前回の続き。
オーネット・コールマンは、ジャズのヌーヴェル・ヴァーグなのだ
こんなゴシップに耳をかすよりは、つい最近マーチン・ウィリアムズがコールマンを中心にして書いた評論を読んだほうが、ずっと面白い。
それで、ドン・ヘクマンとマーチン・ウィリアムズの評論について、これから触れていきたいとおもう。
オーネット・コールマンが試みていることが前衛的な意味で新しいかというと、根本的にはそれほどでもない。彼が新機軸を出したそもそもの動機は、チャーリー・パーカーが自分にむかって質問したことを一歩すすめて、論理的に発展させていこうという単純な目的があったにすぎない。パーカーの自分に対する質問、そしてコールマンの新たな質問というのは、どんなことだったか。それはこうだ、とドン・ヘクマンは書きだしている。
メロディックなインプロヴィゼーションは機械的に継起する和音進行によって、あくまで支配されなければならないものだろうか?そのような技巧のうえにたった制約から離れ、アドリブするソロイストが、もっと伸びのびと空高く舞いあがれるような自由な世界というものはないだろうか?
このような質問を自分に発したわけであるが、ご存じのとおりコールマンはコード進行の小節を完全に無視し、メロディックな即興演奏の自由をリズムの領域へと押しひろげていった。ところが、この定石破りな行きかたは、わりあいに形式的にしか論じられず、大部分の批評家たちが、プラスティックのボディに金属製のマウスピースがついたアルト・サックスから出るコールマン独自の音色だけを話題にしたきらいがある。
(略)
正しい解釈のしかたで無調の即興演奏をジャズで試みたのはコールマンが最初であり、あらたな領域の開拓者であるにもかかわらず、一部のお偉がたにとっては、コールマンを引っぱりだして論議するなんてことは愚の骨頂であり『だいたいが音楽形式にたいして頭がゼロな男だし、コードや小節についても何も知らないんだ。アルト・サックスをもって立ったまま、滅茶苦茶に吹いているにすぎないのさ。それを新しいテクニックだなんていってるヤツの気がしれないね。うっかりのっちゃいけないぜ』ということになる。
これは単なる中傷の言葉で説得力がゼロである。(略)
問題はこんな点にあるのではなく、いままでいい仕事をしてきた前衛派のミュージシャンたちが、スタイルとテクニックの点で行き詰まってしまい、袋小路にはいりこんだときにコールマンがヒョッコリと出現し、袋小路から抜けだす鍵をみつけたということが重要なのである。
チャーリー・パーカーがジャズに新機軸をもたらして以来、ほんとうに第二の新機軸だといっていいオリジナリティをしめしたのは、オーネット・コールマンしかないとハッキリ明言しているジャズ評論家は一人や二人ではないけれど、ここで彼がどういう新しい領域を開拓しているかを具体的に説明しなければならないことになる。
(略)
なぜオーネット・コールマンがいまやってるような試みをやらなければならなくなったかというと、それには理由がいくつもあり、つぎのような試みがすでになされていたからである。すなわちモンクがジャズのハーモニーを追求していったところが無調音ぎりぎりの線までいってしまったこと。ジョージ・ラッセルの理論であるところの、ジャズは本質的に線と音階と様式の音楽であるという主張が結局はハーモニーと結びつくこと。チャーリー・ミンガスがテオ・マセロと一時的に意気投合して無調に近づこうとしたこと。ソニー・ロリンズがハーモニーを自由に使って拍子の転位を試みたこと。ピアニストのセシル・テイラーがモンク的なハーモニーにメロディ・ラインをむすびつけようとしたこと。やはりピアニストのポール・ブレイがバップ・スタイルから出発して調性を破ろうと試みたこと。コードですべてが解決できると確信していたチャーリー・パーカーの無調的なフレージング。とくにジョン・コルトレーンの奏法がこのところ非常に影響をあたえたことなど、なによりもよく、こうした試みにおける危険性を物語っており、それだからこそ、コールマンの不可避的な出現となったのである。
いままでに試みられた新しい工夫で、ずうっと取りいれられてきた種類のものは、例外なくリズムが根底になっていた。コルトレーンも二年まえにパーカーの八拍子によるリズミック・アイディアをマスターし、ついで十六拍子になるまでに、アクセントとフレージングの呼吸をつかんだのである。けれどもリズムが根底になるにしても、ここまで小刻みになってくると、技巧が非常に柔軟でないかぎり、メロディの処理ができなくなってしまう。ところがコルトレーンは、現在のコールマン・ホーキンズといわれるような立場でコード進行のなかでのアルペジオを試みていったのである。そしてハーモニーのこのような追求のしかたは幾人かの追随者を生むことになったが、悪くするとその印象は、ハーモニーの迷宮のなかを駈けずりまわりながら夢中で上ったり下ったりしている鼠のような感じをあたえたものであった。
ではいかにしてメロディを再び確固たるかたちにしたらいいであろうか。この解答をあたえたのはマイルス・デイヴィスで「トランペット・ブルー」Kind of Blue を聴けばわかるように、ほとんど全体を即興演奏ではこびながら面白い試みをやったのである。この演奏にあたって、ミュージシャンたちはレコーディング・スタジオに入るまで譜面をみせられなかった。そのうえ音楽自体が、いつものようにコード・シークェンスをながめながら適当に即興演奏がやれるといった性質のものではないときている。つまり即興演奏者たちの順に浮んだそれぞれのメロディのパターンが、コードとスケールによって規定され、それが全体としてのハーモニーのパターンにまとめあげられていくという一つの試みとなっていたのである。
(略)
コールマンは、このような袋小路からの脱出方法をずっとまえから自分で発見していたわけで(略)[批判されながらも]自信をうしなわないで突きすすんでいったのだった。
(略)
コールマンと彼のグループが押しだしていることは、じつはジャズの初期にギターを抱えたブルース歌手がやっていたことと本質的にはすこしも違わないのである。ソニー・テリーなどが一番いい例だが、歌詞とギターのブルー・ノートに乗って、ピッチとエモーションをつよく押しだすといったやりかた、これがキング・オリヴァーからクーティ・ウィリアムズ、そしてマイルス・デイヴィスからコールマンヘと継承されたかたちになる。
(略)
グループのプレイヤーたちがピッチに合わせていくやりかたは、インド音楽でミュージシャンたちがチューン・アップするのに似ているが、コールマン・グループは最初から意識的に合わせていくのではなく、その場しだいで各自が順応するという演奏のしかたなのである。
ビル・エヴァンス研究で、とてもいいのが「ジャズ・マガジン」に出た
ビル・エヴァンスは、いままでフランスのジャズ・ファンや批評家たちから、どう評価されてきたのだろう。(略)
ケチをつけられるほうが多かったのだ。(略)ジャン・ワグネを筆頭にして、レコードが発売されるたびに、だれかしらケチをつけている。まずそれを書きだしてみよう。
いまあげたワグネは『カクテル・ピアニストだよ、ビル・エヴァンスは』といってアーマッド・ジャマルあつかいにしたものだ。(略)
『エリントンやモンクやテイラーにくらべると、エヴァンスの即興演奏にはアクセントが欠けているし、アクセントを強めないのは、彼がナルシシストだからだろう。興味をひくのは細部における器用さだけだ。スイングしない。彼のジャズ的コンセプションは古くさいし、季節はずれに出てきた芽みたいなものである。素質にはヤケにめぐまれているが、キザったらしいピアニストだよ』
ジャン=ロベール・マソンは「ワルツ・フォー・デビー」を聴いたとき『ピアノのポール・デスモンドだ』と批評した。またジャン=ピエール・バンシェは「ムーン・ビームズ」のレコード評をしたとき、検事みたいな口ぶりで、こういったものだ。
『どうして、このビル・エヴァンス・トリオを聴いて、みんなが唸ってしまうのか。てんでわからない。気に入られたいから、こんな演奏をするんだな。それにしては、なんていう力のない弾きかたをするんだろう。エヴァンスは、それを自分で夢中になって聴いている。(略)ときどき、おとなしいオシャベリをやりだすと、こいつはおもしろいなと思うが、それが終ったときは、それっきりだ』
(略)
一九六五年までは、だいたいこんなふうに、フランスではビル・エヴァンスにたいする風あたりが強かったのである。
ところでエヴァンス攻撃の内容を分析してみると、五段階の非難のしかたがあるのだった。
その第一が「個人主義」である。(略)[デビュー時]彼はバッド・パウェルの影響下にあった。ところが、パウェルに訣別すると同時に、彼自身の殼のなかに閉じこもってしまい、約十年間というものジャズ界のうごきには、まったく無関心のまま、孤独な道を歩きつづけた。それが個人主義のレッテルを貼られることになった理由だ。
(略)
エヴァンスにたいする二番目の非難は、彼の演奏が「時代錯誤」だという点にある。(略)おなじ意味あいの「古いなあ」という軽蔑語を、エヴァンスぎらいは、やたらに口にしたものだった。(略)
また第三の非難は「ナルシシズム」を感じさせる点にある。(略)
「ぼく自身との会話」(正・続)でテープを使いながらエヴァンスが分身と話しあっていることであり、これはトリスターノの試みにはじまったが、以上のようなことが「ナルシシズム」だと非難される原因になった。
第四の非難は「スタイリスト」だということにある。この点を補足すると、音楽的なフォルムの形成が、自分にとらわれすぎるだけでなく、やたらとアンダーラインを引くように自分の気持の繰りかえしばかりになるので、フォルムを形成するよりは、うわずってしまうことになるというのだ。
最後の非難は「マニエリズム」(わざとらしい気取り)だ。つまりエヴァンスには力と活力と自然発生的なものとスイングがない。
(略)
以上のような五段階の非難にたいし、フィリップ・カルルは、つぎのような意見をのべた。(略)
つまり、いろいろな非難は、それを裏返すと、エヴァンスを褒めていることになるのである。
(略)
[エヴァンス自身は]素直に、こういったものだ。
『ほくは心の内部についていうと、昔から、すこしも変化していないんだ。いつも同じ調子で弾いてきたのさ。他人がいうことを気にしないから、もし昔の弾きかたが、よかったとしたら、いまも同じようにいいはずだ』
彼は戦線で三年間を暮した。レスター・ヤングもチャーリー・パーカーも戦争でうけた精神的痛手が長いあいだ付きまとったが、エヴァンスは、いまもって戦争の傷痕から立ち直りきってはいない。
『いままでの生活では、戦争が一番こたえた。あんなに不幸な目にあったことはない。その不幸から、いまだに立ち直ることができないんだ。いまでも繰りかえし同じ夢を見るんだが、その夢というのは、軍の人事課で、ぼくの書類をなくしてしまってさ、そのため除隊することができなくなってしまう。それどころか、あと三年やりなおさなければならない始末なんだ』
(略)
いったい彼は、いかなる先輩に影響され、だれをモデルにしたんだろう。
(略)
『はっきりした記憶はないが、最初はナット・キング・コール、ついでアール・ハインズとバッド・パウェルだった(略)。というのはパウェルのフォルムがしっかりしていたからなんです。ほかに影響された先輩には、ブルーベックやシアリングやピーターソンやアル・ヘイブやルー・レヴィがいましたね。キング・コールから学んだのはリズムと音の切りつめた選びかたを、ブルーベックからは「ヴォイシング」、そしてシアリングからは別な「ヴォイシング」を学びました。ピーターソンからは強いスイングを、アール・ハインズからはストラクチュアを学びとりました』(略)
『バッド・パウェルは、およそ完成したピアニストですが、それを全部受け入れながら、真似しようとは思わなかった。ぼくは繰りかえし彼のレコードを聴き、エッセンスをつかんで、ちがう面に利用しようと考えたわけです』
ほかの資料で調べてみると、彼はコニッツ=トリスターノ派の理論をみっちりと研究している。それからホレス・シルヴァーが、とてもすきだった。
『ぼくが影響されたのは、いまあげたピアニストだけじゃないんです。サックスやそのほかいろんな楽器から出る音から影響されることになりました』
エリック・ドルフィー
フォンタナ盤の解説にも面白いことが書いてある。(略)
[オランダのジャズ番組の担当者が執筆したもの]
エリック・ドルフィーがアムステルダムのスヒホル飛行場に着いたのは一九六四年五月二十九日のことだった。(略)
スケジュールがすむと、ドルフィーはミンガスといっしょに帰米しないで、しばらくヨーロッパに滞在し、十月になったら、パリでバレーの勉強をしているフィアンセとアメリカに帰るつもりでいた。
(略)
リハーサルが進行しているとボイス・ビッグ・バンドのボイ・エドガーが姿をあらわした。だが一生懸命に練習しているのを目のまえにした彼は、何もいわないで部屋のすみにある椅子に腰をおろした。
ドルフィーはリズム・セクションが教えられたように練習しているあいだに、順に浮んだアイディアを五線紙に書きとめている。新しいオリジナルだなと思っていると、急に手をやすめ、紅茶をポットから注いで飲みだしたので、ボイ・エドガーが打合せに来たことを知らせると、ドルフィーは鋭い視線をギョロリと彼のほうへむけ、このときが初対面だったのに、『あの人は譜面にとるのが、とても早そうだね』といった。このときリハーサルをしていたのは「ブルース 245」だったが、翌日ボイに会ってみると、驚いたことに彼は、この「245」をビッグ・バンド向きに編曲していたのである。(略)
きのうも書きつづけていた新しいオリジナルは、まだ完成していない。だがそのリハーサルにかかると、彼のソロ・パートは急にピタリと素晴らしいパターンになるのだった。そのとき何を考えたのかボイがドルフィーのそばへ行って『コルトレーンの「ブルース・マイナー」を知ってるでしょうね』と訊いている。ドルフィーが『知らない』と答えたので、ボイがピアノで弾いたところを、眉をよせて考えこみ『そういえば聴いたことがあるが、いつ、どこでだったかは忘れてしまった』というのである。
それでぼくは横から口を出さないではいられなくなり『あなたがコルトレーンといっしょに演奏したんですよ。一九六一年の秋に来たときにさ』というと、ドルフィーは『そうそう』と受け答えるなり、バス・クラリネットでテーマ・メロディを吹きだすと、四小節目に素晴らしいカウンター・メロディを即興で加えてみせた。とにかくこのリハーサルで、みんなが彼の人となりに感心したのであるが、コンセルトヘボウの演奏のあとでも、クラブとの契約が四つもあるという忙しさだったのである。そして五日目の六月三日にラジオ放送番組が予定されていた。
(略)
六月三十日の朝だった。(略)
電話でドルフィーとは永遠に「グッドバイ」になったことを知った。それからは電話の鳴りどおしだったが、ドルフィーといちばん仲がよかったピアニストのミシャ・メンゲルベルクは、このことを知っているのだろうか。ダイアルを廻すと彼が電話口に出たが、ぼくが口にしたことにたいして返事をしない。しばらくすると『ぼくはもうメチャメチャだよ』といったきり電話を切ってしまった。
事情を調べたところパリからベルリンヘ行ったのは六月二十七日で、スケジュールだと二十四日に行ってなければいけなかったが、急にからだの調子がわるくなったというのだ。この四日間のアナはレオ・ライトが代って埋めていた。ところがドルフィーはベルリンに着いた二目目にコロリと死んでしまったのである。
解説 岩浪洋三
それにしても新しいジャズを推進していた偉大な三人エリック・ドルフィー、ジョン・コルトレーン、アルバート・アイラーが六〇年代の中期から七〇年代のはじめにかけて相次いで亡くなったのはジャズ界にとって大きな損失であった。
そのためジャズは七〇年代に入ってアドリブ中心の演奏からサウンドとビートを中心にしたフュージョンに方向転換せざるを得なかったともいえそうである。
そのせいか植草氏も一時はロックに強い関心を寄せて、ロックのエッセイもかなり沢山書かれたが、その場合も、前衛的なフランク・ザッパのようなミュージシャンが好みだったのは面白い。
(略)
どこかで映画とジャズは誕生の時期がほとんど同じなのだ、と書かれていたが、いわれてみればそのとおりなのである。(略)
ぼくが学生の頃憶えている映画評論家としての植草氏はヒッチコックのもっともよき理解者のひとりという印象が強かった。
(略)
一九六六年七月のコルトレーン五重奏団の公演は東京で四日間聴いたとある。そんなに何回も聴いたジャズ・ファンや関係者は少ないであろう。(略)
それまでのレコードでは聴くことのできなかったすさまじいもので(略)のめり込む者とむずかしくてわからないと拒否反応を示す者とに二分された(略)
フリーク・トーンを用いたものすごい演奏に四日間もつき合い、そのマッシブな音の塊の中から旋律やハーモニーやカラーをひとつひとつ取り出して聴き、その体験を繰り返したいと感じたのは、過去に現代音楽をはじめ、相当複雑な音楽を聴き込んできたからであろう。
(略)
植草氏はあるものに凝り出すと徹底する性分のようで、若い頃は切手の蒐集も相当のものだったらしい。(略)
またパチンコに熱中していたこともあり(略)のぞいたパチンコ屋のマッチを片っ端から集めて廻ったのである。そのいかにも野暮ったく、田舎くさいデザインが逆に新鮮にうつったのであろう。そのコレクションは美術出版社から発売された植草氏のコラージュ集にいっしょに紹介されたことがある。
ある時期から植草氏のコラージュが急に人気をもちはじめ画廊で展覧会まで開かれるようになったが、いちばん最初に載ったのはやはり「スイング・ジャーナル」誌であった。
ぼくがこの雑誌にたずさわっていた時、植草氏にはなにもかも自由にやってもらった。原稿の長さも自由ならテーマも自由であり、原稿のタイトルまで自由にきめていただいた。そこからあの長ったらしい説明的なタイトルが生れたわけだが、植草氏はなにかに、「ぼくの文体はスイング・ジャーナルに原稿料が安いので引き伸しながら書いているうちに生れたものだ」と書いておられた。これは半分は冗談としても半分は本当だったろう。
(略)
[植草のコラージュは]編集部内では総すかんを食ったが、強引に載せているうちに、読者や周りの人たちの間でしだいにあれが面白いといわれはじめた。昭和初期の外国の雑誌に載ったイラストを切り抜いて紙にはり、それに色のついたサインペンで興の赴くままにからませて絵を書きたしたりして作るイラストなのだが、古いものとシュール・リアリズム的なものとの融合やコントラストが奇妙な味を発揮するのである。
(略)
氏は早稲田大学の建築科中退で、芝居が好きで戦前から仲間と新劇をやり、せっせと舞台装置を作り、泥絵具を塗ったりもしていたのである。劇団四季の話が出たりすると、ジロードウやアヌイ、あんなものはみんな戦前にやったよ、が口ぐせであった。
(略)
戦後は一時新宿の東宝系の映画館にいて立看板を描いていたそうだからコラージュの腕が確かだとしても不思議はあるまい。
(略)
文学、とりわけ推理小説に傾けたうんちくを生かした植草氏の最良の仕事は東京創元社から氏の単独編集によって刊行された「クライム・クラブ」全二十四巻だとおもう。自ら全巻の解説を書いているが、この頃(一九五八〜五九年)の植草氏はモダン・ジャズと「クライム・クラブ」に情熱を傾けていた。お会いすると、ジャズといっしょにこのシリーズのことを話してくれたが、「このシリーズはみんな赤字なんだよ、ハハハ!」と笑うのが常であった。しかしそれは内容には自信があったからだろう。あとで評判になった「藁の女」がすでに入っていたが、「ハマースミスのうじ虫」とか「パリを見て死ね」とか一味違った作品が組まれていて出るのが待遠しかったのを憶えている。
(略)
話はとぶが、あるとき植草氏に「モダン・ジャズに熱を上げる前はなにに熱中してたんですか」と質問したことがある。すると「ボクシングだよ」という答が返ってきた。
一時期リング・サイドに陣どってボクシングばかり見ていたこともあったらしい。かなりボクシングの世界でも顔になっていたらしく(略)お宅にうかがうと音を消したボクシングの試合を見ながら原稿を書いておられることもあった(略)
ボクシングが好きなだけあって、ジャズでも軟弱なものは嫌った。パンチの利いた刺激の強い男っぽいジャズを好んだ。それは映画、小説、美術など芸術の場に共通した好みであった。
(略)
日常的なことにうとい、無関心といえば、氏は六〇年代のある時期まで京都より遠くに行ったことはなかったのである。京都も夫人の方の法事で行っただけらしい。「ぼくは東京より外へ出たことはほとんどないんだ」とよくいっていた。(略)
[六〇年代中頃、植草から電話で、講演の依頼で名古屋行きの]
飛行機の切符をもらったけど、困ったねえ。飛行機ってどうやって乗ればいいんですか(略)
どうやっていくのかね、羽田へは。じつはぼくは飛行機に乗ったことがないんだよ」(略)
驚きよりも感動した。それでいて毎月世界各国の最新文化を紹介しつづけてきたのである。余計なものには無関心で、一点にだけ集中してきた凄さ。
羽田へは浜松町からモノレールに乗ればすぐだし、切符はあらかじめ搭乗券と交換しないと乗れないといったことを説明すると、
「ほほう、モノレールで羽田へねえ。切符があっても飛行機ってのは乗れないんですか。変なもんだねえ」
と感嘆した声を出して電話を切った。
ところが一九七四年に初渡米すると、すっかりニューヨークづき、本の印税を持って毎年乗り込み、本物のニューヨーク通になってしまった。集中しはじめると凄いのだ。
アメリカ通いがはじまってしばらくすると、こんどは写真に凝りはじめた。(略)
それがなんと舗道や裏通りのゴミや汚物の山ばかり写すのである。(略)
モノクロームで何百枚と撮ってくるようになり、一度写真展まで開き、アメリカのゴミの写真集が青土社より出ることになった。すでに原稿も入稿したと聞いていたのだが、死後出版されたという話を聞かない。
(略)
一方植草氏は日本の大衆小説の世界にも入っていった。そのきっかけとなったのは東京新聞の大衆小説評の連載だった。もっぱら外国の小説ばかり読んできた植草氏にとって日本の大衆小説はそれまでほとんど無縁の世界であった。それだけに最初は不安も感じたようだったが、毎月「オール読物」「小説新潮」「小説現代」などを読んでいるうちに、エンタテインメントにあふれた大衆小説の世界にのめり込んでいったのである。そこで出合い掘り当てたもっとも輝かしい価値ある鉱脈は池波正太郎氏の小説群であった。(略)江戸っ子的ダンディズムの持主という点では共通するものがあり、二人は大いに共感するところがあったようだ。池波氏が映画通であることはつとに有名であり、スイング系のジャズが好きだというエッセイも読んだことがある。二人は雑誌で対談したこともあったし、なんと池波氏の朝日新聞社から出た選集は全巻植草氏が解説を書いている。
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