丸山眞男の敗北 伊東祐吏

丸山眞男の敗北 (講談社選書メチエ)

丸山眞男の敗北 (講談社選書メチエ)

終戦

丸山は、戦争についてある程度正確な見通しを持ち、ソ連の参戦や、終戦後に事態収拾のため皇室関係者が総理となることなどを的中させて上司や同僚を驚かせたが、内地で血みどろの決戦になることは必至と考えていた。(略)
 最後のひとつは、母親の死である。母セイは八月十五日に亡くなり、その知らせは十七日に広島の丸山のもとへと届いた。母の死を知った丸山は、船舶司令部内の武道場に隠れ、転げまわって泣いたという。丸山には、「何のための戦争終結か」とのやるせない思いが沸々とこみあげてくるのであった。病床にあった母セイは、死の二週間前から、生きのびられる可能性のある家族のためにとすべての食事をゆずっており
(略)
 八月十五日の「終戦」以後、知識人としての丸山に与えられた最初の仕事は、ある参謀(陸軍少佐)への“講義”であった。
 終戦翌日の八月十六日、丸山一等兵は突如この参謀の部屋に呼び出され、次のように命じられる。「これから約一週間、君に満州事変以来のわが国の政治史のあらましを毎日話してもらいたい。その間、君に一切の“使役”を免じる。また言論の自由も保証する。軍閥という言葉を用いても差支ない」。
 この奇妙な“講義”において、参謀が思いつめたような表情で尋ねたのは、日本が民主主義になると君主制はなくなるのではないか、という心配であった(ちなみに、当時は「天皇制」という言い方は一般的でなく、「君主制」と呼ばれていた)。これに対して丸山は、君主制は共和制と対立する概念で、政治形態を民主主義的なものに変えることは、必ずしも天皇をどうしようということじゃないから安心してほしい、と答える。
 これはもちろん参謀に媚びての言葉ではない。当時の丸山は本当にそう思っていたのである。それに、イギリスの立憲君主制などを見れば、たしかにそう言える。国家主義的な動向と戦い続け、終戦の直前にポツダム宣言の全文を新聞で読んだときには、「基本的人権」という言葉に体の中がジーンと熱くなるほど感激したという丸山だが、その一方で天皇裕仁や近代天皇制への思い入れは深く、天皇制を廃するなどということは毛頭考えていなかった。このときはまだ、丸山における思想的革命は始まっていない。

“戦後の丸山眞男

君主政は共和政に対する概念で、民主政は独裁政に関する概念だから、両者矛盾せずなどといふのは形式論にすぎぬ。また我が皇室が原則として民意に基く政治を行って来たといふことも、最近十年間の歪曲を防ぐ力が皇室になかった事を顧れば、決して将来への楽観的素材となりえない。むしろ明治以後国体論はつねに藩閥軍閥、官僚其他封建的=半封建的勢力の依つて以て「下からの」力の擡頭を抑圧する有効な武器であった。民主政が民のための政治たるよりも、民による政治を必須要件とする以上、天皇が大権の下に政治的決断を最後的に決定するのでは――よしそれが今度の終戦の場合のごとく結果的に国民の福祉になった場合でも――如何にしても民主制の根本原則に反する。
このメモからは、天皇制のとらえ方が終戦直後の参謀への“講義”の段階から、明らかに脱皮をはじめている様が見てとれる。(略)
終戦直後には解き放たれたような自由を感じていた丸山だが、復員後には「猫もしゃくしも民主革命といってワアワアいう気分」に反感をもちはじめるようになる。当時の丸山のノートには、「雷同的、貝殻投票的デモクラシー」、「現代日本はデモクラシーが至上命令として教典化される危険が多分に存する」といった言葉が書きつけられている(『自己内対話』)。(略)
[復員後最初の講義の草稿冒頭]
 われわれは今日、外国によって「自由」をあてがわれた。(略)[自らの事柄を自らの精神を以て決する真の自由を獲得すべく]血みどろの努力を続けなければならないのである。
 丸山が問題視するのは、自由がいわば「配給された自由」であるという点にある。「配給された自由」とは、河上徹太郎が国民の自由の受けとり方を風刺した言葉であるが、丸山は河上との問題意識の共通性よりも、戦争中に羽振りのよかった河上が何の断りもなく現れ、左翼に批判されたお返しにこう述べたことに、激しい憎悪を抱いていた。このことは、丸山にさらなる思索を課したと考えられる。
 また、同時にそこで生じた気負いは、丸山が自身を「復古的」と評するような、戦前との一貫性を強調する態度となってあらわれた。
(略)
しかし丸山は、まだ完全に“戦後の丸山眞男”となるには至っていない。“戦後の丸山眞男”は、翌1946年のあるときに痛棒をくらわされ、それによって誕生する。(略)
政府が発表した憲法改正草案要綱である。(略)
 新憲法案に人々は驚いた。人々を驚かせたのは、何よりも第一条の国民主権である。この時期に国民主権を主張していたのは共産党だけで、国家に主権があるとする国家法人説の考えが大多数であった。当時、国民主権という考え方は、それほどまでに急進的なものだったのである。しかも、保守的かつ反動的と評される幣原内閣がその国民主権を発表したため、驚きはなおさらであった。(略)
 丸山が政府草案の発表で思い知らされたのは、端的に言えば、「終戦」を機とした自己変革の甘さであっただろう。そして、憲法研究委員会において丸山はひとつの説を提出するとともに、さらなる自己変革を経験していると私は考える。その説とは、「八月革命説」である。(略)
 このとき国家の根本原理の変革、生まれ変わりを発見した丸山は、自身の精神においても実は変革され、生まれ変わっていなければならないことに気づかされたに違いない。こうして丸山の「八月革命説」の発見は、丸山自身の革命をも促し、丸山は生まれ変わりを果たしたと私は考える。
(略)
この時期、丸山はしばしば静岡県の三島に通い、一般の人々を対象として主に民主主義をテーマとした講義を行なう活動をしていた。「庶民大学三島教室」が、それである。(略)
 境内の畳の部屋で、丸山ら講師たちは近所の人々と頭をつきあわせて民主主義について語り合った。丸山によれば、そのときの民衆の真剣な態度はほとんど想像を絶するもので、ものすごく熱心に話を聞き、吸い取り紙がインクを吸い取るように知識を吸収したという。参加者たちは決して知ったかぶりをせず、分からないことは分からないとはっきり言う。そういう雰囲気のなかで、丸山はまるで明治維新追体験しているように感じた。これらの経験を通じて、のちに丸山は、飽食の時代に空洞化した戦後民主主義に対し、生活難に直面しつつ極めて真剣に民主主義的な世の中を作ろうとしていたこの時期の「飢餓デモクラシー」を、戦後民主主義の原点とするのである。

レッドパージ

[朝鮮戦争勃発GHQがレッドパージを開始。丸山もその対象になるとの予測が]
 そこで丸山は、「ある自由主義者への手紙」という激烈な文章を書く。(略)
 ――君は、現代の全体主義たる共産主義と戦うべきだと言う。そうした態度を決然と示すべきだと言う。確かにいま、知識人は思想的立場を明らかにすべきだろう。
 私の考えを述べれば、日本の民主主義は権威をもって臨むボス的支配によって内部から腐食されており、そこではイデオロギーとして掲げた「自由主義」や「民主主義」の看板と実際の行動にギャップが生じている。そのことをリアルに認識することなくして、政治的状況の真の判断はできない。私は、強靭に民主化を阻む権威関係を破壊し、大衆の自発的能動性を解放するため、政治的状況をリアルに認識し、近代化を進める方向にそのつど賛成していく行動をとる。現在においては、エセ民主主義による抑圧を危険と判断する。
(略)
眼前にある事態を、日本国内レベルで論じたものが「ある自由主義者への手紙」、世界レベルで論じたものが「三たび平和について」である。(略)
 この声明の第一章で丸山は、核の時代となった今、戦争は手段としての意味を失っており、戦争反対の理想主義的立場こそがむしろ現実的である、と主張する。これは「平和共存なんて言うのはナンセンスだ」という当時の風潮に対し、「いかに思考するかが現実を動かすのだ」と反論するものである。
(略)
丸山はこの中立論を、「おれは中立だ。ほかの国はしたければ勝手に戦争をしろ」というスイスの中立論とは違い、戦争を避けるために働きかける「積極的な中立論」として用意した

ファシズム

 この論文で、丸山はファシズムを、20世紀における反文明的なもののもっとも尖鋭で戦闘的な形態であると断ずる。ファシズムは社会体制などではなく、単に異質分子を排除せんとする無限運動なのである。よって、近代憲法や議会制があるからといって、ファシズム的な支配がないとは言えない。ファシズムは、単に客観的事実の問題ではなく、意識の次元の問題なのである。また、ファシズムは、恐怖の子であるとともにその生みの親でもあり、特に同質的な社会ほど異質な要素に過敏に反応するという。
 丸山はこのようにファシズムの本質を抽出する一方で、ファシズムの発生についても分析を加えている。丸山によれば、ファシズム民主化のテンポや強弱に応じて発展するもので、民主的な社会ほどファシズムも大衆的な組織化を迫られて「下から」発展し、反対に民主的でない社会では「上から」のファシズムが進行する。ただし、戦争の危機が切迫している場合は、常に「上から」のファシズムが急激に進行する。

結核での療養所体験

厚生省の「入退院基準」の発表が、広く療養所の患者の不安を呼び、中野療養所からも比較的軽症の患者が座り込みに加わった。丸山はこのとき、患者たちから自然発生的に運動が生まれるのを見て、「歴史などには、政党などの外部団体による、上から、もしくは外からの指令なしに、自然発生的に起こった大衆運動の例がよく出て来るが、このときの『事件』は私には右のような例についての一つの小さな『実験』を見る思いがした」と述べている。

「日本の思想」(1957年)

 日本における新しもの好きと、突然の「伝統」復帰(維新のときの廃仏毀釈、明治十四年前後の儒教復活、昭和の天皇機関説問題など)という両極端な傾向は、いずれも思想の機軸がないことによる。そのため日本では、思想を新旧で評価して「時代遅れだ」とする陳腐な批判がはびこる。また、西欧の哲学や思想を、構造としてではなく、使い勝手がいいように部品として移入する。この思想的雑居性、無限抱擁性が、日本の思想的「伝統」である。よって、この「伝統」にとって異質なのは、キリスト教マルクス主義のように、雑居を原理的に認めないものである。これに対して日本の「伝統」は、「それはウソだ。現実の隠蔽だ」と非難して退ける、いわゆるイデオロギー暴露の姿勢をとった。
 こうした無限抱擁性の「伝統」を継承しているのが、他ならぬ「国体」である。明治日本は、近代国家をつくるにあたり、皇室を精神的機軸として設定した。「国体」は、内外の敵とは厳しく対立するが、「国体」自体がいかなるものかを定義したり、論理化したりすることは頑として避けるという性質がある。(略)
責任の帰属を明確にしない明治国家の政治構造は、機軸をもたない日本の思想的「伝統」の反映である。近世ヨーロッパ社会では、国家と教会の闘争のなかで、制度(フィクション)と現実とのギャップと緊張が自覚されながら、不断に制度をつくり、権力の正統性の根拠を問う主体意識が養われた。しかし、日本では主体意識がなく、制度と現実が癒着する。そのなかで日本の「近代化」は、「前近代性」を温存、利用しながらおこなわれたのである。
 そして、日本における思想の機軸の欠如は、「理論信仰」と「実感信仰」と言うべき、「制度の物神化」と「心情への没入」を招く。しかし、そこから脱出することは不可能ではない。このことが自覚されるとき、私たちはこの病弊から自由になるのだ。
 今こそわれわれは、思想的混迷を変革し、思想的雑居性を「雑種」にまで高めるために、強靭な自己制御力を持った主体を生み出すべきである。

留置場体験、思想弾圧

丸山の友人が逮捕されたのは、たまたま一高の学生寮で左翼思想をもった人物と同室だったためで、その部屋の四人がまとめて検挙されていた。丸山はクラスでカンパを募り、彼のために生活用品を買って警察に差し入れに行ったが、特高からは「こんなことをやっているとお前もいまに捕まるぞ」と冗談半分に忠告されたという。一方、思いもよらぬ出来事に大変なショックを受けた丸山の友人は、それがもとで精神を病み、まもなく亡くなった。
(略)
丸山にとって高校時代最大の事件は、唯物論研究会の創立記念講演会に出席して逮捕されたことであった。(略)長谷川如是閑大正デモクラシー期の代表的な論客で、丸山の父であるジャーナリスト丸山幹治の盟友であり、丸山にとってはほとんど無意識的に物の見方をおそわった先生のような存在である。
 そうした新聞記者の家庭に育ち、思想的にませていた丸山は、それほど勉強していないにもかかわらず、「オレは思想問題なんぞからは卒業したのだ」という傲岸な気持ちがあったという。そのため、左翼運動に熱中していくクラスメイトたちに共感はしても、自分は決してかかわらなかった。しかし、だからこそ油断があったのか、ある日ふと唯研のビラが目に留まり、「あっ、如是閑さんだ」とひょっこり唯研の講演会に出かけてしまう。(略)
如是閑が開会の言葉をしゃべりはじめた直後、署長が立ち上がって剣をドンと床に突き、「弁士中止!」と一声を発し、講演会の解散を命じた。するとあちこちから警官があらわれ(略)本富士署へと連行されてしまう。
 署での取り調べは、衝撃の連続であった。まず、丸山は特高に「如是閑なんていう奴は、戦争が始まったら一番に殺される人間だ」と言われ、如是閑が小林多喜二のように虐殺されうることをリアルに感じ、大きなショックを受けた。また、押収された手帳に書き記していた「果して日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」というメモが、天皇制を否定するものだと指摘され、目玉が飛び出るほどブン殴られた。これは、ドストエフスキーの「私の信仰は懐疑のるつぼの中で鍛えられた」という言葉を連想したもので、当時の丸山には天皇制を否認する考えなど毛頭なく、特高の指摘は意外であり心外だったという。
 取り調べが済むと、丸山は留置場へと連れていかれる。四畳半ほどの留置場は、スリ、泥棒、不良少年、何も語らない朝鮮人など、何十人もの“先客”でスシ詰め状態である。そして、そのなかには、一高の一学年先輩にあたる戸谷敏之がいた。(略)
丸山は「思想犯の絡印を押された自分は一体どうなるのか」という強烈な不安に襲われ、知らぬ間に涙がこぼれていた。これに気づいて「大丈夫か?」とサインを送る戸谷に、「大丈夫だ」とサインを送り返すも、丸山の胸中には絶望的な気持ちが渦巻いていたのである。
 だが、幸いなことに、丸山の心配は杞憂に終わる。本物の思想犯であった戸谷が長く勾留され、学校から重い処分を受けたのに対し、証拠が出ない丸山はまもなく釈放され、学校からの処分も受けずに済んだ。ただし、証拠はなくとも、今後何をしでかすか分からないため、丸山は特高からしつこくマークされ続けることになる。
(略)
[入学後]丸山はすぐに大学内の雰囲気が一変していることに気づいた。一年前の滝川事件のときには、学生たちが熱心に反対集会を開いたというが、いまはそういう気配すらない。すでに世の中の右傾化は、加速度的にすすんでいたのである。象徴的なのは、リベラルな憲法学者として知られる美濃部達吉の退官であろう。(略)大学一年のときには美濃部の天皇機関説問題が起こり、二年生のときには「帝大法学部はアカの巣窟だ」として右翼団体が学内に押しかけ(略)翌年の二・二六事件の際には、軍部や右翼ににらまれた法学部や経済学部に軍隊が押しかけるらしい、という噂におびえた。
(略)
[二度の応招。入隊後すぐ病気となり送還、所属部隊はのちにフィリピン戦線で壊滅。二度目の任地広島で原爆投下。建物に守られなんとか助かる]
[留置場で一緒になった戸谷敏之は]東京府立第一中学校を首席で卒業して一高に進んだ正真正銘の秀才である。しかし、このときの思想問題で卒業取り消し処分を受け、すでに合格していた東大の経済学部への入学の道は閉ざされた。そこで戸谷は、法政大学の予科を経て大学に進学し、卒業後は渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)でさらに研究を進める。大学時代には指導教官の大塚久雄と互角にわたりあい、アチックでも八面六臂の活躍を見せた。だが(略)フィリピンの山岳地帯で無念の戦死を遂げた。大塚久雄は彼の復員を信じて、東大にポストを空けて待っていたという。大日本帝国によって人生を大きく狂わされた戸谷は、まさに典型的な悲運の天才と言えよう。
 また当時、戸谷とともに二大秀才と言われ、一高時代にすでにマルクス資本論』をドイツ語で読破したとの逸話をもつ平沢道雄も、フィリピンのレイテ島で戦死した。(略)丸山は「資本論」の分からないところはすべて年下の平沢に聞きにいったという。だが、彼もまた思想問題で大学から停学処分を受けており、そのせいで研究室に残ることが叶わず、(略)日本銀行に就職したのちも、大学時代の処分を再び咎められてクビになるなど、国家体制と思想問題に人生を翻弄された秀才のひとりである。(略)
つまり、丸山が学問をはじめる段階においてすでに、その傍らには犠牲となった仲間や悲運の死者の存在があったのである。