町村「自治」と明治国家 中西 啓太

町村「自治」と明治国家 (山川歴史モノグラフ)

町村「自治」と明治国家 (山川歴史モノグラフ)

 

町村自治 

[町村自治の問題点]

国が要請する政策・事務を、町村自らの費用負担によって実施することが「自治」とされていた。それにもかかわらず、財源の確保においては国庫が優先されたため、町村は限られた財源で行政に取り組まなければならなかった。つまり、行財政両面にわたって国家から地方へと負担が転嫁される構造となっていたのである。

(略)

[江戸時代の自治との違い]

村請制と呼ばれる年貢納入システムを担う単位であった。(略)納入責任は村に負わされており、個別の村民の納入量を領主側が把握するわけではなく、各人への割り当てや納入不能となった者の分の補填などは、生産実態を知る村側の運営に委ねられていた。 (略)

[石高が次第に実態から乖離したため、明治政府は地租改正を実施]

個人単位に納税責任を負わせる税制へと移行し、村請制は解体されたのである。

(略)

[村落共同体は]小農の経営を成り立たせることや形式的な平等を原則とする特徴があり、そのために、単純に村民が共同するだけでなく相互に規制する機能を有した。

(略)

[町村制では]町村に、「社会全体」の利益を実現するために行財政を展開し、個々人の生活に対しては間接的に支えるという役割が担わされたのである。これは、近世期のような、個々の村民の生活・生産が維持できるように直接的に支える、という個別利害に密着した役割とは異なる位置づけであった。

(略)

村落共同体と対比すると個別住民との距離がとられ、無機質で均質な単位となった町村が、日本全国を隈なく埋め尽くし、それぞれの領域内の行財政を分担するという制度に落着したのであった。(略)

[先に挙げた]問題点を踏まえると、この制度そのものが大きな負担を地域社会にもたらし、新たな不安定要因となる危険性も想定できる。

第五章 企業に対する府県の課税と税の分割

 企業をはじめとする商工業への課税は、明治前期以来地方財源であったが(略)明治三〇年施行の営業税法により国税化されると、付加税を賦課することしかできなくなってしまった。地方側の課税の自由度が低下したことになる。

(略)

[企業側は]所在する複数の地方自治体から多重課税を受けることを警戒していた。

(略)

[営業税法施行以前]商工業がまだ未成熟という判断もあり(略)府県の財源となっていた。

(略)

[明治二〇年]井上馨が県知事に営業税導入について極秘に下問しており、現在残されている県知事側の意見は、営業税の国税化に賛成していた。その理由は、農業者が過重な税負担をしている一方で、商業者の負担は軽いという業種間の公平性や、各地で税の基準がバラバラであるという地域間の公平性を問題視したためであった。こうした背景もあり、日清戦後において国家財政が膨張したことと、全国的課税に耐え得る水準まで商工業が発展したと判断されたことから[営業税法施行]

(略)

[以前は]それぞれの府県で管内に所在する店舗や工場へ独自に課税していたのに対し、営業税国税化後は、複数の府県に支店や工場をなどを置く企業は一括納税を行うようになった。[納税地以外の府県が付加税を賦課できなくなり問題に]

(略)

 [日本鉄道の場合]

 さて、「順序」に従い、九月初頭には日本鉄道の停車場がある各県から東京府へ、分割歩合案発議依頼が相次いで送付された。複数の県は先述の合意通り、分割標準は従業者・収入金額・営業距離としたいと述べていた。しかし茨城県だけは、なるべく分割標準は本税の課税標準と同じにすべきで、資本金を営業拠点ごとに振り分けるのは困難なので収入金を代わりにするべきだ、と営業距離を標準に用いないことを主張した。(略)

[結局]茨城県も合意し、内務・大蔵省からの修正も無く日本鉄道の税分割歩合は許可された。(略)

営業距離を分割歩合に加えた場合、歩合が目立って減少するのは東京府のみで、ほとんどの県は微増する。つまり、この時点で東京府は、財源の確保よりも適切な課税の実現を志向したと言えるだろう。

(略)
制度は当初から十全に機能したのではなく、府県間の調整の繰り返し、あるいは内務省との連絡を通じて、システムが構築されていったのである。これは、税務について全国大の整合性を高めていく過程でもあった。

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