一四一七年、その一冊が・その2

前回の続き。

コッサ廃位、フスの処刑

[公会議の主要課題は教皇統治の改革と、異端の弾圧]
 チェコ人の聖職者で宗教改革者であった四四歳のヤン・フスは、何年も前から教会の悩みの種だった。説教や文章を通じて、聖職者の悪弊を激しく攻撃し、はびこる強欲、偽善、性的不道徳を非難した。また教会が免罪符の販売を商売にしていることを糾弾した。(略)フスは会衆に対して、聖母、聖人、教会、教皇を信じてはならない、神のみを信じよと説いた。(略)
大胆にも教会の政治にまで口を出した。そして、国には教会を監督する権利と義務があると主張した。一般の人々は宗教指導者を批判できるし、また批判すべきである。(略)
フスは言う。なんといっても教皇制度は人間が作ったものだ――「教皇」などという言葉は聖書のどこにも出てこない。
(略)
有力なボヘミア貴族たちの庇護の下、フスは危険な思想を流布しつづけ、それは広範囲に広まろうとしていた。
(略)
教会の支配層から恐れられ、憎まれていたこのボヘミア人は、根本的な方針として、その教会支配層にいるコッサの敵がしようとしているのと同じことをする、と明言していた。すなわち、堕落を非難されている教皇には服従せず、むしろ退位を迫ろうというのである。おそらく、こうした不安な状況は、コンスタンツでフスに関する奇妙な疑いが広まっていた理由をよく説明している。フスは並外れた力を持つ魔術師で、ある距離以内に近づいた者すべての心を読むことができるというのだ。(略)
自分の見解を述べるよう、コンスタンツに正式に招待された。このチェコの改革者には夢想家らしい明るい確信があった。自分が主張する真理は、もし明言することを許されるなら、きっと無知と不誠実のクモの巣を一掃するだろう、と。
 異端者として告発されていたフスは、当然ながら、慎重でもあった。フスは最近、三人の若者が斬首される光景を目にしており、そのうち二人は自分の教え子だった。ボヘミアの比較的安全な庇護者の下を離れる前、フスはプラハ司教区の宗教裁判所長に正統的信仰の証明書を申請し受けとっていた。また、皇帝ジギスムントからは自由通行の保証を受けていた。(略)
フスに同行したボヘミア貴族たちは、先乗りして教皇と会談し、フスが暴力の危険を伴わずにコンスタンツに滞在できるかどうかを問いただした。ヨハネス二三世は答えた。「たとえ彼が私の兄弟を殺したとしても、コンスタンツにいる間は、髪の毛一本にも手を触れさせないようにする」
(略)
 教皇公会議と皇帝が発言の機会を保証していたにもかかわらず、フスはほとんどすぐに、あしざまに非難され、公の場で話す機会を否定された。一一月二八日、コンスタンツに到着して三週間もたたないうちに、枢機卿らの命令によってフスは逮捕され、ライン川の畔にあるドミニコ会修道院の監獄に連れていかれた。地下の独居房に放りこまれた
(略)
フスの迫害が、分裂を終わらせる決意から会議の焦点をそらし、あるいは自分の敵を黙らせるのに役立つと、コッサが思っていたとしたら、大間違いだった。
(略)
マインツ大司教が立ちあがり、ヨハネス二三世以外の教皇には絶対に従わない、と述べた。ところが彼が期待していたにちがいない賛同の声はあがらなかった。その代わりにコンスタンティノープル大司教が叫んだ。「あいつは誰だ?火あぶりにすべきだ!」
(略)
コッサは逃亡した。顔を見られぬよう、灰色のフードがついた灰色のマントにくるまり、馬に乗って静かに門を抜けた。(略)できるだけこっそりと町を出た。しかし噂はたちまち広まった。ヨハネス二三世が逃げた。(略)
教皇が逃げだすと、ほかの全員も逃げだした。夜中に、追っ手もいないのに」そしてついに、皇帝から大きな圧力を受けたコッサのいちばんの擁護者が、ありがたくない客を引き渡した。
(略)
 コッサに対して正式に七〇もの嫌疑が読みあげられた。世論への影響を恐れた公会議は、最も恥ずべき一六の嫌疑は伏せ――のちに明らかにされることはなかった――教皇を聖職売買、男色、強姦、近親相姦、拷問、殺人に絞って起訴した。またコッサは前任者を毒殺した罪でも、侍医をはじめとする複数の人間とともに起訴された。
(略)
 コッサは廃位後まもなく、ライン河畔のゴットリーベン城にしばらく投獄された。ここはフスがほとんど飢餓状態で二か月以上も鎖につながれていた城である。
(略)
有罪判決を受けた異端者が、コンスタンツの大聖堂で行われた厳粛な儀式において、正式に聖職を剥奪されたのは、一四一五年七月六日のことだった。フスは高さ四五センチほどの紙製の円筒形の冠を頭に載せられ、冠には三匹の悪魔が魂をつかんで引き裂こうとしている図が描かれていた。大聖堂の外に引き出され、彼の本が燃やされている薪の前を通りすぎると、鎖で縛られ、火刑に処せられた。遺物がいっさい残らないように、処刑人たちは黒こげの骨を粉々に砕いて、すべてライン川に投げ捨てた。

ポッジョ、ヒエロニムスを賞賛

彼はフスがその権力に挑戦した教皇庁に仕えていた(略)だが数か月後に、フスの仲間、プラハのヒエロニムスが異端の罪で裁判にかけられると、ポッジョは黙っていられなかった。(略)
[友人への手紙で]ポッジョは書いている。「自己の立場を主張するときに、しかもその主張に自分の命がかかっているときに、あれほど古代人の水準に近い雄弁さで語れる人物を私は見たことがなかった。その雄弁さはまさしくわれわれが賛美するものである」ポッジョは明らかに自分が危険な領域に足を踏みいれていることに気づいていたが、この教皇庁の官僚は、人文主義者としての熱烈な賞賛を完全には抑えることができなかった。
(略)
[手紙の日付は]ヒエロニムスが処刑された日なのである。ポッジョが手紙を書いたのは、とりわけ恐ろしい出来事を目にした後のことだった。(略)
三七歳のヒエロニムスは、町の外に引き出され、フスが火刑に処され、これから自分も死を迎える場所まで連れてこられると、自分の信念をくりかえし述べ、連禱を朗唱した。フスのときと同様に、誰もヒエロニムスの告解(赦しの秘跡)を聴こうとはしなかった。そのような秘跡は異端者には認められていなかった。火がつけられると、フスは叫び声をあげてすぐに死んだが(略)[ヒエロニムスは]「フスよりもはるかに長い時間、火の中で生きていて、恐ろしい悲鳴をあげた。というのも、フスよりもがっしりとした体格の、いかつい男だったからだ。
(略)
 「疑問の余地はない」とポッジョは書いている。「この偉大と呼ぶにふさわしい、道徳心と機知に富んだ、気品のある純粋な男は、汚物にまみれた牢獄の不潔さと看守らの非道な残酷さに、もうそれ以上長くは耐えられなかっただろう」(略)
[これはヒエロニムスについてではなく]
ポッジョがザンクト・ガレンで発見したクインティリアヌスの写本について書いた文章である。
 彼は嘆き悲しみ、喪服姿であった。死ぬ運命にある人がみなそうであるように。彼のあごひげは汚れ、髪の毛は泥で固まっていた。その表情や様子から、彼が不当な罰を受けていることは明白だった。彼は両手を伸ばし、ローマの人々の誠実さを求め、自分が不当な刑から救われることを願っているように見えた。
 五月に目にした光景が、修道院の蔵書を探索する間も、人文主義者の脳裏に生々しく蘇る。ヒエロニムスは抗議した。汚物にまみれ、足かせをはめられ、あらゆる安らぎを奪われたと。そしてクインティリアヌスも、カビやほこりにまみれた状態で発見されたのだった。
(略)
発見するやいなや、ポッジョは腰をおろし、その長大な作品全体を、美しい手書き文字で書き写しはじめた。仕事を終えるのに五四日かかった。「古代ローマの正真正銘の権威者である。彼ほどの権威者はほかにはキケロしかいない。キケロは彼の文章をあちこちで引用している」
(略)
悪名高い堕落した教皇に仕えた皮肉屋の秘書ポッジョは、仲間たちから文化的英雄、ばらばらにされ、ねじ曲げられた古代の遺体をふたたび組み立て生き返らせた祈禱治療師とみなされた。
[かくして再度フルダ修道院にやってきたポッジョが手に取ったのがルクレティウス『物の本質について』]

ルクレティウス『物の本質について』

ポッジョは、のちに『物の本質について』に共感した何人かの読者と同じように、自分にこう言い聞かせたかもしれない。この才気あふれる古代の詩人はただ、多神教信仰の空虚さと、それゆえに、じつは存在しない神々に生け贄を捧げることの愚かしさを直観しただけにすぎない、と。なにしろルクレティウスは、不幸なことに、救世主の出現する少し前の時代の人だったのだ。あと一〇〇年遅く生まれていれば、真理を知る機会を持てただろうが、じっさいはそうではなかった。
(略)
 しかし、無神論――より正確に言えば神々の無関心――はルクレティウスの詩がもたらした唯一の問題ではなかった。主たる懸念材料はほかのところ、われわれ人間が暮らす物質界にあった。そしてそこで、きわめて不穏な論争が生じた。論争は、その恐るべき力に大いに衝撃を受けた人々――マキャヴェッリ、ブルーノ、ガリレオなど――を魅了し、奇妙な一連の思考へと誘った。
(略)
・万物は目に見えない粒子でできている。(略)
・物質の基本となる粒子――「事物の種子」――は永遠である。時間は限界を持たず(略)無限である。星々から最も下等な昆虫まで、全宇宙は目に見えない粒子でできている。これらの粒子は破壊不可能であり、不滅である。しかし、宇宙に存在する個々の事物は無常である。つまり、われわれが目にする形あるものはすべて、どんなに永続性があると思われるものでも、一時的なものにすぎない。それらを形作っている基本構成要素は遅かれ早かれ再配分されるのだ。しかしこの基本構成要素そのものは永久的なものであり、結合、分解、再配分をたえずくりかえしている。
(略)
・すべての粒子は無限の真空の中で動いている
(略)
・宇宙には創造者も設計者もいない。(略)この世の秩序と無秩序のくりかえしは、いかなる神の計画の産物でもない。神の摂理は幻想である。(略)
 存在には終わりも目的もない。絶え間ない創造と破壊があるのみで、すべては偶然に支配されている。
(略)
・死後の世界は存在しない。
(略)
・組織化された宗教はすべて迷信的な妄想である。その妄想は、深く根づいた願望、恐怖、無知に基づいている。人間は、自分たちが持ちたいと思っている力と美しさと完全なる安心のイメージを作りあげている。そのイメージに従って神々をこしらえ、自分の夢の奴隷となっている。
(略)
・宗教はつねに残酷である。宗教はいつも希望と愛を約束するが、その深層にある基礎構造は残酷さだ。だからこそ報復の幻想に駆りたてられ、だからこそ信者の間に不安をかきたてずにはいられないのである。宗教を典型的に象徴するもの――そして宗教の核心をなす邪悪さの明白なあらわれ――は、親が子を生け贄に捧げることである。
(略)
・天使も、悪魔も、幽霊も存在しない。
(略)
・物の本質を理解することは、深い驚きを生み出す。宇宙は原子と真空だけで構成され、ほかには何もない。世界は天の創造者がわれわれのために創ったものではない。われわれは宇宙の中心ではない。われわれの感情生活も、肉体生活も、他の生き物たちのそれと異ならない。われわれの魂は肉体と同様、物質的なものであり、死すべき運命にある。以上のことを悟ったからといって、これらすべてが絶望の原因になるわけではない。それどころか、物事の真のありようを理解することは、幸福の可能性へ向けての重要なステップである。人間が取るに足りない存在であること(略)は、望ましいことである、とルクレティウスは主張する。
(略)
魂は一時的にこの世にあるだけで、その後どこか別の場所に行く、という有害な信仰に、人は引きこまれてはならない。その信仰は、人々が唯一の生命を生きている環境との間に有害な関係を生じさせるだけである。(略)
この世界を含む万物は、いつか崩壊し、その構成要素である原子に戻る。そしてその原子から、永遠に続く物質のダンスの中で、ふたたび他の事物が形成される。しかし、われわれは、生きている間は、深い喜びに満たされるべきである。
(略)
『物の本質について』はヴィーナスヘの祈りで始まる。
(略)
 言葉をほとばしらせるこの賛歌は、驚異と感謝の念に満ち、光り輝いている。まるで恍惚となった詩人が、本当に愛の女神を見つめ、その燦然たる姿に空が晴れあがり、目覚めた大地が彼女に花の雨を降らせているのを見ているようだ。
(略)
目覚めた春が草地を彩り、
自然の新たな光景が立ちあらわれる。
(略)
喜びあふれる鳥たちがあなたに最初の歓迎の挨拶をし、
素朴な歌で陽気な興奮を打ち明ける。
ついで、あなたの矢に打たれた野獣たちが、
わずかな餌を跳び越えて、流れの急な川をあえて泳ぎわたる。
大地も空気も海も、すべてはあなたの贈り物だ。
息する者たちのありとあらゆる子孫は、
喜びに打たれて、あなたに駆りたてられる。
(略)
 このラテン語詩を筆写し、破壊から守ったドイツの修道士たちが、どのような反応を示したかはわからない。
(略)
この詩の主張のほとんどは、キリスト教の正統的信仰からすれば嫌悪すべきものだった。しかし詩には説得力があり、人を惹きつける美しさがあった。

マキャヴェッリ

 サヴォナローラが聴衆に向かって愚かな原子論者たちを嘲笑せよと主張していたちょうどその頃、フィレンツェの若い役人が、ひそかに自分で『物の本質について』を丸ごと筆写していた。(略)彼はその後に書いたいくつもの有名な著作の中で、ルクレティウスの作品には一度も直接言及していない。それほどまでに狡猾な人物だった。だが一九六一年に、写本の筆跡の主がついに特定された。その写本はニッコロ・マキャヴェッリが筆写したものだった。
(略)
ポッジョは他の発見と同様、ルクレティウスの発見を自慢していたが、けっしてルクレティウスの思想を支持することはなく、自ら読み解くことさえしなかった。ラテン語の文章を書くとき、ポッジョも、ニッコリのような親しい友人たちも、多神教時代の幅広い文書から、優雅な語法や言い回しを拝借していたが、同時にその最も危険な思想にはいっさい触れないようにしていた。それどころか、ポッジョは晩年、仇敵ロレンツォ・ヴァッラを、ルクレティウスの師であったエピクロスに執着する異端者だと非難している。ポッジョはワインを味わうのと、それを賞賛するのは別のことだ、と書いている。ヴァッラはエピクロス主義を賞賛している、というのである。
(略)
一五一六年十二月――ポッジョによる発見からおよそ一世紀後――フィレンツェ教会会議に集った高位聖職者からなる影響力のある集団が、学校でルクレティウスを読むことを禁止した。
(略)
 この禁止によって、イタリアでは流通が制限され、実質的にルクレティウスの作品は出版停止になったかもしれないが、扉を閉じるには遅すぎた。ある版がボローニャで、別の版がパリで[出版された]

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