スピノザ「無神論者」は

面白い。前半が、いや2/3くらいまでが。薄くて千円で(ま、図書館で借りたけど)すぐ読めて面白い。脳味噌に刺激。

自由だとかヌルイことを言ってるから外国軍の侵入を招いたのだと共和派リーダーが民衆に惨殺される空気のオランダ

「共和派」と「総督派」の緊張関係

[都市商人層は]共和国政府の寛容政策を支持する「共和派」であり、[カルヴァンの厳格な予定説をとる]正統派勢力は逆に強権的な社会の締め付けを望む「総督派」だった。総督派は独立戦争時の軍事的リーダーの総督を担ぎ上げて君主制にもってゆきたい。そのためにはクーデターも辞さない構えだったのである。自由が牧歌的であったためしはない。共和国の自由と寛容は「共和派」と「総督派」の緊張関係の上に、いわば危なっかしく乗っかっていた。
で、「民衆」はどちらを支持していたかというと、多くは総督派を支持していたのである。彼らは「自由と寛容」に反感を抱き、総督派の聖職者たちの説教にしばしば煽動された。

聖書の非合理性を批判するデカルト主義を神学者たちは「不敬虔」と告発した。これは当時としては命にかかわる事態。びびった彼等はスピノザでトカゲの尻尾切り。
そこでスピノザは「びびることないよリベラル派、白黒つけるぜゼブラーマン」と

『神学・政治論』を執筆。

民衆が自分に浴びせ続けている無神論者という非難をできるかぎり排撃し、聖職者たちが誹謗する「哲学する自由」をあらゆる手段で擁護しなければならない。だが何よりも問題なのは、その自由に対し賛成していたはずの人々が、いまや危惧を抱き動揺しはじめていることだ。哲学はやっぱり神学の婢にしておかないと危ないのではないか---そんな神学者と同じ偏見が彼らを蝕みつつある。(略)
何でも自由に考えさせておいていいのか、と世間は言い出す。それに対してははっきりと、いいのだと言ってやる必要がある。そもそも、いったい何をもって不敬虔と断じることができるのか。びくびくする前に、これを白日の下に明確化しなければならない。

だがこの本に一番激怒したのは総督派でも民衆でもなく、デカルト主義者だった。何故?

  • 聖書の理解不能な部分をどう解釈するか

タイプA:よくわからないからこそ、すごい真理。「超自然な光」によらないと解読できないのよ
タイプB:不明な部分は比喩的に解釈する。理性で解釈しなければならない
スピノザはどっちのタイプも否定する。

神学者は理性なしに狂い、哲学者は理性をもって狂ってしまう! 「何と滑稽な敬虔であろう」とスピノザは言っている。今に始まったことではない。聖書がそっくりそのまま真理を語っていると言ってしまったときから、すでにすべてが狂っていたのだ。(略)
聖書はそもそも、神がどんな存在でいかなるように働いているかといった「事柄の真理」を教えようとしているのだろうか?むしろ聖書はそんな思弁的な真理などぜんぜん知らないで、しかも何かを正しく語っている、そう考えるべきではないか?―これが『神学・政治論』の問題提起だった。聖書は真理を教えようとしているのではないかもしれない! そんなことを言うのは冒瀆だとだれもが思ったであろう。「無神論」と言われても無理はない。しかしスピノザは本気だった。

預言者が相手にしていたのは民衆なのに、信仰に篤いものにしか与えられない超自然的光でしか解釈できないのじゃ、民衆には話が伝わらないじゃないか。同様に理性がないとわからないのじゃ無学な民衆には伝わらない。
じゃあどんな条件がそろえば無知蒙昧な民衆が神様
キタ━( ゜∀゜)━! !となるのか。

一、預言者の生き生きとしたイマジネーション
ニ、預言者に神から与えられる徴
三、正しいこと・よいことのみに向けられた預言者の心

第三の条件についての説明

預言者は自分の「正しいこと・よいことのみに向けられた心」を担保に、その心情を絶対的な他者の査定に委ねるようにしてでなければ、民の前でどんな確信も語れなかった。神は敬虔な者を欺かれるはずがない。預言者はそう確信しているが、なんぴとも神の前において自分を正しいとしたり自分が神の愛の道具であることを誇ったりはできない。だから預言的確実性は自分の側で証明可能な確実性ではありえなかったのだ

  • ちょっと本書を離れて頭の悪いポレによる頭の悪い解釈

ライブ行ったらですね、預言者さんのオーラが半端じゃなくて、もうめっちゃ興奮したんです(条件1)。
はえた豚とか色々空飛んでるし、もうあれは神の力としか思えなかったっす(条件2)。
で、会場いっぱい愛が満ちていて、預言者があんなに愛を語れるのは神の愛を伝えたいと本当に思ってなきゃできないし、なんか自分をアピールしたいとかそんな不純な気持じゃあんな風に愛を語れないし、だからあそこにあったのは本当の神の愛だったんです(条件3)。
こんな風にライブの感動を語られて、それを録音したライブ盤が発売されました。でもそれを聴いたら「人間なんてららーらららーらーらー」*1って歌ってるだけで、全然ピンと来ないわけ。
Aさんは「信仰が足りないからです、もっと気合を入れて聴けば感動できる」と言うし、Bさんは「それはねえあの歌詞を深読みすると絶対クルから」と言うのですが、そうじゃないの。神が降りてなきゃ「人間なんてららーらららーらーらー」なんて歌えないでしょって話よ。その確信性というか勢いが真理なわけで、「ららー」とかなんとかってのは関係ないの。

いずれにせよスピノザは、人間がどうこうできない命令の「根拠づけなき正しさ」に聖書の神聖性を認めていた。(略)
神は正義と愛をなせと命じる。これは有無を言わせぬ絶対命令であって、「事柄の真理」がどうなっていようとその正しさには関係がない。敬虔な者とは、要するにこの命令に心から服する人のことである。
(略)
真理だから教義なのではなくて、「それを知らなければ服従が絶対的に不可能となるような教義」だから教義なのである。
(略)
スピノザは、真理を語っていなければ聖書でないという同時代人の大前提を解除してしまっているのだ。

えー、ちょっとうまく整理できてないですが、今日の分の訂正も考慮しつつ、時間がきたので明日につづく。

*1:えー、念の為。じーんしもんず顔のたくろーさんについては全く興味がなくて、ここはクドカン昼ドラ気分で