啓蒙の精神―明日への遺産 トドロフ

21 啓蒙主義への批判

 啓蒙思想が形成された時期から、また18世紀においても、啓蒙思想はすでに多くの批判の対象であった。時にはその原理までもが拒絶された。(略)この思想はカトリック教会当局や公権力といった、彼らが闘った当の相手からお決まりの非難を呼び起こした。(略)
啓蒙主義イコール革命、革命イコール恐怖政治というものであり、この等式によって、啓蒙主義に対する決定的な非難が導き出された。「革命は人権宣言によって開始された」、もっとも熱心な啓蒙主義の反対者の一人、ルイ・ド・ボナルドはそう断言した。というのも、まさしく革命は血に染まって終焉したからであった。啓蒙主義の欠陥は、その理想の源として神の座に人間を、集団の伝統の座に各人が自由に用いる理性を、ヒエラルキーの座に平等を、単一性の崇拝の座に多様性の崇拝を据えたことであった。
(略)
 啓蒙主義に向けられた常套的非難の一つは、19世紀から20世紀前半にかけてのヨーロッパの植民地主義イデオロギー的根拠を与えた、というものである。議論の立て方はこうである。啓蒙主義は人類の単一性を、したがって価値に関する普遍性を肯定した。優れた価値の保有者たることを自認していたヨーロッパ諸国は、自分たちの文明を自分よりもその恩恵に浴していない人々にもたらすことが許されると信じた。こうした企図の成功を確かめるために、そういう人々が住んでいた領土を彼らは占拠しなければならなかった……。
(略)
もうひとつ別の非難は、数百万の人々に加えられた一連の大量殺戮、投獄、苦痛をともなった20世紀の全体主義を、意図的ではなかったにせよ生み出したというものである。(略)神を投げ捨て、人間たちは自分自身を善悪の基準として選んだ。世界を理解するその能力に陶酔し、人間たちは自分たちの理想に合うように世界を作り直そうとした。そうしながら、人間たちはためらうことなく、地上の人口の大部分を消し去るかあるいは奴隷に貶めた。全体主義の悪行を介した啓蒙思想へのこうした批判が、所属する教会は異なるものの、幾人かのキリスト教作家から実際になされた。(略)T・S・エリオットのようなイギリス国教会派にも(略)アレクサンドル・ソルジェニーツィンのようなロシアのギリシア正教会派の中にも、さらにはヨハネ・パウロ二世の著作(略)にも見受けられる。

51 宗教改革

 宗教改革以降、この改革が個人に与えた位置のおかげで、論争のあり方が形を変えた。一介の農民でも、神への語りかけ方さえ知っていれば教皇に異議を唱えることができる。もっともそのことが異端とされかねないのであるが。
(略)
ここにおいて、俗権と教権の従来の対立をさらに分かりにくくする、第三の力が姿を現す。唯一神と自分とのコミュニケーションをコントロールし、次には古い権力の支配を免れたそれ以外の領域を横取りする、個人の力である。したがって当初「個人」は、政治権力の闖入から宗教的経験を保護できる枠組みにつけられた名辞にすぎなかった。ところが、この個人的枠組みはそれ自体が豊かになる可能性を持っていた。したがってこの領域は国家に対してもまた教権に対しても守られるべきものとなる。これが近代の世俗性の意味するところである。
(略)
 ここですでに言及した点に立ち返らねばならない。それは、フランス革命の際にコンドルセが行った発見であり、個人の自立にとっての、したがってまた社会の世俗性にとっての新たな危険に関するものである。この危険は世俗的権力を保持する者たちが、皇帝教皇主義のように既存の宗教を自分に服従させようと渇望することにではなく、新たな信仰、国家そのもの、その機構、その代表者たちを対象に新たな信仰を打ち立てようと切望することにある。
(略)
この新たな宗教が可能となったのは、キリスト教会が遠ざけられたからである。(略)
何を信じるべきかを民衆に向かって口にするのが権力であるということになったその瞬間から、人は宗教と比べてあまり好ましいものでもない「ある種の政治宗教」と関わることになる。コンドルセは付け加える、「ロベスピエールは一個の司祭であり、またそれでしかないだろう」と。ここに見いだされるのは、ルソーの「市民宗教」とはきわめて異質な、あの「政治宗教」という表現の最初の姿である。
(略)
 このような全なる権力は、その先行者たちの権力よりもさらにおぞましいものとなるだろう。というのも、新しい政治宗教の領域は人々の地上的存在全体と一体化しているからである。
(略)
 ジャコバン派の恐怖政治はすでに最初の「政治宗教」の現れであった。けれどもコンドルセがもっとも懸念したことが現実のものとなるのは、さらに130年後、20世紀初頭のことである。第一次世界大戦が終わると、ヨーロッバではいくつかの新種の政治体制が生まれたが(略)共産主義ファシズム、ナチズムと呼ばれた。おそらくこの時期にはコンドルセの定式は忘れられていただろう。しかし1920年からは注意深い観察者たちが、今度は自分たちが政治宗教と呼ぶことになるものの特徴を指摘することになるのである。

122 全体意志と一般意志

 人民主権は共通の意志のうちに具体化されるが、この共通の意志と各人の意志との間にはどのような関係があるのだろうか。この問いに答えるために、ルソーはいつも十分に理解されてきたとは言いがたい区別、全体意志と一般意志との区別を導き入れた。全員の意志とは個々の意志の機械的な集合である。その理想は全員一致であるが、現実はたんに票の多数である。意見が分かれれば、この意志はもはや全員の意志ではないか、さもなければお互いが一致するようにするしかない。全員の意志という理想は全体主義的な志向を萌芽的に含んでいる。つまり、そこではすべての市民は同一の理想をかつぎ出さねばならず、異端的な考えは――そうしたものがあれば――抑圧され、排除されるからである。
 ルソーの言う意味での一般意志は逆に違いを考慮に入れたものである。その「一般性」は、法の前の平等として理解すべきものである。いかなる市民も排除されることもなければ、他の人々より低く見られることもない。「数からの除外は、どんな方式をとろうとも一般性を破壊することになる」のだ。いかなる意味で、この一般性はすべての人に共通なのだろうか。ルソーが付け加えて言うには、一般性は個々人の意志に関する「差の総和」、「わずかな差の総和」なのである。ルソーはここで微積分学の用語を使っているが、それはちょうどライプニッツによって仕上げられたものであった。一般意志は、恒等式の総和ではなく、それは各恒等式に対立しながら差を包含する総和を求めるのである。ライプニッツはこの個別的なものから普遍的なものへの移行を一つの都市とその住民がこの都市について抱く眺望との比較を用いて説明している。「同じ町でも異なった方角から眺めると、まったく別な町に見えるから、ちょうど見晴らしの数だけ町があるようなものである」。
 具体的に言えば、各市民は自分自身の利害を持っているし、あるいは利害は個人個人で多様である。もし人が力ずくで他人を従わせるのを断念するとすれば、唯一の解決法は、どこであれどこかの都市の住民の眺望のように、各人が自分のものの見方の特徴を自覚し、そしてそれに(ディドロの表現によれば「情念を沈黙させて」)執着しないこと、また一般意志のものの見方に立つようにすることである。そうすることができるためには、各人はまずは自分のものとは意見が違う隣人の立場に身を置き、その人が考えたように考えてみようとしなければならず、そうしてみることによって、その後でお互いの違いを考慮したものの見方を身につけることができるのである。この問題についてのルソーの考察をたどったカントは、その場合に超人間的な業は問題にならないと考える。「まったく別な人間の立場に身を置いて考えること以上にそれ自体自然なことは何もない」。こうして人は上位の位相において差異の統合を果たすのである。
 したがって啓蒙の教訓が存するのは、多様性は少なくとも三つの仕方で新たな統合を生み出す、という点においてである。多様性は、ライバル意識のなかに寛容を吹き込み、自由な批判的精神を発展させ擁護し、自我と他者をより上位の統合へと導いて自我からの離脱を容易にさせるのである。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com