官のシステム

政策決定上重要な地位を占める各省次官は政治任用するはずだったのに、一般職の枠に入れてその地位を堅く保障してしまった顛末。

官のシステム (行政学叢書)

官のシステム (行政学叢書)

土光臨調関係者1983年座談会。「天皇の官吏」

山下 結局、国家公務員というのは国家と雇用関係にあるわけですが、この場合の国家とは何か、それはどういう関係かということが、基本的問題ですね。
佐藤 それは政府ということになると思いますが、国民主権ですから、最終的にはデモクラティック・コントロールに服する。そこから公僕という関係になる。
山下 だけど、総合管理庁(人事組織の総合調整官庁)構想というものを出した背景として問題になったことですが、やはり大変な数の雇用をやっているという以上、それを総括的に面倒を見ている相手方がはっきりしないということは、僕はあり得ないと思うんですよ。(略)ストライキがないということを利用して、逆に言うと、みんな追っつけ人事をやっているわけですよ。都合のいい追っつけ人事をやっているんだ。
(略)
佐藤 やっぱり陛下の官吏なのですね。雇用なんという発想がそもそもないんですから(笑い)。
牛尾 しかし、人事管理の責任がなきゃ経営当事者の能力がないと同じだと言った。
河合 今、一応それは人事局がやっている、対組合の交渉とか、対組合交渉の窓口の役割を人事局が行うわけですけれども、人事局は非常に当事者能力がないわけですね。
山下 ないですね。ないようにしてあるわけ……。
  (略)
 人事当局がはっきりしている自治職員組合と比較し、この「分割逃げ回り」体制の中で、国の職員組合は脆弱である。(略)
 興味深いのは、この弱体ぶりが、結局、国家公務員が実質的に「天皇の官吏」であると捉えられている点である。戦後改革によって政府活動の正統性の源泉が天皇から国民に転換した後も、国のレベルで官という職名も当然のように継続し、その意識改革も進まなかったことになる。

施行されない「職階法」

法律は施行されることが当たり前であり、ひとたび施行・実施された後、当初の立法事由が失われ実質的に死文化していても、状況の変転でいつ覚醒させる必要が起こるかもしれないから、所管省庁は廃止せず保存しておく。しかし、施行されてから半世紀以上を経ても実施されない例は珍しい。その珍しい例が公務員制度における職階制の関係法である。1948年施行の「国家公務員法」(以下、国公法)の関係規定と1950年施行の「国家公務員の職階制に関する法律」(以下、職階法)がそれである。
 職階制が今日に至るまで末実施であるということは、公務の現場で仕事が行われているという単純な事実からして、職階制とは異なった組織・人事システムが作動しているということになる。それは戦後改革をやり過ごして生き続けた官のシステムである。

公務員人事行政に国会が干与すべき

 国公法第二九条は、「職階制は、法律でこれを定める」とし、その第二項で「人事院は、職階制を立案し、官職を職務の種類及び複雑と責任の度に応じて分類整理しなければならない」と決められ(略)
 この国公法を受けて職階法案が審議されることとなった。(略)
[公聴会にて]足立忠夫は主として次の点から法案に「反対」を表明した。足立によれば、国公法第二九条第一項は国公法の原案には見られなかった箇条であり、「公務員の人事行政に国会が更に深く干与すべきである。人事院への委任は制限すべきである」とする東京大学の公法研究会の意見を入れて挿入されたものであり、職階制は従来の特権的な官僚制度を打破する有力な武器となるが、その職階制の制定権を形式的のみならず実質的にも国会が持つべきであり、官職を分類整理する計画は法律でこれを定めなければならないにもかかわらず、「今後人事院が制定する人事院規則及び人事院指令並びに職種職級一覧表及び職級明細書にゆだねよ」と要求しているのは明らかに弟一項に違反している、と。足立の所見は国会統制を重視する意見であった。

職階制は本来、自由任用制の弊害を矯正するもの

清明によれば、アメリカでは公務員の自由任用制に弊害(政党運動の活動への褒美として官職を与えるとか、そうした活動ゆえに無能であるにもかかわらず人より早く昇進されるといったこと)が目立つようになり、職階制はそれに対する一つの矯正として導入されたものである。専門的な知識と同時に責任感を持った公務員を確保しようとしたことが職階制を採用した理由だとした。

定義自身が職階制に矛盾している!
政策に関わる者に職階制を持ち込むなんて。行政職は自由任用にすべき。

 日本の場合は、次官、局長、いわゆる従来の高文出身の事務官吏が一般行政職に入っている。これを職階制の枠に入れようとすると、その専門がはっきりしないため非常に困難になる。そもそも職階制は、行政組織の中から不合理的な要素を排除して、できるだけ規格化された仕事の単位を作り、そういう単位を構成要素とする科学的な組織を作ろうという制度である。(略)
 したがって、専門的かつ技術的な行政の分解においてのみ職階制は可能になる。ところがこの一般行政職の定義を見ると、「この職種は一般的な行政事務即ち専門的、技術的な部面を除いた行政的な責任を有する業務の監督又は指導云々」となっていて、定義自身が職階制に矛盾している。(略)
事務官の職務は、日本の場合は、今まで国会の地位が非常に低かったために大体において行政官庁が実質上の日本の政治を行ってきた。そういう事務官系統のしかも特に高級になれば、それらの人の仕事は、純然たる技術的な職務というよりはむしろ政治に関係する政策決定の仕事である。そういう政策決定の仕事を専門の標準によって細かく分類するということ自身が矛盾である。
 そこで、辻は、「日本の場合は、むしろポリシー・メーキング・ポジション、いわば行政織というものを職階制から外して、すべて自由任用にすべきである」と主張した。

「職階給制」でごまかす

 戦前期の官吏制度は、敗戦とGHQによる一連の改革が進む中で、アメリカ生まれの職階制なる官職分類制度によって再編されようとしていた。(略)
 抵抗の中核となったのは当時の大蔵省給与局であり、この給与局に参集していた高文官僚たちは「職階給制」を立案する。彼らにしても、GHQが強要する職階制を正面から否定できない。しかし、なんとしても戦前の人事システムを追認させる方式を考案しなければならない。守るべきは明治20年代以来の、学卒一斉採用と内部昇進を大原則とする幹部候補生の人事慣行であった。(略)
給与局は、職務や職責を、職務実態の詳細な分析に基づかず、戦前の人事運用を前提にした学歴資格と勤続年数によって推定しようというものにしていた。これが「職階制まがい」のものであった理由である。完全な職務分析を行わなくとも、学歴、資格、勤続年数による推定によって、それぞれ給与等級に格付することで職務給原則を導入できるという言い訳になっていた。この「職階給制」は、「当面の職階制」という「仮面」をかぶせられ、1948年5月に、15級制として世に送り出されていく。

「給与等級型試験」のはずが

 職階制の実施を待たずに、人事院によって始められた国家公務員採用試験は、川手摂によれば、採用にあたって給与制度上の級に格付けられると銘打ち、それを名称にまで掲げる「給与等級型試験」となっていた。(略)
 表向きは、国家公務員試験は合格者に高等官という「特権的身分」を与えるための試験ではなくなっただけではなく「幹部候補生」を選別するための試験ですらなくなったのである。しかし、各省の人事担当者たちは、制度上は職務の級六級に採用するための試験にすぎない六級職試験を、幹部候補を選抜する、いわば高文の事実上の後継試験とみなすようになっていく。これは一種の密行である。

戦前期の自由任用

 わが国では、1898年、大隈重信内閣のときに政党員が勅任官に任用されたのが自由任用の最初であるといわれる。しかし、翌年には、文官任用令が改正され、政党による猟官運動を防止するため、内務省警保局長や警視総監などを自由任用ではなくしている。
 (略)その後、官吏の自由任用の範囲は、1913年の拡大、1914年の縮小、1920年の拡大と一進一退の伸縮を繰り返している。「その経過はいわば勃興しつつあった政党と官僚の妥協の諸形態の反映ともいうべき」ものであった。(略)
 こうして見ると、旧官吏制度の下においては、自由任用の対象を拡大する政治圧力が間欠的にあったものの、猟官制の弊害を排除するために官吏の任用を成績主義に基づくものにしようとする傾向が強かったといえよう。

政治任用するはずの次官が一般職で安泰

あまり注目されてこなかったが、1947年11月の片山哲内閣時に国公法が制定されたとき、特別職の範囲の中に各省次官と各省参与官が入れられ、これらを政治任用することとなっていたのである。ところが、マッカーサー元帥の公務員の争議行為及び団体交渉を禁止する「政令二〇一号」を受け、1948年11月には国公法改正が行われ、「人事院」の設置は決まったが、事務次官の職が特別職から一般職へ移行され、参与官は廃止されてしまった。際どい、しかし重要な変更であった。辻は、この改正に言及して、「わが国で従来政策決定上重要な地位を占めている各省次官さえも逆に一般職としてその地位を往年のごとく堅く保障されることになったのである。

えー、引用が長めですが、これでもがんばって削ったのであります。
明日に続く。