総特集=丸山眞男 現代思想2014年8月増刊号

【討議】丸山眞男を問い直す 川本隆史+苅部 直

川本 (略)ウォルツァーの『正しい戦争と不正な戦争』を引き合いに出した「戦争とオペラをめぐる回想」という対話記録が残っています(九四年八月)。「ウォルツァーの言うのはまた面白いんだ。真珠湾は奇襲かも知れないけれども、正義に反するかどうかは問題である。むしろ広島のほうがはるかに問題になる。なぜかというと、日本軍の目標は軍艦と軍の施設に限られていた(略)「戦闘員/非戦闘員の識別」を遵守せずに、広島への原爆投下がなされたことを批判するウォルツァーの所論を評価しているのです。
(略)
 でも苅部さんが示唆されたように、一連の正義論者のなかで丸山の肌合いにいちばん近そうなのは、やはりシュクラーかもしれません。公権力が人々に強いる残虐さ・無慈悲さこそ最大の悪だと考える彼女は、そうした悪への「恐怖」ゆえに「憲法によって制限された統治」を提唱する政治思想を「恐怖を発条とするリベラリズム」と名づけます。この種のリベラリズムと、「精神の内面に無限に踏込んで行く日本国家権力の性格」を若き日に思い知らされた丸山流のリベラリズムとの間には相通ずるところがありそうです。
(略)
苅部 (略)シュクラーと同じように、権力とは恐いものであり、いかにしてその恐怖から個人の領域を確保するかというメインテーマ。そうすると、権力が何らかのかたちで正義という価値を実行するという積極的なイメージにはなじまないところがあるんですね。
(略)
川本 ナチスに迫害された法哲学者ハンス・ケルゼンの論文「プラトンの正義論」の末尾の一節に感銘を受け、ノートに写して暗記したというエピソードも意味深長ですね。
(略)
ケルゼンのドイツ語原論文の訳文を読み上げておきましょう――「絶対的正義の理念は幻想であり、存在するのは利益・利益衝突・闘争や妥協によるその解決のみである。合理性の領域に存在するのは正義ではなく平和である。しかしたんなる妥協・たんなる平和に尽きない正義への希求・憧憬、高次の、至高の、絶対的な価値への信仰は、合理的思惟が動揺させうるにはあまりにも強力なものであり、それを覆すことがおよそ不可能であることは歴史の示すところである。この信仰が幻想であるとすれば、幻想は現実より強いのである。
(略)
正義は「幻想」だが人間を鼓舞して「血と涙」を流させ続けるものだとの諦観なのか、あるいは「幻想」に過ぎない正義が「血と涙」を流させることへの恐怖なのか……。
苅部 「諦観」かどうかはともかくとして、人間はイリュージョンとしてでも、何らかの正義を求めざるをえない、という理解ではなかったかと推測しています。
(略)
 ナチズム支配の暗い時代という背景のなかで、イリュージョンであっても自由や権利というフィクションを真剣に共有することの重要性を説いた言葉として、丸山はこれを大事にしていた。もしも正義の追究をいっさい放棄してしまえば、人間は他者と欲望をぶつけあう泥沼に陥ってしまう。そういう意識もあったでしょう。

苅部 (略)座談会「夜店と本店と――丸山眞男氏に聞く」(一九九五年)では、ソ連社会主義が崩壊したのち、むしろ「いよいよ本当の社会主義を擁護する時代になった」と語っていますね。そしてマルクス主義以外の、一九二〇年代英国の多元的国家論からつながってくる系譜に注意を向けている。そうした意味で社会主義への共感は最後まで持ち続けていましたから、分配の正義にまったく興味を持たなかったことはないでしょう。国家が一元的に財を分配するというかたちではなく、企業や労働組合NPO、いろいろな社会集団の活動が交錯するなかで、全体として財の分配が公正になるというのがいい。そんな具合に考えていたのではないでしょうか。
 しかし、終戦直後ではこの路線で労働組合に期待をかけていたのが、一九七九年の学生たちとの対話「日本思想史における「古層」の問題」では、「会社一家」の集団主義をきびしく批判しています。高度成長のもとで、労働組合運動もまた「会社一家」の共同性のうちに融解してしまったと見ていたのでしょう。

近代市民の哀悼劇 丸山眞男と決断の帰趨 金杭

[カール・シュミットは]ヨーロッパ公法を担ってきた偉大な法学者の末裔としての自負心を失わないよう細心の注意を払いながら、主権国家同士の紳士的な相互承認の秩序を米ソの普遍的な覇権争いがとって代わろうとする時代の趨勢のただなかで、沈黙することのみが法学者の唯一の定めたることを甘受したのだ。
(略)
 もちろん『大地のノモス』という大作においてシュミットは未練を捨てきれず地球規模の新たな法秩序の出現を予感し待望している。しかしその見込みは薄れて行くばかりで、「取得」を根源とするノモスの秩序は米ソの普遍主義においてついに薄命を余儀なくされた。(略)
こうした状況のなか、シュミットはもはや法秩序の来歴や存立を証し立てる法学者としての使命を放棄するだけでなく、己があれほど説破してやまなかったヨーロッパ公法の核心的な概念である主権へと懐疑のまなざしを向ける。例外状態を決定する主権者とは、実は、根源的に存立不可能なものだったのではないか、と。
 シュミットがそのような疑いを「権力の前室」という表象を通じて提示したのは周知のとおりである。(略)
主権者の決定はすべてその前室を占めている官僚や幕僚や側近たちによってなされる。
(略)
 しかしこれは権力がつねに奸臣どもに侵食されるという凡庸な教訓などではない。
(略)
むしろ彼の疑いが持つ重みは、主権者の決定という概念そのものが真の権力状況を隠蔽してしまったという事実を悔恨に満ちて認めたところにある。
(略)
 ならばあの誇り高きヨーロッパ公法最後の嫡男シュミットをそのような侮蔑的な自己懐疑へと導いた真の権力状況とは何か?それは権力行使に内在する根源的な正当化不可能性である。つまり、すべての権力状況はいかなる根拠もなしにそのつど創り出される、というのだ。ベンヤミンの決断できない君主、アガンベンの描き出すオイコノミア神学、アーレントが見る近代の権威逸失、そしてフーコーの主権を欠いた統治のテクノロジーなどが、すべてこのようなシュミットの自己懐疑と共鳴する思惟だということはすでに指摘されたとおりだが(大竹弘二『正戦と内戦』以文社)、このリストに一人の名前を付け加えることがあながち不当なことでないだろう。その名前とは、他でもない、丸山眞男である。
 丸山がシュミットの多大な影響のもとにあったというのはよく知られた事実である。
(略)
 丸山は決断を説明する際によく殺人の例を挙げる。人間が人を殺すと決断するときには、全くの無から行動を起こすというのだ。それが過去から積み重ねられた憎悪であれ、瞬間的な衝動であれ、殺人という行為は絶対にその根拠を特定することができない、というのが丸山の議論であり、彼は行動原理としての決断をそのような殺人になぞらえて理解する。
 こう言うとき丸山は法規範と法実践に内在するある空白を捉えている。近代法は起こった事件を対象にして人間の行為に判断を下し処罰を言い渡す。少なくとも法規範のレヴェルではそうである。或る人物を殺そうと思ってもその人を法的に裁くことはできないのだ,しかし法実践の領誠になると事情は変わる。裁判にかけられた殺人犯は、殺人という行為というよりは、役人に至った動機を探られ、それによって処罰されるからだ。つまり行為が行われ法実践の領域に入り込むやいなや、法規範が関知しえない内面の動機が前面にせり出してくるのである。
 丸山の決断も同じような境遇に立たされる。丸山は決断へと至る認識と決断に根ざす行動を時系列的に順列させるが、実際の時系列は逆列になる。つねに人は決断の結果によって過去の認識や内面を判断されるからだ。
(略)
これがシュミットの言う真の権力状況たることは言うまでもない。というのも、決断を構成する認識と行動がつねに逆列にあるとすれば、決断はあらかじめいつも誰かに裁かれる運命のもとにあり、そのとき決断は決して決断として何かを創り出すことはできないからである。つまり丸山の決断は、シュミットの君主的な独裁の決断を民主主義の基礎たる近代市民の決断に逆立ちさせはしたが、決断そのものに内在する根源的な不可能性をついに克服することはなかったのだ。

丸山眞男藤田省三 認識するということの意味 趙星銀

丸山は一九七九年、こうしたマルクスの認識的方法から受けた衝撃について、こう述べたことがある。
どうしてマルクスは資本制社会の解剖にあんなに情熱を捧げたか。それはヘーゲルの命題を裏返しにしたんだ、というわけです。哲学はいつもある時代が終焉に近づいたころ、遅れて登場して、その時代を把握する。“ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ”という有名なヘーゲルの比喩がそれです。(略)つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをヒックリかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体その時代が終焉に近づいている兆候を示す。こういう読み方なんです。そこにデモーニッシュなマルクスのエネルギーが生まれてくる。資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの兆候なんです。そういう「読みかえ」ですね。私は、それをカール・シュミットの『現代議会主義の精神史的地位』から戦前に教えられて、目からウロコが落ちる思いがしました。
(略)
 ここで丸山が引いているシュミットのマルクス解釈の議論は、『現代議会主義の精神史的地位』の以下の節分に該当する。
正しい認識は、発展の新たな段階が始まったということの標徴である。そうではなくて、現実に新しい時代が目前に迫っていない場合には、従来の時代、すなわちブルジョアジーを正しく認識することはできない。反対に、それが正しく認識されるということは、その時代がすでに終わりを告げていることの証拠である。ヘーゲル主義的な、したがってまたマルクス主義的な確実性の自己保証は、こうした循環の中に成り立っている。
(略)
 丸山が『現代議会主義の精神史的考察』に初めて言及したのは、一九三九年『両洋事情研究会会報』にシュミットの「国家・運動・民族」の抄訳を載せた際に付した「はしがき」においてである。

この事態の政治学的問題点 丸山眞男(1960年発表)

 それにしても、日本の国会の多数決主義は、国会内だけをとっても、現実に民主的な機能を果たしている程度がきわめて低いことは残念です。ここ数年来の政治は、これを実際にみれば、多数党による、ほとんど独裁的な政策決定の連続です。政府から国会に提出されるあらゆる重要な法案は、最初からほとんど運命を決定されております。(略)
論議をつくした後の多数だから仕方がない」といいますが、実は論議をつくさない前から、最後の採決の結果というものがわかっている。こういう状態では、どうしても野党は審議引き延ばしとか議事妨害とか、各国で合法的に許されている抵抗手段を用いるだけでなく、それを越えた実力で阻止しようということになってきます。
(略)
 しかしかりにその問題をいまカッコに入れても、もし審議過程自体が、もし真面目で実質的なものであるならば、そこでは、なおさきほど申した第二の機能、つまり教育的機能は果されるわけです。たとえ最後の結果は決まっていても、野党の提出する疑問点に対して政府側が真面目に答え、自らの主張を積極的に述べるということが行なわれるならば、それが国民に伝えられて、争点の所在あるいは問題のもついろいろな側面が明らかになり、それらが国民の判断の素材になります。従ってそのかぎりでは、まだ議会の政治的機能は生きているといえるわけです。
 ところが先ほど述べたような「院内主義」がここに働くと、国民の監視の下での討論という意味が薄れますから、当然政府・与党側は、ともかく結論が決まっているから、なんとかかんとかいいのがれて審議を早く切り抜けるということだけが主たる関心事になってしまう。野党もまた、決まっている敗北を少しでものばすために、揚げ足取り的な質問もいとわないということになります。
 こんどの安保新条約の審議をみますと、少なくとも野党の提出しているきわめて重要な問題点について、政府はたびたびその場のがれの答弁、あるいは三百代言的な答弁をしている。つまり採決の結果が最初からわかっているということ、審議過程がほとんど採決に影響しないという問題、これはそれ自体非常に遺憾なことですが、かりにそれを度外視しても、それならそれで、なおさら審議だけはせめて充実させて疑問点をあくまで積極的に国民の前に明らかにして行くこと、せめて教育機能なりとも議会の政治的機能として維持していくということが、政府に課せられた最小限の責任ではないかと思う。
 ところがそうでなく、いいのがれのあげくが、突如として開会されたかどうかもはっきりしないような状態で安保特別委員会の審議打ち切りと採決を行ない、ほとんど間髪をいれず、本会議を一方的に開いて、強行採決するというようなことでは、どう考えても国会内でガバメント・バイ・ディスカッションの実態を見出すことはできません。
(略)
もう一つは声なき声の問題とも関連しますが、消極的な黙従による支配、これが明治以来の政治体制の基本的な機能様式、機能の仕方だったと思う。それに対して、この戦後の転換がどれだけの犠牲を払ってかち得られたかを何度でも思いかえす必要があります。
 戦前においても民主的でない制度の下で、ある程度民主的な政治の運営が行なわれた時代があった。たとえばいわゆる大正デモクラシーといわれる時代は、帝国憲法の限界内で、いろいろな制約をもちながらも、議会政治に比較的近い政治の現実の運営が行なわれた時代でした。それを戦前の体制の一方の極とすると、他方の極は戦時中の翼賛議会である。
(略)
 ところで戦後の日本は、非常な犠牲を払って、再びこの蹉跌を踏まないということを決意して、徹底した民主的な議会主義政治を確立しました。それは日本の憲法の前文に示されている。しかしここで述べるまでもなく、戦後日本の政治過程は、とくに朝鮮戦争から以後の政治過程は、国会の審議と採決のレベルだけをとってみても日本の憲法の採用する議会政治からの乖離がますますはなはだしくなってきた過程である。
(略)
 こんどの強行採決も、そういうふうに考えてみると、議会政治乖離のいわば結晶と思われる。(略)
あのような事態を私たちが既成事実として認めると(略)
どうみても今日の日本の議会主義は非常な絶壁に立っているという感を禁ずることができません。
(略)
議会政治が現実に機能しているということを、政府が自らの行為によって証明し得るただ一つの方途は、国会を直ちに解散し、二十日の強行採決を白紙に還元する以外にないと思います。

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