カール・シュミット入門/仲正昌樹

高速パラ読み。

カール・シュミット入門講義

カール・シュミット入門講義

 

具体的秩序

ロマン派は「民族」と「歴史」をヴァーチャル化し、自分たちの詩作の道具として恣意的に利用する。それに対しシュミット自身は、バーク、ド・メーストル、ボナールに倣って、「実在する民族」、「実在の歴史」に即して思考しようとする。その発想が「具体的秩序」論に繋がっていくのだと思います。(略)
[シュミットの「決断」は]本当に無の中で決断するのではなく、「具体的秩序」を志向する決断のようです。
(略)
具体的秩序は「ある」んだけど、はっきり目に見えない、あるいは、「あった」んだけど、崩れかかっている。だから誰かがそれを再発見し、「これが秩序だ!」、と「決断」し、「秩序」を再生させないといけない。ハイデガーのような感じかもしれません。(略)
シュミットにも、そういう、自らが本来属している「秩序」を、“主体”的に選ぶというような発想があって、それをいくつかの異なったレベルでいろんな形で表現しているので、神秘的な雰囲気が出ているのだと思います。
 面白いのは、シュミットが、左翼系の「決断主義」の権化と言うべきジョルジュ・ソレルを評価していることです。ソレルは、既成の腐敗した秩序を破壊する、「神話」に導かれた「暴力」を称揚したわけですが、シュミットは、神学的な次元にまで踏み込んだ「決断」の必要性を認識している点で、ソレルのような左翼の革命論も評価しているのだと思います。

ロマン派とポモ

ロマン派にしてみれば、真面目に、一つの視点に固執するあまり、物事の別の側面に目を閉ざしてしまう“真面目な思想家”たちよりも、反省=批評を通して自らの視点をどんどんアイロニカルに変化させ、うろちょろしている“不真面目”な自分たちの方が、結果的に、物事の本質に迫る真面目な態度を取っている、ということになるわけですが、そんな反応をされたら、ストレートに“真面目な人たち”は、尚更、腹を立ててしまいますね。
 どこかで、聞いたような話ですね。実際そうです。1980年代以降の日本で、ポストモダニズムに対してなされているのと同じような批判が、進歩的合理主義者、保守主義者、マルクス主義者などから、ロマン派に対して投げかけられました。(略)シュミットは、そうしたロマン主義に対する“真面目”な批判を、政治哲学の面で徹底して行おうとしたわけです。

90年代日本のポストモダン保守思想

最終的に信じきることのできるものなどないけれど、取りあえず、社会を統合し、安定化させるように機能する象微があった方が便利だ。その「象徴」の本当の由来とか、背後にある伝統とかはどうでもいい。別に、天皇制とか神道とかを心から信じているわけではないけれど、古いものの方が象徴として機能しやすいのであれば、古いもの、あるいは古く見えるものを利用してやればよい。(略)何かにコミットするのも、何にもコミットしないのも、いずれも最終的には意味がないということで同じかもしれないが、それだったら、コミットしているふりをして、仮の「象徴」の下で安定してもいいんじゃないか…(略)ルドルフ・ファイヒンガーの表現を借りて言えば、「かのように」の哲学です。

政治的ロマン主義の問題

[ド・メーストルやボナールは]秩序維持のためには、カトリックが培ってきた階層構造が必要だという考え方を理論化した人で、そこをシュミットが評価しているわけです。(略)
 ロマン主義者の中には、過去への憧憬からカトリックに改宗し、復古主流的な政治を支持した人もいました。それが政治的ロマン主義ですが、シュミットに言わせれば、彼らは単に、憧れの対象としての「無限のもの」をメタファー的に表わすために、「民族」や「歴史」を語っているだけで、カトリック保守主義者のように、実在する「民族」や「歴史」をしっかり見ていない。(略)
ロマン主義者たちはそうした「限定」を拒絶し、自分なりに美化した「民族」や「歴史」の“イメージ”と無限に戯れ続けようとする。その“イメージ”は、「実在」に根ざしていないので、変容し続け、安定しない。シュミットは、そういう不真面目な不安定性が許せないわけです。
(略)
ド・メーストルやボナールは、フランス革命によって旧来の秩序が崩壊していく過程をいったん経験し、その過程に耐えて実在し続けるものとして「民族」や「歴史」に依拠しようとしたわけですが、それらが彼らの願望の投影にすぎない可能性はあります。それまでのカトリックの正統派の神学にはなかった概念を、カトリックの名において正当化しようとするわけですから、結構怪しい。彼らもまた、カトリック教会のイメージを自分の思想に都合がいいように利用しているだけなのではないか、と疑えます。だからこそ、いい加減な保守の代表の典型としての政治的ロマン主義との差異を強調し、カトリック保守主義を救い出す必要があったのではないかと思います。
(略)
シュミットは、本当に秩序を回復するには、不純な要素は排除しないといけないと考えていたのかもしれません。その一方で、自分から見て真逆、「敵」の立場にいるはずのマルクス主義者とか無政府主義者とかが(略)「政治」を支配している神学的な論理こそが、自分たちが粉砕すべき最終ターゲットであると見抜いていたら、そこはきちんと評価する。その意味でプルードンバクーニン、ソレルを意外なくらい高く評価していますし、マルクス主義プロレタリアート独裁論の登場を思想史的に重視します。

自分の立ち位置を相対化し、実質的な価値判断を示さない。(略)そういう態度が「政治」に持ち込まれ、政治思想家たちの自己正当化に利用されるようになったら、「政治」がきちんと機能しなくなる。「決断」の必要性が認識されにくくなる。
 それが「政治的ロマン主義者」です。それよりは、結末が見えなく不安でも、ドン・キホーテ的に突っ込んでいく、「ロマン主義的政治者」の方がまだまし、ということになる。
(略)
政治的ロマン主義者は自分で「決断」せず、“政治”の大きな流れにのって(略)よく分からない宗教的な見地から、それに感動したふりをしたりする。本当の「政治的活動」を始める時、「政治的ロマン主義」による責任回避の構造は終焉する。

実証主義+規範主義」

 シュミットの言うような意味での「実証主義+規範主義」は、今日の法哲学では、「リーガリズム」と呼ばれることが多いです。「私は現行の法やルールに従っている“だけ”です」という、一見客観的・中立的な態度を装いながら、実際には、それらの法やルールの背後にある秩序や価値に固執する、法律家や法学者の振る舞いを意味します。簡単に言うと、現行法を守ろうとする態度自体が、一つのイデオロギーになっているわけです。シュミットは、「決定」は重要だけど、自分が“決定”していることを隠そうとする「実証主義+規範主義」の体質は批判するわけです。「決定」を前面に出すべきだと考えているわけですね。
 このようにシュミットは、法実証主義に象徴される、「法」の中立性の装いを批判し、その背後にある価値観や決断を表に引きずり出そうとします。何故、シュミットがわりとポストモダン左翼に好かれるのか分かりますね。ポストモダン左翼も、近代法市民社会的道徳の“中立性の仮面”をはぎ取って、その背後にある権力関係やイデオロギーを露わにしようとします。そこがシュミットと似ているわけです。無論、“中立性の仮面”を壊した後、どのようにしたいのかは、違います。ポストモダン左派だったら、これまで抑圧されてきたあらゆる「差異」を生き生きと解放しようとするでしょうが、シュミットはむしろ、独裁者的な主体を最終審級とする秩序、具体的秩序を再建しようとするでしょう。

ボダン

シュミットは特に、ボダンが「主権者(=国王)は、どの程度まで法律に拘束され、諸『身分』に対しどの程度まで義務を負うのか」という問いを立てたことを重視しているようですね。(略)
 ボダンは、約束は「自然法」に基づくものなので、通常は、主権者を拘束するけれど、緊急時には、(略)その約束にはもはや縛られない、という見解を示したわけですね。これはまさに、「例外状況」論ですね。しかも、「例外」における「主権」の源泉として「一般的・自然法則」を引き合いに出している。(略)「主権」を「例外」と結び付ける考え方は、シュミットの専売特許ではなく、近代初期の主権論で既に示唆されていたわけです。
(略)
[ボダンは]法皇の権威が世俗の政府の権力をしばしば凌駕していることに対して批判的で、主権者である王の下に全ての権力を集約すべきことを主張しました。そういうボダンを評価していることからも、シュミットは必ずしも、カトリックの教え自体を、自らの政治・法哲学の基盤にしているわけではなく、カトリック文化の中で培われた、「秩序」観を重視しているのだということが分かります。

頭痛で明日につづく。