デジタル資本主義

デジタル資本主義

デジタル資本主義

 

資本主義と民主主義

ヴォルフガング・シュトレークは、そもそも資本主義と民主主義は「強制結婚」をさせられていたと述べている。シュトレークによれば、1980年代の米国レーガン政権、英国サッチャー政権誕生が、資本主義と民主主義の「段階的解消過程」の始まりである。(略)それまでの「ケインズ型資本主義システム」(国家の経済介入、大きな政府)から「ハイエク型経済システム」(自由市場経済、小さい政府)へと経済政策の舵を切ったのである。
 それまでのケインズ型資本主義システムでは、国家が資本主義と民主主義の仲介役を果たしていて、労働者の権利強化や、税金による所得再配分機能を通じて資本主義が生み出す不平等を是正する力が強かったのだが、見方を変えれば資本主義の力をそぎ、大きな非効率を生み出していたとも言える。そこで1980年代以降、米英をはじめとした先進諸国では各種規制緩和国営企業の民営化、所得税最高税率の引き下げ(米70%→39.6%、英83%→45%)などを進めた。この結果資本主義の本来の力が解き放たれ、経済的な格差も拡大し始めたのである。その後、米国では経済的な格差が献金などのチャネルを通じて政治的な格差にまでつながってしまい、資本主義と民主主義との「離婚」が不可避となってしまったというのである。

(略)

デビッド・モスは、米国の民主主義は歴史的に重要な経済課題を見つけ対処する能力を持っていたが、民主主義への信頼が揺らぎ弱体化することで、以前ほど問題解決に効力を発揮しなくなったと述べている。

(略)

我々はデジタルが資本主義と民主主義のバランスを取り戻す仲介役としての役割を果たす可能性はあると考えている。第4章で紹介するシェアリング・エコノミーは個人へのエンパワーメントを進めるし、さまざまなデジタル・プラットフォームは個人の意見表明の機会を拡大している。ただしPARTⅢで詳しく見るように、仲介の役割を果たせるかどうかはデジタルがどのような目的あるいは価値観のもとで活用されるかに依存するだろう。デジタルが資本主義の強化だけに用いられたりすれば、資本主義と民主主義はさらに対立を深めてしまう可能性もある。

GDPのピンボケ現象」

 単純化して説明をすると(略)生産者余剰とは価格とコストの差分、すなわち生産者の利潤であるのに対して、消費者余剰とは価格と支払い意思額の差分、わかりやすく言えば「お買い得感」である。(略)

消費者余剰は通常は金額換算されることはない。つまり生産者余剰はGDPとして計測されているが、消費者余剰はGDP外の存在である。

(略)

 消費者余剰の金額換算が難しいもうひとつの理由は、同じ商品であっても、人によって、さらには時間や場所によって支払意思額が変わることである。どうしても今すぐアイスクリームを食べたい人からすればかなりの金額を払っても購入したいと考えるだろうし[逆なら相当安くならないと購入しない](略)

同じ人物であっても猛暑日になれば多少のプレミアムを払っても購入するだろう。

(略)

 消費者余剰と生産者余剰の合計が総余剰であるが、総余剰こそがその商品・サービスが生み出した真の意味での付加価値だと言える。そして総余剰は、客観的に把握することができる生産者余剰と、主観的にしか把握できない消費者余剰によって構成されているのである。

(略)

無料の検索サービスは生産者余剰を生み出さず、消費者余剰だけが発生していることになる。(略)

[一方広告主向け検索ワード販売サービスでは]グーグルは支配意思額ギリギリの水準で価格を設定していると仮定しよう。(略)

議論を単純化すれば、グーグルは検索サービス事業では消費者余剰を生み出し、検索ワードの販売事業では生産者余剰を生み出しているのである。

 これまで経済学のなかでの概念的な存在でしかなかった消費者余剰が、無料のデジタルサービスが広まるにつれて概念以上の存在になってきている。そしてこれが、我々が呼ぶところの「GDPのピンボケ現象」を引き起こし

(略)

クズネッツが目指していたのは国民所得計算によって国民の経済的な豊かさを測定することであったが、第二次世界大戦に突入しつつあった英米にとっては、国の生産力や軍事力を可視化する目的が優先されるようになった。ダイアン・コイルはこの意思決定が国民所得計算のターニングポイントになったと述べている。すなわち、もしGNPが国民の経済的な豊かさを表す指標であるのならば、政府のさまざまな支出(インフラ投資や国防のための軍事支出など)は国民の豊かさを達成するためのコスト(経費)であって、文字通りコストとしてGNPから差し引くべき存在であるはずなのだが、そうではなく「GNPに加える」ことが決められたのである。
 この違いは非常に大きい。もし今日のGDP統計のルールが、政府支出をコストとしてGDPから引くことを求めていたら、政策当局の人間は、いかに少ない政府支出で国民にサービスを提供するかを熟考しなければならなくなる。(略)

[それが現行ルールでは]「政府支出が経済成長の数字を増大させることを同語反復的に認めているにすぎず、人々の豊かさが向上するかどうかは考慮されていない」のである。

(略)

本来は消費者余剰と生産者余剰の合計値である総余剰こそが国民経済全体の福祉水準を表すはずであるが、これまでは貨幣換算ができ客観的であるという技術的な理由や、生産力・軍事力の把握という政治的な理由によって生産者余剰のみが注目されてきたのである。
 しかし生産者余剰だけに注目すると第1章で示したように国民の豊かさに関して誤解を生み出す可能性がある。デジタル・ディスラプションのように、デジタル化によって生産者余剰は縮小してしまったが総余剰の面積は増加しているという状況が起こった場合、GDPだけに着目していると我々の経済は縮小しているという判断が下される可能性がある。 

国内総余剰(GDS)

 デジタル資本主義の時代において、国内総余剰という概念がGDPだけを見るよりよいと思える理由がいくつかある。

(略)

 第1に、デジタル化が進むとGDP統計では価値の捕捉がしづらくなる局面がますます増えることである。GDPはイノベーションの影響を測定するのが苦手である。こう聞くと意外に思う人がいるかもしれない。イノベーションこそがGDP成長のカギで、イノベーションさえ着実に行っていればGDPはそれだけ増えるのではないのだろうか。しかしGDPはあくまで「量」の捕捉が主目的であって、「質」の変化を直接捉えることができない。もう少し正確に言えば、GDPは質の変化によって生み出された販売量の変化を捕捉しているだけであって、それは質の変化を表しているとは言えないのである。ITの世界では、PCに代表されるように質が向上したのに価格は逆に低下することがよくある。質の向上と価格低下によって、結果として総販売量は増えるのかもしれないが、性能向上と販売額の変化の度合いは必ずしも一致しない。

 他方(略)消費者から見てPCの性能が向上し、さらに価格が低下しているとなれば、支払意思額と価格の差である消費者余剰(お買い得感)は大きく増え、実際の購入も増えるのである。
 第2に、デジタル化の進展に伴って生産者と消費者の境界が曖昧になることである。詳しくは第7章で議論するが、デジタル化のもとでのイノベーションは顧客参画型である。顧客がデータを提供し、それをもとにパーソナライズされた商品・サービスが生産者から提供される、あるいは顧客が自分で商品やサービスの設計を行えるようなプラットフォームを生産者が提供するといった協働形態が進むと考えられる。このような仕組みでは、生み出された価値のどのくらいが生産者に帰属し、どのくらいが消費者(顧客)に帰属するかを判断することが難しくなる。

(略)

そのような状況下では、生産者余剰(GDP)だけに固執するよりも、総余剰を見るべきだと言えるだろう。
 第3に、推計の技術的な側面である。消費者余剰は概念としては理解できても実際の推計は極めて難しいことは認めざるを得ない。しかしIoTの進化やソーシャルデータの爆発的な増加によって、消費者余剰をタイムリーに推計する手法が生まれるかもしれない。

(略)

 国内総余剰の概念は、GDPを含んでいることからわかるように、GDP統計を廃棄するものではない。むしろGDP統計では「量」の計測を、消費者余剰では「質」の計測を担当させると割り切って、両者を補完関係にするのである。