日本人がバカになってしまう構造 橋本治

とりあえず第一章は読んだが……。

ヤンキーとは

「ヤンキーとは、反知性的で根拠なく前向きで、美意識がバッドセンス」だと、他人様の受け売りをそのまま書いたら、「これは自分のことじゃないか!?」と思ってしまった。
(略)
「俺はヤンキーかもしれないけど、世にあるヤンキーは嫌いだけどな」と思って、今やその間の撞着状態に関心を奪われてしまっている。
 私が「基軸がなくなった」という題の文章を書いたのは、「オタクとヤンキーの両端から攻められると、自分の関心を持ちたいものがどんどん減って行くな」と思い、「今や日本がオタクとヤンキーで出来上がっていて、“今まで通りのもの”がその中間に細々と存在している」と思って、「細々と存在している“今まで通りのもの”が、この先に命を長らえようとするのなら、オタク化かヤンキー化のどちらかの色彩を加えるしかないんだろうな――だったら今までの日本はおしまいじゃん」と思っていたからだった。
 そこでは書かなかったけれど、夏の徳島の阿波踊りのテレビ申継を見ていて、あまりにも揃いすぎていることに違和感を持った。
(略)
[以前は]女の踊り手が笠をかぶるのは、顔を見せることを羞じらう習慣の名残りで、だからこそ二つ折りにした半円形の笠を「一応隠しました」的にかぶって、「顔が見えないわけじゃない」というかぶり方をするようなものだったが、今の徳島の女の踊り手達は、半円形の笠の一方の端を上に突き出すようにして傾け、顔を隠してしまっている。
 そこには、「顔が見えると列の持つ統一感が崩れてダサくなる」という主張があるように見える。「個」がちらつくより、「個」を消して、一致して「全体の美」を作り上げるという原則に支配されているようで
(略)
 整然として動きの揃った阿波踊りは、「ヤンキー的」とも言われてしまう北海道の「YOSAKOIソーラン祭り」の集団演技に似通って、私には「なんか違う」と思えてしまう。
 そもそも日本の芸能には「揃う」ということがない。「揃う」ということを目的にしていないから、各地に残る民俗芸能というのは、演者達の動きがバラバラで統一感がない。洗練された伝統芸能は、「演者同士のセッション」というのが本来だから、結果的に「合う」ということになっても、動きや音を合わせるということを目的としない。
(略)
 そういうあり方で来ているから、「演者の個性」が根本的に認められていて、「動きが揃う」とか「音が合う」であっても、演者各人の持つ微妙な個性がズレとして残る。

「自分を捨てる」

 日本の伝統芸能や伝統的な技術で、「自分」というものは、「出すもの」ではなく、「まず消すもの」だ。
 技術、技芸、技能というのは、「自分」の外側にある「自分とは別箇のもの」だから、これを習得するには、「自分」を消して、「自分とは別箇のもの」に同化して行くしかない。
(略)
技術を身につけ「一人前」にはなるけれど、その「一人前」は「ステロタイプの一人前」で、それだけではおもしろくもなんともない。(略)
 人間には個体差があるので、「ステロタイプの一人前」でもそこそこ以上によく見える人がいる。「きれい」とか「可愛い」とか「イケメン」というものだが、それは個体差という偶然性の産物なので、放っとけば消えてしまう。だからこその「時分の花」だが、普通の場合「ステロタイプの一人前」はそんなにいいものではない。
(略)
[だからこそ]「ステロタイプの一人前」は、その先に「自分」を表明出来るようにしなければならない。その段階で獲得されるものが、『花伝書』の世阿弥風に言えば「真の花」だろう。
(略)
[しかし]人間にはエゴがあるから、「自分を捨てろ」と言われたって、そう簡単には実践出来ないし、「捨てろ」と言われる「自分」がどういうものなのか、哀しいことに自分ではよく分からない。
 長い時間をかけて「自分を捨てる」を実現させたとしても、それは「自分の外側にある社会性に屈伏した」というようなものだから、「自分を捨てる」というのは「社会に抗する力をなくしてしまう」ということでもあって、力をなくしてしまった人間が社会に改めて抗して「自分」を獲得するのは、とてもむずかしい。
(略)
 「名人上手にはなれなくとも、自分を消して、凡庸ではあっても社会的人格を確保しなければ生きて行けない、食べて行けない」という常識が支配している時代には、人は生きるためにおとなしく凡庸になる。
(略)
 「なんでそんなつまらない状態に甘んじているのだ?」という追及に対する答は、「だってしょうがない」で(略)
「“自分”を捨てることは大変で、“自分”を捨てて必要な社会的人格を獲得したら、その先に“自分”を再構築する力なんか、私にはない」というのが一般だから(略)
大人達のそんな姿を見る「まだ大人ではない人間達」は「だらしない」と思うし、「そんな大人にはなりたくない」と思う。
(略)
 「自分が出る」ということは、「表現の主体である“自分の獲得した社会的人格”――すなわち技術が、表現する対象でも題材でもない“自分”をカバーすることが出来ずに、うっかりと出てしまった」ということで、それはすなわち「下手」で「未熟」。にもかかわらず、そこに「でも」をつけて、「それは私の自己主張だ」と言ってしまったら、「下手なくせに、未熟なくせに見苦しい」になる。ただ、そういうことが今では忘れられてしまっている。
 それは「昔の常識」なので、「うっかり出てしまった自分」に対してなんだかんだ言われたら、「うるせェなァ」で撥ね返すことが出来て、その結果、今や「もしかしたら下手で稚拙かもしれない自己主張」が満開になっている。いつの間にか社会の方向が「“自分”とはまず消すものである」から、「“自分”とはまず出すものである」という風に変わってしまった
(略)
 私は「自己表現のために必要なのは、まず自分を消すことだ」と思っているから、誰でも彼でも舞台に上がっていいとは思わない。「舞台に上がる人」と「舞台に上がらない観客」の間には、一線が引かれてしかるべきだと思っている。しかし、「劇場型社会」というのは、「誰もが勝手に舞台に上がってしまう社会」だ。だったら「舞台の上は大根役者だらけ」になる。
(略)
誰とも知れない、いるんだかいないんだか分からない他人に「自分は今朝朝食でなにを食べたか」ということを発表するというのは(略)「黙っていると自分が埋もれてしまう」と思っているからなんだろうが、私はやっぱり自己主張というものの本来を、「社会の秩序を乱す不良のするもの」だと思っているので、いつそんなものが当たり前に広がってしまったのだろうと考えてもいる。

「ヤンキー的なもの」

「不良は臆病だから一人になるのがこわくて、みんなと似たような恰好をする」というのは、間違いで、「社会から逸脱した人間は、逸脱した社会とは別のところに“自分達の社会”を作りたくて、それで構成員であることが分かりやすい外見を作る」というところが正解なんじゃないかと思う。
(略)
 ある種の人達は「型にはまることによって得られる一体感」を求めているんだろうと思う。「自分のありよう」を求める人は、「自分の居所」を求める人で、だからこそ「みんなのいる中」に存在すると安心する。「みんな」のいる所に自分を置いて、その「自分」を極力なくして「みんなと同じ」にすることによって、ようやく「自分」を見出せる。その「自分」は、「みんなの中にいることによって成り立つ自分」で、「他から拘泥されず、個としての“自分”を確保する」という、近代的自我のあり方とは異質のものだ。
(略)
「そういうもの[近代的自我の確立]は別になくてもいいや」と思いながら、「そういうもの」に依存していた部分は大きくあるから、うっかり足を踏み出すと、ズボッと雪道の穴にはまるような状態に陥ってしまう。
 「今や日本がオタクとヤンキーで出来上がっている」と思って、「考えるための基軸はないな」と思ってしまうのはそんなことで、「近代的自我」を存在させる体系の中でものを考えていたくせに、「近代的自我なんかなくてもいいや」と思っていた自分は、よく考えてみたら「考え方を見失っている」に等しいんじゃないかということになる。「自分はヤンキーなのか……」という衝撃は、実のところそうしたもので、「なるほど、それは衝撃だ」と思ってしまうと、根がヤンキーに近い私は、別にどうということもない。
 とりあえず「ヤンキー的なもの」というのを私がどう考えているのかと言うと、「庇を貸して母屋を取られる」という言葉がそのままで、「拡大してしまったインディーズ的なもの」がみんな「ヤンキー的なもの」なのだろうと考える。
 「インディーズ的なもの」は「あり方が別箇」というだけだが、「ヤンキー的なもの」は「そのあり方がちょっとへん」という色彩をまとっている。だから、みんなが自己主張をしても、そのことが「母屋」には反映されず、「庇」だけが拡大して、「今まで通りのものは細々と存在する」になってしまう。つまり、日本の場合、自己主張が「自己主張を喜ばない社会」に働きかけず、それとは逆の方向にどんどん拡大して行ってしまうので、その結果、増大する「インディーズ的なもの」は「ヤンキー的なもの」になって行くしかなかったんじゃないだろうかと、とりあえずのところで、私は思っている。

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