自由と平等の昭和史 一九三〇年代の日本政治 坂野潤治

 

はじめに

――忘れられてきた「対立相克」 坂野潤治

社会的、経済的な「不平等」が全く改められないで、「政治的平等」だけが与えられた時、労働者や小作人や零細企業者はどうするであろうか。1925年に選挙権を与えられた約900万人の新有権者は、選挙を通じて議会変え、議会を通じて政府を動かし、社会的、経済的不平等の是正を図ると考えるのが普通であろう。当時の進歩的な知識人も、言論界も、そう思っていた。[しかし結果は、既成政党が無産政党に圧勝](略)
これ以後「既成政党」はもちろん言論界も、普通選挙制の導入による政治構造の変化という恐怖もしくは期待を完全に忘却(略)
ファシズムによる「既成政党」の衰退の方に関心を集中した。
(略)
[戦後の日本史学は]「自由主義」を攻撃する「社会主義」を、「ファシズム」の味方と位置付けたのである。こうなれば、たとえば社会的経済的不平等に無関心だった斎藤隆夫は、左右のファシズムに反対した唯一の「自由主義者」になる。不幸なことに、ファシストの前身は、ヒットラームッソリーニも「社会主義者」であった。こうして1936、37年の社会主義者[社会大衆党]は、真中の「自由主義者」を飛び越えて、最右翼の軍ファシズムの同調者として片付けられてきた。
(略)
社会主義」陣営において、「自由」よりも「平等」を重視しつづけ、その観点から「既成政党」との対決を最優先したのは、社会大衆党の主流派であり、彼らはそのためには陸軍内の同様のグループに接近することも厭わなかった。彼らの立場は、「自由」よりも「平等」を基準とする点で、「社会民主主義」と言うよりは、「国家社会主義」と呼んだ方がいい場合もあった。しかし、このグループをその「国家社会主義」的側面から「ファシスト」と決めつけてしまっては、普通選挙下での社会的経済的不平等を求める中下層国民の健全な姿を見失うことになる。(略)
「反ファシズム」の掛け声の下に、旧来の資本家と地主を基盤とする政党政治復権を求める者と、たとえ「親ファシズム」と呼ばれる危険を冒しても、社会的経済的不平等の是正を普通選挙下の政治に求めようとした者たちの対立は、軍ファシズム自由主義者の対立と同程度の激しさを持っていたのである。
(略)
われわれが「自由」中心型の政治家や思想家の代表格として選んだのは、評論家馬場恒吾である。(略)
自由を中心に1930年代のデモクラシーを考えていた馬場恒吾に対し、同じ昭和のデモクラシーを「平等」を軸に考えていたのは、吉野作造の弟子筋にあたる行政学蝋山政道だった。彼は新興の社会大衆党の成長の中に、既得権にこだわる自由主義者の限界を乗り越える、「政治」の可能性を見出していたのである。
(略)
 常識的に考えれば、1936年2月の青年将校の反乱は、その六日前の総選挙での民政党の増大と社会大衆党の躍進とに、真向から対立するものであった。「自由」と「平等」が「テロ」によって脅かされたのである。しかし、野上彌生子の小説の主人公たちが昭和の初年に最重視したのは、「自由」でも「平等」でもなく、「革命」であった。彼らは「転向」後にも、この「革命」幻想を捨て切れなかった。
 このような観点から、彼ら転向者は、青年将校のテロを、「自由と平等」の敵と簡単には片付けられなかった。彼らは、方向は正反対なことは十分に知りながらも、二・二六事件の中に、かつて自分たちがめざした「革命」の夢の一端を見出していたのである。少なくとも彌生子は、小説の中で、このような転向左翼のねじれた心情を描いている。

第一章 『反ファッショか格差是正

 ――馬場恒吾蝋山政道』 坂野潤治

1937年1月に、天皇の組閣の大命を受けながら陸軍の反対で宇垣一成が組閣を断念(略)
[戦後、10年前の組閣失敗について宇垣は]
[訪ねてきた人から]世相を聴くと、『どうも陸軍一部の動きが変だ。近い中に何か外に対して事を始めるのぢやないか。それはロシアに対してやるのか支那に対してやるのか、その二つの中何れかに対して事を始めようといふ企てがある。何かやるに違ひない。』、斯ういふことであつた。
 そこで私は考へた。『これはどうも大変な事だ、その当時の日本の勢といふものは産業も着々と興り、貿易では世界を圧倒する。(略)英国を始め合衆国ですら悲鳴をあげてゐる。(略)[安い]日本品とは競争が出来ぬ、といふことになつて来かけてをる時である。この調子をもう五年か八年続けて行つたならば、日本は名実共に世界第一等国になれる。……だから今下手に戦などを始めてはいかぬ。(略)併し戦争をさせぬやうに抑へて行くには凝つと政界を視渡してをつても、これがやれさうな人は見へぬ。殊に震源地が陸軍にある、問題の中心が陸軍にある。その陸軍育ちの人間としては自分が自惚れではないけれども年の甲を積み相当に重きをなして来てをるのだからやはり我輩がもう一度犠牲となつても之を脱線させぬやうにやる為に出なければならぬ』と考へた」『宇垣一成日記』
 ここで宇垣が回想しているのは、対ソ、対中戦争を回避して経済大国化路線を続けるために陸軍の長老たる自分が出馬を決意した、ということである。(略)
ここで重要なのは、第一に宇垣は戦争回避だけではなく、「憲政とフアツシヨの流の分岐点」にあって「憲政最後の防波堤」たらんとしたという点である。1937年1月に宇垣は、戦争か平和か、ファッショか憲政かの「分岐点」を見出していたのである。
 第二に、宇垣は自己の組閣を阻止する陸軍に対して、政友会や民政党が一斉に反撃することを期待していた点である。戦争とファッショに対して、いわゆる「既成政党」が一大反撃に出ることを、宇垣は信じていたのである。
 たしかに太平洋戦争を経験した戦後の日本人の目からすれば、穏健な陸軍長老を首相にして、全議席の約八割を握る政・民両党が結束して戦争と軍ファシズムを阻止するという構図は、文句のないシナリオに映るであろう。
 しかし、このシナリオが最善に見えるのは、八年後の敗戦時から振り返るからである。(略)
[普通選挙から12年、政治的平等だけでは満足できなくなっていた]
 そのような時に、「大正デモクラシー」の成果の上に10年以上もあぐらをかいてきた政友会と民政党に、反戦反ファッショのために我々の連立内閣を支持せよと言われても、漸く上昇気流に乗りつつあった社会大衆党が首を縦に振るとは限らなかった。彼らにとっては、宇垣内閣の流産は、特に悲しむべきものではなかったかも知れないのである。
(略)
「既成政党」が反軍反ファッショの声を挙げ、躍進する新興の社会主義政党がその「既成政党」を攻撃するという民主勢力間の“ねじれ”を、知識人たちがどう見ていたのか
(略)
[37年5月中央公論主催の座談会における、馬場恒吾清沢洌]二人の自由主義者の観点は100%戦後の「昭和史」理解に受継がれてきたものである。戦争とファシズムという対外対内の危機を前にして、農村地主と財界を基盤とする「既成政党」を守れ、という主張である。
(略)
[一方]蝋山は「既成政党」の方こそ、労働者、小作農、中小企業者らの不満を背景に躍進を続ける社会大衆党に歩み寄れ、と反論
(略)
[ロンドン軍縮会議において、日本は不当に譲歩した、浜口首相は天皇大権を干犯したと主張する政友会]
五・一五事件で倒された政友会の不人気は、その腐敗性にあるのではなく、そのファッショ性に原因するというのは卓見である。しかし衆議院過半数を占める政党を政権につけないという二大政党制論があり得るであろうか。
 ファッショ的な政友会を嫌悪し、微弱すぎる新興の社会民主主義政党(社会大衆党)にも期待できないとなれば、馬場としては「既成政党」の第二党である民政党に頑張ってもらう以外にはなくなる。
(略)
しかし、馬場は皇道派や政友会のような日本主義的なファッショだけではなく、陸軍統制派と政治化した官僚(新官僚)と社会大衆党が結んだ「合法フアツシヨ」に対しても、強い警戒心を抱いていた。
(略)
しかし、1932年2月の第18回総選挙で466議席中のわずか146議席(政友会は301議席)にまで凋落した民政党一党だけに頼って、他の全ての勢力を「フアツシヨ」もしくはその同調者と位置づける、馬場の議論は、著しく現実味を欠く。
 この弱点を補うため馬場は二大政党制論にしがみつく。たとえファッショ的でも政友会を二大政党制の一極として他の諸ファッショ勢力とは違って尊重するのである。(略)
以上のような馬場の主張は1936年2月の第19回総選挙において実現の寸前にまで至った、政友会が71議席を減らしたのに対して民政党は78議席を増加させた。[民政党:250、政友会:171、社会大衆党:18](略)
二大政党の間では平和外交で自由主義民政党が優位に立つ、これが1936年2月20日の総選挙までの馬場恒吾自由主義だったのである。
[一方、蝋山は社会民主主義者として既成政党と社会大衆党との二大政党論者だった]

馬場の「立憲独裁」への転換

「立憲的独裁」という概念で眼前の政党政治の衰退を分析したのは日本では、蝋山政道が最初であろう。彼のすごいところは1932年の五・一五事件による政党内閣の崩壊の後で、「立憲的独裁」の到来を自覚したのではない点にある。それより4ヶ月に前に(略)彼は「憲政常道と立憲的独裁」と第する短文を発表している。(略)
[第二次大戦]後の民主主義体制への復帰を知っていた、ロシターにとっては「立憲独裁」とは、危機が克服されたら再び民主主義体制に戻るという約束のもとに行われた、いわば期間限定的な独裁だった。(略)
[蝋山は]ロシターよりもはるか以前に、ファシズムでもスターリン独裁でもない危機克服体制として「立憲独裁」を考えていたのである。
(略)
[二・二六事件を境に馬場も蝋山も微妙に変化]
執拗なまでに、既成ニ党による二大政党制を主張してきた馬場は、二・二六事件を機として、政民連携論に立場を変えた。陸軍内の穏健派と、政民両既成政党の協力による議会政治の復活、という主張に変わってきたのである。これは数年前の大恐慌時に蝋山が一旦は覚悟した「立憲独裁」論への馬場の転換である。
 他方蝋山の方も、社会大衆党を軸としながらも、かつての「立憲独裁」論に回帰しようとしていた。
(略)
「政党が連合した内閣が出来」るには、もう一つ条件が必要である、と馬場は説く。陸軍が国家社会主義的なイデオロギーから脱して、国防充実の一点に専念することである。馬場はこれを、「広義国防」から「狭義国防」への転換と呼んでいる。(略)社会大衆党などの主張の逆手を取ったものである。(略)
物分りの良くなった陸軍と、「既成政党」との協力による「狭義国防」の実現という馬場の構想は、近衛文麿の下に新政党を作って、国防と社会改造を実現しようという社会大衆党を孤立させようとするものであった(略)
ここで注目すべきことは、軍部が近衛を担ぐ新党運動から手を引くことが、「狭義国防」と同じことと位置づけられている点である。(略)馬場は社会大衆党が否定の対象として掲げた、「狭義国防」と「政民連合」のセットを、はっきりと選んだのである。(略)
それは戦後外交の用語を使えば、「抑止力」論とでも呼ぶべきものであった。すなわち陸軍の主張する対ソ戦準備の軍拡計画を容認しながら、「政民連合」の力で戦争の勃発自体は押さえるというもので、戦後の米ソ冷戦体制に酷似した構想だったのである。
(略)
 国内的には陸軍の合理主義者(たとえば石原莞爾)と政民連合の協調、対外的には「日ソ冷戦体制」の堅持、これが日中戦争直前の自由主義者の橋頭堡だったのである。(略)
[再度説明]
陸軍が両既成政党の意向を尊重するのだから、両党を通じて議会の意向をも尊重することになる。その点では、この体制は明らかに「立憲的」である。しかし他方で、衆議院の八割以上を占める両党が協力して陸軍の対ソ戦準備を支持することが、この体制における政党側の譲歩である。そうだとすれば、国民の側には、あるいは議会の側には、これ以外の政策、これ以外の体制を選択する余地はない。(略)
この点で馬場構想は明らかに「独裁的」だったのである。馬場構想は、「立憲的」であると同時に、「独裁的」だったのである。

「粛軍演説」を「旧潮流」とした蝋山

 当時の論壇でも今日の学会でも、二・二六事件に正面から対抗した者といえば、必ず民政党斎藤隆夫の名前があがる。(略)有名な「粛軍演説」がそれである。
 しかるに蝋山は、この斎藤演説を「旧潮流」の典型として切って捨てる。(略)
斎藤の「極めてエレメンタルな立憲主義論」が大受けした理由は、二・二六事件により「立憲主義」が脅威にさらされたためである。しかし、単なる「立憲主義」の再確認だけで、議会政治は復権できるであろうか。蝋山の答えはノーである。(略)
彼は斎藤隆夫立憲主義を「旧潮流」と呼び、自分の「憲法の範囲内」での「革新」を「新潮流」と位置付けているのである。[それはどんなものか?](略)
何らかの形での政民両政党内の改革派の台頭に期待する蝋山は、その勢力と躍進する社会大衆党との提携を求めていた。(略)
 改革された「行政機構」と無力化した「議会」をセットにした上で、蝋山はどうやって「国民大衆との関係を改善」するつもりだったのであろうか。もし議会における社会大衆党と政民反主流派の勢力増大が可能ならば、「行政機構改革」は「議会改革」を通じて「国民大衆」との関係を再構築できる。この場合には、馬場とは別の意味での「立憲独裁」が成立する。(略)
要するに自由主義者馬場恒吾は、政民主流派に片足を置いた「立憲独裁」を、社会民主主義蝋山政道は、社会大衆党と政民反主流派に軸足を置いた「立憲独裁」を唱えていたのである。

二人の時代の終焉

日中戦争が本格化し長期化するに従い、両者[馬場、蝋山]の路線対立そのものの意味がなくなっていくのである。
 馬場について言えば、言論を通じて議会・政党に影響を与える自由がなくなり、反対に言論の自由が唯一与えられている議会の言論を読者に伝達するのが精一杯になってくる。しかもその議会・政党そのものが政府批判を口にしなくなれば、馬場には言論人としての仕事がなくなる。(略)[日中戦争が本格化する中]馬場は言論の不自由と議会の職責放棄を厳しく批判している。
 彼によれば、言論界は自国の立場と内情を世界に伝える一種の外交機関でもある。しかるに「日本の言論機関も近年必ずしも自由と云へない。従ってそれが如何なる程度に日本を外国に諒解せしめ得たかゞ不明である」。しかし日本には議会がある。「議会政治がまだその機能を失はない国に於ては、その国の政府の真意が何処にあるかは、大抵議会に於ける質疑応答に依って明かになる」。しかるに今日では、「日本の議会は国策の決定に対して、国民の代表機関たる職責を充分に尽くしてゐるか否かゞ疑問である。……議会の方針は政府を後援するにありと云ふのは、われわれ門外漢の俯に落ちないとする所である」。言論界と議会を日中戦争に奪われた時、馬場の時代は終わったのである。
 それにひきかえ、蝋山政道の方は、近衛内閣のブレインの一人として活動の幅を広めていった。しかし、昭和研究会を率いて近衛首相の一種のシンク・タンクの中心メンバーとなってからの蝋山の言論には、議会や政党を「下から」変革しようとしていた日中戦争以前の活気が全く感じられない。(略)
馬場とは別の意味で、蝋山の時代も終わったのである。
(略)
[戦争とテロの1930年代だったが]
本章で明らかにしたように、この八年の間、自由主義者馬場恒吾社会民主主義蝋山政道も、自己の政治的主張を実にいきいきと公表している。筆者が「大正デモクラシー」ならぬ「昭和デモクラシー」という言葉で1930年代を語りたいと思ったのは、彼らの堂々とした言論活動に感動したからである。
 それならば何故に彼らは、侵略戦争とテロと天皇制の強化を抑えられなかったのか、と人は問うであろう。この問いに対する答は、もちろん多様である。その中で、本章が明らかにしたのは、悲しいまでの「自由」と「平等」の正面衝突である。馬場は「自由」の旗手であったが、「平等」については驚くほど無関心であった。他方、蝋山が「自由」を嫌ったとまでは言わないが、彼は金持の「自由」よりは貧窮する大衆のための「平等」の方をはるかに重視した。(略)
馬場恒吾蝋山政道が、あるいは政民両既成政党と社会大衆党とが一つになれば、議会は「自由」と「平等」の合法的機関となり、侵略戦争ファシズムを、ある線までで止められたに違いない。しかし、今日にあっても、「構造改革」と「格差是正」の声が一つになる可能性はない。そしてそれが一つにならないかぎり、「自由と平等」がこの日本を支配することはできないであろう。1930年代の日本の知識人が「自由」のために、また「平等」のために努力しなかった訳ではない。彼らは今日のわれわれと同じように、「自由」と「平等」の両立に失敗しただけなのである。

次回に続く。

 

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