作家はどうやって小説を書くのか アーヴィング、ロス

前回の続き。

――新しい本にはどんなふうにしてとりかかるんですか?

本を書き始めるのは気持ちよくない。登場人物についても状況についてもまったくなにもはっきりしてないんだから。ある登場人物がある状況のなかにいるというのが、まずは必要なものなのに。主題がわからないということより始末が悪いよ、どう対処するかがわかってないというのは。だって、結局のところ、それがすべてなんだから。いろいろ書き出しをタイプしてみるが、どれもひどくて、知らず知らずのうちに前の本のパロディみたいなものになってる、そこから脱出したいと思ってるくせにね。こっちが欲しいのは、本の中心を烈しく走っていくなにかなんだ、すべてを引き寄せる磁石なんだ――新しいのを書き始めるときの最初の数ヶ月はそれを探してる。百ページかそれ以上書いてようやく生きたパラグラフがひとつあらわれるなんてこともしょっちゅうだ。そのときになってようやく言えるんだよ、オーケー、ここが始まりだ、始めるぞ、これが書き出しのパラグラフだ、とね。そして最初の六ヶ月せっせと書いて、活きのいいパラグラフやセンテンスには赤鉛筆で線を引いていく、フレーズ程度のものしかないこともときどきあるんだがね、そしてそれらをぜんぶタイプし直す。たいてい、一ページにも満たない分量だが、ラッキーなら、それが第一ページの始まりになる。こっちが探しているのはトーンを決めてくれる活きの良さだから。そんな悲惨な始まりの時期を通過したら、あとは数ヶ月気ままにプレイしていくんだが、そんなプレイにもそのうち危機が訪れて、そうなると素材に嫌気がさし、書いている本が嫌いになってくる。
――書き始める前はどのくらい頭の中にできあがっているんですか?
いちばん大事なところはぜんぜんできてない。いろんな問題への解答ができていないという意味じゃないよ、問題そのものができてない。始めるとまず、抵抗してくるものを探してる。トラブルを探してる。書き始めのときの不安は、往々にして、書くのがむずかしいというところから来るんじゃなくて、そんなにむずかしくないというところから来る。さくさく書けちゃうというのはなにも起きていないという証拠だから。さくさく書けたら書くのをやめろというシグナルでね、闇のなかをセンテンスからセンテンスを探りながら進む状態になったら、これは行ける、と確信する。
(略)
[書いている本が嫌いになってくることは]
いつもだね。何ヶ月も原稿をながめては言ってるよ、これはおかしい――しかしどこがおかしいんだろう?(略)
そう自問しながらも、いっぽうでは、自分の書いたものを信じようとしてる、ただの書き物だということは忘れて自分にこう言おうとしてる、こういうことになったんだ、じっさいはそうでないとしても、と。

ニセの自伝

小説家はね、自分の経歴をすっかり捨てなくても、ふりの芸ができるんだよ。捨てないほうがすごくおもしろいものになるかもしれない。経歴を歪め、おちょくり、パロディにし、痛めつけ、ぶち壊し、食い物にする
(略)
セリーヌはどちらかというとやる気のない、無責任ですらある医者のふりをしてた、じっさいは、懸命に医者としての仕事を果たして患者にも良心的に接してたようなんだが。でも、それではおもしろくないから。
(略)
セリーヌの文章の活力はふつうの庶民の声とかれのなかのアウトローの側面――これは大きい――を劇的に表現したところから生まれてるんだよ。かれはあのいくつもの偉大な小説のセリーヌという存在を創造したんだ、[コメディアンの]ジャック・ベニーがいろいろタブーをもてあそびながらドケチの自分を創造したようにね。
(略)
文学の力は堂々として大胆であるところから生じるもので、それがあってこそふりもできる。ふりをどれだけ信じこませることができるかが大事な点だ。作家にかんして問うべきことは、どうしてあんなふうにひどくふるまうのか、ではなくて、あんな仮面をかぶることでなんの得があるのか、なんだよ。わたしはジュネがこれが自分だと提出してくるジュネには惹かれない、ベケットによって演じられているおもしろみのないモロイのほうにまだ惹かれる。わたしがジュネに惹かれるのは、自分がつくりだしたジュネが何者であるか忘れさせないような本をかれが書いたからだよ。レベッカ・ウェストは、アウグスティヌスについて、かれの『告白』はあまりにも主観的に真実すぎるので客観的に真実ではない、と言った。これとおなじだとおもう、ジュネやセリーヌの一人称の小説はね。
(略)
わたしにとっては、書くということは(略)ある種の挑発をうけて、ある切羽詰まった事情のもとでやることだ。念入りに扮装することで、切羽詰まった個人的な事情をパブリックなアクトに変えるということなんだ。行為と演技というふたつの意味をもつアクトね。かなりつらい精神の試練ではあるよ、自分の倫理構造にとっては異質なもののなかをくぐりぬけていくんだから――作家にとっても読者にとってもつらい。
(略)
親が死ぬことの衝撃については、わたしの親のどちらもまだぜんぜん死んでないうちから書いていた。作家というのは、
自分の身に起きたこと同様、自分の身に起きてないことにもしばしば興味が湧くものなのさ。素朴な人間には赤裸々な自伝に思えるようなものも、さっきからずっと言ってるように、けっこうニセの自伝だったり仮想の自伝だったりとんでもなく拡大した自伝だったりする。警察署にのこのこ出かけていって自分がやってもいない犯罪について告白するようなやつもいたりするじゃないか。そうなんだよ、ニセの告白にも小説家は惹かれる。小説家は他人の身に起きたことにも興味があって、そこいらじゅうにいる嘘つきや詐欺師とおなじく、ほかの人間に起きた劇的な、ないしは凄まじい、ないしは身の毛もよだつ、ないしは素晴らしい出来事を自分の身に起きたことのようなふりをしたりもするんだ。
(略)
 ご承知のとおり、伝記でおもしろいところは――かなり重要なところでもあるけど――書き手が自分の身に起きたことのなにかについて書いているということではなくて、どのように書いているかだよ、そしてそれがそれなりに理解できると、今度はやっとなぜそれを書いたのかが理解できるようになる。もっとおもしろい問いかけは、自分の身に起きてもいないことをなぜ、また、どのように書いているかさ――仮想したもの、想像したものを、想い出にインスパイアされコントロールされているもののなかにどんなふうに流しこんでいるか。思い出として出てきたものがどのようにしてぜんたいのファンタジーをつくりあげているか。そういうこと。

本のひとつひとつは爆破なのさ

――その後、七〇年代になってからはどうしてました?国のなかで起きていることはいぜんとしてあなたのような方々にもかなり大きな意味をもっていましたか?(略)
ニクソンがやってきて去っていくあいだ、わたしは『男としての我が人生』でまったくクレージーな状態になっていた。ある意味、一九六四年からずっと断続的にその本を書いていたんだよ。モリーンが貧しい黒人の妊婦から尿のサンプルを買ってそれによってターノポルにかれの子ともができたと思わせるという薄汚いシーンをどこにセッティングするか、ずっと決めかねていたんだ。最初は『ルーシィの哀しみ』のなかの一シーンにしようかとも思ったが、ルーシィとその夫のロイがいる中西部の小さな町はそういうことにぜんぜん向いてない。その後『ポートノイの不満』のなかに入れてもいいかなとも思ったが、あのてのコメディには少々毒が強すぎた。それで何カートンも何カートンも原稿を書いたあげく、結局、『男としての我が人生』になったんだよ
(略)
毎日九時から五時までのあいだはニクソンとかヴェトナムのことはあまり考えなかった。この本の問題点をなんとか解決しようとしていたよ。そして解決できそうにないと思えると、それを書くのをやめて「われらのギャング』を書いた。それからまたトライして、それでも書けないと、書くのをまたやめて『素晴らしいアメリカ野球』を書いた。野球の本は、書きあがりそうなところでいったん書くのをやめ、『乳房になった男』を書いた。まるでせっせと爆破してトンネルを掘りながらどうにも書けない小説に向かって進んでいるというかんじだったよ。だれの場合でも、本のひとつひとつは爆破なのさ、そうやって道を作ってつぎへ進む。とにかく書いているのは一冊の本なんだ。夜に六つの夢を見るとする。でも、それははたして六つの夢なのか?ひとつの夢はつぎの夢を予告している、ないしは、それまできちんと見られていられなかったものを整理した夢なんだよ。そしてつぎの夢が、前の夢を調整した夢が来る――代案としての夢、解毒剤としての夢がね――拡張されていたり、笑い飛ばしていたり、矛盾していたり、あるいは夢を正しく見させようとしていたりする。そういうことだから一晩中でもトライしつづけることができる。

――どういうふうにして書き始めます?

もうどうにもこうにも紙に書かずにはいられないというくらい、話がよくわかってくるまでは書き始めない。(略)
[前編集者は]それは浣腸理論だ、と言ってた。できうるかぎりいつまでも本を書かない、書き始めない、ひたすら溜めるからさ。これは、歴史小説にはとてもいい。たとえば『熊を放つ』とか『サイダーハウス・ルール』とか。ああいった本は、たくさん勉強してからやっと書けた。たくさん情報を集めなくちゃいけなかった、たくさんメモをとったよ、見る、立ち会う、観察する、研究する――なんでもいいけど、そういうことをいっぱいやっておいたから、いよいよ書き始められそうになったときには、どういう展開になるのか、すべてがあらかじめわかってた。わかっていて困るということはないね。ぼくは、重要なことが決着したあと、作品がどんなかんじのものになってるのか、知っておきたいんだ。ストーリーテラーの声――というか、まあ、ぼくの声だけど――それがしっかりしたものになるためには、書き始める前にすべてがわかってなくてはいけない。あとはこつこつやるだけだよ、まったく。
――書いている途中で話がドラスティックに変わったというようなことはいままでありませんでした?
途中で事故があって、回り道をしなくちゃいけなくなることはある――事故がいい結果を産むこともある。でも、そういうのだって「ありがたい」事故ではないよ、そういうのはぼくは信じてない。小説を書いてる途中で建設的な事故がおきるとしたら、それははっきりとした道路を前につくってたからだ、と思ってる。はっきりとした道筋はできてるんだという自信があれば、自信をもってちがう道を探険することもできるんだよ。ただの脱線だったとしたらすぐにわかって必要な修正ができるしね。書いている本についてたくさんわかっていればいるほど、自由に遊んでまわれるってこと。わかってなければ、それだけ動きは窮屈にならざるをえない。

始めるのは、たいてい、おしまいからだ

タイトルはものすごく大事だよ。本の影も形もない頃からタイトルはできてる。それから、最後にくる数章も、始めにくる数章の影も形もないときから、頭のなかにできてるね。始めるのは、たいてい、おしまいからだ、すべてが終わったあとの余波、すべての騒ぎが収まったあとのこと、エピローグを意識して始める。ぼくはプロットが大好きだけど、終わりがわかってないでプロットってたてられるかい?人物をひとり登場させるのにも、そいつが最後はどういうふうになるのかわかってないで登場させられる?もどればいいだろうって言うひともいるだろうけどね。大事な発見はぜんぶ――本の最後に来るものだけど――前もってわかってなくちゃ困るんだ、どういうふうに始めるかはその後のことだよ。『ガープの世界』だと、ガープの母親は女を見境なく憎悪するバカな男にいずれ殺されるんだ、とわかってた。ガープは男を見境なく憎悪するバカな女に殺されるんだ、ともわかってた。どっちが先に殺されるのかは、わかってなかったけどね。だいたい、だれが主役なのかも、様子をしばらくみる必要があったし。最初はジェニーが主役だと思ってたんだけど、でも、聖女すぎて主役には向いてなかったんだよ――『サイダーハウス・ルール』では孤児院の院長であるウィルバー・ラーチが聖人すぎて主役にはなれなかったのとおなじだね。ガープとホーマー・ウェルズはいろいろと欠陥があり、ジェニーやラーチ医師とくらべると、愚かな人間だ。だから、主役になる。役者たちは知ってるんだよ、自分たちの最期を(略)まだ一言も台詞を言ってないうちから。
(略)
ぼくはそう思ってる。でも、ぼくは恐竜だからね。(略)
――どういう意味ですか?
二十世紀の小説家じゃないってこと。モダンではないし、もちろんポストモダンではない。ぼくが信奉してるのは十九世紀の小説だからね。(略)ぼくは古風なの、ただのストーリーテラーなのよ。アナリストではないし、インテリでもない。

日記がつまらないのはプロットがないから

じつは、ぼくは、いままで日記がちゃんと書けたためしがないんだ、思い出の文章もろくに書けない。書こうとしたことはあるんだけどね。じっさいにあったことを語ろうとした、現実の人間、親戚や友だちのことを思いだしながらさ。風景の細部なんかはかなりいいんだ、ところが、人間たちがあんまりおもしろくない――おたがいがつながっていかない。なんだか落ち着かないのは、なんだかつまらないのは、つまり、プロットがないからさ。ぼくの人生にはストーリーがまったくないんだよ!それで、すこしばかりおおげさにする、すこしね。すると、自伝的な文章がだんだんウソに変わっていく。だって、そりゃあ、ウソのほうがはるかにおもしろいから。そしてどんどん、でっちあげてる話のほうに、いもしない「親戚」の話のほうにのめりこんでいく。そうなるともう、頭のなかにあるのは小説さ、日記とはオサラバしてる。小説を書き上げたらまた書くからって約束して。でも、またおなじことの繰り返しになるんだ。ウソのほうがだんぜんおもしろいから――いつも。

ライターズ・ワークショップ

――アイオワ・ライターズ・ワークショップでの数年間はとんなふうに役に立ちましたか?
学生として「教わった」というようなことはあそこではあまりなかったね、もちろん激励と応援はいただいたけど――ヴァンス・ブアジェリーやカート・ヴォネガットやホセ・ドノソからアドヴァイスがもらえたのは貴重な時間の節約になった。どういうことかというと、ぼくが書く文章やものを書くこと全般についていろいろ言ってくれたんだけど、そういうことって、たぶん、独力でもいずれはわかることだとは思う、だけど、時間は若い作家には貴重だからね。ぼくもいつも言ってるんだよ、自分が若い作家に「教える」ことができるものはそういうことだって。みんないずれはわかることなのだって。でも、そういうことは早めに知っても損はないから。いま言ってるのはテクニカルなことだよ、それが唯一まあまあ教えられることなんじゃないのかな。
――とくに重要な「テクニカルな」ことって、たとえばどんなことですか?
「声」だね、テクニカルなことといったら。こっちの登場人物に近いところにいよう、あっちの登場人物からは離れていよう、といった選択――この視点か、あの視点か、というような。こういうことは学べるんだよ。自分のいい癖、悪い癖がわかるようになることはできる。どうすれば一人称の語りがうまくいくか、どうすると行き過ぎになるか、といったようなことはね。それから、三人称の語りの危険なところと便利なところ、三人称は歴史的な距離をもてるってことにいちおうはされてるけと(たとえば伝記作家の声みたいな)。じつにたくさんスタンスのとりかたはあるんだ、話をしていくときの態度のとりかたはすごくいっぱいある。そしてそれは作家の思いひとつなのね、作家がいくらでもコントロールできるんだ、アマチュアが考えてる以上に。読者はもちろんまずほとんど気がつかないけど。たとえば、グラスの『ブリキの太鼓』、主人公のオスカル・マツェラートを「かれ」とか「オスカル」にしていたかと思うと、つぎに――ときにはおなじセンテンスのなかで――子どもの頃のオスカルを「ぼく」にしてる、あれはみごとだ。オスカルが一人称の語り手であり、三人称の語り手なのね、おなじセンテンスのなかで。しかも、さりげなくおこなわれる、気がついてくれなんて素振りもない。ぼくは大嫌いなのよ、気がついてくれと言わんばかりの形式やスタイルって。

カシミール

 わたしはこれまでカシミールほど美しいところは世界のどこでも見たことがないよ。谷間がとても小さくて山々がとても大きいということのおかげだろう、だから、ミニチュアのような田舎がヒマラヤ山脈に囲まれているというような風景ができあがり、それはもう壮観だ。それと、ホントの話、そこの人々はこれまたすごく美しい。カシミールはすごく繁栄してる。土地はとても豊かだから、収穫も豊富だ。なかなか豪勢で、インドの多くの地域とはちがう、インドは足りないものが多いところだからね。しかし、もちろん、それらがいまはぜんふ消えた、そして大変な困難を味わっている。
 カシミールの主な産業は観光だった。外国からの観先客じゃなくて、インド人の観光客さ。インド映画を観ればわかるが、エキゾティックなものが欲しくなったときは、カシミールのダンスのナンバーを取り入れてたものさ。カシミールはインドのおとぎの国だった。インド人がそこへ行くのは、暑い国にいると涼しいところに行きたくなるからでね。みんな、雪を目にして狂喜してた。人々は、空港に着くと、汚くどろどろに解けかけた雪が道路脇に積みあがってるのを、まるでダイヤモンドの鉱山でも見つけたみたいにながめてたものだよ。そんなような魔法の空間の感じがあった。それがぜんぶいまは消えた、明日に講和条約が結ばれたとしても、それはもう戻ってこない。だって、破壊されたのは、わたしが書こうとしたのもそれなんだが、カシミールのいろんなものが入り混じった寛容な文化だからさ。ヒンドゥー教徒が追いだされてしまったいま、そしてイスラム教徒が過激にさせられて痛めつけられてるいま、それらをぜんぶもとに戻すことはできない。わたしが言いたかったのは、これは五、六千マイル離れた山のなかの人々の話であるだけでなく、われわれの話でもあるということだよ。

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