前日のつづき。
「哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀」その2。
スピノザの並行論
われわれの心、精神は、自分では知らない外に生み出されている。そこが真理の場所、現実である。こんなことを考えていたのはおそらくスピノザくらいだろう。ちょっと不気味だが、スピノザ哲学の一番大事なところだと私は思う。
スピノザは同じ箇所で、外にいながらまったくそのことを知らないあり方を夢遊病者になぞらえていた。
「精神の自由な決意で話をしたり黙っていたり、その他いろいろのことをなすと信じている者は、 目をあけながら夢を見ているのである」
夢はそこで自分が生み出されている現実を知らない。そここそが真理の場所なのに……。
心はいつも自分が中心で、自分が身体のふるまいを決定し導いていると思っている。ところが身体はそんなことはおかまいなしに、他の諸々の身体や物体と連携しながらすでに神殿を建てたり絵を描いたりしている。精神は身体に何ができているか知らないのである。これは逆に言うと、精神は自分に何ができているか本当には知らないということだ(両者は同じものなのだから)。(略)
いくらがんばってもわれわれはこの自分中心の「目をあけて見る夢」から出ることはできない。食い違いを無くすことも不可能である。それでも、両者がまさに食い違いながら同じ一つの現実として生じていることは証明によって示すことができる。これがスピノザの並行論の本当の意味である。
デカルトとスピノザ
両者の「現実」に接点はあるのだろうか。デカルトには世界が欠け、スピノザには「私」が欠けているように見える。(略)しかしスピノザが不思議なのは、そういう証明の連鎖をたどってゆくと、最後にデカルトと同じかあるいはさらに強いかもしれない<私の現実>へと到達できるようになっていることだ。
デカルトはある意味わかりやすい。「われ思う」と語っているのは私だ。(略)
[スピノザは]デカルトのように、「私」と自分を指すこちら側に現実を見いだすわけにはいかない。むしろ、変な言い方だが、われわれ自身が何か非人格的な見知らぬものとして外からやって来る――そんな仕方で現実を見いださなければならないのである。
また妙な話で頭がどうにかなりそうだが、『エチカ』はこういう特異な経験をわれわれにさせようとしているのだと考えるといろいろ合点が行くところがある。
『エチカ』のイニシエーションをくぐり抜けた者は、すべてを「神あるいは自然」の永遠なる本性の必然として見るようになっている。(略)「自然のうちには一つとして偶然なものはなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている」。そうなるともう希望も恐れもない。あるのは真なるもの、それ以外でありえない永遠なる現実を欲することだけだ。
敬虔なるマキャベリスト
喜びの感情を互いのあいだで育み組織化することで共同性が生まれ、抑圧的な権力はいずれ消滅する。スピノザはそういう喜ばしい革命的哲学を述べ伝えているのだと言われることがある。とてもいい話だが、誤解だと思う。
(略)
精神は自分の外にいて、証明の中でしかその自分にアクセスできない。精神が自分だと思っている「私」でさえそうなのである。他人たちや「われわれ」はもっと遠い。スピノザからの連帯の合図は無限に遠いところにある。
(略)
スピノザは同時代人から「有徳の無神論者」とあだ名されていた。
(略)
自分中心でいいのか、という声はいたるところから聞こえてくる。いいのである。われわれが身体の真理であり、身体の存在を肯定し維持する衝動がわれわれの現実的本質であるかぎり、ほかにわれわれに何かをさせる原理などありはしない。これがスピノザの答えだった。スピノザは、理性に従う者たちは自分のためだけに必然的に一致する、そのかぎりで互いにすごく有益な存在であるということを証明の形で述べている。
(略)
理性に導かれる局面に限れば人間たちはほうっておいても友愛と感謝で結ばれるようになっている。
というわけで、自分のためだけに、他人を大事にする。そのどこがいけないのか。
やっぱりいけない気がする。なぜだろう。
(略)
こうなってしまうのは、われわれがエチカ(倫理)とモラル(敬虔の問題)を混同しているからである。
(略)
もし人間が理性の導きに従って生きるようになっていたなら、先に証明したとおり各人は他人を何ら害することなしに自己の自然の権利を享受しえたであろう。ところが人間はなまじ同類の感情を思い浮かべるイマジネーションがあって何とか自分を認めさせようとするので、容易にねたみや憎しみに染まり、相互扶助が必要なのに対立しあう。それゆえ、「人間が和合的に生活し相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を譲歩して、他人の害悪になりうるようなことはしないという保証を互いに与えることが必要である」。この「譲歩」が敬虔と呼ばれているものの正体なのである。
(略)
当時オランダ共和国では“不敬虔”とは何かということが喫緊の問題となっていた。聖書に反するように見える科学や哲学の主張は不敬虔か否か。
(略)
スピノザの答えはこうである。――敬虔や不敬虔は思想的立場には何の関係もない、聖書は神や世界について事柄の真理を語っているのではなくて、ただ正義と愛をなせという抗しがたい神の命令を伝えているだけである。だから、どういう思想からであろうと正義と愛を実行している人は敬虔であり、命令に反しているなら口で何を言っていても不敬虔である。したがって、行ないにおいて敬虔な人を思想的立場が違うからといって不敬虔呼ばわりする者は、そいつこそが神に反逆するやからなのだ――。
研究者たちはずいぶん頭を抱えてきた。スピノザは聖書の神を信じてそんなことを言っているのだろうか? それとも、聖書は真理を含まず迷信的な服従だけを教えていると暗に暴露するためにそんなことを言っているのだろうか?
ここまで読んでこられた方には見当違いの問いだということがわかると思う。『神学・政治論』が解かねばならなかったのは真理と関係のない、あの神学・政治論的な次元の問題である。各人が神を本当はどう考えているかという差異は、そこでは無関連化され、そのことによって同じ「敬虔」に関係づけられる。
(略)
正義と愛をなす人々ならどんなふうにそれを解釈していても信じていることになる、そういう教義だけが敬虔なる教義だ――とスピノザは証明していた。
これってやっぱり無神論なのだろうか。スピノザはやっぱり不敬で不届きなやつなのだろうか。そんなことをまだ言っているわれわれの前で、少し困ったような顔をしている端整なスピノザが目に浮かぶ。
国家論へ――ホッブズとスピノザ
スピノザから見るとわれわれは二重に誤っている可能性がある。正・不正・過ちといった概念は本当は国家状態によって説明されなければならない政治論的な概念であるのに、それを何か信仰やモラルに関わる倫理的なものと思い込む(これが一つ目の錯誤)。そして、そんなように思い込まれた敬虔に類する概念で、反対に国家状態を説明できると考える(二つ目の錯誤)。もしそうなら、これはモラルに特有の二重の転倒、二重の錯視である!
いや、もしそうなら、これは大変だ。スピノザは、国家なきところ正もなければ不正も過ちもない、正と不正は国家とともに始まる、だから国家そのものについてモラルの言葉でどうこう言ってもたいていは誤ると考えていた。スピノザがなぜ倫理を扱う『エチカ』、モラルを扱う『神学・政治論』とは別に、政治を扱う『国家論』を書こうとしていたのか、その理由はきっとここにある。
こんなように言うと何だかスピノザだけが突出しているように聞こえるが、そうではない。同じ時代、国家なきところ正も不正もないと言って憚らぬ哲学者がもうひとりいた。[ホッブズである]
われわれはふつう、人為と自然という区別を当たり前のように思っている。あそこにいる描は自然物だがこの自転車は人工物、というふうに。だがその区別は、デカルトが宇宙の全体は一種の自動機械みたいなものだと言い始めていたあの時代、それほど自明ではなくなっていた。デカルトは猫物体と自転車物体のあいだに本質的な区別を認なかっただろう。どちらも同じ自然法則のもとに存在し作動する一種の機械だからである。
しかしそこから先は、可能性が大きくふたつに分かれる。ひとつは、すべては物体であり、物体なら仕組みがわかればシミュレーションでそっくりのものを作れる、だから自然は人為に等しい、という方向(ホッブズ)。もうひとつは、すべては神=自然の中で生じる出来事であり人間もその一部なのだから、われわれが人為だと思っているものもすべて自然の産物である。それゆえ人為は自然に等しい、という方向(スピノザ)である。
(略)
ホッブズが国家は物体だと言うのは、同じようにその発生をシミュレートできるからだ。(略)
スピノザはまったく逆だ。彼によれば国家は人為などではない。国家は彼が「群集の力能」と名づける自然的な力によって決定される「自然物」であり、われわれはそのことを常に誤認する仕方で現実を「人為」と考えてしまうようになっている……。
こう見てくると「機械論」だの「唯物論」だのという言葉は17世紀の哲学を理解するのに何の役にも立たないことがわかってくる。人為がそのまま自然に反転し、あるいは自然がそのまま人為に反転する。人為と自然というおなじみの二元論を転覆させる二つの思考の出現。それが問題なのである。
明日につづく。