「あせるな、あせるな」とささやいてくれたおかげで、少しは落ち着いたけど、初めて卓を前に座った僕はガチガチ。そんな僕を横目に彼は、曲とオーケストラの演奏を完璧に頭に入れていて、「次はトランペットのソロが来るぞ」となんて指示を出してくれる。
 それに合わせてボリュウムを上げ下げすることしばし、気がついたらレコーディングは終了していた。

(略)

 この時代に細かいEQはないから、音量のバランス感こそ命だった。これがエンジニアの仕事なのか……ただ音を録ればいいわけではなく、音楽を知らないと務まらないと身をもってわかった。

ジェリー藤尾「遠くへ行きたい」

[ジェリーがハンドマイクを所望]

「この歌詞は特別だし、歌うのが難しい。だからじっくり心を込めて曲の世界に入るために、スタジオのなかを歩きながら歌いたい」と言うのだ。

(略)

出だしの「知~らな~い」の「知」は、低音かつ音量が小さいのでマイクで拾いづらく、ボリュウムを調整して少し持ち上げた。いわば手動コンプレッサーだ。(略)

[アウトボードなど皆無の時代]

自分の手でコントロールできるのがエンジニア冥利につきるとも言えた。

坂本九見上げてごらん夜の星を

[坂本の弱点は低音。見上げての「見」がうまく出せない]

 歌い出しが決まらない九さんは、どんどんヴォーカルマイクに近づいて、なんとかして「レ」を出そうとしている。(略)

 マイクというのは、近づけば近づくほど低音が強調される「近接効果」が起こってしまう。(略)それは野太いだけで輪郭のはっきりしない胴間声。(略)[ブレスも入り]エンジニア泣かせのマイクの使い方でしかない。(略)

[駆け出しの著者にそれを指摘できるわけもなく、妙案を思いつく。周りの音を混ぜたいと嘘をついて、オフにしたヴォーカルマイクから10センチ後ろに「本当」のマイクをセッティング]

追加したマイクの音量を最初の「レ」にぴったり合わせてグッと上げる。

 すると近接効果のない、クリアな低い「レ」から始まる「見~上~げて~」 が聴こえてきたのだ。

弘田三枝子「ビー・マイ・ベイビー」

デカく録りたければバスドラムの目の前にマイクを置けばいいのだ。(略)

 たぶん、こんな録り方をしたのは僕が初めてだったのだろう。[ドラムの]石川晶さんも「ナメさん、すごくいいね!」と喜んでくれた

[だが、一般家庭の安いプレーヤーで針飛び続出、発売3日で全回収で大目玉](略)

[ローカットした再発盤は]自分の納得したサウンドとはほど遠く、がっかりした。だから初回プレスとそれ以降とでは、バスドラムの音量が全然違う。

爆音バンド、ブルージーンズ

 ブルージーンズは当時としては珍しく、レコーディングに使うアンプとスピーカーは自前のものを持ち込んでいた。それもとんでもなく大きなシロモノで、初めて見たときは驚いた。

 寺内さん用のスピーカーには38cmのウーファーが4発入っていたし、ベースの石橋四郎さんのスピーカーは冷蔵庫並みの大きさのキャビネットで音もデカい。(略)

[キャビネットの共振予防に]ボウヤがキャビネットの上に重石代わりに座っていた。(略)

[階下のスタジオから大音量にクレーム]

ブルージーンズはそれぐらいラウドなロックバンドだったわけだ。

尾藤イサオ「悲しき願い」

 [ブルーコメッツの]ジャッキーさんが叩く音はものすごくでかくて、何度も音量を下げて演奏してほしいとお願いした記憶がある。

 後年、東芝が赤坂にスタジオを作ったときに、天井から大きなパラソルをドラムの真上にぶら下げた。それも、元をただせばジャッキーさんのドラムの回り込みを抑える手段だったものが、赤坂スタジオ定番のセッティングになった。

(略)

 〈悲しき願い〉を録音したあとくらいに、僕は3点ステレオにプラスαして音像を広げるテクニックも思いついた。それは1本のマイクをパラレルに分岐して2つのチャンネルに入力するというもの。マイクの本数は変えずにチャンネル数を稼ぐことによって、音像の隙間を埋めることができたのだ。
 技術が進歩して、やっとステレオらしい音場感を演出できるようになったのは、67年あたりからだったと思う。日本でもパンポッドが開発されて左右スピーカーの間で細かなバランスが取れるようになり、ようやくステレオ音像のマジックを存分に生かすことができた。

 「音屋会」

[当時会社は技術に関し秘密主義、酒を飲むことも禁じられていたが、技術向上のため他社エンジニアと交流]

 岡ちん[コロムビアの岡田則男]も会社から「何で東芝の奴と付き合っているんだ」と、まるでスパイかのように言われていたようだ。(略)

[こうして「音屋会」が発足、のちに「日本ミキサー協会」へと発展]

 おかげで最新機材の情報もすぐに入ってくるようになった。誰かが新しい機材を買ったと聞いたら、「ちょっと見せてよ」と夜中だろうが見学に行って、その場で触らせてもらうほど打ち解けた付き合いだった。

[地位向上を求め、エンジニア名がクレジットされるようにしたりも]

不良社員

 1970年代になると、僕は社内外を駆け回って精力的に仕事をこなすようになっていた。入社から10年(略)

 会社の自分の席に座っているようなことはほとんどなくて、社員でもない自分の弟子の若者を引き連れて歩く完全な「不良社員」。(略)
「ナメさんの席には、いつも見知らぬ若者が座っていた」と苦笑いされたものだ。弟子に僕の留守番までさせていたんだから。

(略)

[他社の]アルバイトのことはみんな知っていたんだけど、そんな無茶苦茶も大目に見てくれるよい時代だったな。

奥村チヨ

 チヨさんの歌は不思議だ。声質も独特だが、作曲家のメロディによって歌い方をがらっと変えていく。演歌っぽくしたいとか、ポップソングにしたいとか、作曲家や編曲家の意図を汲んで本当に変幻自在に歌うことができるので、録音側もそれに合わせて聴かせどころを変えていた。
 たとえば色っぽい〈恋の奴隷〉などでは「アッ」っと歌うと、色っぽく「アアッ」と残響が大きく聴こえるようにズラす録音テクニックも思いついた。テープレコーダーで半拍遅らせたリバーブを作ってかぶせているのだけど、それであの「あなたごのみのぉ~」が生まれたのだ。

マヒナスターズ

 マヒナは本当にうまいバンドだった。世間ではコーラス・グループと認識されている節のある彼らだが、ステージで鍛えられたミュージシャンとしての腕前は本物だ。

安西マリア「涙の太陽」と「行方式ジェットマシーン」

[その歌唱力を誤魔化すため、BS&T『血と汗と涙』で使われたエフェクターを使うことに]
 だが日本には当時輸入されてもいないし、使っている人も皆無。オーディオのプロ用の輸入品を扱う坂田商会でさえ、いくら探してもそんな機材はないと言うほどだ。たしかに『血と汗と涙』の解説書には「ジェットマシーンというエフェクターを使用した」と書いてあるのに……。(略)
 そこで僕は自己流で日本初のジェットマシーンを作ることにした。(略)
 その構造はこうだ。4台のテープレコーダーを用意して、1台を送り出し専用にして、間にエフェクト用としてレコーダーを2台挟み、4台目をマスター・レコーダーにする。

 2台目のレコーダーのキャプスタン・モーターの周波数を49Hzから51Hzに変えてテープの回転数をコントロール、人工的に揺れ幅の大きいワウフラッターを作る。それを2台目のLチャンネルと一緒にパラレルで回した3台目のLチャンネルを、合わせて4台目のレコーダーにダビングすると、ショワーっというかっこいいフェイズシフトをかけることができた。

(略)

[74年初頭ポリドールの前田欣一郎(前欽)がジュリーの曲で使いたいから貸してくれと深夜にやってきた]

僕が突然4台のレコーダーをスタンバイして「行方式ジェットマシーン」をお披露目したものだから、前欽も「本物のジェットマシーンはないのかぁ!?」とびっくり。

(略)

 結局いまに至るまで、僕はジェットマシーンというエフェクターにお目にかかれていない。でも、みんな「あの音」が欲しかったみたいだ。

小川知子「ゆうべの秘密」

[風邪による不調で吐息風の歌い方になったが]

歌詞の世界観ともマッチした、影のあるはかなげな歌が賞賛されて曲はヒット

アニソン

 [アルバイトでやったアニメ主題歌は、「スーパージェッター」「ぼくらのパーマン」「おれは怪物くんだ」、自社の仕事では「コメットさん」、『忍風カムイ外伝』「忍びのテーマ」、そして『サザエさん』。フジから現場を仕切ってと依頼があり、作曲は著者が筒美京平を推薦。筒美と相談して歌は由紀さおり(当時はまだ安田章子)にしたが都合がつかず、ディレクターが]

「上手なシャンソン歌手がいるんですけど」と紹介してくれたのが宇野ゆう子

(略)

 挿入歌も僕が録音を担当していて、(略)<カツオくん(星を見上げて)>はとってもいい曲で当時から気に入っていた。

(略)

だけど、エンジニアとしてはちょっと悔しいこともある。オープニングで使われているのが、明らかにテープ編集を失敗したバージョンだからだ。

(略)

[マスターからコピーしたテープが]

無理やり短くつながれてしまったおかげで、編集されたエンディング部分からピッチがズレてしまったのだ。1/4音ほどピッチが低くなった影響で、音色もこもり気味になっている。

 「ウルトラセブンの歌」

[コーラスの三番目の「セブン」尾崎紀世彦]

 ベルトの後ろに手ぬぐいぶらさげたバンカラな風体の[冬木透]先生(略)子供がトチると「ごつん」と容赦ないゲンコツ(略)

[「セブン」連呼パート]子供たちだけで歌うと「セッ、セッ、セッ」と聴こえてしまう。どうしても「ブン」を大きく発音できないので、ワンダースが「ブン」だけを少し大きめに歌ってくれて、OKテイクが完成した。

(略)

[そのあとには、『柔道一直線』主題歌] 

わざとノンエコーにすることで木琴の音がリアルに録れている。

(略)

[生録が趣味の著者、羽田に初飛来のボーイング747の離着陸も録音。『アテンションプリーズ』の話が来た時はしめたとばかりに秘蔵の音を投入]

 サミー・デイヴィス・ジュニア

[松崎しげるの仮歌を入れたテープを携えLAへ]

まずはテストで歌ってみようか」と言うや、松崎さんそっくりにモノマネして歌い始めたのだ。あまりの見事さに全員大笑い。それで一気に緊張も解けて、コミュニケーションもバッチリになった。
 録音中も彼の職人技を目の当たりにする。クレッシェンドのときにレベルが振り切れないよう、自らマイクと口元の距離を調節していて、それがことごとくちょうどいい音量。僕がフェーダーをいじる必要がほとんないくらい、マイクの使い方がずば抜けてうまい人だった。
 「シナトラは1回しか歌わないんだぜ」なんて言いつつも、歌い直しに応じてくれて、通しで3回ほど歌ってもらって録音は無事に終了となった。 

(略)

[観光でベガスへ行くと言うと紹介状を書いてくれ、ステージ真ん前のVIP席でジャクソン5を堪能できた]

 太田裕美

 デビュー曲の〈雨だれ〉はモウリスタジオで録音している。でも僕は当時モウリが使っていたクォードエイトのコンソールの音が好きじゃなくて、ミックスダウンは別の場所でやらせてもらった。
 それがAMS(赤坂ミュージック・スタジオ)の2スタで、ここのスチューダーのコンソールはややハイ上がりで独特の音がした。
 僕は特にこのコンソールに入っていたEQをとても気に入っていた。女性ヴォーカルに色気をプラスするのにぴったりのイコライジングカーブを持っていたからだ。

(略)

[「木綿のハンカチーフ」が大ヒット。手違いでアルバイトの変名「上村英二」ではなく本名でクレジットされてしまい、会社に届くオリコンの名前を黒塗り]

3週目にはもう面倒くさくなって、出版元のオリコン社に電話して僕の名前を削除して欲しいと頼み込んだ。でも「決まりだから載せる」の一点張りで、しかたなく黒塗り作戦を最後までやった

4チャンネル・ステレオ

[4チャンネル再生は浸透しなかった]

 レコード自体は、4チャンネル・ステレオ盤は通常のステレオ盤としても聴けるコンパチブル仕様だった。エンジニアの立場からは、2チャン・ミックスと4チャン・ミックスを作らなければならないので、結構大変な仕事だった。
 コンパチ仕様にはいい面があって、ステレオで聴いても通常盤よりも、左右スピーカーの外まで広がるようなイメージで聴くことができた。「4チャンネル・レコードは音がいい」と言われるのはこのためだ。

(略)
4チャンネル・ステレオの開発はオーディオ・録音業界によい影響をもたらしてくれた。その研究過程において、ステレオ録音、再生機器の性能が向上する技術が生まれたからだ。
 こうした可能性は、僕がのちに「プロユース・シリーズ」でレコード盤自体の性能を上げることを考えるきっかけにもなる。

(略)

録音には当時新しく開発された超高感度な2インチテープ(略)

 リミッターはほとんど使わなかったので、急峻なピークや立ち上がりも均していない。[カッティングにこだわり]

(略)

 僕はこのグルーヴガードこそ、物理的にレコードの音質を阻害していると考えた。(略)[薄くて柔らかいレコードは針圧で]わずかに内周にむかってたわんでしまう。すると針と音溝が正しく垂直に接地できず、歪みの原因となる。(略)

 だからグルーヴガード[レコード縁の盛り上がり]を廃止して、レーベル部分から外周まで完全にフラットなレコードを作ってもらった。レコードの材料もレジンを基材に配合を見直すことで、硬くて摩耗に強く、静電気が起こりづらい、専用の盤を開発してもらった。

 特別な盤にすると、工場では完全な別ラインを用意して生産しなくてはならない。(略)

 こうしたイレギュラーなことに会社ぐるみで対応してくれた背景には、東芝音工時代からのトレードマーク「赤盤(エバークリーン・レコード)」の存在が小さくなかっただろう。
 赤盤は「レコード界の技術革命」や「永久にちりやほこりのつかないレコード」なんて言われていて、高品質なレコード盤が作れることは東芝の誇りだったからだ。
 ちなみに、赤盤とは原材料の塩化ビニールに帯電防止剤を混ぜたもので、通常の黒盤との識別のためにわざと赤く着色していた。その赤色は当時の川口工場にいた柿沼さんという職人さんしか配合できなかった。柿沼さんが70年代半ばに東芝を退職してしまったので同じものを作ることができなくなった、という裏話もある。

開業したてのディズニーランド

[シンデレラ城前イベントの音楽監督]

 一週間くらいしかやらなかったけど、ディズニーランドの細かな規則には閉口した。ヒゲを剃るか、スーツを着るかどちらかにしろと言われ(略)初日、裏口から帰らなければならないところを表門から出たら、翌日「入退場者の数が合わなかったのはあなたのせいか」と怒られた。

2002年の中国

 いちばん驚いたのは、立ち寄った北京のレコード店で、正規盤と海賊盤が普通に並んでいるのを見たときだ。

 中身はもちろん、ジャケットもコピーして同じものが売られていて、海賊盤は正規盤の5分の1くらいの値段。それでもレコード会社からはお咎めはない様子。

 哲民君に訊くと、中国ではCDはあくまで宣伝ツールであり、たとえ海賊盤でも中国全土にCDが行き渡れば、地方公演の際にお客さんが入る。いわば宣伝を海賊盤業者がやってくれているわけで、むしろ歓迎しているかのような口ぶりだった。

リマスタリングの難しさ

 加えて、旧譜のリマスタリングエ程でアナログテープ再生時のアジマス調整が忘れられがちなことも、ここで声を大にして伝えたい。前にも触れたが、アジマスとはテープレコーダーの再生ヘッドとテープリボンが接触する角度のこと。この調整が不十分だと再生時に位相の乱れが起きてしまう。

 テープからデジタイズされた音源を聴いてみると、CDとして流通しているものでも、アジマス調整が不十分なままのデータが少なくない。コンピューターに取り込んで波形を確認すれば一目瞭然で、これはデジタイズしたあとでも容易に修正が可能だ。
 その調整のためにも、僕はウェーブラボ社の専用ソフトが手放せない。

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