私の1960年代 山本義隆の丸山眞男批判

丸山眞男を批判しつつも、「現代日本はデモクラシーが至上命令として教典化される危険が多分に存する。それはやがて恐るべき反動を準備するだろう。」といった主張は評価していると著者。

私の1960年代

私の1960年代

  • 作者:山本 義隆
  • 発売日: 2015/09/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

丸山眞男批判

私は69年1月に逮捕状が出た後、もぐっているときに丸山批判のようなものを書きました。(略)
68年の東大闘争の期間中、丸山眞男が東大当局にたいして何か言うかと思って注目していたのですが、彼は何も言いませんでした。おなじように見ていた人は、少なくなかったと思います。教養学部助教授・折原浩が8月に公表した「東京大学の死と再生を求めて」には書かれています。
 かつて「無責任の体系」を鋭利に分析され、「不作為の行為」について語られた、わたしの最も尊敬する教授がここにいたってなお沈黙を守っておられることは、東京大学の退廃を悲痛に象徴している。
明記されていませんが、この「教授」が丸山眞男を指すことはいわずもがなでしょう。そして丸山眞男が闘争について一度だけ発言したのは、11月の文学部の学部長にたいする無期限団交にたいする「理性の府としての大学にあるまじき行為であるのみならず、なによりもまず争う余地のない人権の蹂躙であります」と振りかぶった仰々しく、しかしかなり粗雑な内容の声明に、「法学部教授」の肩書きをつけてほかの文学部や法学部の何名かと連名で署名したときです。
 「おいおい、学生の人権はどうでもいいのか」と半畳を入れたくなりますが、それはともかく、私はその時、丸山眞男は外に言っていることと学内でやっていることが違うじゃないかというのが一番の印象でした。たとえば、彼が以前に批判した「超国家主義」と言われるかつての大日本帝国の無貴任きわまる支配体制などとまるでおなじようなことが東大でおこなわれているわけですが、それにたいしては、何も言いません。他方で、文学部の学部長追及闘争にたいする彼らの批判は、日本の権力あるいは権力側ジャーナリズムがさまざまな反体制運動を批判してきた論調とまったくおなじであり、それこそこれまで丸山が批判してきたものそのものではないのか、私はそういう形の批判をしたのです。一口で言うと丸山眞男ダブルスタンダードを批判したわけです。
 それからずっと後になって、保釈になって大学に戻ってきたとき、若い学生に言われました。「山本さん、あれではダメです。ああいう批判ではダメです。……丸山眞男のやっていることはあの人物の思想から出てきたと言わなくてはダメです。彼の思想がダメだからしてああいうことしかできないのだと、そういうように根本的に彼の思想そのものを批判しなくてはいけない」というわけです。私は考えました。そういう理屈は大変よくわかるけれども、どっちが丸山眞男を高く買っているだろうかといえば、その学生のほうが高く買っているように思われます。
 つまりその学生は、丸山眞男は思想と行動が一貫した人物と捉えた上で批判しろと言っているわけです。それにたいして私は、ああ丸山先生も東大の中では法学部長との個人的な関係、同僚との関係や大河内一男や文学部の教授との交友関係、そういうのを慮って結局そういうしがらみの中で生きているのだと、はっきりいえば、東大は居心地がいいところなのだな、と思ったのです。いわば、普通の人だということなのです。
 今でもたまに読むと、丸山眞男の永続的市民革命の主張など、いいこと言っていると思います。死後に公表された彼の手記には書かれています。
 デモクラシーが生々した精神原理たるためには、それが絶えず内面から更新され、批判されなければならぬ。デモクラシーがこうした内面性を欠くとき、それはひとつのドグマ、教義として固化する。かくしてそれはファシズムヘの最も峻厳な対立点を喪失する。現代日本はデモクラシーが至上命令として教典化される危険が多分に存する。それはやがて恐るべき反動を準備するだろう。デモクラシーは決して理想乃至善の代名詞ではない。[丸山眞男『自己内対話―3冊のノートから』14-15頁]
(略)
1954年の日記に「日本の支配階級がデモクラシーを許容したのは、最初から革命にたいする安全弁としてであった。だからデモクラシーが革命的である間は日本に土着せず、日本に土着したかぎりにおいてデモクラシーは保守的となった」と書き記した丸山は、安保闘争の直後、1960年8月に語っています。
 社会主義について永久革命を語ることは意味をなさぬ。永久革命はただ民主主義についてのみ語りうる。なぜなら民主主義は人民の支配−多数者の支配という永遠の逆説を内にふくんだ概念だからだ。多数が支配し少数が支配されるのは不自然である(ルソー)からこそ、まさに民主主義は制度としてではなく、プロセスとして永遠の運動としてのみ現実的なのである。[『自己内対話』42、56頁。丸山眞男集第四巻240頁]
 さらに1989年には「民主主義というのは理念と運動と制度の三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、何十年も前にいったことをくりかえすのは気がひけるけれども、“永久革命”なんですね」と、丸山はあらためて認めています。
 率直に言って現在の私は、丸山の民主主義のこの見方にかなり共感を覚えます。
(略)
[機動隊導入直前、丸山が加藤一郎総長代行にあてた明治新聞雑誌文庫保護を要請する手紙を紹介して]
 こういう話を「美談」と読む人もいるでしょうが、しかし、すぐにでも機動隊が私たちに襲いかかろうとしているあの69年1月の時点で、丸山先生は学生よりも古新聞を大切にしていたのかと、嫌味のひとつも言いたくなります。(略)
[ばかもの貴重な歴史資料だぞと言うのであれば]
その「貴重な資料」をひとつの大学のひとつの学部が独占的に所有するようなことをせずに、誰でもがアクセスできるように、国会図書館のような公共図書館に寄贈し、またコピーなりマイクロフィルムに複製して各大学の図書館に配布しておくべきではないのでしょうか。(略)
[在野で30年、科学思想史を研究した際、資料の在り処を探し出しアクセスすることに相当苦労した]
私たちの納めている税金で成り立っているすべての国立大学の蔵書が国民に解放されていて、誰でもが自由に使えるのであればどれほど助かるであろうにと、つくづく思ったものです。(略)
[著者は]1990年の頃に何年もかけて、東大闘争のビラ等の資料全5000点あまりを蒐集し、その「東大闘争にかんする唯一の一次資料」、いまでは掛け値なしに「世界に一部しかないもの」を、誰でもその気になれば閲覧することができるように、ゼロックス・コピーでハードカバー製本、全23巻(別巻5巻)の『東大闘争資料集』として、マイクロフィルム3本とともに国会図書館に収めました。外国の研究者がそれを利用したという話も仄聞しています。そしてさらに、そのマイクロフィルム大原社会問題研究所にも寄贈し、また、まさに世界に一部しかないその数千点の資料原本を、マイクロフィルムとともに、千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館に寄贈しました。もちろんそのためには、相当の労力と時間を費やしましたし、またそれに要した経費は相当の額になりますが、すべて私の自腹です。
 そういったことを考えると、資料を守るために丸山先生が資料室に何日か泊まりこんだという話は、素直に「美談」とは受け取れません。

自己内対話―3冊のノートから

自己内対話―3冊のノートから

廣松渉、ちょっといい話

 廣松さんと知り合ったのは、大管法闘争の処分撤回闘争の過程です。1963年の1月頃、文学部の校舎で私がタテカン(立て看板)を作っているとき、通りかかった大学院生が、タテカンを作るときには釘は少し曲がっているものを使ったほうが抜けにくく、したがって看板が壊れにくいと教えてくれたのです。50年代の活動家という雰囲気をもっていたその人物とは、その後キャンパスでなんどか顔を合わす機会があり、二度ほど雑誌論文の別刷りを手渡されたことがありました。その論文の著者名が門松暁鐘、哲学者・廣松渉の青年時代のペンネームです。廣松さんから釘の打ち方を教わったのは、私ぐらいかもしれません。
 保釈になってしばらくして、なにかの機会に廣松さんにお会いしたときに、山本君、あなたは立場上、今後いつまでも注目され、いろんな人からいろんなことを言われ、大変でしょうけれど、ひとつだけお願いしたいのは、評論家のようなものにはならないでください、というようなことを言われました。(略)後で、廣松さんのあの忠告は、まともに学問をやりなさいという意味ではなかったのかと、考え直しました。私にこんなような忠告をしてくださったのは、廣松さん一人ですが、現在それを非常に有難く思っています。

回想はこんな感じ。

20日の午前零時過ぎ、衆議院で抜き打ち的に会期延長と改定安保条約の自民党単独の強行採決がありました。安保のこのような形の採決は自民党内にも知らされていなかった自民党内岸フラクションの独走、一種のクーデターで、マスコミで「岸の暴挙」と報道された一件です。その日私は、寮の前で西部邁さんが熱烈なというか悲壮な感じのアジ演説をおこなっていたのを聞いています。そしてその日、多くの学生が自発的に国会に向かいました。

安保闘争時のブントの指導部は、国民会議内部での各団体間の姑息な腹の探りあいや主体性のない凭れあいにうんざりしていたのでしょう。そういう意味では、いくつもの党派や小集団が乱立していた1970年代の初めの頃、何人かで深作欣二監督『仁義なき戦い 代理戦争』を見に行ったあと、身につまされるなと語り合ったことを思いだします。そのあとで長崎浩さんに会ったら、やはり見ていたようで「あれは政治学の教科書だ」と言ってました。

60年安保闘争の時に教養学部自治委員会や代議員大会でアジっていたのは、今では哲学者で有名な加藤尚武さんと日本近代史の研究者である坂野潤治さんです。