JAZZ TALK JAZZ 小川隆夫

JAZZ TALK JAZZ

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ディジー・ガレスピー証言

「わたしがビバップを作ったって?そう言われるのは嬉しいけど、仲間たちと《ああでもない、こうでもない》と言いながら、いつの間にかスタイルを形作っていったのが実情だ。チャーリー・クリスチャンのアイディアでもないし、セロニアス・モンクのアイディアでもない。強いてあげるなら、ケニー・クラークがリズム・パターンに大きな影響を与えたから、彼が一番重要な人物かもしれない」

チャーリー・パーカー

 チャーリー・パーカーのことをたいていのひとは何の疑問も持たずに天才だと言う。(略)ボツになったテイクまでパーカーの演奏は素晴らしい。
 ところが、だからと言って、ジャズをほとんど聴いたことがないひとや初心者までがパーカーのことをべた褒めするのはどうなのだろう?自分のことを振り返ってみるなら(略)[最初は]何がなんだかさっぱりわからなかった。(略)
あのマイルス・デイヴィスでさえ、最初はパーカーのプレイがちんぷんかんぷんだったと言っている。
 「バードやディジーのやっていることがほとんど理解できなかった。おれのやっていた音楽とはコンセプトが全然違っていたし、理解しないうちに本番が始まった。スイング・ジャズとはまったく違う。連中が新しいことを試みているのは理解できた。それで自分も見様見真似でやってみたんだが、それまでのプレイとは基本から違っていて、どう演奏すればいいのかわからなかった」[44年、マイルス18歳]
(略)
 ぼくがパーカーの演奏を心から楽しめるようになったのは、メロディの独自性や個性的なアクセントの置き方、そしてスリリングなフレーズの展開がわかるようになってからだ。(略)三〜四年はかかっただろうか。(略)
[『チャーリー・パーカーの真髄/バード&ディズ』『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』]
どちらもビバップが頂点に達したあとの五〇年に録音された作品だ。全盛期の演奏を聴きたければ、四〇年代中盤から後半にかけて残されたサヴォイやダイアルのレコーディングがお奨めだが、パーカーの至芸に触れたいならこちらの二枚が最適である。
 パーカーの特徴は、半テンポくらい先乗りして音を出すところにある。この先乗りフレーズを畳み掛けることによって、演奏は躍動感が増す。(略)こちらはパーカーのフレーズに追いつこうとするから、いつの間にか一所懸命に耳を傾ける。だから彼のプレイを聴くときは、いつも知らず知らずのうちに没頭してしまう。こういうことに気がついたのは、これら二枚を溝が磨り減るほど聴いたあとだ。

クール・ジャズ

「マイルスに会ったのは『スリー・デューセズ』かそこいらだった。四七年の夏かな?うだるような熱い夜でね。わたしは発売されたばかりのパーカー・クインテットによる「ドナ・リー」をクロード・ソーンヒル楽団で演奏しようと考えていた。(略)
 がりがりに痩せてはいるが、もうすぐ七一歳の誕生日を迎えるギル・エヴァンスは元気そのものだった。(略)
 「[楽譜を見せてもらおうと会いにいくと]パーカーは、マイルスが作曲者なんだと言って、その場で隣にいた彼を紹介してくれた。わたしが「ドナ・リー」の譜面を貸してほしいと頼むと、すかさず「ロビンズ・ネスト」の譜面を見せてくれと言ってきた。このころから、マイルスは交換条件を持ち出すのがうまかった(笑)。驚いたのは、彼がソーンヒルの音楽を聴いていたことだよ。あの時代、ソーンヒル楽団はダンス・バンドということもあって、一部のひとにしか知られていなかった」
 そうは言っても、ソーンヒル楽団には主任アレンジャーのエヴァンスをはじめ、リー・コニッツジェリー・マリガン、ジョン・カリシ、レッド・ロドニーなど、そうそうたるプレイヤーが参加していた。新しいジャズの動きに敏感だったマイルスが、その演奏に注目していたのは当然だ。
「ドナ・リー」がきっかけになって、マイルスとエヴァンスの交流が始まる。(略)
ジョージ・ラッセル証言]
 「ギルのアパートには小さなアップライト・ピアノが一台あるだけだった。それを囲んで、居合わせた全員がハーモニーの勉強をしたり、アンサンブル・ワークのアイディアを出し合ったりしていた。まるでワークショップの様相だった。ピアノを弾くのはジェリー・マリガンとかジョン・ルイスで、ギルは横にある椅子に座ってそれらの音を譜面に書いていくんだ。それでひと段落つくと、彼が質問したり解説したりしてまた盛り上がる。わたしもあの時代にギルからいろいろ学ばせてもらった」(略)
 「マイルスは、ビバップのようにウルトラC級のテクニックを連続させる演奏ではなくて、もっと繊細な音楽をやりたがっていた。アンサンブルがあって、それでいてフレームの中で自在な演奏ができるようなものをね」
 そのことに関するマイルスの考えはこうだ。
 「きちっとした規範を持って、その中で自由に演奏する――そんな音楽がやりたくなっていた。バンドスタンドでほかのプレイヤーとソロ合戦に火花を散らすようなことは卒業したかった。繊細でサウンド的にも練られた音楽をやってみたかったんだ。そんなことを考えていたときにギルと出会った」
(略)
 ジャズで九人編成は珍しい。(略)こんな編成は当時の誰も見たことがなかった。
 しかし、ここに大きな秘密があった。基本のクインテットに追加されたフレンチホーン、チューバ、トロンボーン、そしてバリトン・サックスが高音部と低音部のレンジを広げたことでクールなサウンドが生み出されたのである。六本のホーン楽器が奏でるのは、小型ビッグ・バンド的な迫力あるアンサンブルとはまったく違う。ストリングスが織り成すビロードのような艶やかで落ち着きのある響きだ。
 それをバックに、マイルスが情感を抑制して淡々とソロを綴る。この編成でしか表現できないホーン・アンサンブルとマイルスならではの思索的なソロ。これらが絶妙なバランスで配合されたことにより、クール・ジャズは現実のものとなった。
 マイルスは、レナード・フェザーが行なったインタビューでこんな発言も残している。
 「評論家のやつらが言うクール・ジャズというのは、単なるソフトなサウンドのことだと思う。奥行きがないんだ。リラックスするためのソフトな演奏だな。ビートを遅らせたいんなら、三連音符を使わなきゃいけない。正しいことをやってりゃ、リズム・セクションが戸惑うことなんかありゃしない」
(略)
[エヴァンス証言]
 「マイルスが加わってくる前から、ジェリー(マリガン)とわたしにはひとつのサウンド・イメージがあった。そこに、マイルスがクラシックの響きをつけ加えたいと言い出したんだ。四〜六本くらいのホーンでどうかなってね。わたしも少ないホーンで豊かなアンサンブルを表現したいと思っていたから、彼の意見を参考に譜面を書いた」
 もうひとりの当事者であるマリガンの話はこうだ。
 「マイルスがギルのアパートに出入りする前から、ギルとわたしはスモール・オーケストラで何かやりたいと話していた。ソーンヒル楽団を縮小したもので、それでいてサウンド的にはあのオーケストラに匹敵するようなものをね。メンバーの人数? そう、一〇人前後を考えていた。ところがマイルスなんだ、バンドのコンセプトを完全なものにしたのは」
 リハーサルは三週間近くにわたって行なわれた。そして四八年八月三一日、マイルスは九重奏団を率いて『ロイヤル・ルースト』に登場する。
(略)
[カウント・ベイシー目当ての客が大半で、受けなかったが]
 「キャピトルでプロデューサーをしていたピート・ルゴロが気に入ってくれた。やつはほとんど毎晩クラブに来ては、おれたちのサウンドにエキサイトして帰っていったよ。ピートは自分でもビッグ・バンドを持っていたし、アレンジャーとしても活蹟していたから、九重奏団のサウンドがどれだけほかと違うかわかっていたんだ。やつは、この音楽を何とかレコーディングしたいと言ってくれた」
 こうして実現したレコーディングが、四九年から翌年にかけてキャピトルで三回にわたって行なわれた『クールの誕生』セッションだ。
(略)
このレコーディングで一番大切だったのはリズムなんだ。ハーモニーじゃない。ハーモニーについては、ジェリーやギルがすでに納得のいくものを作っていた。だから、そこにいままで誰もやったことのない流れるようなリズムを持ち込みたかった」
 《流れるようなリズム》が、先に触れた三連音符を意味しているのは明白だ。その活動において、マイルスには常にリズムを重要な要素としてまっ先に考えていた節がある。彼はリズムを変化させることでおのれの音楽を発展させてきたのだ。
 五一年に吹き込んだ『ディグ』から始まるハード・パップにしても、その後のモード・ジャズや新主流派ジャズにしても、マイルスはリズムの追求をストイックなまでに行なっている。『ビッチェズ・ブリュー』以降のフュージョン〜ファンク路線は言うまでもない。(略)
 ただし九重奏団に関して言うなら、例外的にリズムよりハーモニーを優先させているような印象を覚えていた。ところがマイルスにとっては、このときも一番の関心事はリズムにあったのだ。
 「クールというコンセプトはなかった。当時のビバップとは異なるサウンドを追求したかっただけだ。だから、ビバップのリズムとはまったく違うものを九重奏団で表現したかった。そもそもクールっていうのは、あとからレコード会社が勝手につけたんだ。お陰でおれは妙なレッテルを貼られて迷惑した」

ハードバップは本当に『バードランドの夜』で生まれたのか

 ライブはひと晩で五セットというタフなものだった。
(略)
[ハードバップの]萌芽となった演奏は、五一年にマイルス・デイヴィスがプレスティッジで録音した『ディグ』や、五二年から五四年にかけてブルーノートに吹き込んだ『マイルス・デイヴィス・オールスターズ 第一・二集』で認められる。これらに参加していたのがブレイキーだ。
 「当時のわたしは常に新しいドラミングをするように心がけていた。さまざまなグループで演奏していたが、何とか一歩でも前進したいと考えていたんだ。そんなときにマイルスから声がかかってレコーディングに参加した。プレスティッジとブルーノートで行なったセッションはとにかく刺激的だったよ。それまでのビートとは違うものを彼も追求していたからだ」
 マイルスとの共演をヒントに、ブレイキーはビバップのドラミングにより複雑なビートとアクセントを加えた奏法を開発していく。
 一方のマイルスは、同じホテル形式のアパートに住んでいたホレス・シルヴァーに、ピアノによるコンピング(バッキング)の仕方を伝授している。(略)
 「よく覚えているのが、ホレスと試してきたリズム・コンセプトを『バードランド』のセッションで初めて披露したことだ。どういうコンセプトかっていうと、彼の左手とわたしのリズムをリンクさせた上で、ふたりが細かいビートをつけ加えるものだった。ビバップが定型化してしまったため、わたしたちはそれに飽きがきていた。その新しいリズムに関して、ヒントをくれたのがマイルスなんだ」(ブレイキー)
(略)
わたしの部屋にはピアノがあったから、彼はひまになるとそれで曲を書いていた。(略)」
 マイルスはシルヴァーの部屋にあったピアノが目当てだったのだ。(略)
マイルスは、シルヴァーとブレイキーに自分が考えていた独特のシンコペーションとビート感覚を伝授する。(略)
 具体的に言うなら、ピアニストのタッチにバスタムとスネアを運動させることだった。この年(五四年)、シルヴァーとブレイキーが共演した作品の多くにこうしたアプローチが認められる。
 「ハイハットでビートをコントロールし、ほかのドラムスでアクセントをつけてほしいと言われた。それまでの平均的なドラミングは、ハイハットとキックでビートをキープし、シンバルとスネアを中心にアクセントをつけていくものだった。しかしマイルスは、アクセント重視で、シンバルはソロイストのフレーズと連動させて細かく叩けって言うんだ。その上でドラミング全体をうねるようなサウンドにしろともね」(ブレイキー)
(略)
[シルヴァー証言]
 「アートのドラミングは、ビバップで聴かれた一般的なドラミングに比べると、もっと緻密でダイナミックだった。ビートを細分化することでアクセントがビバップより流動的になり、さらにモダンなリズムを生み出していたんだ。そうしたドラミングは、それまで聴いたことがなかった。わたしは彼のプレイに触発されて、自分のスタイルを築いていった。それを最初に納得のできる形で演奏できたのが、あの夜のライヴだ」
 ブレイキーがリズム面で新しいものを打ち出せだのは、以前はピアニストだったことにも関係している。このころの彼は異常なほどピアニストのプレイに神経を尖らせていた。
 「とくにホレスとは相性がよかった。彼の跳ねるようなスイング感に合わせていると、自然と演奏が熱狂的なものになったし、それが好きだった」
(略)
 時計の針を五四年二月二一日に戻そう。シルヴァーによれば、「ステージは最初からジャム・セッションに毛が生えたようなものだった」ということになる。とは言え、当時のいかなる演奏より内容は覇気に富み、意欲的で創造的だ。とくにブラウンとドナルドソン、そしてブレイキーとシルヴァーのコンビネーションが素晴らしい。これらふたつのコンビがひとつのバンドの中に共存し、ソロイストが吹くメロディとリズム・セクションが生み出すビートを一体化してみせる。
 その橋渡しをしていたのがカーリー・ラッセルだ。彼がブレイキーと奏でるビートは、通常のウォーキング・ベースのスタイルを取りながらも奔放な動きを示す。表面的には目立たないものの、これまたこの時点で他を引き離すモダンな内容だった。
 「キーパーソンはカーリーかもしれない。彼のように強力で安定したビートがキープできるベース・プレイヤーはめったにいない。ダグ(・ワトキンス)もかなわなかった。(略)」(ブレイキー)

フリー・ジャズに漂うニューオリンズの面影

 「一九四九年のことだ。そのころはビバップを演奏していたんだが、ある日、急にそうしたスタイルの演奏がつまらないものに思われてきた。ビバップはもう終わりにしよう、卒業するんだ――そういう気持ちが心の中で芽生えてきた。四〇年代の中ごろに、R&Bやポップ・ミュージックの演奏をやめて、ストレートなビバップ・スタイルに変えたときと似た気分だった。ただしその内なる衝動というか、ビバップはもうやめるんだというエモーションは、R&Bをやめようと思ったときよりはるかに強かった。実際に大きな転換期を迎えていることが自分にもよくわかっていた」(オーネット・コールマン
 温度計が三五度を超えた、八八年のうだるような熱い夏の午後。マンハッタンのウエスト・ヴィレッジにある知人のアパートで(略)オーネット・コールマンと初めての会話を交わした。
 「そのときの考えはこうだった。わたしはブルースも演奏したし、R&Bも演奏したし、ポップスも演奏したし、ジャズも演奏した。たとえばAという音はどのタイプの音楽でもAだが、その表現の仕方がまったく違う。だからブルースのAとポップスのAとは違うものでなければならない。これは音楽的コンセプトの問題だ。また、ピアノのCはアルト・サックスのAに相当している。こちらは理論上のことだ。わたしは、こうしたある意味での制約をすべて取り払おうと考えた」
(略)
 「こうした考えがまとまったのは、クラレンス・サミュエルズのバンドと共にニューオリンズヘ行ったときだ。(略)
[半年滞在し、クラリネット奏者のメルヴィン・ラシータ、アルヴィン・バティスタと]試していた音楽上のアイディアを、それこそ無我夢中になって練習したものだ」
(略)
 「最初から面白いほどうまくいった。わたしがフリー・フォームでソロを吹いている脇で、ふたりがクラリネットで絡んでくる。それによって互いが触発されるんだ」
 ジャズは一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけてニューオリンズの街角で演奏されていたブラス・バンドに端を発している。特徴は複数の管楽器が同時に演奏する集団即興演奏だ。(略)初期のジャズでは、全員が同時にソロを演奏することが多かった。(略)
 「彼らはブラス・バンドでいつもやっているスタイルを、わたしとも試したにすぎない。それが大きなヒントになった」
 フリー・ジャズでも集団即興演奏がよく認められる。コールマンは、それをこのときの練習から身につけたのだ。突然変異的に登場してきたように思われがちなフリー・ジャズだが、実はジャズの伝統的奏法にヒントを得ていたのである。ぼくは初めてこの事実を知らされて、ぞくぞくする気分を味わっていた。
(略)
ひとつはっきりさせておきたいことがある。それは、わたしが新しいスタイルを創ったのではないということだ。わたしは新しいアイディアを創ったにすぎない。アイディアはスタイルを生み出すが、スタイルからアイディアは生まれない。よく《オーネット・コールマンフリー・ジャズというひとつのスタイルを創造した》と言われるが、それは間違いだ。フリー・フォームで演奏するアイディアを創ったに過ぎない。スタイルというのはアイディアが生まれたあとに多くのひとによって育まれ、発展して出来上がるものだからね」
(略)
実践になると困難を極めた。わたしの音楽はその場の雰囲気で変わっていくからだ。演奏の場が音楽におけるアレンジに相当するので、そのときどきによってまったく形態の異なるものになる。《ハーモロディック》は、楽器を通してミュージシャン同士、あるいは聴衆と会話することだからだ。演奏者の意思がアレンジであり、オーケストレーションになっていく。だから《ハーモロディック》の場合、作曲家と演奏者は対等に重要なポジションにいる。ポップスやジャズにおけるアレンジャーが音楽の成否を決める立場にあるのと同じように、《ハーモロディック》では、作曲家、演奏者、そして聴衆までもが重要な役割を担う」
(略)
ドン・チェリーとコールマンとの出会いはこうだ。
 「高校を出て、がむしゃらに音楽と取り組んでいるころ、ひとりの男と出会った。彼がぼくの運命を変えた人物だ。オーネット・コールマンだよ。五六年だった。その日のことははっきり覚えている。ワッツ地区の一〇九丁目にあったレコード店でのことだ。(略)
オーネットはちょうどリードを試しているところだった。三〇度を越す暑い日にもかかわらず、オーヴァーを着ていた。しかもロング・ヘアときているからどうしても目立つ。あの時代を考えてみればいい。長髪の黒人なんて前代未聞だ。まるで黒いキリストのようだった。しかも彼のサックスときたら馬がいなないているかのような感じだ。驚くべきサウンドをしていた」
(略)
 コールマンはコンテンポラリーから二枚の作品を発表したのち、今度はニューヨークに進出を果たす。(略)[MJQの]ジョン・ルイスがチャンスを作ってくれたのだ。(略)
[両者の音楽には隔たりがあるのではとルイスに問うと]
 「わたしには、オーネットのやっている演奏が突拍子もないものに思えなかった。ジャズとして優れていたし、方法論も斬新だった。集団即興演奏からはニューオリンズ・ジャズの面影が感じられた。わたしもグループでヴァイブやベースと自分のピアノで集団即興演奏をやることがあった。だから、違和感より親しみを覚えた。その上で、彼の音楽はこれからのジャズの姿も伝えていると直感した。それで、わたしが所属していたアトランティックに推薦したんだよ」
(略)
 加えて、ルイスは作曲者としてもコールマンを認めていた。彼はコールマンの書いた「ロンリー・ウーマン」[をMJQで録音](略)
コンテンポラリーに認められたのも、最初は作曲家としてだった。革新的な演奏を行うためには、それが可能となる曲が必要だ。コールマンは作曲家としても革新的な存在だった。ルイスにはそのこともわかっていた。

次回に続く。