“解放”の果てに――個人の変容と近代の行方

マルクスは神であり、フォードはその預言者である」

 アレクサンドル・コジェーヴは、アラン・ブルームにより「二十世紀最大のマルクス主義者」と評されたが(略)きわめて特異なマルクス主義者であったことは間違いない。一般に彼の名が知られるようになったのは、「歴史の終わり」という彼の主張を(略)ブルームの弟子フランシス・フクヤマが取り上げ、論争を巻き起こしたことによる。(略)
フランス思想界にはじめて本格的に――とはいえ、きわめて特異な視点から――ヘーゲル哲学を導入したことによって大きな影響を与えた(略)
生前刊行した著作は、フクヤマも典拠にした『ヘーゲル読解入門』だけである。
(略)
 コジェーヴのフォード主義概念は、一九五七年にデュッセルドルフで行なわれた講演のなかで呈示されている。この講演は二十年あまり後にようやく雑誌に発表されたのだが、その内容は雑誌編集部が付けた副題「マルクスは神であり、フォードはその預言者である」から想像されるように、何とも人を食ったものである。彼は何と、デトロイトの自動車王ヘンリー・フォードこそ、二十世紀に登場したただ一人の偉大なマルクス主義者であり、マルクスが夢見た共産主義社会をその経営政策を通じて実現した人物にほかならないというのである。マルクスが、共産主義革命は最も発達した資本主義国で起こるはずだと考えていたことからすれば、アメリカが共産主義化の先陣を切るというのは、ある意味では理にかなった見方であろう。しかし、マルクスにとって共産主義革命と不可分であったはずの階級闘争プロレタリアート独裁はどこにいったのだろうか。それに(略)どうして資本家が社会革命の主体であり得るのか。(略)
これに対し、コジェーヴは落ち着き払って次のように答える。(略)
マルクスの資本主義把捉はただ一点を除けば、根本的に正しかった。この一点というのは、資本家がいつまでも行動様式を変えないと彼が想定した点である。もしも資本家が、マルクスの想定した通り、独占的に取得する剰余価値の大部分をいつまでも再投資に振り向け続けていたならば(略)社会革命が起こっていただろう。しかし実際には、マルクスの想定に反して、資本家たちは「反理性的」な行動をいつまでもとり続けたりはしなかった。(略)
資本家たちは、まさにマルクスが見たこと語ったことを、結局自分たち自身の眼で見るようになった(略)大量生産段階に到達した、高度に産業化した資本主義は、人民大衆の所得や購買力、さらには生活水準の漸進的上昇を可能にしているだけでなく、絶対に必要としているということを。
 こうしてフォードを「偉大なイデオローグ」とする資本家たちが、意図せぬまま、マルクスの資本主義観を身につけ、マルクスの理論に完全に合致する行動をして資本主義を変革してしまったために、社会革命は無用のもの、達成済みの課題となったのである。共産主義社会はすでに、フォード主義的資本主義として、すなわち大量生産・大量消費体制として、先進資本主義国で実現しているというのが、コジェーヴの結論となる。
 それではロシア革命や中国革命というのは一体なんだったのだろうか。この問に対しても、彼の答えは明快である。
(略)
 要するに、共産主義の最終段階はすでにアメリカ合衆国において実現されている。だから、これからの歴史は、このモデルの世界への拡散、すなわち世界のアメリカ化という、ある意味自動的な過程にすぎない。

『世界の魔術からの解放』

原始宗教社会が徹底的に他律的な社会であることは明らかである。なぜなら、そこでは社会を支配する権威が社会に対して完全に外的であるとされているからである。法と社会とはまったく切り離されている。法は社会、すなわち人間界とまったく別の、人間には近づくことのできない秩序に属する。それゆえ何人であれ、法を変えることはできない。変えようにも、触れることすらできないのだから、どうしようもないのである。
(略)
こうして徹底的に他律的な原始宗教社会には、「規則の不可侵」、「基礎の外部性」、それに「集団の一体性」という三つの特徴が備わることになる。
 しかし、この社会の何よりも大きな特徴は「魔法にかけられている」ところにあると、マルセル・ゴーシェはいう。(略)
 『世界の魔術からの解放』におけるゴーシェの中心的主張は、原始宗教社会におけるこうした他律的な状況から自律への転換の可能性がキリスト教によってもたらされたというものであるが、これはきわめて論争的な主張である。というのも、人間が自分自身の意志にもとづいて社会秩序を選び権力を樹立するという自律性は、キリスト教に対する長く困難な闘争の果てにようやく獲得されたものであるというのが、ヨーロッパ政治史の通説的見解だからである。ところがゴーシェによれば、キリスト教精神と近代精神との間に根本的な対立はない。近代ヨーロッパにおいて宗教批判が宗教界内部で発展することが可能であったのは、キリスト教自身のうちに宗教批判の可能性が含まれていたためである。たとえば、ヴォルテールは確かに徹底的な反聖職者主義者であった。しかし、それでもやはり彼はキリスト教世界の人間であり、彼のような宗教批判はキリスト教世界自体の進化によって可能になったのだというのである。ここで進化が問題とされているように、ゴーシェにおいては、他律から自律への転換は革命的断絶によって一挙に起こるようなものではなく、キリスト教の歴史的展開とともに漸進的に進行する長い移行過程のなかで実現してくるものだと考えられている。
(略)
 すでに見たように、原始宗教における神々と人間との間には奇妙にねじれた疎隔と接近の関係があった。神々は人間が生きる世界に偏在するとされる一方で、神々が起源において一挙に定めた法は、無限の過去に属するがゆえに、決して人間の手による改変を受けることのないものだとされていた。
(略)
こうして新たな難問が人間に突きつけられることになった。人間はいまや、自分たちはなぜ、神が姿を消してしまったこの世界で生きているのか、という問いに対する答えの理解が自分たち自身に委ねられた世界に生きているのである。なぜ神は、神の存在がはっきりとは見えないような世界を創造したのか。神の意図は何だったのか。世界の意味はもはや神々によって打ち明けられることはなく、人間自身が構築すべきものとなったのである。人間が生きているのは、今では「魔法にかけられた」世界ではなく、解釈すべき世界なのである。
(略)
原始宗教の支配する他律的社会は、神々の世界との対立において自己定義をしていた。社会もそこに生きる人間も、神々によって法を与えられ、役割も行動も指定され、生の意味も与えられていた。しかしキリスト教について上で見たように、人間世界にひとたび自律性が引き入れられると、人間はたちまち標識を失い方向感覚をなくし、さまよいはじめることになる。
 ゴーシェによれば、キリスト教によって他者性が絶対的に人間から隔絶されたものであることを止めて以来、他者性を表わすもの、体現するものは人間世界の内部へ引きこまれた。それは王や国家、国民など次々とさまざまなかたちをとった後、ついに十九世紀と二十世紀の交わりあたりには、無意識という、われわれ自身の内なる他者として個人の内部にもちこまれることになった。このように他者性の化身が次々と変化し、ついには自己の内部に引きこまれるに至ったということは、次のような民主主義の本質的傾向を表わすものにほかならない。
 「民主主義社会の運動は、人間空間において他者性を表したり体現したりできるすべてのものを分解してゆくという根本的傾向をもつ。」
(略)
ダニ=ロベール・デュフールによれば、主体というフランス語sujetの語源はラテン語subjectusである。subjectusというのは「何々の下にある」という状態を指すことばである。したがって主体という言葉は語源からいえば、「何かに服従している」ことによって主体であるという、われわれ現代人にとっては多少理解しにくい意味構造をもつことばである。
(略)
[では]主体はいったい何の下にあると考えられているのだろうか。他者である。
(略)
人間存在は「何かの下におかれ」ることによって、すなわち神や自然など固有の他者に服従することによって主体として形成されてきたということである。
(略)
いたるところで、主体を服従させるために、すなわち主体それ自体を作り出すために、主体の働き方、話し方、信仰の仕方、考え方、住み方、食べ方、歌い方、死に方など(略)を定めるために、テクストや文法、知の一領域全体が調整された。われわれが教育と名づけているものは、主体を作り出すために、誘導すべきタイプの服従から見て適切な制度として定着させられたものにほかならない。
しかし今やこうした他者はすべて退場し、個人主体は一切の他者から解放されて一人で立っている。
(略)
他者がいなくなったということこそ、ポストモダンと呼ばれるわれわれの時代の本質だからである。(略)周りで大きく口を開けているカオスからわれわれを保護してくれた神々や祖先などの他者はもはやどこにもいない。こうしてポストモダン時代の主体、とりわけ青年たちは、歴史的、世代的な先例に頼ることもできない状況のなか、徒手空拳、ひたすら自力で自己形成をせよという、絶望的に難しい要求を突きつけられているのである。
(略)
個人化メカニズムが完成した今、すべての個人主体は自己である権利を持つだけでなく、「自己であれ」という命令を下されるようになっている。ところが皮肉なことに、自己であることが今ほど難しい時代はないのである。

他者不在を埋める試み

[デュフールは他者不在を埋める試み]にみられる四つの傾向をあげている。第一は仲間の形成である。(略)
第二は他者の代用物の形成であり、セクトがこれにあたる。(略)
第三は、必要の次元に他者を組み込むものであり、薬物中毒を筆頭にさまざまな嗜癖がこれにあたる。(略)
第四は自ら他者になることである。この場合、主体は「万能を表わす記号で身を飾り、魔術的と考えられる力を与えられたと信じることによって、周囲の人間に対する生殺与奪の権を自らに与えることになる。」
(略)
人間の条件に属すことを科学技術(バイオテクノロジー、IT……)によって組みかえ超え出ようとする科学技術万能主義、テクノロジー崇拝は他者の地位に科学技術をおくことによって、主体の全能感を強化しようとするものにほかならない。
 デュフールは現在のこうした状況のうちに、近代が数世紀かけて形成してきた批判的主体の条件や批判的空間を瞬く間に解体しつくしかねない深刻な危機を見ている。
(略)
近代民主主義は、批判的に思考し自分で自分のしたがうべき掟を定め、それに則って自律的に行動する主体を生み出すはずだった。ところが現実に生まれたのは、その理想とは似ても似つかぬ奇怪な「主体」であった。